ふとエマニュエルの視線が自らの右手首に留まり、全身の動きも止まった。
それは彫像に化したかのような完璧な停止であり、生身の肉体としては尋常な気配ではなかった。
だがまもなく彼女は動き出した。
硬直の反動ででもあるかのように唐突に床に膝を突いたかと思うと、
次いで両手を突いて身を乗り出し、食い入るように辺りを眺め渡している。

これはアランには信じがたい光景だった。
エマニュエルの気性如何にかかわらず、彼女のような生まれの人間が何か探しものをするために自分で動き、
床から拾おうと欲しているというその眺めがすでに異様である。
アランは違和感と不可解な思いに包まれながら、そしてその異様さゆえに目をそらしたい思いに駆られながらも、
自らを律するようにして義妹の姿を注視しつづけた。
これほど何かに身も心も没入し、己の無防備さを無自覚に露呈するエマニュエルを見るのは今が初めてだった。
漆黒のまなざしはまばたきもせずに床上を這い回り、灯火が淡く照らし出すその先を射抜くように見つめている。
その眼光の強さはほとんど鬼気迫る域に達しており、この女に何が起こったのか、と危ぶまずにはいられぬものがあった。
アランはついに声をかけた。

「何を、探している」
「―――腕輪が」
「腕輪?」
震える声で紡ぎだされたエマニュエルの呟きを、彼は思わず繰り返した。
彼女の細い両手首にはこの部屋に入ってきたときと同じ、金銀や翡翠、珊瑚からつくられたとりどりの環環が輝いている。
異状らしい異状は何もみとめられなかった。
「腕輪がどうした」
いぶかしげな義兄の問いに返事もせず、ただ書斎の四方を見回しながら、
エマニュエルは今や床に四つ這いになったまま徘徊を始めていた。
それはほとんど獣の姿態であり、平素の聡明な物腰がむしろ偽装だったのではないかと疑われるほどに、
生々しい狂気の片鱗を見せつけるものだった。

黒髪で覆われた義妹の背中を目で追い続けるうちに、アランはふと背中に慄然とするものを感じた。
それは最初の晩、彼女から初めて正体を明かされたときに呼び起こされた感情とよく似ていたが、
それよりもさらに不可視にして混沌とした深淵の奥を彼にほのめかすものだった。

(もしやとは思っていたが、―――この娘は本当に、狂疾を患っているのか)
人間の肉体という脆い器に、悪魔より授けられたかのような不足なき美貌と頭脳を同時にそなえているということ
―――その事実がすでにある種の危うさを孕んでいる。
離宮に義妹を迎え初めて対面したときから、アランはひそかにその危うさを感じ取っていた。
そしてまもなく、多分に偶然に左右された結果とはいえ、エマニュエルは彼の意思を封じ込めその肉体を弄ぶすべを手に入れ、
何の躊躇もなくその権利を行使している。
これほど俊敏で明晰な思考をもちあわせながら、
死後の救済さえ放棄しているかのような果断さで他者を陥れ追い詰めようとする人間の精神が尋常でありうるだろうか。
アランはいま、最初の予感の正しさをまざまざと感じた。

狂人は彼にとって不可知の領域であり、知ることあたわざるものはすなわち恐怖の淵源である。
赤子のように床に手を這わせて失くしものを探し回る義妹を見つめながら、
彼は本能の警告に従うようにして彼女から一歩退き、二歩退いた。

退いた先に奇妙な触感があった。
靴の踵ごしに感じる限りでは絨毯の凹凸かと錯覚しかねないほどわずかなふくらみだったが、
それでもたしかに異物には違いなかった。
アランは反射的に足もとを見やった。
エレノールが部屋に入ってくる前、エマニュエルが自発的に服をまとい書斎の奥に隠れようと立ち上がったそのあたりの床に、
こぶし大より小さめの円環状のものが横たわっている。
それは貴金属のように人目を引きつける煌めきはないが、卓上の灯火を受けて表面に柔らかい光沢を帯び、
深い漆黒の地色を上品に浮かび上がらせていた。

アランは腰を折ってそれを拾い上げた。
見た目どおり、そのなめらかな触感は人間の髪のものだった。
そういえばエマニュエルはたしかにこれを右の手首に飾っていた、とアランはふいに思い出した。
ふだんは袖の下や他の腕輪の陰に隠されているため人目に触れにくく、
また貴婦人の装飾品というにはあまりに質朴な外形をしているため、人の印象に残る機会も少ないのだ。
実際、今夜まで何度となく義妹と密会を重ねていたにもかかわらず、彼がこの腕輪の存在を意識することはほとんどなかった。
例外的に注意を引かれたのは、つい今朝がた、参拝のさなかのことだった。

聖リュシアンゆかりの洞窟にてルイーズに祝福を授ける際、エマニュエルは少しのあいだ奇妙な仕草を見せた。
姉夫婦のように岩窟から流れ落ちる鉱水に指先だけを浸すのではなく、手首まですっと差し入れたのだ。
あるいはそれはヴァネシアの流儀なのかもしれなかったが、
この大陸の信教では一般に、他者の幸福と救済を祈念する祝福の力は指先から伝えるものと考えられているだけに、
アランや近侍の目にはやや奇異に映ったのも事実だった。

周囲の反応に気を取られたようすもなく、エマニュエルはつづいて繊細なレース飾りで縁取られた袖を少し上にずらし、
その下に守られていた黒い編み紐状の環を露わにした。
それは今にも洞窟の闇に溶け込まんとする黒そのものだったが、
鉱水の穿孔付近に据えられた灯明を浴びた一瞬だけは、ごくかすかな光沢を放っていた。
そのときはそれが黒い絹糸なのか獣毛なのか、あるいは人間の頭髪なのかはアランには判別できず、また別段興味もなかった。
しかしいまこうして手に触れてみると人間の髪であることは明らかである。
なんとも言いがたい不可解な念がふたたび彼の脳裏を襲った。
彼らが奉ずる信教の聖典中の記載によれば、人間の髪には魂の最も清浄な部分が宿るとされている。
すなわち頭髪は、過剰に装飾したり妖しげな香を焚き染めたりすれば姦淫をいざなう原因ともなりかねないが、
本来的には至純の愛を象徴する聖具であり手段である。
退廃的な世情の反動というべきか、ガルィアにおいてはその文言を尊ぶ傾向は他国より比較的強固に見られるが、
親子や夫婦、恋人たちのあいだで互いの髪の一束を交換しあうのは何もこの国に限った話ではなく、
大陸全体に広くおこなわれている風習であることは彼も知っていた。

編みこまれたあと円環状に結ばれたこの髪の黒さは、エマニュエル自身の髪と同じ黒さである。
それはすなわちエレノールの髪と同じということでもある。
これほど深く完璧な漆黒は、南方出身者以外にはまず見ることができない。
黄金の腕輪の下に隠し守っていることからすると、口外できない相手から贈られたものと見るべきだろう。

同国人の情夫から、すなわち輿入れの際に母国より伴った家臣のひとりからか、
もしくはヴァネシア公の廷臣である愛人から受け取ったものだろう、とアランは思った。
夫のある身でありながらほかの男の記念を身に帯びている、そう考えれば彼女の淫奔さ不実さとはよく一致する。
同時に、もうひとつ別の思念も浮かんだ。しかしそちらを深く追及することは無意識のうちに避けた。
この女には悪魔のように苦しめられてきた。この女はエレノールが与えた愛さえ踏みにじってきた。
ゆえに姦婦でありつづけてくれなければ、彼の思考は軸を失ってしまうことになるのだ。
彼は混乱を欲してはいなかった。

アランは掌に載せた黒い環をふたたび一瞥した。
そしてエマニュエルのほうにかざしてみせた。
「これのことか」
自らの墓所を探す亡霊のように床を這い回っていた義妹は、返答もせずにゆっくりと顔を上げた。
最初はうつろだったその瞳は、次の瞬間、雲が吹き流された後の満月のように皓々とした輝きを取り戻した。
「それだわ。―――それです。お義兄様、どうか、―――」
ふたりの間の空気が静止した。
その一瞬に何が起こったのかアランには分かった。
エマニュエルが同じ理解を得たことも彼には分かった。
ふたりの関係は今ここに転倒したのだ。

エマニュエルは床に両手両膝を突いたまま、息を止めたように義兄の長身を振り仰いだ。
その漆黒の瞳には、率直すぎるほどの懇願と隠しようもない怯えの色が浮かんでいた。
そこには偽りの感情はない、とアランは思った。
この女はいま、たしかに、俺を恐れている。俺にこの腕輪を―――命運を握られたことを恐れている。
彼は一歩前に踏み出し、より鋭い角度から義妹の花顔を見下ろした。
先ほど彼女に対して感じていた不気味さや恐怖は不思議と消え去っていた。
エマニュエルは今や彼にとって理解できる人間
―――その感情の所在を把握し、かつ操縦することさえ許されるであろう無力な人間になったのだ。

「お義兄様、どうか」
ようやくのことでエマニュエルは口を開いた。
地下に消え入らんばかりのその声音は前よりいっそう弱々しく、いっそう率直に自らの脆さをさらけ出すものだった。
彼女に本来の判断力をはたらかせることができたなら、
たとえ今のような窮地にあっても顔色も変えずに駆け引きを尽くし、義兄にそれを手放させることに成功したかもしれない。
相手の急所を握っていることでは彼女もやはり同じなのだ。
だがそのような事態には陥りえないことを、アランはすでに確信していた。
あまりに大きなものを失いかけているばかりに、エマニュエルは今や生来の聡明さばかりか常人なみの冷静さをも失っている。
(腕輪を取り戻すためなら、この女はすべてを俺に差し出す覚悟がある)
黒い瞳のその奥に奴僕と見紛うばかりの従順さを見出しながら、彼は自らに対し確約した。

文机の上に据えられた燭台の火がかすかにそよいだ。
アランがそのすぐ手前まで歩み寄ったため、周囲の空気がわずかに動いたのだ。
彼は揺れる炎を黙って見つめた。
それはエマニュエルを抱いた最初の晩、そしてエマニュエルに嬲られつづけた幾つもの晩と同じ淡い光を放っていたが、
今だけはあたかも勝者を祝福する栄光の炎のように彼の瞳には映った。

そうだ、今を逃してはならない。アランは改めて思った。
いまこのときこそがまさしく天与の刻なのだ。
偶然によって沈み込んだ陥穽から這い上がるための命綱を偶然によって手に入れるとは、
実に然るべき天の采配ではないか。

なすべきはただ、この腕輪と引き換えにエマニュエルにこちらの正当な要求を呑ませることだ。
すなわち、自分から盗み取った黄金の指輪を返還させ、
このたびの道ならぬ情事を終生他言せぬことを神の御名とスパニヤ王家の血において堅く誓約させた上で、
随員たちともども今すぐにこの離宮を退かせ国境の向こうに追いやることだ。
それ以外の望みは彼にはなかった。
アランが念じていたのはただ、妻と娘と過ごす平穏な日々、愛する者たちに対して欺瞞のない日常、ただそれだけだった。

「お義兄様」
呼びかけとも呟きともつかない放心したような声でエマニュエルは彼を呼んだ。
すでに立ち上がっても支障はないはずなのに、両脚に力が入らないかのように彼女は床に座り込んだままだった。
卓上の灯火は所詮灯火であり、紙片や木切れ以外のものを燃やすにはあまりにも弱々しく小さい。
だがアランが黒い腕輪をそのすぐ上にかざして見せると、すぐさま声にならない悲鳴がエマニュエルの口から漏らされ闇に立ち消えた。
彼は改めて義妹のほうを一瞥した。

エレノールと瓜二つのその姿は、今や悪鬼の化身でもなんでもなく、ただの生身の年若い女だった。
彼にはむろん、切り札である腕輪を実際に焦がしたり炎を燃え移らせたりするつもりなどなかった。
だがしかし、放り出された人形のように床に座りつづけ、
屠られるのを待つ兎のようにこちらを見上げつづけるエマニュエルの瞳を覗き込むうちに、
耳元で何かがふと囁くのを感じた。
アランはつと、腕輪の下部をちろちろと揺れる灯火の先端に触れさせてみた。エマニュエルはふたたび悲鳴を上げた。
今度はたしかに音を伴った、「叫び」と呼ぶべき悲鳴だった。

「お義兄様、お願い、お願いです。どうか燃やさないで。どうかそれをお返し下さい。
 どうかわたしに、お返し下さい」
誰に禁じられたわけでもないのに、エマニュエルは両脚で立とうともせず、
まさに家畜が牧童の呼び笛に応えるように床を這いながらアランの足元までやってきた。
そしてそのままの姿態で真下から彼を見上げ、魂から発せられたかのような震える声で言った。

「どうかそれを、お返し下さい。―――いかなることでも、おっしゃるとおりに、いたします」
アランは無言のまま義妹の顔を見下ろしつづけた。
今や彼は、自分のなかに新しい情意が芽生え始めたことをみとめざるをえなかった。
むしろそれは、情意と称するにはあまりに生々しく、はっきり欲望と呼ぶべきたぐいのものだった。
彼はたしかに欲望を感じていた。
今まで何度となく義妹の裸形を目にし、何度となく素肌を重ねてきたにもかかわらず、
彼女に対してこれほどに能動的で激越な欲望を感じるのは全く初めてのことだった。
ひとりの男がひとりの女に向かい合い圧倒的な優位に立ったことを自覚するとき、情欲を抑えがたくなるのは自然なことではある。
だがアランの身体の芯を揺り動かすのはそれだけではなく、さらに攻撃的で破壊的な何かだった。

完璧な曲線で構成されたエマニュエルの肉体を、彼は寝衣の上からなぞるようにして凝視した。
彼女はその視線に臆したかのように身をすくめたが、アランはむろん意に介さずに眺めつづけた。
エレノールと同じでありながら、エレノールとは比べものにならないほどに開拓され、自らの欲望に忠実すぎるほど忠実なその四肢。
何人もの男の指と口舌で弄ばれながら艶を増してきた小麦色の素肌。
何人もの男の精液を何度となく貪欲に嚥下してきた真紅の薔薇のような唇。

この罪深くも豊穣な肉体を、これまで夜毎自分を嬲りものにしてきたこの美しい牝を、
今からはいかようにでも扱うことができるのだ。
それは許されるべくして許されることなのだ。
義妹の顎をつかんで上向かせ、不安と恐れに満ちたその顔を覗き込みながら、アランはこれまでの経緯を一度に反芻した。
詳細に思い起こせば思い起こすほどに、身体の芯から静かな怒りが四肢の先まで伝わり、
それに応じて下腹部がいっそう熱く煮えたぎってくるのを彼は感じた。
(俺の屈辱を晴らすためには、人並みに報いてやるだけではまだ足りぬ)

彼はゆっくりと賞玩するように、エマニュエルに授けるべきありとあらゆる辱めを心に思い浮かべた。
仰向けになったまま両脚を大きく開かせて彼自身を奥まで受け入れさせることはもちろん、
床に両手両膝を突かせて獣のように後ろから責め苛むこと、
彼自身に跨らせて娼婦のように倦まず奉仕させること、
彼女の呼吸が苦しくなろうとのどの奥まで咥えさせ、その額髪をつかみながら口腔内を犯すこと、
エマニュエルのあらゆる従順な姿態が鮮明な映像となって彼の興奮を煽り立てた。

さらにそこに、別の人影が加わった。
顔も名前もない男たち。彼女の生まれとは結びもつかない下働きの肉体労働者たち。
そのような男たちを呼び寄せ、代わる代わる、もしくは同時にエマニュエルを襲わせる。
ふたりの男から口と秘所を同時に犯され、別の男の手で乳房をまさぐられ、
さらに別の男の指で陰核を愛撫されながらエマニュエルは何度も達してゆく。
自尊心を完膚なきまでに打ちのめされ地に涙を零しながら、その淫蕩な天性を証すかのように愛液を太腿までしたたらせつづける。
しかもその苦悶と陶酔の表情は姉姫エレノールと同じ造形の、天使のように清楚な顔に浮かぶのだ。
エレノールに強いることなど想像もつかない浅ましい所行を、この淫婦にはいくら強いても許されるのだ。

アランは自らの下腹部の熱に耐えられなくなった。
そして義妹を見下ろしながら告げた。
「すべて我が意のままになるということば、信じたぞ」
一瞬の静止のあと、エマニュエルは小さくうなずいた。
卓上の灯火がまたかすかな風にそよいだ。

旧い契約は覆され、新しい約定がいまここに成ろうとしていた。
アランは腕輪を懐にしまい床に膝を突くと、エマニュエルの両肩をつかみ無言で押し倒した。
もともと結いかたが緩かったためか、力を加えられたその弾みに彼女のうなじで髪紐がするりとほどけ、
ふたりのための豪奢な敷物のように漆黒の髪が床の上に広がった。
アランは義妹の唇に唇を重ね、その内側を自在な舌で無遠慮なまでに蹂躙した。
接吻をつづけながら乳房に手を伸ばすと、しなやかな肢体が敏感にすくむのが分かった。
この女は凌辱のなかにさえ歓びを得ているのだ。そういう女なのだ。彼はそう自らに言い聞かせた。

顔を離すと、エマニュエルは濡れた唇をうつろに動かし、吐息のような声で何かをひとことだけつぶやいた。
その双眸は彼を見ておらず、その声は高い天井に向かって発せられたかのようだった。
アランは努めて気をとられぬように愛撫をつづけた。
形の良い乳房を吸い、愛らしい臍をなぞり、恥毛を掻き分けて秘所へたどりついたときも、
エマニュエルは変わらぬうつろな声で、何かを断続的につぶやきつづけていた。

それはこの時間をやりすごすための祈祷の句ではなく、すべて同じ一語だった。
アランは聞くまいと思った。この女は罰を受けるのが相応なのだ。
俺の身体の下でいま何を想い念じているかなど、どうして意に介してやる必要があろうか。そう思おうとした。

だが彼の耳は聞き流しても、彼の唇はやがて義妹の肌を這うのを止めた。
彼の手指は義妹の花芯をまさぐるのを止めた。
彼の下腹部に募っていた熱は、いつのまにか猛々しさを失いつつあった。
エマニュエルは彼の静止にも気づかぬように、天井を見つめながら、ゆっくりと、何度となくその語を口にした。

ファニータ。彼女の唇はそう唱えていた。
それは女児への呼びかけであり、正しくはフアナという名の愛称にあたる。
アランは目を閉じた。
全身が鉛のように重たく感じられた。
エマニュエルの捜し求める腕輪が髪でできていることを知ったあのとき、
忌むべき錯覚のようにふと頭をよぎったもうひとつの疑念が、ただひとつの解だったのだと彼には分かった。

「よせ」
短く言うと、アランは義妹から身体を離した。
エマニュエルは惰性のようにぼんやりと彼のほうを見上げている。
「いかがされました」
「どうもしない。
 なぜその名を呼ぶ。そなたは過去を必要としないと言っただろう」
「必要としておりませんわ。―――でも、忘れることもできない」
平坦な声が一瞬だけかすれた。
「世界が忘れても、わたしは憶えていたいの」

アランは手の中の腕輪をふと眺めた。
そして目を離すと、義妹を見下ろしながら言った。
「誓え」
「―――お義兄様?」
「今ここで誓え。神の御名において誓わば返してやる。
 俺の紋章入りの指輪を返し、明朝すぐにこの離宮から退去するのだ。
 われわれの間に起こったことは未来永劫他言するな。
 むろんエレノールには、この先何が起ころうと告げてはならん。誓えるか」

「―――誓います」
エマニュエルは上体を起こし、しばしの沈黙の後、吐息のような声で答えた。
漆黒の瞳には初めて生気らしきものが蘇らんとしていた。
「幾度でも、お誓い申し上げましょう」
「一度でいい。その代わり、決して違えるな」
むろんです、という代わりにエマニュエルは首を縦に振った。
そして胸に手を当てながら、彼女は静かな口調で言った。
「いやしくも違わば、この身は神意によりてたちどころに塵芥と化し、救済の日を迎うること絶えてあたわず。
 スパニヤ国王レオンが三女マヌエラ、ここに誓約いたします。
 指輪もここに、返上申し上げます」
従容と差し出された義妹の手から、アランは指輪を受け取った。そして少しの間目を閉じた。
迷いが全くないわけではなかった。
だがやはり、最も悔いの少ない道を選ぶしかないと思った。
「受け取るがいい」

床に座り込んだままのエマニュエルの前に、アランはそっと腕輪を落とした。
床に落ちたものを自分で拾わせることがせめてもの気慰みだと思った。
しかしエマニュエルはためらいなくそれを拾い上げたばかりか、
駆り立てられるように自らの口元に近づけ、何度となく接吻を始めた。
常人が見たならばやはり狂疾の兆候を疑わざるを得ないほどに、激しくも切実な口づけだった。
アランは黙ったままそのさまを眺めていた。
やがてエマニュエルは接吻を止めた。
生気を取り戻し始めたそのまなざしは掌に取り戻した黒い腕輪から初めて離れ、
アランの立つ床から彼の脚、胴、首、そして彼の褐色の双眸へと徐々に軌跡を伸ばしていった。

「―――何ゆえです」
「何のことだ」
「何ゆえわたしを、お許しになられました」
「許してはいない」
「憐れみですか」
「憐れみでもない。知っただけだ」
「知った?」
「そなたは人から奪うことでしか満たされぬ女だ。そう思っていた。
 だが、それでもまだ、守りたいよすががあるのだと、―――今このときにさえ呼びたい名があるのだと知った」
「それがあなたに、何の関係が」
静かに感情を抜き取ったような声で、エマニュエルは言った。

「関係はない。
 関係はないが、そなたもかつて、その名を持つ者にすべてを与える準備ができていたのだろうと思った。
 エレノールと同じように」
「だから何だとおおせられますの」
「エレノールであったかもしれぬ女を穢すことはできない」

一瞬、エマニュエルは口元に嘲りを浮かべたかに見えた。
だがその唇から漏れてきたのは、何かが押しつぶされたようなかすかな嗚咽だった。
「愚かしいこと」
口調だけは嘲弄の趣きを保ちながら、エマニュエルは途切れ途切れに呟いた。
「本当に、愚にもつかない」

アランは何も答えなかった。
かすかに震える義妹の影の輪郭をぼんやりと眺めながら、
彼はやがて踵を返し、書斎の扉へと向かって行った。
朝まではまだしばらく間があるが、露深き夜の庭園を歩くうちに、いつのまにか曙光が訪れているだろうと思った。
エマニュエルはじきに書斎を出て従者たちに令を下し、夜明けまでには離宮退去と出国の準備を整えるだろう。

扉の前で彼は一度だけ後ろを振り返った。
エマニュエルはまだ床に座りこんだまま、掌に握りしめた腕輪を動かない瞳で見つめていた。
文机の上の灯火はあの晩と同じように、闇に溶け込むその黒髪と禁じられた果実を思わせるその肌を、
懐かしい幻像のように淡くさやかに照らし出していた。
アランは再び前に踏み出し、後ろ手で静かに扉を閉めた。
天の定めにひとつ狂いが生じていれば、あるいはこの女を愛していたのかもしれないと思った。

 

その朝も空気は清涼だった。
晴れた日の常として、離宮の東面に広がる小紺碧湖は宮室内からでもその麗景を見晴るかすことができた。
今日のような美しい夏の朝にゆっくりと眺望を楽しむことができないのはただ惜しまれる、と思った侍臣は少なくなかったであろう。
彼らの多くはいま、離宮正門前の広場に粛々と居並び威を正していた。

首都に鎮座する王宮と同様、レマナ離宮も複数の館舎と付属建築物、ならびに外苑、内苑から構成されている。
正門が穿たれた外壁は外苑のさらに縁辺にあり、王族が起居する主翼の館からは相当に離れているが、
家族の一員として迎えた賓客の出立に際し正門まで見送りに赴くのは、王家とてやはり民びとと同じことだった。
左右に開け放たれた巨大な門扉を背にし、街道がその奥へとつづいてゆく前方の山並を見据えながら、
アランは少し離れたところに立つ妻をひそかに案じていた。
エレノールは賓客の送別にふさわしい盛装に身を包み、普段と変わらず背筋を美しく伸ばしてはいるが、
その静かな立ち姿が却って痛々しくなるほどに、伏し目がちに隠された大きな黒い瞳は遠目にも分かるほど濡れて赤みを帯びていた。

それは無理のないことであった。
今朝起きたとたんに、枕元にかしづくエマニュエル付きの侍女から妹の突然の暇乞いを知らされ、
しかも従者たちも妹自身もすでに旅装を整え正門前に馬車を整列させていると告げられたのである。
エレノールはむろん一日二日でも長く引き止めんと妹のもとに向かおうとしたが、侍女たちに押しとどめられ、
昨夜ひそかにヴァネシア宮廷から早馬が着き、
公が持病の発作を起こしたため妃を急遽召還したのだと説かれれば、
彼女としても妹の帰国を遅延させる正当な理由は見つけようがなかった。
エマニュエルには妻として昼夜病床に侍るという第一の義務があるのはもちろんだが、
それに加えヴァネシアの場合継嗣がいまだ定められていないがゆえに、
正妃が暫定的に摂政として立たざるを得ない可能性が十分考えられるのだ。

それにしても、眠っている間に一切が進行し、目覚めと同時に妹と過ごせる時間はあと半日もないと知ったときの衝撃の大きさは、
余人には測りがたいものがあるのは当然だった。
ましてエマニュエルは、今回は帰国の事情が事情であるだけに、
旅装を整えてから出立の直前まで夫の快復祈願のため離宮附属の聖堂に籠もると決めてしまっており、
エレノールが妹と親しくことばを交わすことができるのは実質上いちどだけ、
彼女が馬車に乗り込むその直前だけという仕儀に相成ってしまったのだ。
ある程度予想していたこととはいえ、今こうして妻の悲嘆と憔悴のさまを目の当たりにすると、
アランにはかけることばもなく、彼女に近づいてゆき細い肩を抱き寄せることさえできなかった。
(これしかなかったのだ)
自分自身にそう言い聞かせながら、アランもやはり口のなかに残るかすかな苦味を嚥下しきれずにいた。

彼方の山陵を覆う朝靄が徐々に薄れかけてきたころ、馬に乗ったエマニュエルがようやく正門の内側から姿を見せた。
聖堂は離宮の比較的内奥に位置するため、移動には時間を要したのであろう。
前後にはごく少数の護衛と侍女たちが付き従っている。
彼女は礼拝を終えたばかりであり、馬車に揺られる長旅を控えた身でもあれば、
服装は従来とは見違えるほどゆったりと簡素に整えられ、豊かな黒髪は被りもので慎ましく覆われてしまっている。

エマニュエルは馬から降りると最初にアランの前に立った。
父王の名代としてレマナ離宮に逗留する王太子は、名目上とはいえ彼女を招待した主人役であるため、
挨拶の序列において優先されるのは当然のことであった。
エマニュエルは儀礼通りに右手を差し出し、アランもやはり完璧な作法を守りながら、その手の甲に接吻した。
その後彼らは二三語形式的に別れを惜しむことばを交わしたが、
アランにとってエマニュエルとの真の告別の瞬間となったのは、
彼女のなめらかな手の甲を唇に引き寄せたそのとき、細い手首にあの腕輪が復しているのを見届けたそのときだった。

そして彼らは他人となり、エマニュエルは姉の待つほうへと去って行った。
ふいに空虚な気分に襲われた自分を、アランはひどく不思議に思った。
エレノールに駆け寄ってゆく義妹の背中は思っていたより小さく見えた。
この虚ろさは葬送に臨む人間のそれなのだろうか、と彼は思った。

エマニュエルは姉姫の前に立ち、いたわるようにその背中を抱いた。
王女姉妹が交わしたことばは短かったが、無言で抱きしめあう時間は永遠のように長かった。
むろん当人たちにとっては、明け方のまどろみのように儚い一瞬だったに違いない。
アランの立ち位置からは、エマニュエルの華奢な背中とその肩越しに妻の顔がようやく見えるばかりだった。
妹に支えられていなければ、エレノールは地に膝を突き泣き崩れていることだろうと彼は思った。
昨夜彼女自身が語ったとおり、別々の国に嫁いだ王族の姉妹が再会できる機会など、まさに天恵と呼ぶしかないのだ。
だからこそ、これが今生の別れとなるのは全くあり得る話だった。


ふと、エマニュエルの肩もほんのわずかだが上下に震えていることに気がついた。
(まさかあの女が)
そうは思いつつもアランは、昨夜の別離を、書斎を出るときに見届けた最後の情景を思い出さずにはいられなかった。
この女とて涙を流すことはある。それぐらいの弱さはある。愛する者がいればこそ弱いのだ。
エレノールを、そして名前と黒髪だけを残し去っていった小さき者を愛するがゆえに弱いのだ。

ふとエマニュエルの肩が静止し、首だけがゆっくりとアランのほうを振り返った。
エレノールに生き写しのその瞳はやはり姉姫と同様に濡れ、平素にも増して深みのある漆黒を湛えていたが、
その唇はほんのわずかに両端を上げていた。
周囲の者たちはそれを微笑と見たかもしれない。
だがアランの目には、義妹の口元の動きは歪みと映った。
さらに言えば、歪みというよりもむしろ、
(―――嗤った)
と彼は思った。

その表情の意図を探らせまいとするかのように、エマニュエルはすぐに姉姫のほうに向き直った。
そして彼女の耳元に顔と手を近づけ、何事かを短く囁くと、
絶ちがたい嗚咽のために震えつづけていたエレノールの頭部と肩が、突然凍りついたように静止した。
エマニュエルはそれ以上何を告げることもなかった。
最後に姉姫の両頬と唇に接吻を捧げると、
彼女は自らの御用馬車に向かって歩いて行った。
少し離れたところに立つ義兄のほうを見ることはついになかった。

「マヌエラ」
すでに馬車の昇降台に足をかけた妹に向かって、エレノールが叫ぶように呼びかけた。
エマニュエルは返事も振り返ることもせず、そのまま座席の奥のほうへと乗り込んでいった。
聖リュシアンの故地へ参詣したおりに姉夫婦と同乗した馬車とは違い、
これは天蓋も壁もある長旅用の箱馬車であるから、一旦乗車して窓にカーテンが引かれてしまえばもう、
彼女の姿を視界に収めることはできなかった。

妹にはっきりと呼びかけたにもかかわらず、エレノールは地に根を張ったかのようにそこから一歩も動けずにいた。
エマニュエルに影のように付き従う年若い護衛―――昨日の参拝の帰路でエレノールのことばを聞きとがめたあの青年が馬車の扉を閉めると、
すでに御者台に座を占めていた御者は天をも打つかと見えるほどに鞭を高らかに振り上げた。
公妃の馬車を中心にして、一団はついに動き始めた。

アランは我知らず目を閉じていた。
醒めない悪夢のような予感が総身を少しずつ侵食し、鼓動の間隔が狭まってゆくのをはっきりと感じた。
(そんなはずはない。―――そんなはずは。あの女の誓言は本物だったはずだ)
たとえエレノールほどの敬虔さをそなえておらずとも、自らの限界を知る人間であれば誰であろうと、
神の御名において誓った約定を破ることはありえない。
彼自身決して模範的な信者ではないが、アランはそう信じていた。

いや、エマニュエルの自己破壊的な不遜さゆえに仮にそれがありえたとしても、
あの誓言が嘘であったなら、彼女があの腕輪へ注ぎ込んでいたまなざしも汚濁を映していたはずだ。
腐臭を放っていたはずだ。
だが実際には、あの女は―――
そこまで考えてアランは首を振った。
まずは何よりエレノールとことばを交わさねばならない。
彼女の黒い瞳に自らをさらさねばならない。
その一瞬後にたとえ何が起ころうとも。

馬車の隊列を見送りながら妻が立ちつくすその場所へ、アランはゆっくりと近づいていった。
本来十歩も離れていない距離でありながら、これほど遠く感じられる目的地はいまだかつてなかった。
アランはついに彼女の前に立った。
エレノールは夫を見たが、潤いを残したその双眸は対象物を失ってしまったかのように虚脱として、
感情のたゆたう先を推しはかることが難しかった。

「エレノール」
アランが声をかけると、彼女はようやく我に帰ったかのように焦点をゆっくり彼に合わせた。
しかし動転が決して収まっていないことは、その顔色を見るだけでも十分分かった。
最初に何を言えばいいのかアランには分からなかった。
謝罪か、釈明か、それともエマニュエルが告げた事実を否定しつづければよいのだろうか。
それはエレノールを救うのだろうか。
それはわれわれふたりを救うのだろうか。

深く息を吸い込んでから、アランは改めて妻に声をかけた。
最初に言えることはやはりこれしかなかった。
「エレノール、―――今、エマニュエル殿に何を告げられた」
エレノールの呼吸の間隔も、やはり尋常とは言い難かった。
自らの吐息をなだめるように沈黙をくぐってから、彼女はようやく口を開いた。
「祝福を」

「―――何?」
「おめでとう、とそう言ったのです。
 知っていたのだわ、あの子は」
そしてまたことばを切った。
「わたくしが身ごもっていると知っていたのに、ずっと言わずにいたのだわ」
「身ごもっ……」

茫洋と自分を見上げる妻のまなざしに、アランもやはりことばを失い、傀儡のように立ち尽くした。
「どういうことだ。俺にまでずっと隠していたのか。いつ懐妊が判った」
「―――妹を離宮に迎えた、ちょうど次の日ですわ。
 都を発ってからの旅中でもぼんやりと予感はあったのだけれど、でも確信はなく、ひとり胸のうちにしまっておりました。
 離宮に着いた最初の晩、あなたとあんなふうに何度も愛しあったのは、本当はよくなかったはずだけれど、
 今後一年近くは節度をもって過ごさねばならぬことを身体が分かっていたから、
 最後の名残につい、あられもなく求めてしまったのかもしれません。
 侍医に診断を告げられたのは翌日でした。
 これが一日早ければ、妹に出会う前ならばあなたに真っ先に告げたのだけれど、わたくしは彼に口外を禁じました。
 それ以来、わたくしたちふたり以外はだれも知らないはず、だったのです」

「どうして、俺にまで告げなかった。
 そなたがしばらく周りに伏せておきたいというなら、それくらいの秘密は守れる」
「お許し下さい。あなたを信じていなかったのではありません。
 あなたはご自分の言を誰より重んじられるかた、一度誓ったならば決して口外なさらぬかただと存じ上げております。
 でも、わたくしの身重をお知りになったなら、例えことばになさることはなくとも、
 あなたはきっとふだんの挙措にそれが出てしまわれる。
 わたくしのことを風にも当てられない温室の蕾のようにお扱いになって、
 ―――じきにあの子の知るところになるのだと、そう危惧せずにはいられなかったのです」

アランは口を開きかけたものの、結局反論しなかった。
彼方の空の下に、規則的な馬蹄の重奏音が少しずつ遠ざかっていくのが聞こえてきた。
エレノールは言った。
「そうまでして妹に隠しておきたかったなんて、おかしな話ですわね。
 もちろん、わたくしは信じておりました。
 もしも懐妊を伝えれば、あの子はきっと誰よりも、父母やあなたよりもさらに強く、
 わたくしと喜びをともにしてくれるだろうと。
 でも、―――どうしても、言えなかった」

エレノールの大きな黒い瞳に、ふたたび潤みが浮かぶのが分かった。
アランは初めて妻の肩を抱いた。
その拍子にふと、彼女の左耳の上に小枝が差し込まれているのが目に入った。
その先端は房状になっており、よくよく見れば花が落ちたばかりのような小さな緑の実がいくつも寄り集まっている。
これが大輪の薔薇ならばさして珍しい眺めでもないが、ごく地味な木の枝を髪飾りに、
しかも今日のような盛装に併せて用いるなど、ふつうはありうべからざることである。

「エレノール、この枝は」
「枝?―――あら、何か差し込まれているわ」
エレノールは耳の上に手をやるとそっと抜き取り、ぼんやりと不思議そうに見つめた。
うつむいた妻の頭部を見下ろしながら、アランはまた、彼女の身辺にかすかな違和感をおぼえた。

それは香りだった。
エレノールが身にまとっているのはふだんの白檀ではないことに彼は初めて気がついた。
正確には、彼女の髪に焚きしめられた白檀の上に、ほのかな移り香を感じとったのだった。
(ああ、―――これはそういえば、エマニュエルの香りだ)
先ほどの告別はほんの短いあいだに終わってしまい、彼女の漂わせる香に意識を配る暇もなかったが、
たしかに今朝のエマニュエルは、旅支度の身であるがゆえに髪に焚き染める時間を惜しんだためか、ふだんのように白檀を用いてはいなかった。
そのかわり彼女は、果実を思わせる瑞々しいこの香り、
そしてどこか酩酊をいざなうようなこの香りを全身にゆったりとまとっていた。
今日はなぜ調合を変えたのだろう。
だがこの香りは、一般の精製された香料に比べるといかにも野趣を残していた。
アランは目をつむった。何かを思い出せる気がした。

(そうだ、昨日の参拝の途上でも、以前の山中の散策でも、このような房をつけた木は見たおぼえがある。
 ―――これは山葡萄の花実だ。この香りは、山葡萄の香りか)
そして朝靄が晴れゆくように、視界を覆うものが去ってゆく感覚をおぼえた。
エマニュエルがつい先ほどまで離宮の聖堂にて祈念を捧げていた相手は天上の主ではなく、
まして実際は壮健であるはずの夫君の守護聖人などではない。
それは他ならぬ聖リュシアンであり、
祭壇に捧げたのは庭園の花々ではなく今朝がた山中で手折ったばかりの山葡萄の枝なのだ。
そして近隣の酒倉から買い上げた数年来の果実酒も、ともに奉納したのだろう。

山葡萄はかの洞窟の鉱水と並び聖リュシアンの象徴であり、
聖人そのひとの故事をふまえて、一般には樽職人や果樹園主等から職業的な護符の代わりとして崇められている。
しかし一方でまた、属すべきギルドなどを持たない、より寄る辺なき人々から深く仰がれているのも事実だった。
人の世から見捨てられ、忘れ去られし者たち―――殊にいまだ罪を知らぬ小さき者たちは、
象徴物を通じて聖リュシアンの加護にあまねく浴する、そう信じる人々もやはり少なくないのだった。
ゆえに彼は往々にして、男性としては非常に珍しいことながら、
幼な子のみならずいまだ世に生まれ来ぬ子の守護者、生を望まれぬ子の庇護者、
そしてすべての母子の安産寧育を司る聖者としても広く信仰を集めていた。

房のついた小枝はエレノールの手に包まれながら、湖畔より吹きわたる風にときおり自らをそよがせていた。
アランは妻の背中を抱いて強く引き寄せ、先ほどエマニュエル自身がそうしていたように彼女の髪に顔をうずめた。
小枝を指先でなぞっていたエレノールは驚いたように一瞬身をすくめたが、やがて夫の力に身を任せた。

洗練とほのかな野生が溶けあう香りの輪のなかで、アランはひとり目を閉じた。
馬車の隊列が街道の舗石を踏みしめ遠ざかる音が、ふたたび彼方から聞こえてきた。
ふと耳元に、アラン、と恥じらいがちな囁きが上がった
護衛や侍従たちが周囲に居並ぶ前で夫がこのような挙に出たことに、
腕のなかのエレノールは戸惑いをおぼえているに違いなかった。

アランは答えず、ただ黙って瞼を上げた。
耳に残る蹄の響きはもはや過去に属するかのように、現実のざらつきをゆっくりと失いかけていた。
街道の果てゆく先にかろうじて見いだされた隊列の後塵は、起伏多き山肌の陰に今にも融けこもうとしていた。

 

(終)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 06:04