「あれに、ルース公の息女を娶わせようと思うのだが」
アランは恭しく視線を上げて父王を仰ぎ見た。
赤みがかった金髪と褐色の瞳は父方から継いだものながら、亡き王妃に生き写しのその瓏たけた面立ちには、
平素の理知的な冷淡さとはうらはらに非難と不服と困惑の色がかわるがわる浮かんでいく。
国王は王太子のそんな反応を見越していたかのように、淡々と、しかしやや弱気な調子でつづけた。

「実は昨年以来、先方から内々に打診があってのう。
 国交を樹立したばかりではあるし、気候風俗も我等とはずいぶん異なる国柄ゆえ、
朕も当初は躊躇したのだが、先だって内務大臣のユペール卿より強く勧められてな。
 近日中にルース公使に承諾の意を伝えるつもりなのだが、アラン、そなたはどう考える」
「畏れながら、父上」
アランは静かに口を開いた。

「わたくしは賛同いたしかねます。
 申し上げるまでもないことですが、ルース公国は北辺の地に在りてわが国とは国境を接しておらず、
 かといって間に位置する国々を牽制するための同盟国としては人口、軍事技術ともに貧弱で頼みにできません。
 民びとの大半が字を識らず、宮廷人でさえ読み書きのおぼつかぬ者がいると申しますから、
文化の水準についてはいうまでもないことです。
 交易という点から見ても、かの国にしてみればわが国から輸入したいものは書籍をはじめ山とありましょうが、
貧しい小国ゆえ銀貨の流入はさほど望めません。
 そしてわが国がルースからあえて買い求めるものといえば、毛皮や琥珀などのなくても困らぬ奢侈品に限られます。
 有り体に申せば、いつ国交が断絶してもさほどの痛痒もおぼえぬ相手でございます。
 かような国の姫をわざわざオーギュストのために求めようとおっしゃるのですか」

「まあまあ、聞くがよい」
アランの態度はあくまで丁重で冷静だが、口調はじつに強硬だった。
長子からの隙のない反駁に内心では尻込みつつも、父王はゆっくりとあとをつづけた。
若き日は剛毅果断で知られ、洗練された政治手腕によって中央集権体制の強化、
平和的な領地拡大に成功してきた英主ではあったが、
近年は王妃に先立たれた悲嘆の深さゆえか、ご気性もずいぶん丸くなられたというのが廷臣たちの目するところであった。

「朕もオーギュストのことは常々不憫に思っておるのだ。
 六歳で母を亡くしたばかりか、そのうえ末子であるから、王室法典の定めるところに従えば授封してやれる領地も限られてくる。
 それゆえ近隣諸国の王室も国内の名門貴族もあれに娘を嫁がせることにはやや渋っておる・・・・・・
・・・・・・まあ、あるいはあれの資質も関わってくるのかもしれんが・・・・・・(国王はここで口をもごもごさせた)
・・・・・・まあ、それでだな、ルース公は我が室と姻戚になれるのであれば娘婿の経済力は問題にしないようなのだ。
ゆえに資産の面であれが軽んじられるようなことはあるまい。これがひとつだ。
もうひとつは、使節の話を聞く限りではルース人は貴賎を問わず気性が純朴で、
公の息女もたいそう愛情深い気立てだというから、
オーギュストのようにまあその、ややのんびりした者の配偶としては不安が少なかろう。
そしてだな、これが肝要なのだが」

父王が意味ありげにことばを切ったので、眉根を寄せていたアランも少しだけ気を張り詰めた。
「くだんの公女は寡婦なのだ。
 サクスン公の夭折された子息―――ほれ、かの公子とはそなたも面識があったであろう、その妃だった娘だ。
不幸にしてたった一ヶ月の結婚生活だがな。
 が、一ヶ月でも人妻は人妻だ。
つまり生娘と違い、そちらの面でもオーギュストをうまく補佐し導いてくれると期待できよう。
あれは今年十五だが、どうもその、従僕たちの口からも、男子の証を得たという話をいまだ聞かぬ。
ならばいっそう、先方に経験があるのが望ましかろうて。そうではあるまいか」

寡婦、と聞いた瞬間、アランは思わず露骨に眉をしかめた。
諮問のために王太子を召し出し、疑問形でしめくくったにもかかわらず、
国王は次に怒涛の反論が押し寄せることを予期し恐れるかのように立ち上がり、早々と退席した。
アランはそれを制することも忘れ、硬直した褐色のまなざしで玉座を見つめていた。

「寡婦なのだそうだ」
無感動な夫の声に黙ってうなずきながら、エレノールは彼の杯に醸造酒を注いでやった。
食事や宴席でたしなむ葡萄酒とは別に、就寝前に一杯だけあおるのが王太子の習慣だった。

「あれは―――オーギュストはまだ男になってもおらんというのに。
 生涯の伴侶として迎えるのが、すでに余人によって手のついた夷狄の娘とは。
 父上はあれのために良かれと思ってお取り計らいになったとはいえ、つくづく不憫な話だ。
 それにしても腹立たしいのはユペールの奴ばらだ。
臣下の身で王族の婚姻にことこまかに容喙してくる。

それも先の前任者のように国益を常に念慮して縁談をとりつけてくるならばよいが、奴の場合、
 今回は相手方の工作に丸めこられたとしか考えられん。
 ルース公の使節からどれほどの金品を贈られたか知らんが、あの口上で父上までたぶらかすとは」

度の強い酒を一息に干してしまうと、アランはクリスタル製の杯を妻の前に差し出した。
エレノールは黒い瞳を伏せ、静かに諌めた。
「これ以上はお控えくださいませ。
 寝酒はお体に障ります」
「かまわん」
「よくはございません。
 一時の気晴らしのためにご自分のご健康をおろそかになさってはなりません」
「そなたはずいぶんと平静だな。
 平素はオーギュストのことをあれほど、実の弟のようにかわいがっているというのに。
 ままならぬ婚儀などは王族に生まれた者の運命ゆえ諦観しろ、とばかりに」
「そんなことは申しておりません。
 あなたが弟君の幸福を願い、権臣の専横を憤っていらっしゃるのはよく分かります。
 人の子として、国政の安定に責任を負う御立場として当然の思し召しかと存じます」
「そのわりには熱のこもらぬことばよな」

揶揄するような口調に対し、エレノールはゆっくりと瞳を上げて夫の顔を見た。
アランもやや酔いがまわった目で平然とそれを受け止める。
「ならば申し上げますが、わたくしもうかがいたいことがございます」
「ほう」
「かの姫君は最初の結婚後一ヶ月で夫君に先立たれたというのに、あなたはお気の毒だとも思われませんのね。
 まして、遠い北国から嫁いできた先の外国の宮廷で、
夫の親族に夷狄呼ばわりされながらお暮らしにならねばならぬ境遇がどういうものなのか、ご想像になれませんの?
 でもそれも仕方ありませんわね。
あなたにとって女の価値で最も重要なのは、他人の手がついているかいないか、ということですものね」

「そういうことではない。
単に俺の嗜好の問題ではなくてだな、まあそれもあるが、いやそれはとにかく、
わが王室に嫁いでくる女に純潔を求めるのは、血の正統性を確保するためだ」
「さようでございますか。では、あなたもさぞお心をくだかれたことでしょうね。
 神前で誓約を交わした『正しき妻』以外の娘との間に『正統でない』子をもうけぬようにと。
噂されているお相手の数を考えますに、多大なご苦労が偲ばれますこと」
「あれらは単に若気のいたりだ。
 エレノール、そなたとて―――婚前に肌を許した相手はいたではないか」

口にした直後、アランは己の無思慮を悔やんだ。
婚約時代、そして婚礼後も事実上夫婦関係が成立していなかった時期の女遊びについて、
結婚九年目の今でも妻から時折非難されるのには慣れていたが―――嫉妬は愛情の反映だと思えばそれも可愛いと思えた―――
今回はあまりに彼女らしからぬ、容赦のない皮肉だったので、アランもついカッと来て応戦してしまったのだ。

しかしそのやり方がまずかった。
エレノールの大きな漆黒の瞳から徐々に感情が消えていくのが彼には分かった。
けれど、内心の動揺と己の矜持にどう折り合いをつければいいかは分からず、ただ黙って彼女と相対しているほかなかった。

「たしかにそのとおりですわ」
抑揚のない声でエレノールは言った。
「ですが、わたくしの不貞、つまりあのかたひとりを愛しすぎたことと、
いまやお相手の正確な数や顔や名前すら分からないあなたのご放蕩とを
同列に論じられるとは思いもよりませんでした。
お休みなさいませ」

「待て」
エレノールは彼の手を振り払って立ち上がろうとした。
それでもアランはもういちど細い手首をつかんだ。
扉に向かって急ごうとしたとたん強い力に引き寄せられたエレノールは均衡を崩し、
そのまま床に倒れこみそうになったが、その前に夫の両腕で支えられて事なきを得た。
ただしむりやり膝に乗せられた格好になってしまい、肩を支えられつつも居心地悪そうに顔をそむけた。

「エレノール」
彼女は答えない。アランは憮然としたが、それでも彼にしては画期的な低姿勢を保つことに成功した。
「こちらを向いてくれ」
「・・・・・・」
「俺が悪かった。あの言いかたはなかったな」
「本当に、そう思っておいでですの」
「ああ」
エレノールはようやく顔を上げて夫を見た。まじめな顔をしていた。
「―――わたくしも、皮肉が度を過ぎておりました。申し訳ありません」
「そうだ、あれは少しひどい」
「これからはもっと直截に腹蔵なく申し上げます」
「・・・・・・いや、それもほどほどが望ましいが。
 さて」

アランが何気ない顔で唇を重ねようとするので、エレノールはあわてて顔を離した。
「なんだ、いやなのか」
とたんに不機嫌そうな顔になる。
「くちづけがいやなのではありません。
 いつもこんなふうに強引に持ち込もうとなさるのがいけないのですわ」
エレノールはやや頬を染めながら答えた。
夫との接吻が嫌いなはずはなかった。むしろ大好きだった。
だからこそこういうときの都合のいい手段にしてほしくはないのだ。
今夜の本来の話題はなんだったかしら、と記憶をさかのぼって、大事なことを思い出した。

「ところで結局、オーギュストのご婚約についてはどう対処なされますの。
陛下にあくまで反駁申し上げて破談に持ち込まれたいというご意向ですか」
「不服か」
「わたくしにはなんとも申し上げかねます。でも―――」
エレノールは視線を落とした。
その声には、夜遅くに子どもの帰りを待つ母親のような不安がかすかににじんでいた。

妻の言わんとするところがアランにはなんとなく分かった。
末弟には幼少時からこれまでも何度か外国の王室や国内の有力貴族から縁談がもちあがってきたが、
父王の言うとおり相続資産の寡少とその他資質上の問題によって―――アランの見るところ後者が大きいわけであるが―――
結局いずれの名家とも、文書を交わして成約するところまではいたらなかった。

末子とはいえ彼も王族である以上、やはり相応の家格の令嬢でなければ法制上婚姻はみとめられない。
しかしこの大陸広しといえど、同一の宗教に帰依している王侯貴族の血筋には限りがある。
つまるところエレノールは、今回の縁談を逃したらオーギュストにはもう、
正当な配偶者を得て家庭を築く機会がなくなってしまうのではないかと危惧しているのだろう。

(つくづく心配性な女だ。
 血もつながっていない弟の身の上をよくここまで案じるものだ)
アランは心中でつぶやきつつも、その表情は呆れてはいなかった。
妻の細い腰に手を回してそっと抱き寄せる。
いつものくせで髪に顔をうずめると、香油のために乾ききっていない漆黒の繊維は肌にひんやりと心地よかった。

「心配するな。手は打っておいた」
「手、とは」
「父上は要は、あれがいまだに子どもであることを案じておられるのだ。
 だからあえてあれのために、ろくに文物もない北国から寡婦を求めようとする。
 ならば早急に男にしてしまえばいいのだ。われながらこれまで思いつかなかったのが不思議なくらいだ。
あいつを目覚めさせるには一晩の添い寝では足りん気がするから、十日ほど期間を設けることにした」
「アラン、それはつまり、」

「やや元手はかかったが仕方あるまい。
添い臥し選びを命じたのは侍医団でもっとも頼みにできる男だ。
医学的知識から言っても人品・容姿から言っても申し分ない女を、必ずや連れてくるにちがいない。
 とにかくもいったん男になってしまえば、オーギュストとて日ごろの言動や物腰も改まり、
女に対峙するときの態度も世間並みになるだろう」

「アラン、あなた何を考えてらっしゃるの!
 気に入らない縁談を阻止したいがためにあの子を、そ、その・・・・・・」
「筆下ろしというんだ」
「む、無駄な語彙ですわ」
「聞くんだ。あいつがともかくも一人前の男になってしまえば、
さすがに今後は宮中舞踏会や晩餐会で隣り合った令嬢に
『このブローチは蝶の形ですか。僕はオニヤンマが好きなんです。宮廷でオニヤンマが流行らないかなあ』やら
『そんなに髪を高く結ったら燕の親子が住めそうですね。楽しそうだなあ。巣立ちのときは僕も呼んでください』
やら言わなくなるにちがいない。
そうなれば、たとえ今回の話を白紙に戻しても、別のもっとあいつに相応な名家と縁談が成立する可能性は十分ある」
「そう・・・・・・かしらね・・・・・・」
そううまくいくかしら、と疑いつつも、エレノールには夫の焦燥を理解できる部分もあった。

彼女の母国スパニヤは地理的な関係もあり、北辺のルース公国とは正式な国交を結んでいない。
エレノール自身、ルースの出身者を身近で見たことは数えるほどしかないのだが、
その限られた機会というのが、母国の宮廷で催された晩餐会の席上だった。
諸国の使節達がスパニヤの煩雑な礼儀作法をふまえて饗応にあずかっているなか、
髭を伸ばし放題のルースの外交官たちは酒が入るにつれて目に見えて粗暴に振舞いだし、
まさに外国人がルース人を揶揄して称するところの「熊」そのものの酔態をさらけだした。
それがあまりに見苦しく聞き苦しいため、
エレノールの父つまりスパニヤ国王はふだんの温厚さも捨てて彼らの頭を冷やさせるよう近衛に命じたほどである。

エレノールはその一件をよく覚えていた。
結婚して一ヶ月で寡婦になったというルース公女の身の上はたしかに不憫だが、
もしその姫君の立ち居振る舞いが、あの外交官たち
―――あれでもルースではもっとも洗練され教育のある人々にちがいない―――に類するものだったとしたら。
さすがに彼らほど毛むくじゃらではないとしても、北国では女でも髭が生えるという噂が本当だったとしたら。
王侯貴族は具えていることが当然とされている基礎教養を身につけていなかったとしたら。

ましてオーギュストは、この大陸の文化芸術のパトロンを自任するガルィア王室のなかでも学問好きで知られた王子である。
もしその姫君が、知的な話題というものに全く関心をもたず、日夜狩猟や乗馬に明け暮れるだけだったとしたら、
この婚約は双方にとって悲劇というほかない。
義弟の将来を真剣に案じれば案じるほど、今回の縁談については夫の見解にも一理あるような気がしてくるのだった。

「反対か」
「―――分かりません。わたくしはただ、あの子が幸せになれるのならば」
「ならば俺に賛同だな。今度父上からご下問があったときにそなたの同意も得られたと申し上げておく」
「待ってください。それはそれでいいのですが、でも、
 ―――あの、わたくし何も、その『筆下ろし』というものにまで賛同しておりません。
 そんなのは不潔です。ほかにやりかたもありましょうに。
 こんなかたちであの子の心身の純潔が失われてしまうなんて―――」
「そんなたいしたことじゃない。深く考えるな」
「たいしたことですわ。人ひとりの純潔ですもの。
 ―――そう、あなたには、たいしたことではありませんでしたのね」

ふとエレノールが視線を上げた。いつのまにか眼光が鋭くなっている。
一瞬にして風向きが変わったことを感じ、アランは墓穴を掘った自分自身を軽く呪った。
「わたくし、かねてからずっと気になっておりましたの。
 あなたはどんなふうにしてご自分の純潔と決別されたのかと」
「ずいぶん昔のことだ。覚えていない」
「そんなにどうでもよいお相手に純潔を差し出されたのですか?」
十四歳当時のアランおよび世間一般の青少年の意識で言えばどう考えても「差し出した」のではなく「捨てた」のだが、
エレノールにはそういう心情は理解しがたいらしい。

(面倒なことになった)
アランはやれやれ、と肩をすくめた。
初めての女が今でも忘れられない、といえば怒り出すに決まっているくせに、
記憶にも残らない女だった、とうやむやに流そうとすればそれはそれで咎めだててくる。
一体俺にどうしろというのだ、と問い返したくもなるが、妻の求めていることはむろん分かっていた。
世の花嫁たちが義務づけられているのと同様に、男の側とて自分の純潔を重んじ、
神聖な結婚の誓いまでは堅く身を持するべきだといいたいのだろう。

まあたしかに不公平な話ではある。
エレノールとて、母国の宮廷であれほど激しく真摯な恋に落ちることさえなければ、
十八年間誰にも肌をさらさない清く正しい生活を守りぬいたあと、アランの寝台にその身を投げ出すはずだったし、
彼女の潔癖な気質から考えればそれはまちがいなく履行されたことであろう。

(初めての女、か)
山ほど問い詰めたいことがありげな妻の肩を抱き寄せなだめるように撫でながら、
アランは漠然と遠い日のことを思い出していた。
いま思うとあれは、彼が精通を迎えたことを知った侍医団が送り込んだ添い臥しであり、
いわば代々の王太子にとっての通過儀礼のようなものだったのだが、
当時の彼はただ圧倒されるようにして一夜を過ごしたものだった。

自分の寝台に見知らぬ美女が薄絹一枚で横になっていることを発見したとき、
アランはことばをなくして立ちすくむほか為す術を知らなかった。
そんな彼をいたわるかのように、その女は年若い王太子の服を丁重に脱がしていき、敏感な部位をそれとなく愛撫した。
そして彼の肌にすみずみまでくちづけながら、挿入前に女に対してなすべきこと、とか
子どもを確実につくるには、とかつくらないためには、とかいったことを囁いてくれたのだが、
頭の中が真っ白になりかけていたアランにはそれどころではなかった。
生身の女というものの質感にあまりに圧倒されてしまっていたので、細かい推移はほとんど記憶に残っていない。

ただ今でもときどき、自分の頭上でたわわに揺れる豊かな乳房と波打つ金髪、
そして彼を果てさせたあとにくれた長いくちづけの感触だけは、
明け方の夢のなかで思い出すことがあった。年のころは二十台なかば過ぎ、いまのエレノールと同じくらいだったろうか。
秋の麦穂のように豪奢な金髪の巻き毛と青味がかった緑色の大きな瞳が印象的な女だった。
やや華やかすぎるほどの麗容のわりに、どことなく寂しげに微笑む女だった。
名前や身元を明かすことは禁じられていると察したので、アランもあえて尋ねはしなかった。
あれ以降、宮中で出会ったことはない。

そして王太子も、自分がもう女たちの前で不用意に緊張しなくてもいいことを知っていた。自分がもはや子供ではないことを知っていた。
そしてその後は、強気ではなく余裕を持って誘えば、
宮廷内外のたいていの女は自分の寝台にやってくることを身をもって知った。

(まあ、応じなかった最初の女がこれなわけだが)
流れるような黒髪を指で梳きながら、アランは妃の細い肩をさらに近く引き寄せた。
こんな抱擁でまるめこまれませんわ、と言いたげな顔がほのかに紅潮した。
かたく結ばれている紅唇を指でなぞると、ためらいがちに力が抜けていくのが分かる。
顔を近づけて舌でこじあけ、秘所と同じくらい敏感な部分を奥まで味わってやると、
腕のなかでせつなげに吐息が漏らされるのが聞こえた。

(―――生涯最後の女になっても、悔いはないな)
エレノールは少し顔を上げてアランを見た。その瞳はすでに潤みを帯びていた。
「何かおっしゃいまして」
「いや」
言いかけて、アランは少し黙った。
「最初の女になる気は、あるか」
「え?」
「俺の最初の女だ」
「何をおっしゃって―――」
「気になるのだろう」
「―――それは、もちろん」

伏目がちにエレノールは小さくつぶやいた。自分の矜持との兼ね合いもあるのだろう。
「なら簡単だ。俺の記憶を再現してなぞればいい。
 そうすればそなたは俺の最初の女の座を占める」
「わ、わけの分からないことをおっしゃらないでくださいませ」
夫が寝室で突然思いつくからにはろくでもないことに違いないと思い、エレノールは警戒心を張り巡らせた。
しかしその一方で、「最初の女」ということばに惹かれているのは否めなかった。
「さ、再現なんて、一体どうすれば・・・・・」
乗ってきたな、とアランは察した。かなり気分がよくなってきた。

「そなたは経験のある女で、俺は女を知らないとする。ふたりとも寝台の上にいる。こういうとき、女はどうする」
「どうするって、そんな」
相手をさっさと退室させますわ、と妻が大真面目で答えようとするのをアランは制した。
いつのまにか真剣な―――エレノールの目にはそう見えた―――まなざしになっていた。
「男の人生の浮沈は、いわば最初の女にかかっているといっても過言ではない。
 この夜を逃せば俺は一生男として目覚めることができないかもしれない。
自尊心の拠って立つところを得られないかもしれない。ならばどうする」

「そんな、そんなことを言われても」
困惑がちに言いつつも、エレノールは握られた手を振り払いはしなかった。
絶対わたくしの性格を利用されているのだ、と思いつつも、彼女はいつも夫を拒みきることはできないのだった。
その手はアランの腰帯に運ばれていき、そこで止まった。
ここまで膳立てしてやったのだからあとは分かるな、と言いたげに彼は妻を一瞥した。

「―――アラン」
「さあ。それともやはり、童男の相手は荷が重いゆえ、他の女に任せるか」
戯れと分かっていたとはいえ、このひとことはエレノールの矜持を傷つけた。
「そ、そんなことは、みとめません」
勢いで口走ってしまう自分に腹が立ちながらも、彼女は動いた。動かざるを得なかった。
しかし新鮮な経験である。
これまでの結婚生活において、情事のあとや朝方夫に服を着せかけてやることはあっても、
自分から脱がせたことなど一度もなかったのだ。
こうしてみると、筋骨隆々とはいえないが、すみずみまで筋肉のついているお体なのだ、と今さらながら発見した。
たどたどしい手つきで恥じらいがちに自分の寝衣を脱がせかかる妻の姿に満足しながら、
アランは彼女の服を一息に剥ぎ取りたい衝動を抑えていた。

あとは下肢の肌着だけという段階になって、エレノールは手を止めた。
そして懇願するようにこちらを見る。
「あの、―――全部?」
「着たままでできるならそれでもいいが。ひとえにそなたの技量にかかってるな」
「もう」
憤慨を新たにしながら、エレノールは恐る恐る最後の肌着に手をかけた。
ゆっくり下ろしていくと、すでに硬直したそれが顔を出した。よく見知っているはずのものなのに
―――それどころかしばしば握らされたり咥えさせられたりしているものなのに―――
こんな手順でそれと対面させられると、エレノールの羞恥はいつにもまして強まった。

「あー、・・・・・・いつまでそうしているつもりだ」
その場に固まっている彼女の耳に心なしか恥ずかしそうな声が届いた。
それ自身もどうやら怒張の度合いを強めてきたようである。
「見られると、硬くなるのですね」
初めて知りました、と言いたげな他意のないつぶやきに、
アランの下腹部はいっそう硬くなってきたが、それを悟らせまいと彼はエレノールを促した。

「それで、次は」
「次、って・・・・・・やっぱり・・・・・・」
「そうだ。脱いで見せてくれんことには、教えるも何も始まらん」
「わたくしが、自分で・・・・・・?」
アランはうなずいて答えた。やはり妻が恥じらう姿はいい。
これからどんなふうに彼女の羞恥心をあおりたててやろうかと考えると、下腹部は限界近くまで隆起してきた。

エレノールはしばらくうつむいていたが、やがて意を決したように自分の帯に手をかけた。
夫の服を脱がせるのも初めてなら、夫の目の前で自分から服を脱ぐのも初めてである。
帯を解いて落としたあと、襟元に手をかけたが、細い指先はそこで止まった。
「そ、そんなにじっと見ないでください」
「見せるために脱いでいるのだろう」
エレノールは何も言えずに、勇気を鼓して襟をはだけ、袖から腕を抜き、肩から寝衣をすべり落とした。
恐る恐る肌着に手をかけると、夫の視線が絡みつくように自分の恥ずかしい曲線を這っているのが分かる。
そういう羞恥に耐えている表情が夫の加虐趣味をますますあおりたてるのだということに気がつかぬまま、
彼女はついに一糸まとわぬ姿になった。

「で、できました」
「隠したら見えんではないか」
乳房を隠す右手と下腹部を隠す左手をかわるがわる見やりながら、アランは妻の自発的な行動をうながした。
「だって」
「童男が女の裸を初めて拝むんだ。不憫だと思わんのか」
エレノールは白々しく言い放つ夫を真っ赤な顔で睨んだ。
彼女は寝台の上に立っており、夫は服を脱がされたあと座ったままである。
たいへんふてぶてしい男ながら、上目遣いで愉快げにつぶやかれるとエレノールはいつも、
なぜだか抗しがたい気分になってしまうのだった。

「―――これで、よろしいですか」
彼女は目を伏せてとうとう両手を身体の脇に追いやった。
アランはようやく満足したように、小ぶりだが上向きの乳房と足の付け根の黒い茂みを不躾なほど凝視した。
夜陰のなかで、滑らかな小麦色の肌は銅像のように灯火に照り映えていた。
「もっと、近くで見たい」
エレノールはおずおずと一歩踏み出した。漆黒の髪が肩や乳房の上で光を躍らせた。
「綺麗だ」
何年も見ていらっしゃるくせに、とエレノールは思ったが、その簡潔なことばに相も変わらず胸が熱くなるのも事実だった。

「女の身体は男に比べよほど美しかろうと思っていたが、これほどとは思わなかった」
「何を、おっしゃるのです」
すっかり赤くなったエレノールの目元と、吸い付くように凝視しているうちに自然と尖ってきた桃色の乳首を見交わしながら、
アランは黙って微笑をしていた。
そしてようやく下腹部の抑制を解き始めた。

「では、ようやく本題だな。
 どこに挿れるんだ?」
「え?」
エレノールは最初、何を言われたのか分からなさそうに夫を見返した。
それから彼の意図に気がつくと、全身が朱に染まった。
その反応がうれしくて仕方ないといいたげに、アランは形のいい唇の端を上げた。
「なあ、どこだ」
「あ、―――足の付け根ですわ」
「足の付け根といっても広かろう。どのあたりだ?」
「で、ですから」
「実地で見せてくれんと分からん」

そういうとアランは妻の腰を両手でつかんで引き寄せ、自分と向かい合うような形で寝台の上に座らせた。
むろんこのまま力ずくで膝を割れば話は簡単なのだが、それではここまで辱めた甲斐がない。
「さあ、どこだ」
エレノールは顔をそむけたまま答えない。
いくらなんでもこれは耐えられない、と言いたいのだろう。
涙を浮かべんばかりの端麗な横顔に、アランもつい抱き寄せて詫び優しいことばをかけてしまいそうになる。
だがそれはするまい、と彼は自分に言い聞かせた。

「教える気はないのか?」
「・・・・・・」
「ならば、俺の記憶は従来どおりだな」
このひとことでエレノールはカッとしたように彼に向き合った。
「そ、その女のかたはそんなことまでされたのですか」
「いや、していない。布団の下で、その場所を指で確認させてはくれたが、見せてはくれなかったな」

「で、ではどうしてこんな卑しい行為をご所望なされますの」
エレノールの声には涙がにじんでいる。
「わたくしにはそんな行為が似つかわしいと」
「いや、その反対だ。全く似つかわしくないからこそ、そなたにそうさせたい。
 そなたが娼婦のようにふるまう姿が見たい」
「―――あなたというかたは、そんな、支離滅裂なことばかり」
珍しく真摯な夫の声に、涙で揺らめく漆黒の瞳と同様、エレノールの心は静かに揺れ始めた。
妻がもごもごと何事かつぶやくのが聞こえた。
「なんだ」
「―――これきりです、と申し上げたのです」
怒ったような、しかし羞恥をみなぎらせたような小さな声だった。
「もちろんだ。筆下ろしは一度でいい」

(よくも、抜け抜けと)
真剣に腹を立てながらも、エレノールはぴったりと合わせていた両足をおずおずと開き始めた。
伏せている目を一瞬上げて正面を見やると、アランは今にも露わになろうとする秘所をじっと眺めている。
「お願いだから、そんなに見ないで」
「綺麗なものを見たいと思って何が悪い。つづけてくれ」
「き、綺麗だなんて・・・・・・」

わたくしのいちばん恥ずかしいところですのに、ということばを呑み込みながら、エレノールはゆっくりと脚を開き続けた。
夫のペースに乗せられている自分が全くもって腹立たしいが、
しかしこれは―――アランから羞恥心を限界まで試すような痴態を強要されて、結局はそれを受け入れてしまうというのは―――
もはや自分たち夫婦の黙契なのだということも分かっていた。

「本当に綺麗だ」
エレノールが脚をすっかり開ききってしまったとき、アランがひとりごとのようにつぶやいた。
もちろん彼女は顔も上げられない。
「紅がかった桃色で、襞があって・・・・・まさに薔薇の花冠だな。
 濡れているのは夜露にでも喩えるべきか。
 陳腐で悪いな。俺には詩才がない」

なくてかまいません、と思いながらエレノールはますます顔をうつむけた。
こんなに恥ずかしいことを強いられながら、すでに濡れていることを見取られてしまったのが死ぬほど恥ずかしい。
「さて、じゃあ、指で示してくれ。どこに挿れたらいい?」
エレノールの黒い瞳にまた涙が浮かんできた。
その涙を唇で拭ってやりたい衝動を抑えつけながら、アランはごく平静な声でつづけた。
「暗いとよく分からなくてな」
「・・・・・・ここ、です」
細い指先は敏感すぎるつぼみに触れないよう気をつけながら、花弁の中央にある花芯、小さな裂け目を示していた。

「こんなに小さなところか。本当に入るのか?」
「・・・・・・は、入ります・・・・・・」
「ちゃんと広がるのか?」
「・・・・・はい・・・・・・」
「じゃあ、ためしに広げてみせてくれ。
 実際の挿入に及んで痛かったら困るだろう」
「・・・・・・ひ、広げるだなんて、そんな・・・・・・」
「指で、左右にだ。一度だけなら、くまなく見せてくれるのではなかったか」
そこまで約束してはおりません、とエレノールは抗議しかけながらも、一度だけ、ということばを思い出した。
そして何より、アランの真摯な願望を思い出した。

ついに右手の人差し指と中指が、そろそろと花弁の上を這いはじめた。
そして一瞬臆したように立ち止まったあとで、くちゅっという音を立てて花芯を左右に開いて見せた。
(こんなに、ぬるぬるしてる・・・・・・わたくしったら、こんなに濡らしていたなんて・・・・・・恥ずかしい・・・・・・)
むろんここが蜜で照り光っているさまはさっきからずっと夫に視姦されていたわけだが、
実際に濡れ具合を確かめてみると、羞恥心はひとかたならず燃え上がった。

(自分から脚を開いて、じっと見つめられて、濡らして・・・・・・・
 ・・・・・・きっと、本物の娼婦だって、こんな恥ずかしい身体はしていないわ・・・・・・)
そう思えば思うほど、エレノールの華奢な肢体は火照りつづけ、無意識に愛撫を希求してやまなかった。

「なるほど。これなら入りそうだな。きつそうだが」
ようやくアランが口を開いた。
下腹部のものはもはや別の生き物のように怒張しているが、彼は平静を装ってつづけた。
「次に言うことは?」
「つ、次?」
「仕上げだ。正しい場所を示したら、その次は―――」
アランはことばを切って妻のあごを持ち上げた。
濃く長いまつげにふちどられた黒い瞳は、潤んだ虹彩のなかに愛する男の姿をとらえながら、
ほとんど自失しているかのようにこちらを見つめ返してきた。
そして紅唇が開いた。

「・・・・・・ここに、わたくしのここに、挿れてください・・・・・・」
「何を?」
「あなたを、―――あなたのものを、奥まで」
ほとんど吐息と化したその返事を合図に、彼はようやく自分から動き出した。
エレノールの身体を膝の上に抱き上げると、彼女が指で開いたまさにその場所へ、
己の先端をしっかりとあてがった。ため息のような喘ぎが腕の中から漏れ聞こえた。

ゆっくりとその喘ぎを高ぶらせ、そして大きく水音を立てながら、アランは温かい花園の中へ自らを沈みこませていく。
しかし、ようやくそこに居を定めたと感じた瞬間、先ほどまでの余裕の反動であるかのように、
彼は柔らかい襞のなかを猛然と突き上げ始めた。
それはもはや止めがたい衝動だった。

「ああっ、アラン・・・・・・だめ・・・・・そんなに・・・・・・激しく・・・・・・」
叫ぶことさえままならぬまま、エレノールは彼の腕の中で身をそらし、息も絶え絶えに懇願しつづけた。
「だめぇっ・・・・・・・わたくし、壊れ、壊れてしまう・・・・・・」
「悪いな」
呼吸を大きく乱しながら、アランもささやき返した。

「我慢できないんだ。下を向いて気をそらしてくれ」
「し、下?・・・・・・いや、いやぁっ!」
「ほら、目を閉じないで、よく見てみろ。そなたが教えてくれたとおり、
ここは見た目は小さいが、しっかり根元まで咥えこんでくれている。健気なことだ」
「いっ、いやっ」
「自分の恥ずかしい身体をよく見ておくんだ。
ほら、出入りするたびにうれしそうな音を立てているのがわかるだろう。
小さくてきついくせに、本当に貪欲だな」
「・・・・・・・ち、ちがいま・・・・・・・・」

次々と押し寄せる快楽と羞恥の波の前にあって、もはや抗弁をあきらめたかのように、
エレノールはアランの肩に首をもたせかけて自らをゆだねた。
彼の両腕が強く背中を抱きしめたのが分かった。
「好きと言うんだ」
アランが耳元でささやいた。

好き、大好き、と彼女はとぎれとぎれに答えた。
これが、夫が自分で愛を告げる代わりの儀式なのだということを、彼女も今では了解していた。
抽送がふたたび小刻みになった。
エレノールは強く彼にしがみついた。
もうどこに連れて行かれてもいいと思った。
どこに導かれても、このかたと一緒ならいいと思った。

寝室に足を踏み入れると、オーギュストは不思議な音を耳にした。
それは断続的に部屋の奥の寝台のほうから響いてくる。
寄る辺のない仔猫が鳴き声を押し殺しているような、ひどく哀切な調べだった。
(―――なんだろう)

少し恐ろしくなり、従僕たちを呼ぼうかとも考えたが、最終的には好奇心のほうが勝った。
寝台に足を忍ばせて近づいていくと、誰かが枕元に腰掛けていた。
壁に据え付けられた燭台の明かりは弱々しいが、その人影が女性だということは徐々に明らかになってきた。
髪の色や輪郭からすると姉姫ではなく、乳母でもなく、顔見知りの女官たちでもなさそうだった。

(どうしよう)
自分の寝室で見知らぬ女性が泣いているのに出くわしたらどうすればいいのか、オーギュストは困ってしまった。
先生たちは幾何方程式を解く上での疑問や神学論争上の矛盾点については細かく教えてくれるが、
こういう場合の対処方法を教えてくれた人はだれもいなかった。

とりあえずもう少し近づいてみると、両手で顔を覆いながらうつむいていた人影はふと肩を震わせるのをやめ、
おずおずと面を上げてこちらを見た。
歳は十九、二十くらいだろうか。
明かりが乏しいので正確な色彩ではないかもしれないが、豊かな褐色の髪と灰色がかった青い瞳が白皙の肌によく映えている。

優しげな面立ちの美しい娘だった。
彼女が顔を上げた瞬間、猫のように丸く大きな瞳に正面から見つめられて、オーギュストは胸がどきどきするのを感じた。
同時に足の付け根あたりがなんだか妙な具合になった。
最近、何かの拍子にこういう感じをおぼえることが多くなった。
けれど、その潤んだ瞳がこのうえなく深い悲嘆を押し隠そうとしているのを認めると、
下腹部の火照りはすぐに収まり、代わりに心配が沸き起こった。

(かわいそうに。なにか助けになってあげられるかな)
相手の立場が分からないためオーギュストはまず呼びかけからして苦慮したが、
ご婦人相手には常に丁重であれという行儀作法の先生のことばを思い出し、
また相手は明らかに年上でもあるので敬語で話しかけることにした。
「あの、お姉さんはここでどうされたのですか」

娘は潤んだ瞳を瞬かせると、じっとオーギュストの顔を見つめた。
栗色の髪、栗色の瞳、そして首からつま先まで眺めると、彼女はひとつの結論を得た。
(使用人の男の子なのね)
年恰好からいうとこの寝室の主人に近いようだが、十五歳にしては小柄だし、着ている服は簡素だし、
こんな冬眠明けの仔熊のようにぼんやりした顔の子どもが王家の血筋であるはずがないと思われた。

彼女は宮廷人ではないのでむろん王族たちと面識があるわけではないが、
王太子を始め、今上の王子王女がたはそろって亡き王妃に似た美貌を謳われている。
数年前、第三王子のルネが修道院に赴くため都城を出立する際、
彼女も群集に混じって沿道から見送ったことがあったが、
十六やそこらで僧籍に入るのが惜しまれるほどの端整な貴公子であったことはいまでもよくおぼえていた。
それと引き合わせて考えれば、この少年はどう見ても第五王子というタマではない。
村人その5あたりが妥当な線である。

「あなたは―――ここの、宮中の住み込みの子?」
住み込みといえば住み込みかな、と思いオーギュストはうなずいた。
「このお部屋に何か御用が?」
寝に来たのも用件といえば言えなくもないのでオーギュストはまたうなずいた。
「そう。―――私は、今夜こちらで、その、お勤めをすることになっているの」
「そうなんだ。夜遅くに大変ですね」

毎日十時間眠っている彼からすると、こんな時間に仕事をしなければならないとは実に深刻な身の上だと思われた。
それが辛いあまりに泣いていたのだろうか。無理もないことだと思った。
「でも、部屋を間違えたんじゃないでしょうか。
ここには、お姉さんに用事のある人は来ないと思います」
「え?そうかしら。ここだと言われて案内されたのよ。
 でもそういわれれば、だいぶ前からお待ちしているのにちっともいらっしゃらないわ・・・・・・」

オーギュストも彼女のために首をひねった。
言葉遣いや挙措からして、この女性は明らかに下働きの人間ではない。
教育を受けているという感じがする。
こんな夜間にこういうひとに用事を申し付ける者がいるとすれば誰だろう。筆耕でも依頼したいのだろうか。

「お姉さんはどんなお勤めを命じられているのですか」
無邪気な声で尋ねられて、娘はぱっと顔を赤らめた。
この男の子は本当に何も察していないのだろうか。
仲間内で猥談を披露しては興がるのが当然の年恰好だというのに。
からかわれているのではないにしても、さすがに人前であえて口にできることではない。
彼女はうつむいて口を固く結んだ。オーギュストは困ってしまった。

「お節介かもしれないけど、お勤めの内容が分かれば相手を探してあげられるかもしれません」
そう言われて、娘は自分の本来の義務を思い出した。
そうだ、あの男はもう、金貨は受け取ったのだと言っていた。
然るべきおかたに然るべき務めを果たさなければ、屋敷に戻ってからミシェルの立場が困ったことになるのだ。
彼女はようやく口を開いた。小さな声でつぶやくように答える。
「子どものつくりかたを、教えてさしあげるようにと」
「えっ、それはおもしろそうだ。僕も聴講していいですか」

娘が顔をひきつらせたそのとき、寝室の外から大きな物音が聞こえた。
ふたりとも思わず息を呑み込む。
重々しい金属音とともに、数人の足音がひとところに集まっていく。
男たちの荒々しい声が廊下に低く響きわたる。
オーギュストはいぶかしがりながら扉のほうに歩いていった。
娘は宮中での勝手が分からないので身を硬くしたまま寝台から動けなかったが、
騒音のなかに自分の名を呼ぶ声が聞こえた瞬間、跳ねるように立ち上がった。

オーギュストを押しのけんばかりにして扉に駆けつけ、息を荒くして廊下を見ると、
暗がりの中に数本の松明が寄り集まり、甲冑を着た大男たちが平服の若い男を大理石の床に押さえつけ、縄をかけようとしている。
「ミシェル!」
長い廊下の端まで伝わらんばかりの大声で叫ぶと、娘は捕縛された男に駆け寄って跪いた。
衛兵に反抗したせいなのか、すでに殴られたあとが見える。
泣きそうになりながら抱きしめようとすると、娘は衛兵に腕をつかまれて阻止された。

「テレーズ」
うめくように男がつぶやいた。
このきれいなひとの名前はテレーズというのか、とオーギュストは初めて了解した。
「テレーズさん、この男の人とお知り合いなんですか」
「え、ええ」
ミシェルという男の顔だけを呆然と見つめながら娘は言った。
宮廷に侵入するなどという大罪を犯して、このかたはこれからどんな目にあわされるのだろう。
監獄行き、流刑、それとも死罪だろうか。涙があふれて止まらない。何も考えられなかった。

「強盗じゃないですよね」
「え、ええ」
「悪い人じゃない」
「ええ」
「あなたに会いに来たのですか」
ええ、と答える代わりに彼女は嗚咽を呑み込むようにして小さくうなずいた。
ミシェルの気持ちは分かっていた。でもまさか、こんなことをするなんて。
「じゃあ大丈夫だ。
―――そのひとを離してあげてくれないか。
もし明朝、禁軍隊長から叱責があったら僕が対応するから」

オーギュストの一言に、衛兵たちはしばらく顔を見合わせたが、
この若くおとなしそうな男が大して膂力のない一般人であることは、職業柄彼らの目には明らかであった。
闖入者が凶器を所持していないことをたしかめると、オーギュストの言うとおり縄を解いて立ち上がらせた。
そして彼に言われるまま、各人もとの持ち場に戻っていった。

「ミシェル」
三人だけになると、テレーズは夢中で青年に抱きついた。
使用人の少年が衛兵たちを引き下がらせたという事実の不自然さに気がつく余裕もないほどだった。
「あなたが、ここまでなさるなんて」
「すまない。でも、どうしても我慢できなくて。君が王子の寝台にはべるのを黙って見送るなんて。
 ―――夜伽は、もう・・・・・・?」
絞り出すような重苦しい声でミシェルは尋ねた。
「いいえ、まだいらっしゃらないの。オーギュスト殿下は」
「ここにいますよ」

ぎょっと飛びのくようにして、若い男女は少年のほうを振り向いた。
青年は一瞬冗談だろうという顔をしたが、娘のほうはやがて了解した。
たしかにこれで辻褄が合うのだ。
寝室で出くわしたのも、衛兵たちをひとことで下がらせたのも。
それにしてもそのへんの農夫の倅のような王族もいたものである。

「―――あなたが、第五王子殿下だったのですね」
ためらいがちにテレーズは言った。
大切な存在を助けてもらったのはありがたいが、顔をあわせた以上は勤めを果たさなくてはならないのだ。
「ええ。用件があるのは僕だったんですね。ちっとも知らなかった。
 あなたたちはどういう人なんですか。宮中勤めではないようだけど」

「―――私は、城下町の薬師の娘です。
父母を亡くしたあと、父のギルド仲間が後見人として私を引き取ったのですが、
こちらのミシェルは、私の後見人の弟子にあたります」
「じゃあ、ミシェルさんも薬師なんですね」
「ええ、まだ見習い中ですが」
この国では医師や薬師の免許は高等学府で取得することができるが、実際に開業するには数年の徒弟奉公が必要である。
オーギュストもその制度については耳にしたことがあった。

「そうか、でも免許はもう取ったんですよね」
「ええ」
「じゃあ知識は十分なんだ。それでテレーズさんは薬師の娘さんで、ご両親が亡くなったあともずっと薬屋さんにいる」
「え、ええ」
「いいですね。では、どうかふたりで僕に子どものつくりかたを伝授してください」
「―――は」

テレーズの猫のような瞳がいっそう大きく見開かれ、ミシェルの聡明そうな口元は彫刻のように凍りついた。
「廊下では暗いし、寒いから、どうかおふたりともこちらへ」
オーギュストは先に歩き出して手招きした。
「生物学の先生が、南方の湖水地帯へ標本採集に行ったままなかなか帰ってこないんです。
 この科目だけ教科書が進まなくて。
 じゃあ、最初は胞子植物の殖え方から」

アランの人選は正しかった。
正しかったが、時機がよくなかった。
王太子が直接召し出して依頼した侍医は、彼が見込んだとおり実直で有能きわまる男だったが、
有能な男の常として仕事を多く抱えすぎていた。
篤い信頼に応えようとありがたく命を受けたはいいが、王太子の言うような
「医学的な知識があって臨機応変で母親のように寛容な」美しい婦人というのを短期間で見つけるのは想像以上に難しかった。
それに何より、彼に強調されたように、
「経済的に余裕のある家のそこそこ欲求不満な寡婦あたりが望ましく、貧困につけこんで強要してはならない」
となるとかなり狭められてくる。
しかも通常の業務―――肺炎の流行りやすいこの時期は通常の倍くらいに膨らんでいたが―――もこなさなければならない。

根をつめやすい性格なだけに侍医はつい、城下町に足を運んだおり、宮中御用達の羽振りのいい薬問屋に苦境を漏らしてしまった。
すると見るからに福々としたその男は、自分なら心当たりがあるという。
侍医は、この薬師とは私的な交際はほとんどもたなかったが、
業務の上では付き合いが長く、信頼するに足る人物だと思っていた。
事実、この薬師はどこから見ても疎漏のない男だった。
ほっとした侍医は、「医師団でもっとも誠実な人物」の評判にたがわず、
王太子から預かった金貨の袋を中間搾取すらせずにそのまま薬師に渡し、後事を託した。

歩くたびに揺れる金貨の音色を楽しみながら、薬師は店舗の裏手にある自宅に戻った。
屋敷の奥にある一室へ足を運ぶと、彼の脂ぎった肥満体にはおよそにつかわしくない、
野に咲く鈴蘭のように儚げな娘がおずおずと出迎えた。
「まだ夜でもないのにやって来るとはどういうわけだ、と思っておるのだろう、テレーズ」
いやらしく笑いかけながら、薬師は言った。
「喜べ。高貴なおかたにご奉仕する機会だぞ。宮中に上がれるのだ」
「宮中?」
「他言は無用だぞ。末の王子殿下がお添い臥しを必要とされておられるのだ。
宮廷の人間に詳細を聞いたところ、どうやらおまえは御眼鏡にかないそうだ。十日間だがしっかり励めよ」
「そ、添い臥し・・・・・・?私が、ですか・・・・・・?」
「なんだ、生娘でもあるまいに、呆然として」
そう言うと男はいっそういやらしく笑い、細い肩を抱き寄せてあごを持ち上げた。
灰色がかった青い瞳は徐々に恐怖に支配されていった。

「同業者の誼で身寄りのないおまえを引き取って以来、十三のころからだったか、たっぷりかわいがって仕込んでやっただろう?
そのままお教えしてさしあげればいいんだ。
うまくすれば寵姫になれるかもしれんぞ」
それでも俺のほうは元はとれるから案じることはない、といいたげに彼は金貨の袋を鳴らして見せた。
「私、私はいやです・・・・・・!」
「ほう、いやか。俺への操立てというなら聞き入れてやらんこともないがな、そうではあるまい。なあ、ミシェル」

薬師は振り向くと、扉の向こうに待機させていた弟子を呼び入れた。
青年は青ざめた顔でゆっくりとふたりの前に現れた。
「すべて聞こえただろう。おまえの慕うこの娘は尊いおかたにお仕えするんだ」
「し、慕うなどと・・・・・・」
「はん、少しでも目を離せばおまえたちが今にも密通しそうな仲だということは分かっている。だがいいかげん観念しろ。
その日が着たらおまえが馬車を出してテレーズを宮廷まで連れて行け」

「それだけはお許しください!」
心の底で恋焦がれる男の手で他の男の寝台に連れて行かれるなど、とても耐えられそうになかった。
テレーズは文字通り跪いて哀願した。
「往生際の悪い娘だ。誰のおかげでこれまで飢え死にしなかったと思っている。
宮中に上がってから、勤めを放棄しようなどと考えるなよ。
ましてふたりで逃げるなど論外だ。こいつのギルド加入資格を守ってやりたいならな。
ギルドを捨てる気ならどこへでも去れ。さっさと行き倒れるがいい」

そういい捨てると、薬師は足音と金貨の音も荒々しく部屋を出て行った。
金庫へ向かったのだろう。
残されたふたりは青ざめたまま、沈黙のなかで見つめ合っていた。

そして彼らはいまも顔を見合わせていた。
ただし青ざめてはいない。けれど困惑と若干の不安を浮かべている。
胞子生殖で始まり、種子生殖に移り、なぜか花粉を運ぶ昆虫の生態学に話が飛び、
そして医薬品に用いられる動植物の養殖・栽培方法を解説しているうちに、十日間の講義がようやく終了した。
これから自分たちはいったいどうなるのか。
たしかに王子の要求は満たしたし、「子どものつくりかた」を教授したと言っても詐欺にはならないのだが、
このまま帰宅してどこかからお咎めは出ないのだろうか。
何しろ親方の薬師は大枚を受け取っているのだ。

「十日間どうもありがとう。とてもおもしろかったです」
オーギュストはふたりの顔をかわるがわる見てうれしそうに言った。
「お礼をしないと」
「あ、いえ、それはもう、いただいているのです」
テレーズが正直に答えた。
「そうなんだ。いくらぐらいですか」
薬師の娘と薬師の卵は顔を見合わせた。
「分かりません。たくさん、だと思いますが」
「もらったのに不明なのですか?」
「受け取ったのは我々ではないので」
「えっ、じゃあ、テレーズさんたちはもらえないの?」
「―――ええ、たぶん」
「お金をもらったのは?」
「私の後見人です」
「そうなんだ。えーと、じゃあ、どういうことだろう」

彼の実生活においては非常に珍しいことに、オーギュストは論理的な思考をがんばって働かせようとした。
「テレーズさんの後見人さんは自分だけお金をもらって、テレーズさんにただで子づくりをさせようとして、
それがかわいそうだからミシェルさんが追いかけてきて子づくりに加わって、僕のためにふたりで講義をしてくれた、
つまりこういうことですか?」

そこには大いに飛躍と省略があるような気がしたが、本質からはまあずれてはいないので、ふたりは消極的ながらもこくりとうなずいた。
「それはひどい」
オーギュストは本気で立腹して言った。
そのことばはありがたかったが、どうしようもないのです、と言いたげに若い男女は一瞬目を合わせ、また離した。
たとえこの王子が自身で謝礼を払ってくれるといっても、結局あの強欲な保護者に没収されるのは目に見えている。

「それで、テレーズさんとミシェルさんは早く独立して、ふたりで一緒にいたいんですね。
そうでしょう」
珍しく人並みの観察眼をはたらかせて―――それでも八日目にようやく気がついたのだが―――、オーギュストは付け加えた。
ふたりは答えなかったが、そろって紅潮した頬がすべてを物語っていた。

オーギュストはしばらく黙って宙を見ていた。
やがて何かを思い出したような顔になり、急いで立ち上がると、部屋の隅にある小卓の引き出しを開けて、
羊皮紙のような頑丈な紙と何か小さな立方体のようなものを取り出した。
羽ペンを取り出しすらすらと一筆書いて最後に署名をすると、封蝋をして上から立方体を押し付ける。
そしてテレーズたちに差し出した。
「ノルマディアは好きですか」
ノルマディアとはこの国の北部に位置する寒冷地帯である。
行ったこともないのでふたりには好きも嫌いもなく、なんとも答えようがない。

「寒いところだけど、ニシンもたくさんいるし、たぶんそんなに悪いところじゃないと思います。
 このあいだの誕生日で十五歳になって法律上成人したので、
父上から封爵地としてあそこをいただいたんです。忘れていました。
今僕の代理で治めている長官はちょっと強面だけど、とてもいいひとなんです。
もし後見人さんと別れて都を引き払う気持ちが固まったら、ちょっと遠いけどあそこに行って長官に会ってみてください。
薬師の免許と一緒にこの手紙を見せれば、あの土地のギルドに入れるし、
新しい親方さんを見つけて奉公期間を終えれば、必ず開業許可を出してもらえますから。
略式だけど王家の印章が封蝋に押してあるから、街道の関所はこれを見せれば通れるはずです」

言いながらオーギュストは小卓の引き出しをひとつずつ開けていった。
「あれ?ここだと思ったんだけどな。ここかな。ちがう。
あ、ここだ」
取り出したのはびろうど張りの美しい小箱だった。
「これ、講義のお礼です。
 僕は現金って持たせてもらったことがないので、こういうのしかなくてごめんなさい。
 たぶん売れば金貨何枚かにはなるんじゃないかな」
差し出された小箱をテレーズが恐る恐る開けてみると、黄金の台座に驚くほど大きなエメラルドがはまった指輪だった。
彼女もミシェルも鑑定眼はもたないが、この夜陰を切り裂く刃のような煌きを見れば、
そして王族の所持品であることを考えれば、何もかも本物であることは疑いなかった。

「―――いえ、こんな身に余るものはいただけません。
この御文だけで我々には十分です。感謝のことばもありません」
唖然として固まってしまったテレーズの代わりに、ミシェルが深々と礼をして言った。
「でも、子づくりのお礼をしなくっちゃ」
「いえ、子づくりって・・・・・いやそれはもう、本当に。
そもそも、こんな高価なものは市井ではそうそう売買できないのです。
だからお気持ちだけをありがたく」
「売れなかったら、持っていてくれるだけでもいいんです。婚約指輪の代わりに。
これはこのあいだの試験で優等をとったご褒美に父上からいただいたものだから、そういうと変かも知れないけど」
「いいえ、そんな恐れ多いことは・・・・・
もし殿下がご自分でご着用されないのであれば、やはり未来の奥方様にお贈りになるべきかと」

「僕、まだ婚約者がいないんです。
このあいだ『このぶんだとおまえは一生嫁が見つからんかもしれん』ってアラン兄上がぼやいてました。
兄上のいうことは大体いつも正しいので、僕は一生独身な気がします。
だから、これはテレーズさんのために、あなたの未来のお嫁さんのために持っていてください。
この手紙を身分証明書がわりにすれば、
戸籍がなくてもあちらの教会と役所で結婚登記を受け付けてくれるはずだから、心配しないでください」

王子はどうしても譲ろうとしなかった。
やがてふたりは恐る恐る跪いた。
オーギュストの手をとって長い接吻をしたあと、彼らはようやくのことで立ち上がり、
手紙と小箱を丁重にふところにしまうと、何度も礼を述べて辞去していった。
互いをいたわるように寄り添いつつ夜陰に消えていくふたりの背中を見ながら、オーギュストはふとためいきをついた。
僕にも一生の苦楽を分かち合う誰かが、お嫁さんがいるといいなあ、と初めて思った。

午前の光が差し込む執務室で書類の束に囲まれながら、アランはいつになく軽やかな気分で仕事を進めていた。
今日ようやく、末弟が成長を遂げたという最終報告を聞けるのだ。
これでもう彼の人生の先行きと縁談の結果について気を揉むことはなくなるのだ。
長きにわたる懊悩案件のひとつがこれで解消されたのだと思えば、気分が軽くならないはずがない。
ついでにいうと、ここ数日来妻の身体がますます敏感な方向に目覚めていくのをはっきりと感じる。
こんな朝っぱらから我ながらどうかとは思いつつも、
何かにつけて彼女の夜毎の痴態と羞恥に染まる表情を思い出さずにはいられないのだった。

来訪者を告げる衛兵の声が聞こえた。
急いで口元を引き締めて入室を許可すると、待ちわびた人影がとことこと入ってきた。
「兄上、おはようございます。お呼びでしょうか」
「おはよう。―――気分はどうだ」
「とてもいいです。ありがとうございます」
「そうか、それはよかった」
そこでふたりは沈黙した。アランは咳払いをした。

「―――で、昨日までの十日間はどうだった」
「えっ、兄上はなぜご存知なのですか」
驚いたような声を上げる末弟をアランは手で制した。
「ひょっとして、兄上が何もかもお取り計らいくださったのですか」
「んん、まあ、そうだ」
やや照れたように言いづらそうに彼は答えた。
「ありがとうございます。とてもためになりました」

「そうだろうとも。
で、どの程度教えてもらったんだ。ちゃんと十日間全部活用できたか?
オニヤンマとかギンヤンマの話にはそれなかっただろうな」
「ええ、トンボ目の話はなかったです。ぜんぶで五十種類くらいかな」
「・・・・・五十種類?」
アランは思わず手にしていた羽ペンを落としそうになった。
「五十種類とは、いや、そんなはずは」
(俺だって実用として五、六種類、知識として二十種類くらいしか知らんというのに)

長兄の声が珍しく動揺しているのがオーギュストには不思議だった。
十日間で教わるものとしてはそんなに不自然な数だっただろうか。
「一晩に五種類ですから、そんなに大変ではありませんでしたよ」
「・・・・・・そうか・・・・・・」
俺はこいつをみくびっていたのかもしれん、とアランは思った。

「それなら、まあ、いいんだ。レパートリーが少なすぎるよりはな。
 あー、相手の女はその、行き届いていたか?
 医学的な面からも、ちゃんと体系的な知識を授けてくれたか?」
「ええ、それはもう。そういうお家に育ったひとだったので。
 それにもうひとり本職の男のひとも参加してくれましたし」
「なんと、三人だったのか。複数で絡むのは上級者向けという気もするが・・・・・・」
「そうですね、途中からやや高等になって難しくなりました」
「だが、もうひとりが男なのはかえってよかったかも知れんな。
 実地でいろいろと見せてもらえる」
「ええ、ためになりました。
 三日目ぐらいから商売道具ももってきてくれて。いろいろな種類があるんですね。
同じ棒状のものでも太さが何種類もあるんです」
調薬に使うすりこぎのことを思い浮かべながら、オーギュストは言った。
ただすりこぎという名称だけが思い出せなかった。

「道具か・・・・・まさかおまえがそこまで知悉するようになるとは・・・・・・」
たった十日間だというのに弟のめざましい成長を目の当たりにして、
アランは彼にしては珍しく目頭が熱くなる思いだった。
これで父上も、天国の母上も、末子の先行き不透明な人生に心を痛められることはあるまい。

「ああ、そうだった。病気予防の知識もちゃんと授けてもらったか」
(複数だったり道具を使ったりするとなるとその点は肝要だからな)
昔のことを思い出しつつ、アランは慎重に尋ねた。
「ええ、しっかりと。いったん病気にかかると大変なんですね。
僕これまで考えたことがなかった。経済的にも被害が甚大だし」
「そうだとも。まあ、我々の場合は経済面よりも名誉の問題だがな」
「あとは害虫の駆除方法ですね。
薬草を栽培して採取して保存するまでには、薬師や山里のひとたちの多大な手間ひまがかかっているんですね。
初めて知りました」
「そうだ、最初のうちはぎこちなくても手間ひまをかけてだな―――ああ゛?」

アランは書類から目を上げて末弟のほうを見た。
「おまえいまなんと言った」
「害虫の駆除です」
「害虫」
「そのあとは株の分け方を。これも繁殖ですよね」
「―――オーギュスト、おまえ、この十日間何を教わっていた。
 いや、何を教えてくれと頼んだんだ」
「ですから、子づくりを」
「草花の、か?」
「正確には薬効のある植物を主体に」

このとき長兄の端整な顔に浮かんだ変化を何かに例えようと思っても、
オーギュストにはなかなか適当なことばが見つからなかった。
ひとことでいえば朱に染まったというべきだが、そこに現れた凄まじい気迫はあらゆる形容を寄せ付けなかった。
日常生活において事態の転変を即座に把握することに慣れていないオーギュストでさえ、
これはどうやら兄の身に何か起こったらしい、ということはすぐに分かった。

「兄上、大丈夫ですか」
「決まりだ、おまえの命運は」
「え?」
「ルースの姫をおまえに娶らせる。せいぜい鍛えてもらうがいい」
そのあとは手振りだけで無言で追い返された。
あと数日は口を聞いてくれなさそうな兄の剣幕を思うとオーギュストは悲しくなったが、
ひとつだけ彼の心を明るくしてくれる事実があった。

(僕にもお嫁さんができるんだなあ)
どんなひとだろう、と思いながら彼は静かに扉を閉めた。
各所に点在する衛兵の姿を除けば、広い廊下は見渡しても誰もいない。
朝の清涼な空気はまだそこかしこに残っているように感じられ、
オーギュストにはなぜか、それが幸福の予兆のような気がした。
そして深く息を吸い込むと歩き始めた。
飾り窓から降り注ぐ午前の淡い光は、栗色の髪や瞳に陽だまりをつくりつつ、
足取り軽やかな影を大理石の床に投げかけていた。

(終)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 05:55