一瞬、幻を見ているような錯覚に襲われた。
書斎へ向かう途中に通りかかった吹き抜けの渡り廊下からは、中庭がよく見渡せる。
中庭の入り口付近には小さいが精巧な仕掛けの噴水があり、
その正面に置かれた長椅子にはふたつの人影が寄り添うように座っていた。
噴水のしぶきが宙に生み出す虹を愛でているのだろうか、ときどきかろやかな歓声が上がっている。
緑陰にて夏の朝の清涼を楽しむふたりの貴婦人。それは宮中ではありふれた風景である。
だが、ふたりの顔かたちが鏡に映したように同じであるということだけが尋常ではなかった。
頭上に広がるポプラの枝葉から零れ落ちる陽光を散りばめた黒髪と、ときおりまぶしそうに細められる漆黒の瞳。
余人が彼女たちを目にしたら、その寸分違わぬ精緻な美しさに、
地上に降りた一対の守護天使のようだと評する者もいるかもしれない。
だがアランを襲ったのは何か軽い眩暈のようなものだった。
しかし一瞬後、彼はすぐ事態を了解する。
あれは妻と妻の妹だ。何もおかしなことはない。一方が他方の分身などであるものか。
そして考えてみれば自分はここのところふたりと顔を合わせるたびに
こんな錯覚に襲われているのだということに思い至り、ひとり苦笑いをする。


ことの起こりはまったくの偶然だった。
夏の盛りを迎えたのを機に、王太子夫妻は例年どおり国土の東北に位置する山間部レマナを訪れた。
ここは辺境州としてガルィアの版図に組みこまれてから日は浅いものの、
穏やかな気候とたぐいまれな景勝、そして豊かな鉱水により国際的にも名高い保養地であり、
ガルィア王室の離宮が構えられているのはもちろん、諸外国の上流人士の所有になる別荘も多々点在していた。
自国がガルィアと政治的緊張状態に陥らない限り、彼らも毎年のようにここを訪れては英気を養い帰ってゆくのである。
猛暑の訪れとともに久方ぶりに公務から解放されたアランとエレノールの夫妻も、
宮廷の喧騒から離れたこの清涼な土地で、一昨年生まれた女児ルイーズを伴いながら静謐閑雅な暮らしを数週間楽しむつもりだった。
だが、レマナに到着したその日の夕方、ある隣人の噂を離宮の廷臣から伝え聞くと王太子妃はかつてない喜色に頬を染めた。
ごくわずかな供回りを連れただけの貴婦人が身元を隠すようにして数日前から近隣の城館に滞在しているが、
呼吸器の軽い疾患のために静養に来たというその佳人は
黒髪に黒い瞳ばかりか顔立ちの隅々までがエレノールに瓜二つだというのである。
奏聞が終わるやいなやエレノールはアランに口を挟む暇も暇も与えずに浮き足立つようにして離宮を出てゆき、
数時間後まさにその貴婦人を連れて戻ってきた。
それが彼女の妹エマニュエルだった。
嫁ぎ先の呼称ではエマヌエーラとなるそうだが、エレノールだけは母国語風にマヌエラと呼んでいる。

スパニヤ王国第三王女エマニュエルはエレノールからすれば年子の妹にあたる。
芳紀十八にして陽光とオリーブの香りあふれる母国よりさらに南方のヴァネシア公国に嫁ぎ、今年二十一になるという。
南海の翡翠。斜陽を知らぬ都。神の恩寵に護られし地。
あまたの形容で古歌にも誉れ高く謳われる都市国家ヴァネシアは、
地形的には限りなく島嶼に近い小半島であり、
異教徒たちが割拠する東大陸から突き出た西南端の半島を
自らの属する文化圏である西大陸に海峡を隔てながらかろうじて結びつける危うい楔のような位置を占めている。
そして支配領域からいえば三方を海に囲まれた首都とその周辺の岩がちな沿岸線に限られ、
徹底した重商主義と人口寡小のため、自国の防衛は伝統的に外国人の傭兵に一任してきたというのが実情である。
しかしながら、地の利を最大限に生かして東西中継貿易路を最初に開拓し、
商業上の競争相手たる近隣諸都市を同盟の名のもとに次々と服属させ、
古来より一貫して独占的に繁栄を謳歌してきたのもやはりヴァネシアであった。

造船技術の向上と火薬の伝播により、ガルィアを始めとする諸大国も
軍事的・経済的に有利な陸路海路の開拓に勤しむようになって久しいが、
それでもやはり、この大陸に東方異教徒の国々から目の覚めるような精巧な文物をもたらすとともに
関税や専売制によって各国の重要財源をも提供している大陸間通商
―――いわゆる南海交易は、ヴァネシアの中継なしでは依然として成りたたないといわれている。

他にめぼしい産業もなく専ら交易に拠って立つ小さな都市国家の常として、
ヴァネシアにおいても政治的発言力は貴族議会より主要商会のほうに重みがあることは動かしがたい事実であり、
恣意的な法令でもって大商人たちの利権を侵害した君主が玉座を追われたことも過去に一度や二度ではない。
そのように、王侯貴族にとってはある意味屈辱的ともいえる国情がつづいており、
かつ地理的関係上、常に大陸間の戦火に巻き込まれる危惧を抱いて暮らさざるを得ないことから、
その統治者たる公に嫁ぐのは、いくら莫大な富に囲まれた生活が約束されるとはいえやはり相応の諦観と胆力が必要であろう、
と諸外国の王室からは縁組を敬遠される傾向があるのも否めない事実だった。


アランはこれまで義妹に一度も会ったことがないが、
エレノールとはひとつ離れているというのに並の双子以上によく似た妹姫だという旨は侍女たちから仄聞していた。
そのうえ子沢山なスパニヤ王室のなかでも最も仲がよい姉妹だといい、
未婚時代のふたりはいつも一緒にいるがゆえに、それぞれの従者は常々己が主人の識別に心を砕かねばならなかったという話である。
ただしエレノール自身はと言えば、妹に言及するときは必ず
「あの子はわたくしよりずっと綺麗だから、あなたがお会いになったら心を奪われないかと心配だわ」と、
冗談とも本気ともつかない声で付け足すものだから、アランも若干興味を惹かれないでもなかった。
むろん、おおよそは妻の罪のない誇張というか身びいきであろうと思いながら。

何しろ、もともとが肉親に対し情の深いたちだとはいえ、
エレノールがすぐ下の妹について語るときの愛情の込め方には、いつもひとからならぬものがあった。
小さなときからとても愛らしくて、聡明で、努力家で、思いやりがあるのだと。
その幸せそうな語り口を聞くにつけても、すぐ下の弟ののらくらぶりに自分は幼い頃からどれだけ気を揉まされてきたかを思い出し、
何かこう、世の不公平を感じるアランでもあった。

エレノールが妹を連れ帰ってきたその晩、急ごしらえの宴席にてヴァネシア公妃エマニュエルと初めて対面してみたところ、
容姿においては妻と伯仲であろうという予想は間違っていなかった。
華奢ながら女性らしく優美な体格は言うまでもなく、
飴菓子のように滑らかで柔らかそうな小麦色の肌も雨上がりのように潤いを含んだ黒髪も、
そして大粒の宝玉と見紛うばかりの漆黒の瞳も、たしかにエレノールと寸分変わらぬ造形というべきであり、
真珠や珊瑚を贅沢に散りばめたヴァネシア風の髪飾りや装束さえまとっていなければ
アランでさえ一瞬妻と見間違えかねないほどの危うさがあった。

しかしながら彼は、無難な時候の挨拶を美しき義妹と交わしながら、
そんな誤りは実際には起こり得ないとじきに確信をもつに至った。
そしてそれこそ、エレノールが「あの子はわたくしよりずっと綺麗だから」と評する理由に違いない、とも彼は思った。
姉姫がそうであるのと同様、エマニュエルも温和で気品に満ちた婦人であるが、
万事におっとりとして他人を信じ込みやすい姉姫に比べ、
彼女のほうは穏やかな態度のなかにも他者に馴れ合いや阿諛を許さない確固とした線引きのようなものが感じられた。
王侯貴族の社交の要であり人物評価の基準にもなりうる会話術はといえば、
若い女性の常として主題の定まらない話をとりとめなく語りつづける傾向のあるエレノールに比べ、
エマニュエルのほうは整然として機知に溢れる会話を主導しなおかつ聞き上手なので、
アラン自身俺はこれほど話術に巧みだったのかと幾度も錯覚を覚えるほどであった。

そして何より姉妹の区別を印象づけるものとして、エマニュエルの瞳には力があった。
石膏に刻みつけられたかのようにくっきりとした二重まぶたも
密林のように濃く長いまつげも森の奥深くで湧きいづる泉のように黒く濡れた虹彩も、
器官としてのつくり自体はエレノールとほとんど変わるところがないというのに、その発する気配が彼女とは全く異質なのだった。
使い古された言い回しではあるが、わが妻が万物に柔和な光を注ぐ月ならこの娘は太陽だな、とアランは思った。
それも炎夏の朝、一日の生命力を燃やし始めたばかりの太陽である。
義妹の美しい瞳にはそれほどの鋭気が潜んでいた。

しかしだからといって、彼女は見るからに気性の激しさを感じさせるというわけでは全くない。
ともに食卓を囲んでいるときの挙措や表情、ことばづかいは、姉姫ほどの打ち解けた人好きさには欠けるとはいえ、
二十歳を過ぎたばかりの年若い娘にはそぐわぬほどの落ち着きと余裕があり、
いまここには同席していないものの、
対面を果たしたおりには幼いルイーズもすぐにこの美しい叔母に懐くことであろうとアランには容易に想像がついた。
そして同時に、この義妹は自身の明敏さをごく自然に糊塗できるほどの知性に恵まれており、
しかしその知性をもってしても覆い隠せないほどの情熱を内側に秘めているのだろう、とふと感ぜられた。

(たしかに、エレノールが冗談でも不安を口にするだけのことはある)
静かに酒杯を傾けつつ妻とその妹の顔をそれとなく見比べながら、アランは少し酔いの回った頭でぼんやりと思った。
彼女たちは同席するアランに遠慮してガルィア語で話を続けているが、
その歓談の盛り上がりようから察するに、彼が席を外すのさえ待てずに今にも母国語で互いの愛称を呼び合いたいに違いなかった。
それにしてもエマニュエル妃はわが国語に長けている。アランは密かに感心した。
自他ともに認める随一の文化国家という位置付けから、ガルィアはその国語さえもがこの大陸の優越者たる地位を占めて久しかった。
いわゆる国際公用語である。

むろん各国とも何よりまず自国語での文芸振興を標榜しているものの、いずれの国であれ上流社会に属する者たちは、
ガルィア語をいかに流暢に使いこなせるかということに貴種としての沽券を賭ける風潮が強かった。
そのような教育方針を何代もとり続けた結果として、
彼らの子女には自国語で手紙を書けない者さえいるというのだからアランなどは失笑してしまうが、
彼が義妹に感服したのは、彼女は母国語や嫁ぎ先の言語は言うに及ばず
ガルィア語も古典語も実に不足なく習得しているからだった。

姉妹それぞれ婚約者が定まっている身ながら十五六ごろには天性の美貌が鮮やかに色づき始め、
スパニヤの宮廷人たちの注視を浴びずにはいられなかったであろうことは想像に難くないが、
聞くところによれば、エマニュエルに懸想する貴公子の数は常に姉姫の倍はあったという。
さもありなん、とアランは思う。
それほどに、温和な物腰と明朗な瞳の裏側に暗い情炎を秘めた、どこか深淵を感じさせる娘なのだ。
この姫が隠そうとしている情熱を引き出せた暁にはどんな悩ましい表情を見せてくれることだろう。
周囲の男の気概をしてそう駆り立てずにはおかない何かが、この娘にはあるのだった。

そしてそれだけに、惜しいことだ、ともアランは思った。
不憫なことだ、と言ったほうが正しいだろうか。
大陸屈指の由緒ある血統はむろんのこと、美貌も知性も社交性もあまねく兼ね揃えたこの娘、
これ以上何も望むことなどあるまいと傍からは思われる年若い貴婦人は、
結婚生活に関してはその美質にふさわしい待遇を与えられているとは言いがたかった。

もとより遠く離れた異国の宮廷の内情であり、アランとてそれほど確信をもって把握しているわけではないが、
南海東部方面の諸国に放っている間諜たちからの定期報告によれば、
―――むろん彼らの第一の任務は当該国の政治経済および軍事上の動向を探ることであり、
君主の私生活に言及するとしたらあくまで備考という域に留めるのみではあるのだが―――
彼女の夫である現在のヴァネシア公はくたびれた初老の男であり、
先君である兄の跡目は本来その一人息子が継ぐはずであったのが、
当時東方からもたらされたばかりの流行り病で夭逝してしまったがために、
五十も過ぎてから急遽公位継承権が転がりこんできたのだという。

皮肉なことに、エマニュエルが本来婚約していたのは英名高き公太子のほうであり、
ヴァネシア公は玉座と同時に若く美しい許嫁を手に入れたことになる。
しかしながら彼の評判は将来を嘱望された甥に遠く及ばず、
即位の話がもたらされるまでは諸国の富が集まるヴァネシアの豊かさを享受しながら日がな安穏と暮らしていたためであろうか、
政治家としての手腕もまるで未熟だという話だった。

実際、エレノールに聞いたところでは、彼女たちの父であるスパニヤ国王も、
このような「再嫁」を図ることに若干の躊躇を覚えたというが、それでも結局踏み切るに至ったのは、
中継貿易地としてのヴァネシアの重みゆえであったろう。
それはヴァネシア以北のどの国においても変わらぬ事情ではあるとはいえ、
殊に南海貿易による利潤が歳入の小さからぬ割合を占める海洋国家スパニヤにおいては、
かの公室との紐帯を維持することはまさに喫緊の課題であった。

一度も顔を合わせたことのない夭折した婚約者に対しエマニュエルがどれほどの思い入れを持っていたかは知る由もないが、
エレノール及びその上のエスメラルダといった姉姫たちが年相応の青年貴公子たちに嫁いでゆく一方で、
父親より年上の男のもとに嫁がされることになった運命を一度も嘆くことはなかった、
と推し量るならあまりに美談でありすぎるだろう。
それでも夫が家庭人として思いやりのある年長者であったなら救いはあったかもしれないが、
現実はといえば、ヴァネシア公はエマニュエルを娶ってからも宮中のそこかしこに愛人を侍らせて憚らないのだという。
間諜からの報告を引用すれば、「スパニヤの貴婦人独特の謹厳さに公はついに馴染むことができなかった」
ということである。

経済的な余裕さえあれば王侯貴族が蓄妾に励むことなどガルィアを始めどこの国でも珍しくなく、
何もヴァネシア公室に限った陋習ではないが、
同一の信教、同一の戒律を奉ずるこの大陸の人間はみな少なくとも法の上では一夫一妻制に服しており、
それは王侯貴族も同じことであって、公式の寵妃といえど神の前で誓約を交わした正妻に対しては顔を伏せるのが当然である。
それだけに、夫の愛人たちが我が物顔で闊歩する宮廷に正妃として起居しなければならない屈辱は余人には図りしれないものがあり、
またそれだけに、今こうして目の前にいる当の娘が常に温顔で他者に心地よい物腰を保っていられるというのは賞賛に値する、
とアランにはひそかに思われた。

(これも衿持の高さゆえか)
内心の苦痛や葛藤を露わにすること、そして他者の憐れみを向けられることだけは何があっても忌避しようと、
公妃エマニュエルは習慣的に自分を厳しく律しつづけているのだろう。
そのきわめて自制的な態度は堅牢の域にさえ達しているが、
一方では確かに姉姫エレノールの芯の強さに通じるものを感じさせ、アランは初対面の席から総じて義妹を好ましく思った。

が、彼女は彼女でよくできた貴婦人だと判明したが、
アランをやや困惑させたのは、妹に対するエレノールの度を越した愛着ぶりであった。
レマナ離宮に到着した晩、つまりエマニュエルのために宴席を張ったその晩、
エレノールは夫婦の寝台で珍しく上目遣いになって夫に嘆願したのである。
「ねえアラン、妹がこの地に滞在する間、いま居る城館からこちらの離宮に呼び寄せてもよろしいでしょう?
 私事ですから、従者たちも含めた応接費はすべてわたくしの資産からまかないますわ」
「一個連隊を養うわけでもなし、別にそこまで気を遣わずともよい。
 姉が妹との再会を祝すのに、どうして妨げる理由があろう」
「ではあの子をこちらに迎えてよろしいのですね?ありがとうございます、アラン」
夫の肩に頬を寄せながら、エレノールは濃いまつげに縁取られた大きな黒い瞳を弧のように細めた。
もともとが表情ゆたかな彼女は満面の笑みをこぼすのに吝嗇であったことはないが、
それでもこの笑顔を見るためなら何でもしてやりたい、とアランに思わせるには十分な明るさだった。

「もうひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あの子がこちらにいる期間は限られますから、朝晩できるだけ同じ空間で過ごしたいのです。
 食事もお化粧も、眠るのも一緒に」
「つまり妹御を優先して、俺は独居の身か」
「申し訳ございません。―――お許しいただけましょうか」
エレノ―ルの声は幾分か小さくなっていた。
そもそもこのたび都からはるばる離宮に足を運んだのは、
単に避暑だけではなく公務に邪魔されない休暇をふたりで楽しむためでもあったのだ。
童女でもあるまいし夜ぐらいは夫婦の寝台に戻って来い、とアランはよほど説得したかったが、
妻の黒く潤いある瞳に不安げに見つめられるとその強気もだいぶ失せてしまい、しばらく考えをめぐらすほかなかった。

「―――まあいい。妹御が滞在する間だけ、という約束だ」
「うれしい。ありがとうございます、アラン」
エレノールはふたたび笑顔になって夫に抱きつき、頬や顎に感謝の接吻を降らせた。
「だがその前に」
「え?」
「条件がある。いや、ものごとの理と言ったほうが正しいか」
囁きかけながら、アランは妻の首筋に唇を這わせた。
「しばらくの間そなたは自ら神聖な夫婦の義務を放棄するのだ。その代償は大きいぞ」
「代償」
「今夜は誠意を尽くしてもらわねばな」
「誠意だなんて、……だめ、お待ち下さい……っ」
夫の手が強引に寝衣を剥ぎ取ろうとするのをエレノールは阻止しようとしたが、むろん果たされず、
それどころか裸身を軽々と持ち上げられて彼の腿の上にまたがる姿態をとらされるに至った。
下から無遠慮に見上げてくる夫のまなざしに耐えられず乳房を両手で隠しながらうつむくと、
すでに大樹のように屹立した雄が彼女の視界に堂々と映る。

「アラン、もう、こんなに……」
「そなたのせいだ。明日からは長らく見捨てられる境遇なのだからな。
 せいぜい慰撫してやろうとは思わんか」
「も、もちろん、申し訳なく思ってはおりますけれど」
「思うだけでは同じことだ。行為で示せ」
「でも……」
「そなたの敬愛する聖アルトゥールも『教書』後篇第二節で同じことを述べているだろう」
こんなときに聖人を引き合いに出すなんて、とエレノールは本気でアランに腹を立てかけたが、もはや拒む術はなかった。
準備万端に反り返る逞しい彼自身を眼前にして、
己の花芯もひそやかに火照り潤い始めていることを認めないわけにはいかなかったからだ。
(この淫らな身体をどうか、お許し下さい)
世のあらゆる聖者たちに許しを請いながら、彼女は祈るようにこうべを垂れ、
硬直した雄の先端をその紅唇で挟み、いとおしむように優しく吸った。
妻がようやく「誠意」を見せる気になったことをここに確認し、アランは深い満足の吐息を漏らした。

エマニュエルとの共同生活はそのようにして始まった。
共同生活とは言っても実質は広壮な離宮の一角でのエレノールと彼女との閉ざされた蜜月であり、
しかも詩の朗読やらレース編みやら鉱水への入浴やらルイーズのための人形選びやら、
朝から晩まで女子どもが好きな営みに終始しているので、
アランなどは食事の席を除けばほとんど義妹との接点もないほどだった。
それはいいのだが、妻ともめったにふたりきりになれる場がないとなるとやはり不満は募ってくる。
たまにその機会をとらえると、彼はつい揶揄のひとつも言いたくなるのだった。

「よくもまあ、四六時中一緒にいて飽きないものだな」
「ごめんなさい。―――妬いていらっしゃる?」
申し訳なさそうに、だがほんのりと可笑しそうにエレノールが言う。
まったくはずれでもないだけに、アランの口調は却って無愛想になった。
「妻の実妹になど誰が妬くものか。
 ただ、生まれてからずっと一緒に育ってきた年子の妹とこれ以上何を話すことがあるのかと訝しく思うだけだ。
 寝台まで共にしてな。女はよく分からん」
「こちらに嫁いで以来ずっと離れ離れだったのですもの、積もる話は山とございます。
 あなただってマテュー殿ご帰京のおりは、ご兄弟ふたり水入らずで同衾なさりたかったらお止めしませんわ」
「気色悪いことを言うな」
本気で眉をしかめた夫を尻目に、エレノールは口元を押さえつつ笑いを噛み殺しきれぬまま妹の待つほうに歩き去ってしまった。
やれやれ、と小さく息を吐きながらアランはその背を見送る。
(朝から晩までマヌエラ、マヌエラか)

しかし自分で許諾した以上、それは受け入れるより仕方のないことだった。
エマニュエル妃を離宮に迎えて以来、アランは夜を書斎で過ごすことが多くなった。
都の王宮に劣らぬほど広い夫婦の寝室をひとりきりで使うのは当初は新鮮な気もしたが、
次第次第に侘しさがつのってきたからだ。
一年に数週間しか滞在しないとはいえ、離宮の書斎もなかなかの蔵書を誇っており、
なおかつチーク材を贅沢に用いた部屋全体が涼やかで過ごしやすいため、
書棚の間に置かれた長椅子で夜を明かすことは、徐々に慕わしくさえ思えるようになってきた。
(あと何日だったか)
エレノールに悪いとは思いつつも、義妹の出立までに残された日数をひそかに数えつつ、
アランは日干しの匂いがする古書の頁をくくるのだった。

 

その晩もやはり同様に過ごすつもりだった。
最後の衛兵に見送られて回廊の角を曲がったそのとき、アランはふと足を止めた。
あと数歩でたどり着くはずの書斎の扉から、生糸のように微かながら一条の明かりが漏れている。
決して小規模ではないレマナ離宮とはいえ、
衛兵の咎めを受けずに王太子の私的空間へ立ち入れるのはひとりしかいようはずがない。
彼女がこんな時刻にこんな場所で己を待ち受けようとする意図は掴みかねたものの、
アランはついつい早まる足取りを抑えることができなかった。
敲く暇さえ惜しまれて扉を一息に開けると、彼の視界をまず覆ったのは部屋の中央から円心状に広がるほのかな光だった。
暗がりによく目を凝らせば、その源は樫の文机の上に置かれた三叉の燭台であり、
さらによく見ればそのうちの中央の枝のみに立てられた小さな蝋燭である。
そしてその傍らには華奢な人影が佇み、慎ましい静寂のうちにこの部屋の主人を迎えいれた。

アランも何も言わなかった。
厚く敷かれた絨毯に足音を沈み込ませて近づくと、ただ彼女をゆったりと抱擁し、そのままそこに立ち尽くした。
湯浴みを終えたばかりなのだろう、艶めかしいほどに潤いを含んだ黒髪にゆっくり顔をうずめると、
焚きしめられてまもない白檀の香りがいつにも増してかぐわしく鼻孔を突いた。
こうして二人きりで触れ合うのはたかだか数日ぶりのことだというのに、
アランにはなぜか、かつて政務のため都を数週間から一月ほど留守にした折よりもさらに胸が満たされる思いがした。

誠に大人気ないことではあるが、この静閑な離宮に到着してからというもの、
妻の注意が専ら久方ぶりに再会した妹と慣れない環境にむずかりがちな幼い娘に向けられていることに、
自分が思う以上に寂寥を募らせていたのかもしれない。
そう思い至るとアランはひとり微苦笑し、腕のなかのやわらかな頬に手を当てて顔を上げさせると、
彼女の側の意向を確かめるようにそっとその双眸を覗きこんだ。
エレノールの美貌の中心をなす大きな瞳は儚げな蝋燭の光を宿しつつもますます深みのある黒さを帯び、
夫のあらゆる望みに応える用意があると告げるかのように、従順なまなざしで彼の視線を受け止めていた。

だがその瞳の奥には、どこか緊張を孕んでもいた。
その事実に気づくとアランは、訝しさよりもむしろ愛おしさと情欲とが累乗的に募ってくるのを感じた。
生娘のそぶりとは初々しいことだ、と戯れかかりたくなるのを堪えつつ、手すさびに黒髪を梳いてみる。
エレノール、と初めて名を囁くと、抱きすくめられたままのしなやかな肢体はまなざしと同様にかすかな硬直を示した。
だがそれさえも夫の目には違和感となりえず、彼女の貞淑さゆえのためらいと恥じらいの結実と映った。

ふたたび妻に顔を近づけ、今度はゆっくりと唇を重ねる。
最初はいくらか強張りを感じたが、じきに彼女の唇からも力が抜け、
喘ぐような吐息とともに無防備な口腔が明け渡された。
愛撫に対してひたすら従順で受け身がちな態度は以前と変わるところがなかったが、それさえもかえってアランの満足を促した。
けれど、妹姫に勧められてエレノールは就寝前に東方産の茶でも嗜むようになったのであろうか、
久しぶりに絡めあった柔らかな舌は、ほんのりとジャスミンの香りがした。

ごく自然な流れで妻の寝衣の帯に手をかけると、彼女は一瞬だがはっきりと身震いをみせた。
それはアランには理不尽な翻意としか思えぬものだった。
「寝室以外の場で営むのはそれほど嫌か。そのつもりでここを訪うたのだろうに」
エレノールは答えなかった。

妙だな、とアランは初めて動きを止めた。
いつもなら妻は必ずこのあたりで、己の羞恥心を嬲りものにせんとする夫の非礼に顔を赤らめながら憤りの声を上げるものなのだ。
アランのなかでふいに不安が芽生えた。
たしかにエレノールは、妹姫と再会を果たしたその晩、
ここレマナ離宮に滞在する間はエマニュエルとの時間を優先させていただきたいとアランに請い願い、彼もそれを了承したのだ。
夫婦の間の口約束とはいえ、それを忘れてはいけなかった。

「寝室で待つ妹御のことがやはり気になるか。
 無理もないことだが、―――だが、俺はやはりそなたが欲しい。
 しばしのあいだ肌を許してはくれぬか。情事の跡は極力残さぬように気をつけると約束する。
 そなたとて、接吻だけで満たされるわけではあるまい。
 それとも、就寝前のくちづけのためだけに俺に会いに来たのか」
それでも妻から返事はなく、広々とした書斎は彼自身のことばの余韻を漂わせるだけだった。

どこかに苛立たしさと不明瞭感が残ったが、アランはついに折れた。
ただ肉の欲望に突き動かされて交合を求めている、そのように思いなされるのは決して望むところではない。
「―――そなたが厭うことはするまい」
短くそう呟くと、今はこれで満足しよう、とでも告げるかのようにふたたび彼女の華奢な腰を強く抱き寄せ、
その黒髪や首筋や肩にゆっくりと接吻を降らせた。

そのときふいに、エレノールが面をあげた。彼女は依然として無言だった。
ただしその煌々たる瞳にはもはや緊張の色はなく、
既に連れ添って四年になるアランをして思わず瞠目させるほど、挑発的なまでの艶めかしさを怖じることなく放っていた。
エレノール、と呼びかけるその前に、アランは既に細い指先が自らの頬を這い、唇を優しくなぞるのを感じていた。
いらして、と聞こえたような気がした。
それは後で考えれば、彼のなかで情動の舫が解かれるのと全く時を同じくしていた。

妻に手を引かれて促されるがまま、アランは文机と対になった樫製の椅子に腰を下ろし、膝の上に彼女を横向きに座らせた。
見た目はごく華奢だとはいえ、彼に重みを預けた臀部の丸みと触感は、改めて子をなした女を感じさせた。
肩を抱き寄せて唇を重ねると、ついで頬、耳たぶ、顎、首筋、鎖骨へと徐々に軌道を下げてゆく。
妹姫の侍女に手伝わせたものなのか、珍しい結い方をしている帯を解き胸元の紐を解いて肌着まですっかり剥ぎ取ってしまっても、
彼女はもはや夫の手から逃れようとするそぶりも見せなかった。
淡い灯火のなかで目を細めれば、小ぶりながら形のよい乳房の頂点が屹立していることははっきりと分かった。
両手の親指をあててそこをこね回してみると、花弁のような唇からはジャスミンのかぐわしい吐息が漏れた。

「触れる前からずいぶん硬いようだ。そなたも欲していたのだな、そうだろう?」
「アラン……あ、い、いやっ」
「ここも確かめねば意味がなかろう。
 やはりすっかり濡れている。もう指を二本もくわえ込んでいるぞ。分かるか?」
「だめぇ……かきまぜないで……っ」
「つぼみも大きくなってきたな。ふだんよりさらに敏感なのではないか?
 ほら、望みどおり剥いてやる」
「い、いやぁっ!そこは、だめぇっ!」
「なんという濡れようだ。もうまもなく達しそうだな。どうだ、指だけで果てたいか」
「い、いいえ……指だけでは、だめ……」
「ならばどうしてほしい。今度こそ黙るのではないぞ」
「あ、あなたの、……ものが、ほしいです」
「大きくて硬いものが、だろう?この間の晩は涙ぐみながら何度となく俺にそうねだったではないか」

あなたがわたくしにそう言わせたのです、という憤慨に満ちた返事が返ってくるかと思ったが、そうではなかった。
愉悦に流されまいとする恥じらいに満ちた表情は予想通りだが、唇のほうは何かを言いかけてはまた閉じ、
しかし結局、夫の耳元で素直に問いに答えた。
「はい、……あの晩のように、あなたの大きくて硬いものを、わたくしのなかに、ください」
「今夜はずいぶん素直ではないか。よほど飢えを募らせていたのだな」
「飢えだなんて……」
「そなたの本性が牝犬と変わらぬことはよく分かっている。
 ひとたび欲情すれば前から後ろから責められないかぎり我慢できない女だ。そうだな?」
「はい、―――わ、わたくしは、あなたの牝犬です。ですから指だけではなく、どうか、―――はあぁっ!」
「いい子だ。今夜は驚くほど素直だな」
「は、はい、―――ご褒美がいただけて、うれしゅうございます」

とぎれとぎれの熱い息を漏らしながら、エレノールは夫の肩にしがみついた。
たったいま一瞬のうちに身体を持ち上げられ、屹立した陽根の先端を濡れそぼった秘裂に押し付けられたのだ。
これ以上深いところまで欲しかったら自分でまたがれ、といわんばかりの残酷な仕打ちに
彼女は慄くように瞳を閉じたものの、火照りきった肉体のほうはごく素直に夫の要求に従い、
自ら腰を動かしては淫猥な蜜音を書斎中に響かせつつ、彼自身をゆっくりと根元まで飲み込んだ。

アランもこのころにはさすがに呼吸を乱さないわけにはいかなかった。
柔らかく温かい襞の中に自分自身が深く迎え入れられていくという触感的な愉悦ももちろんだが、
数日ぶりに肌を重ねる目の前の妻が羞恥心と戦いながら細い腰を前後に激しく揺らし、
それに伴い愛らしい乳房と硬いままの乳首を悩ましく上下させては
高まりゆく快感に涙ぐむのをじっとこらえているという光景そのものが、彼の興奮を否がおうにも煽り立てるのだった。

「今夜の腰使いは、また大したものだな。玄人女にでも教えられたのか」
「ち、ちが……何もかも、あなたにお喜びいただくために、わたくし……あ、あぁ……っ」
「可愛い女だ。だが俺のためと言わず、そなた自身の満足のためにいくらでも貪るがいい。この淫乱め。
 俺も貢献してやる」
荒い息でそう言うと、アランは妻の細腰を両手でしっかりとつかみなおし、下から猛然と突き上げ始めた。
「あ、あぁっ……いやっ、そんなに激しく、だめぇっ!」
「激しく責められるのが好きなのだと、今まで何度となく身をもって告白したではないか。
 いまさら隠そうとして何になる」
「い、いやっ、許して、もう……あ、あぁっ…そんなに、奥まで……
 あ、ああぁっ!そこ、です……っ……もっと、もっと突いて……」
「この辺りも感じるようになったのか」

女はいくらでも目覚めてゆくものだな、と嬲るように囁きかけたとき、アランはふと動きを止めた。
腰の反復運動だけでなく、表情や呼吸さえも彫像のように凍りつく。
彼の視線の先にあるのはエレノールの首、正確には顎の裏側だった。後ろにのけぞったときに初めて人目に触れる部位である。
そこはほかと変わらず滑らかで艶のある肌に覆われている。だが一点だけ彼には見慣れぬ符号―――大きめのほくろがあった。
最初は黒の顔料がこぼれたものかと思われたが、それが気休めの考えであることは自分自身で分かっていた。
これはほくろだ。そしてエレノールにはこのほくろはない。

アランは目をつぶった。
これが数分前ならまだ中断できたが、楔のように深いところまで結ばれた今になっては
引き返そうと続行しようと犯した過ちの重さは同じだ、と彼には思われた。
肝要なのは、最後まで「気づかなかった」ことにすることだ。今はそれしかない。
動作を停止してから一瞬のうちに対処を決めると、
彼はもはや呼吸が乱れすぎて何も言えないというかのように、ただ無言で『妻』のきつく締まった花芯を突き上げ始めた。
彼の背中にまわされた細腕の力が強くなった。
胸の中の美しい牝は、ここで息絶えようと惜しくないとばかりに彼から与えられる愉楽をただただ素直に享受し、
自らもいっそう激しく腰を前後に揺さぶっている。

そしてある瞬間、アランは『妻』の身体を持ち上げて荒々しく引き剥がした。
彼女はひどく切なげな声を上げてその無情に抵抗したが、
やがて自らの平らな腹部に放たれた白濁液をいとおしげに指先にとり、
まだ熱いままのそれを舌先で上品に舐めるようすが、薄れゆくアランの視界にもはっきりと映った。

「どうして、離れてしまわれたの?」
書斎に横たわる静謐を最初に破ったのはその声だった。
アランは顔を向けず、何も答えなかった。
ほのかな微笑とともに紅唇から漏らされた吐息がすぐそばで聞こえたような気がした。
彼の未だ収まらぬ呼吸の間を縫うようにして、ひそやかなことばは続けられた。
それはもはや妻どころか義妹の声でさえなく、己の魂を獲物と定めた地中に潜む死霊からの呼びかけのようであった。
「何をためらわれたのです」
「ためらってなどいない。普段、―――普段からずっとこうしているではないか。
 そうだろう。そなたを一年中身重にしたくはない」
ほとんど自分に言い聞かせるようにして、アランはゆっくりと答えた。
そうだ、これが真実なのだ、とひとり胸中に繰り返しながら。

自分で自分の言を真実だと思わなければ、この女に信じ込ませられるはずがない。
そうだ、こちらが彼女の思惑に攪乱されるのではなく、こちらの思惑に彼女を従わせなければならない。
エマニュエルにどんな動機があってこんな所行に及んだのかは分からないが、
エレノールへの罪悪感を―――少なくとも後ろめたさを感じているのは彼女とて同じはずであり、
ならばこちらが「最後まで気づかなかった」ことにしておくのが双方にとって最善の処置なのだ。
それしかない、とアランは思った。
自らの服装を正し帯を締めなおしながら、彼は極力自然に、
情事のあとで夫が妻にかけることばとしては冷たすぎず熱すぎもしない程度の温度を込めて、できるだけ淡々と話しかけた。

「早く寝室に戻ったほうがいい。妹御がふいに目を覚まして、そなたの不在を不審に思っているかもしれん」
「『今夜は』冷たくていらっしゃるのね。
 ことが済んだら抱擁さえくださらないのですか?いつものように、慈しんでくださいませ」
「―――悪かった。そなたが気を急いているかと思ったのだ」

ますます膨れ上がる戸惑いと不可解さを押し隠しながら、アランは再び「妻」に近づき、未だ火照り鎮まらぬ細い肩を抱き寄せた。
彼女の願いに背かぬよう、すなわち彼女に疑念を抱かせぬよう「いつものように」額から首筋、肩へと接吻を降らせ、
エレノールとの親密な後戯を再現しながら、
なぜこの娘はわれわれの房事についてかくも審らかに知悉しているのだろう、とアランはふと栗然とするものを感じた。
いくら仲の良い姉妹だとはいえ、果たしてあの謹厳なエレノールが多少なりとも淫靡さを孕んだ話を妹に打ち明けるだろうか。
あるいは単なる推測に基づいて俺をけしかけているだけかもしれない。むしろそのほうが自然だった。
だが、そもそもこの娘は、この作為を通じて俺に何を望んでいるのか。

「わたくしの名を呼んで」
首筋への接吻を受けながら、エマニュエルが囁いた。
「あなたの声を聴きたいの。いつものように呼んで」
「妙なことを」
アランはできるだけ自然に微笑を浮かべようとした。
「これだけ近くにいてまだ不安か。―――エレノール。エル」
ふたりきりのときに妻に呼びかける愛称を、アランは初めて他人の前で口にした。
周囲の人間に情愛を示すことに全くためらいのないエレノール自身は、
公務の場でもない限りいつでもそう呼んで下さればいいのにと言うが、
弟妹たちをさえ愛称で呼ぶ習慣を持たずにきた彼にしてみればそんな昵懇は論外のきわみである。

だが今だけは、とアランは思った。
今だけは固執を捨ててこの娘の望みに応えるが吉であろう。
もっと、と腕のなかからひそやかな懇願が聞こえた。
「もっと、ある限りの名でわたくしを呼んで。あなたがいつもそうなされるように」
「エレノール。ルゥ。エラ。エレナ。レネ。ノーラ」
「うれしいわ、お義兄様」

天井が真冬の湖面と化したかのように、部屋の空気が一瞬にして凍結した。
少なくともアランにとってはそうだった。
「いつもこうして、姉様にお呼びかけなさるのね。夜毎こうして、姉様をいとおしまれるのね」
その声音は誰のものでもない木霊のように虚な響きだった。
アランは反射的に「妻」から身体を離した。
エマニュエルはもはやそれを制止しようとはしなかった。
ひとり文机の前の椅子に―――たったいま情事を交わしたばかりの椅子に腰掛けると、
何とか動悸を落ち着かせようとしている義兄とは対照的に、
奏者の手を離れたリュートの弦のように静謐なまなざしでただ彼を見つめている。

「やはりわたしだとお気づきだったのね。どうか怯まないで下さいませ、お義兄様」
「―――貴女は」
アランは深く息を呑んだ。
「何を考えている。一体何を企図してこんなことを」
「あなたをお慕いしているから、というのではいけない?」
「それはあるまい」
アランは間を置かずに答えた。
いくら自負心の強い彼だとはいえ、義妹の日頃の挙動には自分への特別な思慕を窺わせるものなど何もないことはよく分かっていた。
「世辞や韜晦は聞きたくない。貴女の真意が知りたい。なぜだ?」
「なぜかしらね。自分でもはっきりとは分かりませんの。強いて言えば、欲望を感じたからかしら」
「欲望だと」
「姉様の伴侶と寝ることに」

書斎の外から小さく物音が聞こえた。
廊下に詰めている衛兵たちの交代時間なのだろう。
エマニュエルはその雑音に乗じて義兄から目をそらすわけでもなく、きつく凝視するわけでもなく、
机の上の瑠璃杯のようにただそこにある静物として彼を眺めていた。
それはアランには侮辱的ともとれる視線だった。
そして同時に、彼女が姉への裏切りに対して何の後悔も抱いていないことを語るものでもあった。

「一体なぜだ。昼間は水が滴り落ちる隙間もないほどふたり仲睦まじく過ごしているではないか。
 エレノールが貴女に何をしたというのだ。あれは貴女を誰よりも愛している」
「存じておりますわ。そしてわたしも心の底から姉を愛しております。
 あなたなど及びもつかないくらいに。
 十年後二十年後にあなたのご寵愛がどれほど保たれているかは疑わしいものだけれど、
 姉様が老いようとわたしに冷たくなろうと、わたしは姉様を愛します」
「ならばなぜだ」
「お分かりにならないのね」
幸せなかた、とでも嘯くかのようにエマニュエルはまたほのかに笑った。
「こんなにも深く愛しているからこそ、こんなにも強く憎むことができるのですわ。
 あなたには及びもつかぬほどに」
アランは視界が揺らぐような思いで義妹を見た。
妻に瓜二つであったはずのその美貌は、いまや悪魔の手になる彫琢としか見えなかった。

「―――分からん。俺には分からん。今夜のことは何もかも計画していたというのか」
「いいえ、全くの弾みでしたわ」
穏やかにそう呟くと、エマニュエルは憐れむようなまなざしで義兄を見返した。
「あなたのせいですのよ、お義兄様」
「何を言う、―――貴女が最初に人違いだと拒みさえすれば、あんなことは決して」

「ええ、そのつもりでしたわ。
 最初はほんの戯れだったのです。
 真夜中に目が覚めて、隣では姉様がまだ眠っていて、ふとお義兄様はどうしておいでかと思いましたの。
 わたしがこちらに参って以来独り寝をかこっておられるがために、
 最近は夜遅くまで書斎にお籠もりになられているという話はかねてより伺っておりました。
 今日はとりわけ行く先々で姉様と取り違えられたせいかしら、
 もし衛兵たちにも見咎められることがなければ、書斎にお邪魔してあなたを試してみようと思いついたのです。
 あなたが入室なさったとき、衛兵たちと同じようにあなたも全くわたしを見破れないと知って、
 とても可笑しい気持ちでしたわ。
 互いの唇が触れる寸前、わたしが自ら打ち明けるまでお義兄様は一片たりともお気づきにならなかったと、
 明日の朝姉様にお聞かせしたらずいぶん面白がって下さろうかと、そればかりを考えておりました」

「なぜ、戯れに留めておかなかった」
絞り出すような声でアランは言った。
「あなたがいけないのですわ、お義兄様。わたしは本当にあのときやめるつもりでした。
 次の瞬間にでも笑い出して、かつがれたお義兄様にも笑っていただこうと、そう思っておりましたのに。
 あんなふうにわたしを、―――姉様を抱擁なさるから」
エマニュエルの声から最後の和らぎが消えた。

「確かめずにはいられなかったのです。姉様は夜毎どのように求められ、どのようにいとおしまれているのかと」
「馬鹿な」
「荒唐だとお思いになる?けれどこれが真実ですわ。わたしはどうしても確かめたかった。知りたかったの」
「分からん。なぜだ?エレノールを取り返しのつかないほど傷つけると知っていてなぜそんな衝動に身を任せた」
「申し上げましたでしょう、憎んでいるからよ。
 あなたが悪いのです、お義兄様。姉様があなたのもとで不幸でさえあれば、わたしは彼女を許したわ。
 国に残してきた恋人を想いながら日々泣き崩れて、好きでもない男に夜毎玩具にされていたなら許せたのに、そうではなかった。
 姉様は自分が心から愛し、自分を心から愛する伴侶と暮らしている。
 あなたの愛撫と囁きで、はっきりそれが分かったの。
 だからわたしは拒まなかった。拒めなかったのです。
『わたし』を愛するひとに抱かれるというのがどんなことなのか、それを知りたかったの」

書斎に長い沈黙が降りた。
窓から吹き込む微風にインク壷に立てられた羽根ペンが揺れ、後にはまた静けさが戻った。
筋肉の疲労を覚えるほどの長い静止のあと、アランはついに自ら一歩前に踏み出し、義妹の目を見て話しかけた。
「エマニュエル殿、提案がある。いや、懇願だ。あなたが望むなら床に跪きもしよう。
 こうしようではないか。
 今夜、我々はこの書斎でもどこででも会うことはなかった。
 ふたりきりになることは一度たりともなかった。そしてこれからも永劫にない。
 繰り返す。今夜、我々の間には何もなかった。よろしいか」
「あなたがそうお思いになりたいのなら」
エマニュエルは柔らかい笑みを浮かべながら応じた。

「わたしにどうして反駁することができましょう?義理とはいえわたしの兄君ですもの」
「感謝する。では―――」
「ただし」
同じ笑みを浮かべたまま、エマニュエルは静かに彼を制した。
「わたしにはわたしの主張がありますわ。
 お義兄様が今夜は何もなかったと思いこまれても、わたしが姉様に事実を告げたらどうなりましょう」
「まさか」
「戯れではありませんわ。わたしは今、目の前にありありと思い描いておりますの。
 愛する夫に裏切られ、しかも裏切らせたのが妹だと知ったときの姉様の顔を。
 あのいつもおっとりとした表情が、どれほどの苦痛に歪むことかしら」
「まさか、本気で言っているのではなかろう。
 貴女はそんなことはしない。そんなことは、―――それだけはやめてくれ」
エマニュエルは答えなかった。
椅子にゆったりと腰掛けたまま、何も語らないまなざしで義兄の顔を眺めている。

「俺が裏切ったとどうしてもエレノールに告げたいのなら、酔った勢いで女官にでも手を出したことにしていただきたい。
 あれは間違いなく怒り狂うことだろうが、それでもまだその事実には耐えられよう。
 これまでのわが素行を省みれば、あれが俺の貞操に全幅の信頼を置いていないことはもとより分かっている。
 だが、貴女は違う。エレノールにとって貴女は己が半身のようなものだ。
 それほどまで信じ抜いている相手から裏切られたと知れば、あれは下手をすれば精神の均衡を危うくしよう。
 それだけは避けねばならん。
 エレノールに俺の悪評を吹き込むのはいい。だが貴女自身が悪意を体現するのだけはやめてくれ」
「分かっていらっしゃらないのね、お義兄様」
「何のことだ」
「あなたが姉様の心の安寧を思っておことばを尽くせば尽くされるほど、わたしは姉様が憎くなりますの。
 もっと無慈悲に傷つける術を、どこまでも追い求めたくなります」

アランはことばを失ったように義妹を見た。
ふたつの黒い瞳は相変わらず宝玉のような輝きを保ち、なんの翳りも不穏も見当たらなかった。
だがひとつだけ、彼に分かったことがあった。
初めてエマニュエルと対面した宴席で、彼女とエレノールを決定的に分かつものと思われた瞳に宿る力
―――秘した情熱だと彼が見なしたものは、正しくは憎悪の炎だったのだと、いまようやく気づいたのだった。
憎しみや怒りをもつことは誰にでもできるが、その衝動を維持し対象物を追いつづけることには力が要る。
それはエマニュエルのような聡明で自制心のある人間にしかできないことだ。

だが、とアランは思った。
彼女がいま述べたことが本当に動機のすべてなのか。
彼女が怒りを向けている相手は、理不尽な復讐を遂げたいと願っている相手は本当にエレノールなのか。
彼には分からなかった。

しかし自分の要請が受け入れられなかった以上、アランには言わねばならぬことがあった。
それは王室の秩序を守る国王の長子としての義務でもあった。
「それでは、まことに残念だが、エマニュエル殿」
アランはわずかに唇を噛んだ。
妹を溺愛しているエレノールの心中を思えば、これは間違いなく残念な選択だと思いながら。

「明朝までに貴女にはこの離宮を退去していただく。
 そして一週間以内にわが国を去るように。
 これはガルィアの王太子としての命令だ。わが領土内においては、主権は常にこちらにある。
 レマナから最も近い国境の関門までは護衛隊をつけよう。一週間は猶予期限としては十分なはずだ」
「冷酷なかたね。姉様のお気持ちを考えないの?」
「エレノールには、貴女が俺に対して礼を失したとだけ言っておく。
 弁護の機会くらい与えてほしかったとあれは抗議するかもしれんが、それぐらいの衝突はやむをえまい」
「礼を失した、ね。言い得て妙ですこと。その後のことは思いを巡らしていらっしゃる?」
「貴女は貴女の家庭に戻り、俺たちはまた俺たちの生活に戻る。それだけのことだ」
「それだけでなかったら?」
エマニュエルは相変わらず平坦な声で問いかけた。
だがその裏側には奇妙な軽やかさが感じられ、アランは思わず義妹の顔を凝視した。

「俺がそれだけと言えば、それだけだ。すべてはそこで終わる」
「ヴァネシアに帰った後、わたしが夫に泣きついたらどうなりましょう。
 レマナでの静養中、招かれた先のガルィアの王太子に関係を迫られた挙句乱暴をはたらかれたと。
 そして姉様にも文を送り、あなたがどうしてわたしを早急に追い払いたがったのかを説いたなら」
「馬鹿な、―――何の証拠がある」
「あなたがつけていらっしゃる指輪」
エマニュエルは思わせぶりに義兄の左右の手に目を転じた。
「ひとつだけ、少なくなっていると思われませんか。
 ガルィア王室の紋章が小さく刻まれた、黄金の指輪ですわ」
このような、と言う代わりにエマニュエルは彼の眼前に実物をかざして見せた。
アランの顔は怒りのために紅潮を通り越して青白くなった。

「この指輪を代償として差し出しがてら、わたしに同衾をお求めになったというのはどうかしら。
 恋文を作成してもいいわね。
 わたしを離宮に呼び寄せるために発行してくださった正式な招待状のおかげであなたの筆跡も存じておりますし」
「貴様、―――貴様は盗賊にももとる下郎だ」
「窃盗に当たると思われるなら、お借りしている間の代価は金貨でお支払いしますわ。
 ですがあなたもいささかご注意に欠けておいでではありますまいか、お義兄様。
 すばらしいご愛撫に感謝を示してわたしがあなたの指を吸っている間、
 指への圧迫が少しだけ軽くなったことに気づかれぬのですもの」
「黙れ。何が代価だ。早くそれをよこせ。
 返さぬというなら力に訴えるまでだ」
「動かないで。そこから一歩でもわたしに近づいてこられたら、渾身の叫びをあげますわ。
 いくら王太子殿下の書斎とはいえ、王太子妃と思われる女の悲鳴がなかから聞こえたら、
 衛兵たちとて手をこまねいているわけにはいかぬでしょう。
 そして今夜起こったすべての事実が白日にさらされるのですわ」
「貴様、―――」

「それにお義兄様、よくお考えくださいませ。
 たとえ何の証拠がなくとも、世間はこのような場合女の声に耳を傾けるものでございます。
 一生の汚点、一族の不名誉になると分かっていて、わざわざ捏造してまで陵辱されたと訴えたがる人妻がいるものでしょうか。
 しかもそれが一国の主の妃なのですもの。
 よほど『本物の』屈辱感に突き動かされない限りそんな挙には出ないものだと、みなが考えるはずですわ」
アランは口を開きかけて、また呑み込んだ。
義兄の思慮を推し量ろうとするかのように、エマニュエルは椅子を降りて自ら彼に近づき、
その涼やかな褐色の瞳を下から覗き込みながらゆっくりと囁いた。

「あなたはこうお考えかしら。
 わたしが帰国して夫に誹謗中傷を吹き込んだところで、さすがにそれが戦火を招くということはない。
 ガルィアとヴァネシアはこれまで敵対したことはないし、
 いくら東西の富が集まる地とはいえ、傭兵をかき集めて国を守備させている一都市国家のヴァネシアが
 ガルィアのような大国に戦を仕掛けるなど無謀な振る舞いに出るはずがない」
「―――違うというのか」
「いいえ、そのとおりですわ。ことに我が夫は火薬の匂いを嗅いだだけで気分が悪くなるほど怯懦な
 ―――いえ、『平和的な』と申しておきましょうか、そのような人物ですから、
 まちがっても妻の名誉のためだけに国運を賭けるような真似はいたしますまい。
 けれど、あなたご自身の名誉はどうかしら」
義兄の胸に指を這わせながら、エマニュエルはかすかに微笑みを浮べた。
それはすでに答えを知っている者の問いかけだった。

「もちろん、あなたはそれにこそ思いを馳せておいでですわね。
 わたしが帰国してから姉様に出す手紙は、ガルィアの宮廷内で厳重な検閲体制を布いておけば
 姉様の手に届く前にことごとく焼却処理できるかもしれません。
 けれど、東西貿易の要たるわが国から発せられた風聞は、どうしても諸国に流布されずにはいないのです。
 それが王侯たちの醜聞であればなおのこと。
 遠からぬうちにヴァネシアの民はもとよりガルィアの貿易商の耳にも届きましょうし、
 やがてはスパニヤ王家にも伝奏されましょう。
 言うまでもなく、わが生国は貴国とは数代にわたる友邦です。
 このようなつまらぬことであなたの人品に対するわが父王の疑惑を招き、同盟関係に亀裂を入れたくはありませぬでしょう。
 さらに言えば、スパニヤに届いた風聞はどうあってもいずれは姉様の耳に届きます。
 生国と密書を交わすのは、異国に嫁いだ王女の宿命ですもの」

エマニュエルはふと脇を向いた。
ひとりでつづけざまに語りすぎたからか、執務机の上に置かれていた水差しを取って一対の瑠璃杯に注ぎ、
ひとつをアランの前に置いてからもうひとつを口元に運ぶと、こくんと小さな音をたててこの土地特有の名水を飲み干した。
その小さな咽喉元がわずかに動くさまを見ながら、アランは同じ場所から一歩も動けずにいた。

「何が望みだ」
かすれきった義兄の声を案ずるように、エマニュエルはさらに一杯ついで器を差し出したが、
当然のごとく彼はそれを押しのけた。
「言え。一体俺に何を望んでいる」
「難しいことではありませんわ。
 まして、貴国の国益を害する陰謀などではありません」
 つまり」
エマニュエルは瑠璃杯を机に置き、ふたたび義兄に顔を近づけた。
その可憐な唇からは、やはり甘美なジャスミンの香りがした。

「姉様に対する共犯関係を結んでいただきたいということですわ。わたしがここにいる間じゅう。
 出立の前夜には、指輪は必ずお返しいたします」
アランは目を閉じた。
これ以上妻に瓜二つな悪鬼の顔を見つめていたら、文字通り正気が失われるかもしれないと思った。
その危惧を知ってか知らずか、エマニュエルはいっそう顔を近づけ、とうとう唇が彼の耳たぶに触れんばかりになった。
そして神託のように告げた。
「慰み者に、おなりなさいませ」

 


(続)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 06:01