晩春の夕刻はいつも緩やかに訪れる。
書物から顔を上げて、クレメンテはふと窓の外を見遣った。
朱と紺が少しずつ滲みあい重なりあった境目が、そろそろ休息の時を告げるかのようだ。
宵闇迫る吹き抜けの廊下に足を運び、やわらかい春風に包まれながらの散策など、気分転換には最適である。
だが彼は部屋を出たくなかった。

今日予定していた分の学習はまだ八割方しか消化できていない。
最近はずっとそうだ。最初のころはもっと余裕をもって取り組むことができた。
それは何も章の進行とともに内容が高度になったためではない。
すべては集中力の問題だった。
今日のような非番の日にこそ心おきなく勉学に励むべきだというのに、
誰とも会わず部屋に閉じこもっていると、思考は自然と同じところに停滞してしまう。
我ながら不可解だと思った。

第二王女レオノールがまもなく隣国の王室に嫁ぐ。
婚約自体は幼少時に成立していたものだが、
先日婚礼の日取りが布告されたことで、内廷では諸々の準備が本格的に進められていた。
十七歳の第二王女は、次の誕生日の翌月にはガルィア王国王太子妃の称号を得ることになる。
大陸の中枢を担う国家の未来の国母として、臣民の歓呼とともに迎え入れられるのだ。
すべては国際政治の均衡と調和のために万全を期して設定された婚姻である。
何もいうべきことはなかった。
そう、いうべきことは何もないのだ。

そもそも俺は、とクレメンテは思う。
あのかたについて何も知らないに等しいのだ。
どんな色のドレスが好きだとか、どんな香水が苦手だとか、愛馬の名前だとか。
そしてなぜ自分のような者に会いに来るのか。
だが、最後の問いをあえて口にすれば彼女をひどく傷つけるであろうことだけは、彼にも理解できていた。

最初にことばを交わしたのは国王夫妻の結婚記念日に開かれた宮中舞踏会の宵だっただろうか。
今から約二年前のことになる。
末の王子エルネストに専属する侍従のひとりとして、クレメンテはその日も幼い主人に手を焼かされていた。
兄様姉様にするみたいに葡萄酒をグラス一杯に注いでくれなきゃいやだ、
と貴人たちの前で泣き喚く五歳の末息子に国王もとうとう温顔を消し、
罰として自室に連れ帰りひとりきりで謹慎させるよう、すぐ後ろにかしずいていたクレメンテに申し渡したのだ。

大広間の出口をくぐるころには王子もおとなしくなっていた。
「とうさま、明日になっても許してくれないと思う?」
さきほどの癇癪は嘘かと思えるほど小さな声だった。
日ごろ苦労ばかりさせられている主人だとはいえ、こんな心細げな声で問いかけられると、
クレメンテも憐憫の情を掻き立てられざるを得なかった。

「ぼく、わるい子だったね。とうさま、ぼくのこときらいになったかな」
「ご心配なさいますな、殿下」
クレメンテは答えた。
「お父上がお言いつけになったことを今夜しっかりお守りになれば、
明日の朝にでもお目通りすることが許されましょう」
「そうだといいな。
 ―――でもぼく、おへやにひとりでいるのはさびしいんだ」
寂しさを味わっていただくための処置ですからとも言えず、クレメンテは黙った。
彼の足はいつのまにか方向を転じていた。

(俺のこういうところが結局、殿下のご癇気を容認し助長してしまうんだ)
と心中自省しつつも、小さな手を引いて歩みつづける。
「こっち、ぼくのへやじゃないよ」
廊下の風通しがずいぶんよくなってきたころ、王子はいぶかるように言った。
「ええ、お部屋に戻る前に少しだけ寄り道をしましょう。
 私たちだけの秘密です」

ふたりは南御苑の門をくぐった。
すでに日が落ちていることでもあり、広大すぎる敷地で位置感覚を失わないよう気を配りながら、
クレメンテは開けたところに出てようやく足を止めた。
王子がわあっと歓声を上げる。
そこは古代神話に語られる有名な情景を模した人工池だった。
周囲には異教の神々の石膏像がさまざまな姿態でそびえ立ち、大理石で縁取られた池に荘重さを加えている。
しかし王子の目を引いたのはそんな見慣れた風景ではない。

水辺の夜陰には小さな灯が無数に散りばめられていた。
夏もそろそろ終わろうというころだった。
逃げ惑う蛍たちを追いかける王子が池に落ちないように目を配りながら、
クレメンテは何匹か捕らえて薄手のハンカチの中に包み込み、彼に向かって振って見せた。
「これ、ずっと明るい?おへやでも明るいかな?」
池から帰る道のりでエルネストははしゃぐように尋ねつづけた。先ほどの沈鬱がこれまた嘘のようだ。
「燭台に火を点さずにおけば明るく見えますよ。
 園丁の詰め所に寄って虫籠をもらってきましょう」

そのとき、前方から人影が近づいてきた。
石畳に足音はほとんど響かず、衣擦れの音に消されるほどかすかだった。
「ねえさま」
侍従の手をほどき、幼い王子は飛び出していった。
「まあ、エルネスト。どうしてこんなところに?」
「ひかる虫がたくさんいたんだ。ほた……なんだっけ、クレメンテ」
「蛍です」

平静を装って答えながら、彼は背中に冷や汗をかいていた。
ごくささいな任務だとはいえ、国王直々の命をすぐさま実行しなかったことがほかの王族に知られてしまった。
しかもうら若い婦人だ。絶対に周囲にしゃべり散らす。
立ち尽くしているうちに人影が近づいてきた。

二番目の王女だった。
豊かな黒髪を後ろに結い上げ、肩や腕を惜しみなく露出した夜会服をまとったままだ。
いまひとつ色は判別しがたいが、
明るい室内で見たならば髪や瞳の黒さをいっそう引き立てるような、淡い水色のドレスだろうか。
つい最近侍従に取り立てられたばかりのクレメンテにとっては、これまで一対一で顔をあわせることもなかった相手である。
これを見てよ、と言いたげにエルネストが傍らで袋状のハンカチをかざしている。
ほんのりとした明かりに浮かび上がるその姿は、先ほど目にしたばかりの古代神話の光景とあいまって、
月の処女神を髣髴とさせる気品に満ちていた。

このかたは美しいひとなのだ、とクレメンテはいまさらのように気がついた。
姉姫がずいぶん早く嫁いでしまったこともあり、実質上の長女として弟妹たちの面倒をよくみるという評判はあったが、
廷臣たちのあいだでその容姿が噂にのぼることはほとんどなかった。
愛する者たちを日々気にかけるあまり、このかたは自分の美しさを自覚する暇もないのだろう、
もしくは美貌を誇示するための労力をほかのところで使っているのだろう。
そんなふうに思われた。

「あなたは―――」
「クレメンテと申します、レオノール様」
跪こうとしたが制止され、立ったままで手に接吻することを許された。
目を上げると、吸い込まれそうなほど深く大きな漆黒の瞳がこちらを優しく見ていた。
「恐れながら、こちらに殿下をお連れしたことはできれば御内密に」
レオノールは微笑を浮かべた。夜陰に薔薇が開いたようだ、と彼は思った。

「あなたは優しいかたね。
 エルネストが珍しくなついたと聞いて、どんなひとだろうと思っていたのだけれど。
 この子のわがままにはわたくしだって手を焼くのに」
「ねえさまだって、ぬけだしてきたんでしょう」
「夜風に当たりたくなったのよ」
そういって結い上げた髪に手をやった。
「やっぱり花飾りがずれてしまってる。クレメンテ、挿しなおしていただけますか」

彼は王女の後ろに立った。
なめらかな背中が腰のすぐ上まで剥き出しになっている。
貴婦人の夜会服としては当然のつくりだとはいえ、公式行事の場ではもっぱら王子の守役を務めるクレメンテには、
同年輩の少女の素肌をこれほど近く見る機会はめったにない。
うなじに手を近づけたとき、指先が少し震えた。
その直後に髪留めでもある花飾りを地に落としそうになった。

「いちど抜き取っていただいたほうがいいかもしれません。
 髪はもう編みこまれてあるから、束ねて結い上げて留めていただくだけでいいの」
そんな高等技術を俺に要求されても、とクレメンテは思ったが、王女自身はそれを遂行できないにちがいない。
というより、自分で身だしなみを整えるという習慣がないのだ。
彼はしかたなく、慣れない作業に慎重に取りかかった。

ふいにレオノールが口をひらいた。
「わたくし、あなたとお話してみたかったのよ」
「身に余る光栄に存じます」
クレメンテは誇張でなくそう言った。
たとえ王女でなくてもこれほど美しい娘からそのように告げられれば悪い気はしない。
「侍従長から聞いたの。あなたはアンダルセのほうからいらしたのでしょう。
 都暮らしには慣れて?」
心が急に冷えた。
ああそうか、と彼は自嘲的に内心でつぶやく。

スパニヤ宮廷の慣例では、侍従の職はふつう名門貴族の次男以下の子弟が就くことになっている。
学府を卒業した後、出仕先の官庁を求めあぐねているクレメンテに侍従長が声をかけたのは、全くの僥倖というべきだった。
あるいは学府時代の彼の秀才ぶりと素行の正しさが侍従長の耳に伝わったことを僥倖と呼ぶべきか。
クレメンテの家は下級貴族にすぎない子爵、それもまだ一代である。
本来騎士階級であったのが、先だっての飢饉の際に近隣の農民に穀物庫を開放して食料を支給し
無利子で貸付を行った事業をみとめられ、父親が授爵されたばかりなのである。
さらにいえば、あと三代さかのぼればただの土豪でしかない。

国内各地に広大な荘園を領有している「本物の」貴族たちの子弟はふつう都の本宅で養育され、
貴族のみに開放された中央学府で学び、その後は宮廷に出仕、もしくは領地経営に専念する。
後者の場合でも、現地に赴いて自ら治める者は珍しかった。
父親の期待を一身に受けて十三歳のクレメンテは都に送り出され、学府に籍を置いたが、周囲との溝はあまりに深かった。
彼にとって、いきなり眼前に現れた貴族社会は巨大にして閉鎖的な姻戚組織図のようなものであった。
僻地の騎士階級出身の身には遠い親戚と呼べる者さえいない。
そもそも地方から来た生徒など誰もいないのだ。

彼が学問で頭角を現し始めると、あれの父親は金で爵位を買ったのだ、という噂がまことしやかに囁かれた。
実際のところ、彼の家の領地、より正確に言えば若干の地所など都周辺の豪農と変わるところがなく、
息子を都で学ばせるために彼の父親はわが身にたいへんな倹約を課していた。
それを思えばこそ、孤立や噂などに負けられない、とクレメンテは思ったのだ。
学業では常に優秀な成績をおさめ、飛び級を重ねて十八歳で卒業した時には準首席の栄誉を得た。
けれど、それと出仕先の獲得とは別の問題だった。

中央官庁の人事は網の目のような縁故で閉ざされているということを、彼はそのときまで知らなかった。
順調な出世が約束された華やかなポストはみな、折り目正しい貴族の子弟にのみ開かれたものなのだ。
だからこそ侍従職をもちかけられたときは考える間もなく承諾した。
実際のところ、王族の身の回りの世話など彼が望んでいたものとはまるで違っていたが、
これを機に宮廷に足を踏み入れ、官界のきざはしの下に立つことができるのだと思えば数年の辛抱はできようというものだった。
だが、宮廷とて貴族社会の一部である以上、事情は同じだった。
主人である五歳の王子は偏見を持たずになついてくれたとはいえ、
同僚の侍従たちからは、これは何かの手違いで迷い込んだ卑賤の者だという眼を向けられつづけている。


この王女も同じだ、とクレメンテは思った。
田舎からはるばる出てきた下級貴族の倅がそれほど珍しいというのか。
彼の心中など全く気づかぬかのように、レオノールは髪飾りを直させるがまま屈託なく話しつづけた。
「そうね、もう慣れておられるわよね。
 でも恋しくはならない?」
「家の者とは文を繁くやり取りしておりますので」
「ご家族はお元気なのね。よかったわ。
 でも、風景は?」
「風景……」
「馴染んだ眺めが恋しくはならない?
 わたくしかねてから聞いているの。
 我が国は三方を海に囲まれているけれど、アンダルセ地方の海岸が最も美しいって。
 そんな場所で生まれ育つのって、とても素敵でしょうね」

「ありがとう存じます」
呑気なものだ、と思いながらクレメンテは静かに答えた。
実際のところ、アンダルセは土壌が貧しく、地勢の関係上漁港や貿易港を発展させることもできず、
国内で最も窮乏した地域のひとつだった。
(為政者の娘がこれではな)
そう内心でつぶやきながら、同時に、少しだけ温かい感情が芽生えてもいた。
故郷の風光を賞賛されれば誰だって悪い気はしない。
それが、都から遠く離れた草莱の土地、名門貴族たちには僻遠の蛮地と蔑まれる故郷であればなおのことである。

「どんな色なのかしら」
「え?」
「あなたの故郷の海はどんな色?エメラルドのようだ、という比喩をよく聞くけれど」
「まちがってはおりませんが、時によりけりです。
 アンダルセの海はあまりに表情豊かなので、『恋に落ちた乙女』と地元では呼び習わしております」
「まあ、素敵」
王女の声が少しだけ高まった。あまり頭を動かされませんよう、とクレメンテは注意しなければならなかった。

「あなたはどんな色の海が好きなの?」
「ひとつには絞りかねますが、そうですね、夏の早朝などが好きです。
 藍色の上に緑が浮かび、その上に少しずつ光の粒が躍りはじめて
 ―――新しい一日というより新しい生命が始まるかのような、そんな色です」
「あなたは本当に、その海が好きなのね。
 まるで瑞々しい恋人に捧げる形容のようだわ」
「恋人に捧げるとしたら、もう少し地に足の着いた詩句を考えます」
「変わった方ね。世の中では、歌う内容が大仰であればあるほどもてはやされるのに」
「実を伴わぬことばはかえって愛を貶めます」
レオノールは黙った。
そして振り向きかけたが、作業の最中だと思い直してやめた。

「海が恋しくなりますか?」
「ときおりは」
「そんな色の瞳のお嬢さんを探してみてはどうかしら」
王女は悪戯っぽく言った。
たわむれにはたわむれで返すのが上流社会の礼儀である。
ここに機知を閃かせられるかどうかで貴公子としての格が決まるといっても過言ではない。
けれどクレメンテの口からはなぜか芸のないことばが出てきた。自分で止める暇もなかった。

「べつに、緑がかった青ばかりが好きなわけではありません」
「そうなの?」
クレメンテは一歩後ろに下がった。
ようやく王女の髪を整えることに成功した。
すでにしっかりと編みこんである髪をまとめるのがこれほど難しいとは思いもよらぬことであった。
花飾りはまたずれてしまいそうな気もするが、
女官でもない身にこれ以上の手際を要求するのは無理というものだ、と彼は思った。
レオノールも察したのだろう。
振り向いて長身の侍従の顔を仰ぐと、ありがとうと微笑んだ。そして問いをつづける。

「ほかにはどんな色が?」
「夜の海も好きです。とくに真冬の」
「暗い色なのかしら」
「夜空に劣らぬほど、深く美しい黒です。レオノール様の瞳を見て思い出しました」

何を言ったんだ俺は、とクレメンテは思った。
社交的な賛辞としてならば、この国の男は誰でもこれしきのことは口にするが、
今の自分の言い方はあまりにも気負いがなく、あまりにも自然だった。
まるで、太陽は東に出でて西に沈むという普遍の真理を語るかのように。
王女は大きな眼を瞬いた。
ここで笑い出してくれればいい、とクレメンテは思った。
だがそうはならなかった。
彼女は今称えられたばかりの漆黒の瞳を伏せ、そう、とだけつぶやいた。

「ねえ、ほたるが」
足元から声が聞こえてきた。
ほたるがにげちゃった、と王子が彼の袖をつかむ。
クレメンテが腰を折って幼い主人と目線を等しくしたとき、
王女はものも言わずにふたりの前から去っていった。

それからのち、第二王女は折に触れてクレメンテを訪ねてくるようになった。
正確には末弟のもとを訪れるのだが、たまに非番のときなど彼の私室へ足を運ぶことさえあった。
通常、貴族官僚は都の街区に構えた自宅から毎朝登庁するものであるが、
王族の公私にわたる側用人である侍従官に限っては王宮内に部屋が用意されていた。
それゆえに侍従は個々の王族と私的な関係を深めやすく、それをいいことに利権拡張や栄達を図る者も少なくなかった。
クレメンテはもとより王族との個人的な癒着など考えてもいない。
彼が目指すのは実力での転官である。

前述のように、中央官庁の出世コースは名門貴族の子弟たちによりほぼ世襲的に占められているのが現状だが、
一部には試験を実施して優秀者を登用する部署も存在した。
クレメンテはその機会を逃すまいと思った。
今の身分でこんなことを口にすれば周囲の失笑を買うだけだが、彼の夢は国政の根幹に携わることだった。
そのためにはまず法務職の末端にありつかねばならない。

彼の見るところ、中央政府の要職を占める貴族たちはそろって大土地所有制に胡坐をかき、
自家の利殖につとめるばかりで、地方の窮状など何も聞こえていない。聞こうともしない。
誰かがなさなければならないことだ、と彼は思った。
故郷にいたころからの固い決意をますます胸にふくらませながら、
クレメンテは勤務時以外は自室に籠もりひたすら勉学に励んでいた。
この年頃の貴族の青年としてはきわめて異様な生活態度である。

ふつうなら閑暇のおりは―――宮仕えをしていない貴公子ならばつねに閑暇ともいえるが―――
乗馬や狩猟を楽しんだり、近隣の令嬢たちと親交を結んで恋愛遊戯に精を出したりするものだ。
ときどき彼の部屋に遊びに来るレオノールもまさにそんなことを言った。
あなたは貴婦人の知己を持たないのですか、と。
必要がないので、と彼は淡々と答えるほかなかった。

尋ねるのはいつもレオノールの側だった。
クレメンテの故郷のこと、家族のこと、好きな文学作品、好きな楽器、苦手な女性
―――すでにあらゆることを訊かれた気がする。
将来の設計について尋ねられたとき、彼はややためらったが、秘めた大志を結局は口にしてしまった。
本当になんでこんなことを言ってしまったのか、とつくづく自分に呆れる気がした。

一方で王女は大きな瞳を長いまつげで覆ってしまわんばかりに細め、
「すばらしいことだわ」
と微笑んだ。
官僚人事の現実さえご存知ではないだろうに、とクレメンテは思いながらも、
(きっと、応援してくださることが分かっていたから、俺は申し上げたのだ)
と気がついた。

「だからあなたは女性にかまっている暇がないのね、ほかのひとたちみたいに」
「暇がないというか、能くするところではないのです」
そういえば、この王女は最近とみに美しくなられた気がする、と思った。
もとからそこにあった美貌が、ようやく存在を主張し始めたとでもいうべきか。
宮中舞踏会のときなど、遠目に見ているだけでも名だたる名門の貴公子たちが休む間も与えずに彼女を誘っている。

「ほかの殿方はどうしてみんなああなのかしら」
「ああとは?」
「少し気に入った女性には誰にでも神かけて永遠の愛と尊敬を誓うし、
 何かきっかけがあればすぐに身体を触りたがるわ。そうではなくて?」
王女が相手であれば触るといってもさすがに手か腕か肩か腰ぐらいであろうが、
それを親愛の表明として許容することはこの潔癖な乙女にはできないのであろう。
彼女の愛顧を得たいと思って日夜心を砕いている貴公子たちのことが少しだけ気の毒になった。

「まあその、みな情熱をもてあましてつい動いてしまうのでしょう」
「あなたはそうじゃないみたいだわ」
「自制しておりますので」
毎晩のようにあなた様を種に自己処理しておりますとは言えない。
「自制できるのなら、みんな自制すればいいのに」
国の発展が阻害されますとも言えない。
「みながみな達成できることでもないのです」
「そう。
 あなたはがんばりやさんなのね、やっぱり」
そういってレオノールはまた微笑んだ。


自分の部屋を訪ねてきた王女のために椅子を引いてやるたびに、
こんな見た目も平凡な田舎貴族の倅の何がそれほど興味をかきたてるのだろう、
とクレメンテはつくづく不思議な気がした。
けれど、自分の鄙びた話にうれしそうに耳を傾けるレオノールの顔を見るたびに、
そんな不可解さは徐々にどうでもよくなってくるのだった。

一方、彼は自分から王女に個人的な質問を投げかけたことはなかった。
本当は彼女についていろんなことを訊きたい気がした。知りたいと思った。
だが彼の理性は強固にそれを避けさせた。
俺のような身分の者がそれを望めば、結局は破滅に向かうのだと。

けれど、半時間ほどの談笑ののちにレオノールが立ち上がって部屋を去ろうとするとき、
クレメンテはいつも何かを口にしたい気持ちに駆られた。
彼女のために扉を開けてやりながら、何かもっと大事なことを告げたいと思った。
ふと見れば、すでに廊下に出た王女は黙ってこちらを見ていた。
あの晩と同じ黒い瞳が、瞬きもせずに彼の顔を見ている。
先に目をそらすのはいつも、クレメンテのほうだった。
ふたりのあいだには扉の枠と敷居があった。
そしてそのまま、現在に至っていた。

部屋の空気を入れ替えるために窓を開けてみた。
夕刻の春風は疲れた頭をいつものように優しく撫ぜ、室内に旋回したかと思うとまた去っていった。
大気は日々少しずつ温もりを増している。
時は着実に流れているということであった。

第二王女の婚約者である隣国ガルィアの王太子アランには、クレメンテはむろん会ったことはない。
外交筋から話を漏れ聞くところでは、まだ若いながらも政治には意欲を示し、
使節との引見の場においても理知的な英主の片鱗をすでに覗かせているということであった。
だが、それは公の顔である。
アランの私的な素顔に関する噂をやや悪意を持って解釈すれば、
己の有能さと美貌を自覚しているがゆえの驕りに満ちた青年であるということになる。

なお悪いのは、かの国の男だということだ。
隣国同士は犬猿の仲であるという例にもれず、
スパニヤとガルィアの民びとも古来より互いの国風をなじりあってきたものだが、
ことにガルィア人の貞操観念の希薄さは信仰心篤いスパニヤ人の罵倒の対象になって久しい。
クレメンテ自身はガルィア出身の知人をもたないが、
彼らの性的放埓ぶりについての小話を宮中いたるところで聞かされるものだから、
これにはそれなりの根拠があると信じないわけにはいかなかった。
アランはレオノールより数ヶ月早く生まれたということだから、今現在十七か十八である。
当然もう女を知っているだろう。
ガルィア人で、しかも退廃の頂点たる王室の人間なのだから、十代で愛人を何人も抱えていようとおかしくない。

(だが、若くて眉目秀麗なら、それはいいことじゃないか)
クレメンテは努めてそう思おうとした。
王侯貴族の政略結婚においては十五、六の姫君が三十も四十も年上の中年、老人に嫁ぐことさえ珍しくはないのだ。
そんな悲惨な境遇に比べれば、レオノールの婚約者の条件は完璧といってよい。
何も俺が案ずるようなことはない。そう、何も。
だが春風の中に目を閉じれば、浮かび上がるのはいつも同じ情景だった。

荒々しくヴェールを剥がれ、花嫁衣裳を剥ぎとられたレオノールが広い寝台の上に転がされる。
豊かな黒髪が枕を覆うように広がる。
王女の小麦色の肌をまさぐるのは貴人らしい滑らかな手だ。すでに女に触れることに慣れきった手だ。
無垢な身体をもてあそぶように捻転させ、獣のように浅ましい姿態を強要した挙句、なんの感動もなく彼女の純潔を奪う。
いたわるような抱擁もなく彼は眠りにつく。
花嫁に残されるのは破瓜の血と生温かい種子だけだ。
それを幾夜も繰り返し、彼女は身ごもり、彼の子を生む。
男児が数人生まれてしまえば正妃の寝台での需要は薄れてくる。
レオノールの若さと美貌に翳りが見え始めれば、王太子はもはや寝室の扉をくぐることもなくなる。
夫の公式寵妃たちの嬌声を傍らに聞きながら、彼女は夜ごと空閨に戻り、静寂の中で黒い瞳を閉じる。

「ねえ、クレメンテ」
はっとして振り返ると、すぐ後ろに第二王女が立っていた。
薄暗い部屋のなかでは、足首まである薄紅色のふんわりしたドレスは霧に包まれた大きな花束のようにも見える。
「レオノール様」
「勝手に入ってしまってごめんなさい。
扉を叩いても返事がなかったものだから、不在なのかと思って押してみたの。
でもあなたが気がつかないから」
「失礼いたしました」

ご用件は、とは彼は訊かない。いつものように王女が気ままに雑談を始めるだろうと思っている。
だが彼女は黙っている。クレメンテの隣に立ち、開けたままの窓の外を眺める。
「お勉強の邪魔かしら」
誰に問うともなくレオノールがつぶやく。
いつもの明朗な声音とはずいぶん違っていた。
何もかもに倦んだような、あきらめたような、―――あるいは誰にもいえない決心を糊塗しているような、そんな声だった。

いいえ、と彼は答える。
「休憩を取っておりましたので」
「よかった。
 ―――杏の花はもうほとんど散ってしまったのね」
中庭に植えられた木々を眺めながらレオノールは言った。
「まもなく薔薇が色づき始めましょう」
「薔薇は見飽きてしまったわ。それに、すぐに役を終えてしまう」

四季咲きの―――と問いかけたところで、花嫁衣裳のことをおっしゃっているのだ、と彼は察した。
国内最高の仕立師たちの手により数ヶ月かけて製作された純白のドレスおよびヴェールなどの小道具は、
王侯貴族の婚礼の常として、薔薇をモチーフにしたものだった。
それも何種類も用意されている。
最も似合うものを選ぶためにレオノールはたびたび試着させられているという話を以前弟王子の口から聞いた。

「ですが、―――薔薇は散ってもよいものではありませんか。
 貴婦人がたは花弁を集めて乾燥させ、香りのもとにするのだとうかがいました」
「そうね。薔薇の、花びら。
 わたくし、聞いたことがあるの。人の肌にも、花びらが浮かぶのですって」
「肌?」
「唇を触れたあとに」

侍従は黙っていた。
「あなたは、ごらんになったことがあって?」
「姫様―――」
「わたくし試してみたの。自分の腕に。でも花びらは見えなかったわ。
 腕ではだめなのかしら。それとも、自分の唇だからだめなのかしら」
「姫様」
「今ここで、あなたにお願いしたら、花びらを浮かべてくださるかしら。わたくしの肌に」

クレメンテは機械的に手を動かして窓を閉めた。
「答えて」
「姫様、―――姫様はお疲れのようです。ご婚礼のご準備で」
「わたくしは疲れていません。疲れてなどいません。
 だからここに来たのです」

王女の声にはすでに涙がにじんでいる。
俺は怯懦だ、とクレメンテは思った。
この誇り高いひとが自尊心と羞恥心を限界まで忍んで口にした挑戦に、向き合うこともできない。
正面から拒むことさえできない。

「わたくしに立ち去ってほしければそう言いなさい。
 ―――そうすれば、何もかもあきらめます」
嗚咽をこらえているさなかだというのに、最後のことばだけはひどく乾いていた。
クレメンテは黙って王女の身体を抱き寄せた。
ふたりきりのときでさえ、これまでは一度もそんなふうに振る舞ったことはなかった。
華奢に見える割にこのかたはやはりやわらかいのだ、と思った。
背中に垂らしたままの黒髪には香油のなめらかさがあった。

「あなたが好き」
肩の震えが収まってきたころ王女がかすれた声で言った。頭は彼の胸に押し付けたままだ。
「わたくしも、お慕い申し上げております」
「知らない人になど嫁ぎたくない。ほかの誰にも触れられたくないのです。
 あなただけに、触れてほしいの」
レオノールは初めて顔を上げた。
辺りはそろそろ宵闇が迫ってきていたが、大きな漆黒の瞳は潤いを帯びてますます豊かに光を宿していた。

「そうできればどんなにか、と思います」
言いながら、クレメンテは初めて自分の心願を知った思いだった。
「ほんとう?それはあなたの本当の気持ち?」
「まことです」
「もし、わたくしを連れて逃げてと言ったら」
レオノールは息を止めたように彼を見つめた。
吸い込まれそうな黒、故郷の真夜中の海と同じ、すべてを包み込むような黒だった。

そうできればどんなにか、と彼は同じことを思った。
だが、俺にはできない。
宿望も家族の命運も犠牲にして、このひとを幸せにするためだけに生きることは、俺にはできない。
恋愛を人生の目的に据えそれを善しとすることは、俺にはできない。
今必死で追い続けているものを失えば、俺はきっと―――じきに駄目になる。

「申し訳ございません」
目を伏せて、クレメンテは言った。
そう、とだけ答えるのが聞こえた。感情の抜き取られた声だった。
彼は心臓に縄がかけられ、ゆっくり締め付けられているような気がした。
臆病者だと思われたかどうかなど問題ではない。
俺はこのひとの最後の希望を、乙女らしいひたむきな夢を一瞬にして打ち砕いてしまったのだと思った。

王女の口にしたことはたしかに無思慮だった。
それを実行すれば母国にどれほどの混乱と損害と不名誉をもたらすかを正確に把握していれば
易々とこんなことは言えないはずだし、
把握したうえで言ったのだとすれば彼女の中では利己心が克ったのだというほかない。

だが、とクレメンテは思う。
生まれてから何ひとつ不自由なく育ってこられたこのひと、
何もかも与えられてきたこのひとは、
生き方の選択をこれまで何ひとつ許されなかった御身でもあるのだ、と思った。

レオノールがようやく彼の胸から顔を上げた。
この薄暗さでは表情はよく分からなかった。
「そろそろ戻ります。邪魔をしました」
クレメンテは腕を広げて彼女を解放しかけた。だが、途中で動きをとめた。
「人肌に花びらが浮かぶとは、わたくしも伝聞したことがございます。
 もう、たしかめるには暗すぎるかもしれませんが」
王女は黙ったまま彼を見つめた。
試して、とその唇は静かにつぶやいた。

クレメンテは文机の前の椅子に腰掛け、王女を膝の上に横向きに座らせた。
彼女の片頬に手をあて、顔を引き寄せて唇を重ねた。
ふたりの初めての、本当の接吻だった。
レオノールは緊張しきっている。抱き寄せた肩は驚くほどこわばっていた。
彼はいったん顔を離して、唇を閉じないでください、と囁かねばならなかった。

また接吻を再開すると、今度はすんなりと舌を入れることができた。
彼を待ち受けていた小さなやわらかい舌は小動物のように弄ばれるままになり、
濡れた粘膜は侵入者の愛撫を惜しみなく受け取った。
従順すぎる王女の口腔内を堪能すると、クレメンテはようやく顔を離した。
彼女の頬が上気しているのは明かりを点けるまでもなく分かった。
乱れた呼吸が静かな室内に響いていた。

「な、なんだかとても、罪深いことをしてしまったような気がします」
「世人はみな嗜んでいることでございます」
「みな、こういうことをしているのでしょうか」
「世の恋人たち、世の夫婦は」
「夫婦、―――今夜だけは、妻として扱ってくださる?」
「恐れ多いことです」
「そんなふうに言うのはやめて。わたくしのことはレオノールと。―――お願い」

そういって彼女はクレメンテの肩に頭を乗せた。
ふたたび顔を寄せてくちづけたまま、彼はレオノールの胸元を締める紐に手をかけた。
姫君の装束としては比較的簡素な室内着だとはいえ、上も下も全部脱がせきることは彼の知識ではできそうにない。
だからこそ、露わにできる部分にはくまなくくちづけたいと思った。
胸当てをとり、絹の肌着を下ろしてしまうと、王女の上半身はほぼ裸になった。
彼女は無意識に胸元を腕で隠そうとしたが、クレメンテはそれを制した。
接吻を中断して改めてレオノールの姿を眺めると、この薄闇の中でさえ素晴らしい輪郭を浮かび上がらせていた。

「美しい」
ごく自然に賛辞がこぼれでた。王女はいたたまれなげに顔を伏せるばかりだった。
もはやこらえきれず、彼女の上体を強く引き寄せる。
小ぶりだが上向きでとても形のいい乳房が眼前で揺れる。呼吸が平らかではないのだ。
明るいところで見ればどんな花よりも愛らしい薄紅色をたたえているであろう乳首は、
夕刻の肌寒さのためなのか、ほんのすこしだけ尖っているように見えた。
指先で触れてみると、やはり硬かった。華奢な全身がびくっとする。

「ク、クレメンテ、わたくし、やっぱり―――あぁっ」
熱い吐息混じりの声が宙に飛んだ。
誰にも触れられたことのない、おそらく彼女自身の指でいじられたことさえないであろう乳首は
男の唇に挟まれるとさらに硬くなり、感覚がより鋭くなった。
舌先で丹念になぞればなぞるほど、呼吸の乱れは隠しようもなくなっていく。

「いや、そこは、なんだか、だめっ……ゆるし、て……いやぁっ」
もう片方の乳首を指でこね回されて、王女は軽く背をそらした。形のいいあごの下が上向きになる。
クレメンテはそこにも細い首筋にもくちづけたいと思ったが、服で覆いきれない部位はやはりこらえねばならなかった。
代わりに小ぶりな乳房に接吻の雨を降らせた。
許して、という息も絶え絶えな声が聞こえてももう止めようがなかった。
唇を押し当てるとそれだけで少し沈んでしまうようなやわらかさである。
一回一回に時間をかけ、ひたすら強く吸った。
この暗さでは分からなかったが、花びらは、刻印はたしかに浮かんでいるはずだと思った。

クレメンテがようやく乳房から顔を離すと、レオノールの瞳はまたも濡れていた。
だがそれが罪深い愉悦によるものであるということは疑うまでもなかった。
「夫婦というものは、このように愛を交わすのですね」
いまだ上気したような声で問いかけられて、彼は苦笑しそうになる。

「これは夫婦の営みには入りません。恋人たちのたわむれのようなものです。
 夫婦というのは―――」
言いながら、彼は王女の身体を抱き上げ、目の前の文机の上に座らせた。
どうも高さが理想的ではない。
クレメンテは机の奥に並べた大判の辞書類を何冊かとりだし、積み重ねてレオノールをその上に座らせた。
これでちょうど膝が彼の目線に来たはずである。
ドレスの裾は机をほぼ占拠し、余った分は彼女の膝下に沿って滑り落ちている。

「本の上に座るのは申し訳ないわ」
「いいことではありません。でも、これはもっと大事なことなのです」
そう言って眼下に広がるドレスの裾に手をかける。皺にならないように丁重に扱わなければならない。
レオノールは息を止めたように身をこわばらせたまま、彼のなすがままになっている。

レースの下生地とともにスカートを腰までまくりあげ、ペチコートを脱がせ、最後に肌着を両足からゆっくりと抜き取る。
一度も日にさらしたことがないであろう太腿の奥には小さな黒い茂みがぼんやりと確認できた。
視線を少し上に転じれば先ほど愛撫の限りを尽くした乳房がかすかに揺れている。
あとは膝上まである絹の靴下と靴下止めを残すのみだが、これだけはそのままでもいいかと思った。
目を凝らすと靴下には王室の紋章にも使われる百合の意匠がほどこされており、
一線を踏み越えた臣下の背徳的な気分をますます煽り立てた。

着衣のまま、けれど肝心な恥部はすべて露わにされたまま、無垢な王女は放心したように座っていた。
ただしクレメンテが荒ぶる息をなだめながら膝を開かせようとすると、レオノールは初めて止めようとした。
「クレメンテ、あの、何を」
「これが夫婦の証です。妻は夫の前に脚を開かなければなりません」
「でも、そんなはしたない」
「ここにこそ、花びらを散らさなければならないのです」
王女の脚からこわばりが抜けた。
それを直角の手前になるぐらいまで開かせ、彼はまず太腿の内側に唇を這わせた。

「あぁっ」
頭上から温かいため息が降りかかる。きれぎれのそれは嬌声を交えて部屋中に広がる。
もっと熱くさせたい、と彼は思う。
なめらかな太腿をくまなく吸われながら、王女の下肢からはどんどん力が抜け、心なしか震えている。
思い切って顔を脚の付け根に近づけると、どこか甘酸っぱい、生々しい匂いが鼻腔にまとわりついた。

雌の匂いだ、とクレメンテは思った。
至尊の家に生を受けた姫君でありながら、穢れなき乙女の身でありながら、
秘すべき花芯はすでに雌として目覚めつつあるのだ。
(なんと淫蕩な)
こんな感じやすい肉体では、初夜の床でさえ、花婿の胸の下であられもない嬌声をあげつづけるのかもしれない。
破瓜の痛みを凌ぐほどの悦楽に身を任せて夫の愛撫を求めつづけるのかもしれない。
(そんなのは許せない)
自分に身体をひらききっている王女の耳元で辱めのことばを囁きたい思いにかられながらも、
クレメンテはもう我慢できなかった。

「ああぁっ!!」
レオノールは大きく背をそらしたらしい。だが顔を上げてそれをたしかめるつもりはなかった。
くちづけた花園は想像以上に濡れていた。まず割れ目の左右の襞に舌を這わせると、それだけで粘っこい水音がたつ。
「い、いや、いやぁっ!」
迫りくる快感におびえたような声をあげ、王女が彼の頭に手をかけて引き剥がそうとする。
が、その手には全く力がこもっていない。
むろん彼は意に介さず、一重一重の花弁を愛でるように舌を動かしつづける。

「やっ、やめ、だめ、いやっ、そこは……っ、あぁんっ!だめぇっ!!」
小さな割れ目に舌を入れ、できる限り奥まで自在に舐めまわすと、王女はまた大きくのけぞる。
頭上からこぼれ落ちる声はほとんど悲鳴になっている。
もちろん彼は容赦はしない。
乙女の蜜にたっぷりと唾液を絡ませて秘裂の入り口を行きつ戻りつしながら、このうえなく卑猥な音を立ててやる。
この無垢な花園が見知らぬ男の指を、唇を、男性自身を受け入れる前に、白く濁った欲望を放たれる前に、
汚しきれるだけ汚したいという衝動に突き動かされる。

王女はすでに腰を浮かせている。
それどころか、口では拒みながらも無意識のうちに自ら彼のほうに秘所を押し付けてきている。
「や、もう、だめ、いけな、わたくし、もう、こわれちゃう……っ」
壊したい、と思った。
この淫らな身体には奥の奥まで俺の体温をおぼえこませて、
ほかの男の愛撫など決して受け付けないようにさせたい。
二度と消えない花びらを残したい。
このひとを最初に愛したのは俺だ、という刻印を残したい。

「いっ、いやぁっ!!そこは、ほ、ほんとうに、いけな……っ」
とうとう舌を割れ目から抜くと、すぐ上の突起を唇で挟んだ。
すでに鼻梁を押し当てられていたためか、そこはもうふくらみ始めていた。
「はあぁっ!」
強く吸えば吸うほど、レオノールの声は高く激しくなっていった。
その素直さをいとおしみながら舌先で皮を剥いてやる。
びくんびくんと全身が震えるが、王女はもはや拒絶のことばさえ発さず、ただ獣のように喘ぎを漏らすばかりだった。

「あぁ……いいっ、あっ、はぁっ……すごい……すごく、素敵……あぁっ、あ……」
彼の頭に載せられた小さな手はいまや引き剥がそうとするどころか彼を自らに押し付けていたが、
その手にこめられた力が徐々に弱まっていくのが分かった。
彼の頭を挟み込んで離さない太腿はすでに痙攣を始めている。絶頂が近いのだと知る。
舌になぶられつづけて限界まで大きくなった秘芽をまた唇で挟み、吸ってやる。
優しく吸い、強く吸う。王女の痙攣はもう止まりそうにない。

「あ、ああああぁっ!!」
断末魔さえ思わせるほどの長い長い叫びとともに、しなやかな身体は半月のように反り返った。
やがて全身から力が抜け、レオノールはクレメンテの頭を抱え込むように上体を丸くし、両腕を彼のうなじのうえで組んだ。

「レオノール?」
ようやく花園から唇を離し、彼は頭上に向かって囁いた。
「大好きよ、クレメンテ」
「わたくしもです」
「そう言って。好きだと」
「好きです。―――愛しています」

再び、思いもよらないことばがこぼれ出た。
だがこれこそが本心なのだと、今ならば己を信じられる。
婚約者がいながら自分にすべてを許し、道ならぬ愉悦に身を反らしてはさらに深い歓びを求めたこの可憐な姫、
清純にして淫奔なこの姫が数ヵ月後には他の男のものになるのだと思うと、
彼女の体温を誰よりも近く感じている今でさえ、身が切られるかのような痛みを感じる。
そうだ。儀式は終わってしまった。俺たちはもう、これより先にはいけないのだ。
自分たち自身でそう決めたのだから。

「クレメンテ」
「はい」
「花びらは、浮かんだかしらね?」
「そのように努めました」
「あなたはいつもそんな話し方をするのね」
レオノールは少し笑った。

外から扉を叩く音が聞こえた。
ふたりともはっとして身体を離し、互いの服や髪の乱れに呆然とする。
なお悪いことには、明かりを点けていないので手際よく整えることも難しい。
「レオノール、―――あちらへ」
王女の身体を持ち上げて机の上から下ろすと、クレメンテは窓の脇に寄せたままのカーテンを指差した。
臣下にあてがわれた部屋だとはいえ王宮の一部であるからにはそれなりの調度がしつらえられており、
南向きの窓のために用意されたカーテンにはほぼ天井から床までの丈があった。
ドレスの裾をからげながらレオノールがその裏に走りこんだのと同時に扉が開いた。
廊下の明かりが少しだけ漏れ入る。

「なんだ、暗いや。クレメンテ、いないの?」
幼い主人の声だった。そのまま部屋に入ってくる。
「こちらにはべっております。御用でしょうか、殿下」
「あそびに来たんだ。どうして明かりをつけないの?」
「ああ、その、―――勉強の途中で居眠りをしてしまいましたので」
「だめだよ。先生がいたらおこられてるよ」
「まことに」
「ほたるがいるといいのにね」
「え?」
「ひかる虫だよ。このへやにいたら明るいのに。
 夏になったら、またあの池のちかくでつかまえられるかな」
「そうですね」
「レオノールねえさまは、そのときはもういないのかな」

常と変わらぬ元気な口調でエルネストは問いかけた。
彼が姉姫を愛していないはずはないが、
五歳の身には永劫の別れというものの実態がつかめないのだろう。
都の郊外へ避暑に行くのも、人質という任務も兼ねて外国の王室へ嫁ぐのも、彼にとっては同じようなものなのだ。

「おそらくは」
「あの国にもほたるはいるの?」
「ええ、きっと。
 ガルィアの国土はわが国より湖沼や河川に恵まれていると聞きますから、夏には蛍を見かける機会も多いでしょう」
「そっか、よかった」
エルネストはぼんやりと部屋の奥の窓を見た。珍しく春霞がかかっているような空だった。

「あっちにいっても、知ってるものがあるとねえさまうれしいよね。
 ガルィアにはきいちごがある?」
窓の外に蝶らしき白い影が躍ったのをみとめて、王子は思わずそちらに近づく。
高まる焦燥を押し隠しながら、クレメンテもあとにつづく。

「リラは咲く?白ぶどうはある?」
「ございましょう。わが国ほどではありませんが、温暖な気候ですから。
 ことに葡萄の産地は多いと聞いております」
「よかった。あっちにも好きなものがいっぱいあって、ねえさまよかったね。
 およめさまになるし、うれしいこといっぱいだね」
小さな手が窓を半分開けた。
蝶の影はもうなかった。

「ねえ、なにかきこえる」
エルネストは首だけ振り返って部屋中を見渡した。
「わたくしには、何も」
「なにかないてるみたい。きこえない?」
「鳥でしょう」
「外から?」
「春告げ鳥かと。あのあたりの梢に」
クレメンテは中庭に繁る木の群れを手で示した。
もちろん夕闇の中ではおおまかな輪郭しか分からない。

「でも、もう初夏だよ」
「春を惜しんでいるのです」
そう言ってクレメンテは王子の身体をそっと抱き上げた。
小さな両腕が驚いたようにしがみついてくる。
彼はそのまま扉に向かった。
カーテンがかすかに揺れていることは振り返らずとも分かっていた。

 

「クレメンテ」
王宮を退出し廷臣用の停車場に向かう途上でふいに呼び止められ、彼は振り返った。
途端にやわらかく破顔し、法官身分を示す黒ビロードの帽子を取って頭を下げる。
「お久しゅうございます」
「まことに久しいことだ。たまには遊びに来いというに」

十六歳になったばかりのエルネストは不服そうな声を出してみせる。
けれど同時に、今の立場では王族の私的な居室に足を運ぶことはしにくかろう、
ということもなんとなく察してはいる。
三年目で侍従を辞したあと、このかつての守役は立法府に職を得、
審議官の子飼いとして八年のうちに着々と頭角を現しているという。

「忙しいか」
「近頃同僚に汚職で弾劾された者がおりまして、人手のほうが、なかなか」
「ならば世事にも疎遠であろう。
 レオノール姉上に三番目の子が生まれたそうだ。女の子だ。
 洗礼名を決めるまでにいろんな経緯があったとかで、えらく長い手紙が来た」

そういって懐から封筒をとりだした。
「難産だったせいか、あちらの王太子は大変な喜びようらしい。
 姉上のために小離宮をあらたに建造するそうだ」
「ご同慶の至りに存じます」

淡々と答える臣下に、凛々しく成長した少年王子は黙って黒い瞳を向ける。
ずっと前に訊きたかったことを今訊こうかとふと思う。
「そなたは、姉上のことを好きだったのではないか」
クレメンテは微笑んだだけで答えなかった。
貴族にしては遅い結婚をした彼も、いまでは二児の父である。
そういえばこの男は、誰の干渉を受けたくないときにもこういう表情をするのだった、と
エルネストはぼんやりと思い出した。

「つまらぬことを言った。すまん」
「いいえ、―――殿下は臣を安心させてくださいました」
「安心?」
「愛したかたが愛されていることを知るのは、とても心強いことです」
王子はまた彼を見た。
穏やかな微笑みは変わらなかった。
そして、かつて主従だったときのように、ふたりは並んで歩き始めた。

 

(終)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 05:58