鞠が弾んだ。
セシリアは、縦横無尽に跳ねるそれを夢中で追いかけた。
力いっぱい壁に投げつければ、鞠は弾んで、思いもよらないところへ飛んでいく。
追いかけて捕まえて、また投げる。
その繰り返しだけで、日が暮れてしまいそうだった。

桃色の鞠を撫でながら、セシリアは考える。
マリアンヌが帰ってくる日は、いつだろう。

一人っ子の彼女にとって、一人遊びは得意とするところだ。
それでも、壁に向かって鞠を投げるより、
投げたらちゃんと返してくれる遊び相手が恋しかった。

セシリアは、額にかかった髪の毛を払うと、また鞠を放り投げた。
桃色の鞠は弾んで、彼方まで飛んでいった。

     ***

記念祭二日目に催された園遊会では、
宮廷管弦楽団による野外音楽鑑賞会が行われていた。
集まった人々は、軽やかな演奏に聞き惚れ、
拍手の合間に批評家を気取り、各々の感想を口に乗せる。

けれども、中には不真面目な聴衆もいて、
例えば公爵令嬢セシリア=フィールドは、
扇子の内側で、こっそりと大きな欠伸をもらしていた。

「セシリアったら、ずいぶん眠そうね。昨日の夜は、はしゃぎすぎたのかしら」
隣に座っていた第四王女マリアンヌは、寝ぼけ眼の親友を面白そうに眺めた。
「え?」
見透かされたような瞳に見つめられて、素直なセシリアはぎくりとする。

「おおかた夜遅くまでと殿方たちと踊っていたのでしょう」
「……ええ、そんなところよ」
神妙な表情で頷きつつ、セシリアは背筋を正した。
柔らかい背もたれに寄りかかっていたら、管弦楽曲を子守唄に熟睡してしまいそうである。

「そろそろ演奏も終わるから、そうしたら私の居室にいらっしゃい。ゆっくり休憩できるわよ」
そう言って、マリアンヌは目尻を細める。
セシリアは、その思いやりのこもった微笑が大好きだった。

「賛成だわ。でも、この後は、武芸競技大会が控えているけれど、よろしいの?」
そう指摘すると、マリアンヌは「あら、そうだったわね」と呟いた。
軍部主催の武芸競技大会は、数ある華やかな記念祭行事の中でも、人気の筆頭株だったのだ。

しかし、マリアンヌは少しの思案顔を作ったあとで、肩をすくめた。
「まあ、いいわ。どうせ、王族は賭け事もできないのだし」
「あら、つれないのね」
「だって、優秀な成績を修める騎士たちも、だいたい見当がつくのだから、つまらないわよ」
「それでも、今年は何人の騎士が、あなたのために戦おうとするのかしら」

そう言いながら、セシリアはマリアンヌの濃いまつげを眺めた。
軍部に所属する騎士たちの多くは、美しく気高いマリアンヌ王女の崇拝者である。
けれども、王女の側に近寄れる好機なんて、滅多にない。
だからこそ、彼らは、マリアンヌ王女のために戦い、
優勝者のみが得る勝利の聖杯を捧げようとするのだ。
ただ、ほんの一言、姫に労いの言葉をかけてもらう瞬間を夢見て。

「勝利の聖杯なんて、うんざりだわ」
マリアンヌは、くすりと笑って受け流した。
「殿方はわかっていないのね。ただ一言、
 『あなたが好きです』と想いのたけを告白してくれた方が、何千倍も心に響くのに」

素っ気ないマリアンヌに、セシリアは苦笑して、「そうね」と答える。
その実、もどかしい気持ちをやっとのことで抑えていた。
――それでは、あなたに愛の手紙を送った騎士様とは、一体、どうなっているのよ?
本当は、そう訊きたくてむずむずしていたのだ。

「漆黒の騎士」について、マリアンヌはまだ何も語っていない。
昨晩は、不可解な置き手紙だけが残り、
マリアンヌは魔法にかけられた姫君のように深い眠りについていた。
今朝方、彼女と顔を合わせたとき、いつも通りの様子だったので、
セシリアは、ほっと胸をなで下ろしたのだが、 昨夜の真相については謎のままだった。

けれども、自分の側からせっついて聞き出すような真似はできなかった。
「社交界の女王」を自負するマリアンヌは、
親友のセシリアでも関知しない、幅広い交際の輪を広げている。
その交際関係の内実を、彼女の側から打ち明けてくれれば、耳を傾けるし、
仲間の輪に誘ってくれるならば、喜んで加わる。
しかし、マリアンヌがあえて話し出そうとしない事柄には、首を突っ込まないし干渉しない。
それがセシリアの基本的な姿勢だった。

ともかく、二人は麗らかな午後を、マリアンヌの居室でくつろぐことに決めたのだった。

夕闇が迫ってきた頃、マリアンヌの侍女は、訪問客の到来を告げた。
セシリアとのお喋りに夢中になっていたマリアンヌは、
来訪者の名前を確認せず、応接室へ通すことを命じた。
しかし扉が開かれ、訪問者の頭が現れた途端に、
マリアンヌは歓声を上げ、椅子から立ち上がった。

「まあ、コートニーではないの!」
「お久しぶりね、マリアンヌ」

セシリアが、マリアンヌの背中越しから覗いてみると、
鮮やかな檸檬色のドレスをまとった令嬢が笑っていた。

「本当にご無沙汰していたわね。リヴァーには、いつから居らしていたの?」
「ちょうど昨晩、到着したのよ。ユーリ陛下には、昨日の内に挨拶を済ましていたのよ」
「あら、それならもっと早くに私のところに、いらしてくれてもよかったじゃない」
「ごめんなさい。見物するところが、そりゃあたくさんあったから、すっかり遅くなってしまって」
「ああ、懐かしいわ。こうして直にお会いするのは、本当にお久しぶりね」

二人の少女は抱き合いながら、ひとしきり近況を報告しあう。
セシリアにとっては、いささか退屈な時間だった。
そのあとで、ようやくマリアンヌは、セシリアの方へ向き直った。

「セシリア。こちらは、フォレスト王国の第一王女、コートニーよ」
紹介されたコートニー王女は、にっこり笑って会釈した。
結い上げた髪の毛の先が子馬の尻尾のように揺れている。

「フォレスト……」
そう呟きながら、セシリアは昔の記憶を引っ張り出した。
「あら、それじゃあ、八年前に、あなたが避暑に行ったところではないかしら」

「その通りよ。よく覚えているわね」
マリアンヌが感心したように頷いた。
忘れたくとも、忘れられないわ、とセシリアは苦笑する。

フォレスト王国は、リヴァーの北方に位置する小国であり、
大陸最大と称される深い森と美しい湖を有する国として有名だった。
―――意地悪く言えば、それ以外に名を馳せる物や場所がないのだが―――。

その湖のほとりにある由緒正しき古城で、
当時十歳だったマリアンヌ王女は、夏の休暇を過ごしたのだ。
もちろん、その頃、八歳だったセシリアも、
親友がフォレストに行くことを聞きつけると、「一緒に行きたい」と両親にせがんだ。
しかし、何だかんだと理由をつけられて、あえなく却下され、
親友のいない孤独な二ヶ月あまりを過ごすはめになったのだった。

大好きな親友がいないだけでも、やりきれないのに、
その親友はバカンスを思う存分楽しんでいるようだった。
彼女から定期的に送られてくる手紙には、
毎回、フォレスト王国の貴族の子女の名前がびっしり書き込まれていた。
「今日は、コニーたちとピクニックに行きました」やら、
「ウィロビー家のボートに乗せてもらい、素晴らしい夕焼けを眺めました」などなど。

そんな手紙を読んでは、
楽しんでいるマリアンヌを羨み、旅行の許可をくれなかった両親を恨んだものだった。
マリアンヌやその友人たちと仲良く遊んでいる自分の姿を空想したこともあったくらいだ。

八年前のことなのに、あのときの気持ちが瞬時に蘇ってくる自分に驚きながら、
セシリアは、ぎこちなく彼女に笑いかけた。
「はじめまして。セシリア=フィールドです」
するとコートニー王女は、にっこり笑って親しげに手を握り締めてくれた。
「どうか仲良くしてちょうだいね」
「ええ喜んで」
はにかみながらも、セシリアは嬉しくてたまらなかった。
フォレスト国の王侯貴族の子女と友達になる、という自分の空想が、
歳月を経て実現したことに、純粋に感動していたのだ。

コートニーは、大いに喋った。
どうやら、長い伝統に裏打ちされた祭りの華麗さは、新興国の王女の心をがっちりと捕えたらしい。

あんまり次から次へと話題が出てくるので、口を挟む暇すらなく、セシリアは相槌を打つばかりだった。
けれども、自国に対する手放しの賞賛は嬉しかったので、自然、コートニーへの好感は募っていく。
とうとう、話題は、マリアンヌとセシリアが意図的にすっぽかした行事に移った。

「先ほどまで、武芸競技大会を見学させてもらっていたのよ」
「あら、どうだった? 初めて観覧するのだったら、とても珍しかったでしょう」
「ええ。最初は見るのが怖かったのだけれど、気付いたら、夢中になってしまったわ」
コートニーは興奮に目を輝かせる。
武芸を競うといっても、記念祭で行われるような試合は、
適度に荒々しく、適度に華やかで、観覧者の好奇心を満足させる範疇を逸脱することはないのだ。

「おまけに、どの出場者の方々も、見目麗しくて男らしい方々ばかりなのね。
 観覧席は歓声の嵐だったのよ」
「そうでしょうとも」
セシリアは物知り顔で頷いた。武芸競技大会が年々華やかさを増していくのは、
ひとえに莫大な出資者たち――そのほとんどが器量好みな有閑階級の婦人たちである―が存在するからだった。
それゆえ、軍部側は、進んで容姿のよい若者を集めているという噂まであった。

「もしかして、あなたにも、お気に入りの騎士ができたのではないかしら?」
「まあ、マリアンヌったら。そんなこと―――」
そこでコートニーは唐突に言葉を切り、わかりやすく頬を赤く染めた。
自分の世界に浸りがちな乙女の表情だ。
「―――実は、そのこともお話したいと思っていたのよ」

マリアンヌは笑い声を立て、身を乗り出した。
「やっぱり、お気に入りの騎士様ができたのね。それで、そのお方に、すっかり夢中というわけなのかしら」
「ええ、認めるわ」
「さあ、その幸運な方は、一体どなたなのかしら。
 お名前はご存知なのでしょう?」
「―――あなたもよくご存知の方よ」
「もちろん、そうでしょうね」
マリアンヌが自信ありげに、口角の両端を上げた。
リヴァーの社交界を牛耳る王女が、
武芸大会で活躍するような花形騎士のことを知らないはずがないのだ。
マリアンヌは、上位入賞の常連である騎士の名前を次々と挙げていった。

しかし、コートニー王女は、意味ありげに首を振るばかりだった。
「いいえ。みんな違うわ」
堪えきれなくなったマリアンヌは、降参のポーズを作る。
「コートニーったら、じらさないで教えなさいよ」
横で聞いていたセシリアも、知りたくてたまらなかったので、頷いた。

そこで、コートニーは、意味ありげに大きく深呼吸した。
「あなたの弟よ」
「え?」
「第三王子エルド殿下よ」
そう言い切って、コートニーは頬をよりいっそう赤らめたのだった。

「……エルド?」
訳がわからないという風に、マリアンヌはぼんやりとその名前を呟いた。
それから見る見るうちに、眉を吊り上げ、目を三角形にさせた。
「コートニー。あなたは、まさか……まさか、我が弟君が、武芸競技大会に出場していた、とそうおっしゃるの?」
「ええ、もちろん。エルド様は、馬上槍試合の個人戦に出場していたのよ。」

セシリアは、目の前にいるコートニーの顔を穴の空くほど見つめてみる。
彼女の瞳は、どこか夢の世界を漂っているような不安定さはあったが、
少なくとも冗談を言っているようには見えなかった。

王子が競技大会に出場すること自体は、決して珍しいことではなかった。
王族は剣や弓、馬術などの武芸を一通り習得するのだし、
大会の長い歴史を紐解いてみても、過去に、多くの王子たちが参加している。
それでも、本の虫で、体力よりも知力を重んじる傾向のあるエルドが、武芸競技大会に出場するなんて信じられなかった。

「あなたはもしかしたら」 セシリアは動揺を押さえながら言ってみた。
「別の誰かと第三王子を勘違いしているのではないかしら」

「いいえ、間違いないわ。
審判が、ちゃんと公表していたもの。 エルド殿下の名前が発表された途端、客席は拍手喝采だったのよ」
「ええ。そりゃあ、大騒ぎだったでしょうね」
マリアンヌは、息も絶え絶えというふうに呻いた。

苦虫をつぶしたようなマリアンヌの表情には気付かずに、
コートニーは、意気揚々と語りだした。

彼女は、リヴァーの第三王子を興味津々で眺めたのだ。
第四王女マリアンヌとは頻繁に手紙を交わす関係だったが、
その弟のエルドとは面識はなかったし、彼にまつわる噂すら耳にすることはなかった。
しかし、観客のこのはしゃぎぶりから判断するに、とても人気のある王子なのだろう。

でも大丈夫かしら、とコートニーは心配になった。
第三王子は、いかめしい鎧兜の上からでも、細身であることが伺えたし、
一方、対戦相手は彼よりも背が高く屈強な騎士だった。

けれども、コートニーの心配は杞憂だった。
相手選手の槍が届く前に、エルドはさっと身をかわし、突撃した。
目にもとまらぬ速さとは、こういうことを言うのだろう。
相手は方向転換する間もなく、槍を落とし、試合は終わったのだ。

「そして、そのあとで、挨拶をするために、エルド様が兜を脱いだのよ」
コートニーは熱に浮かされたように、喋った。
彼女の眼前では、その光景が上映されているに違いない。
「まるで地上に天使が舞い降りて来たのではないかと思ったわ。
 あの方の凛々しい顔を拝見した瞬間、私は何も考えられなくなってしまったの」

そのあとも、勝ち進んで行くエルドがいかに勇ましかったか、
何回戦かで、運悪く敗れてしまったのだが、それが手に汗握る接戦であり、
本当に惜しかったのだ、などと、コートニーは、延々と語り続けたのだが、
セシリアは、混乱していたので、真面目に聴くことはできなかった。
マリアンヌも同様らしく、小声でセシリアに耳打ちする。

「あなた、知っていた? エルドが試合に出場するなんて」
「いいえ、まさか!」 セシリアは何度も首を横に振った。
「あなたが知らなかったというのに」
「そうよ、そうなのよ。出場者のリストは事前に公開されているはずだから、
 まさかエルドが出場するなんて大事件が起きれば、この私の耳に届かないはずがないのに」

マリアンヌは、扇子の内側で歯をくいしばった。
宮廷内の情報と流行の発信源を自負している彼女にとっては、
滅多に公衆の面前に現れない弟王子の晴れ舞台を見逃したことは、
まさしく一生の不覚であっただろう。

セシリアは自分の扇子を仰ごうとして、膝に手を伸ばしたが、
床に落としていることに気づき、屈んで扇子を拾い上げた。

「あら、そういえば」
「どうしたの、セシリア?」
「いえ、実は……昨日、舞踏会が始まる前に、エルドと政務長官の二人が熱心に話しこんでいるのを見かけたのよ。
 今から思うと、あれは……」
「政務長官ですって!」 マリアンヌはわなわなと震えた。
「彼らと何を話していたというのかしら」

もちろんマリアンヌはわかっていたはずだ。
セシリアでさえ見当が付いたくらいなのだから。
武芸競技大会の出場者の履歴書類を確認し、
最終的な許可を下ろすのは、政務官の任である。
エルドは、王族という特権階級を有効活用し、
武芸競技会の飛び入り参加を打診していたに違いない。

「してやられたわね。すでに宮廷中に、いいえ国中に、このことが広まっているでしょうに」
マリアンヌは、憎々しげに吐き捨てた。

「それにしても―――飛び入り参加だなんて、エルドらしくないやり方だわ」
セシリアが一番腑に落ちないのは、その点だった。
エルドの性格からして、突発的に行動することも、
王家の威光を振りかざすことも、必要以上に注目を浴びることも、嫌うはずだ。

セシリアがぶつぶつと呟きはじめると、
コートニー王女は夢の世界から舞い戻ったようで、じろりと彼女を注視した。
「あなたは―――エルド様と仲がよろしいの?」
「……え?」
「セシリアとエルドの仲の悪さは昔から折り紙つきよ」
コートニーの気迫に押され、二の句が告げないでいるセシリアの代わりに、マリアンヌがさらりと答えた。

「成人してからは、顔を付き合わせる機会も少なくなったし。そうでしょう、セシリア?」
セシリアはぎこちなく賛同した。
まさか、つい昨晩も、同じ寝台で睦まじく寝ていました、と言えるはずがない。

「だから、あなたは恋敵の出現を心配しなくてもいいのよ、コートニー」
「恋敵?」
聞き慣れない言葉にセシリアは面食らったが、
コートニーは違和感なくその言葉を受け入れたようで、そっと目を伏せた。
「まあ、変なことを尋ねてごめんなさいね。
 何しろ観覧席にいた女性は、みんなエルド様に心を奪われていたのよ」
それはコートニーの思い込みなのではないかしら、とセシリアは思う。

「だから、あの方に、その……勝利を捧げたご婦人がいるかどうかが、どうしても、気になってしまって……」
「まあ、そんなに思い詰める必要なんて、ないのに」
マリアンヌは、自分の弟にそれほどまでの価値があるのかしら、と言いたげである。
セシリアも全く同感であった。

「でも、記念祭が終われば、私は帰国しなくてはならないし、
 そうしたら、次にいつエルド様にお会いできるかわからないわ。
 だから、記念祭が終わるまでに、どうしても私は、エルド様とお話してみたいの」
「まあ」
ため息をつくコートニーの様子に、セシリアまで切なくなってしまう。
一目惚れに心を悩ますなんて、まるで恋愛小説のようではないか!

一方、マリアンヌは、口元を手で覆い、なにやら考え込んでいた。
「コートニー。あなたはお話しするだけで満足なのかしら?
 その先のことを想像したことはないの?」
「それは、もちろん。
できれば、私の燃えるような想いを伝えたいわ」
「そうでしょうとも。そして、その先は?」
「―――それは……恋人同士になることかしら」 コートニーは、ため息を漏らした。
「でもそんなこと夢のまた夢ね」
「あら、どうして? 夢に終わらせる必要はないわ」
マリアンヌは悠然と微笑んだ。
「相手がエルドというところが、ちょっと引っかかるけれど、私に任せてちょうだい。
 必ずや、あなたの恋を叶えてみせるから」

唐突な提案に、コートニーは目をしばたかせた。
「まあ、マリアンヌ。ありがたいけれど……そんなことは不可能なのよ」
「どうして不可能なのよ。身分の上では、何の問題もないわ」
「確かに、そうね。でも、どう考えても、私の国より、リヴァーの国力の方が勝っているわ」
さきほど夢の世界を漂っていた少女は、急に真剣な一国の王女の顔へ変身する。

「そして、私のお父様は、フォレストが、属国扱いされるような真似をすることだけはしないわ」
大国の貴族令嬢には、新興国おける外交政策の危うさは、ぴんと来なかったが、
コートニーの背負っているものの大きさは推し量ることができた。

ああ、とセシリアは息を詰める。国政の事情により、引き裂かれてしまう恋のなんと切ないことだろう。

他方、マリアンヌはひるむ様子もなかった。
「でも、それは、政略結婚は不可能ということなのでしょう。
 あなたとエルドのあいだに既成事実さえあれば、いくらあなたのお父様だって反対できっこないわ」
「既成事実ですって?」
またもや唐突な言葉に、コートニーは目をぱちくりさせた。
「マリアンヌったら、本気でおっしゃっているの?」

セシリアも不安に思い、マリアンヌの自信満々の顔を見つめた。
何だか雲行きが怪しくなってきたわ。

「まあ大船に乗った気分でいてちょうだい。
私の手にかかれば、エルドなんて一網打尽、袋の中の鼠よ」
マリアンヌは上機嫌で、おほほと笑い声を立てた。

その晩、セシリアは、フィールド邸の自室で、頭を抱えていた。
さっさと眠ってしまった方がいいのはわかっているが、
頭は危険に冴えていて眠れそうになかった。

どうして、こんな気持ちになるのだろう、とセシリアは、マリアンヌの言葉を思い返してみた。

『――そもそも』と、マリアンヌは勿体をつけて話し始めた。
『女性が自分の側から思いを告白するのは良くないわ。
 むしろ、相手からの求愛を待っているべきなのよ』

コートニーは引き込まれるように聴いていた。
『もちろん、ただ首をこまねいて待っているのは愚かだわ。
 きちんと餌をまいて、男性が罠にかかるのをじっと待つことが必要ね』
そこで、マリアンヌは、コートニーが自分の話を熱心に聴いているのを確認し、満足そうに笑った。

『それに、正攻法で――つまり告白したところで、
 あの堅物の弟を落とせる可能性は極めて薄いわ』
『まあ、そうなの?』
とすかさずコートニーが反応する。
恋焦がれている相手について少しでも情報を得たいのだろう。

『ええ。何しろ、あいつは十六にもなって、どのご令嬢とも浮いた噂を聞かないのだから』
マリアンヌは遺憾だと言いたげに首を振った。
『―――まず間違いなく童貞でしょうね』
『まあ』
率直な物言いに、コートニーは少々恥じらいを見せる。
マリアンヌはそんな彼女に目もくれずに自説を繰り広げる。
『私も、常々、弟のことは心配だったのよ。
 童貞なんて、世の男性にとっては大切に守るものでもないでしょう。
 むしろ童貞を捨ててこそ、男性は一人前になるのだわ』

いかにも弟思いの優しい姉を装ったところで、
マリアンヌが、エルドに対して立腹し、
彼よりも優位に立ちたいだけであることは明らかだった。

その間、セシリアは、黙って紅茶をすすっていた。
そうするしかなかったのだ。
セシリアには、マリアンヌが何を話しているのか半分も理解できなかったのだから。

「童貞」とはどういう意味なのだろう?
それに、既成事実を作る、とは?
どうやらエルドを罠に嵌める作戦を提案していることだけはわかったが、
それがコートニーの恋路の成就とどのように関連しているのは、さっぱりだった。

素直に尋ねればよかったのかもしれない。
しかし、コートニーはマリアンヌの意図を理解しているようだったし、
ここで自分が質問をすれば、盛り上がっている空気に水を差しかねない。
二人は、何にも知らないセシリアを馬鹿にしたりはしないだろうが、
いかにも理解しているように装っている方が、セシリアのプライドは守られたのだ。

でも、訊いておけばよかったわ、とセシリアは今更ながら後悔する。
マリアンヌとコートニーだけで、仲良く楽しそうに話しているときに、
自分だけで蚊帳の外にいるなんて、嫌な気分だ。

一人で悶々としていると、躊躇いがちに扉を叩く音が聞こえ、侍女のトルテが入ってきた。

「セシリア様。失礼致します」
「あら、どうしたの、トルテ」
トルテは、主人の乱れた髪の毛を見て、驚いたようだったが、淡々と用件を告げた。
「旦那様がお呼びですわ。至急、書斎までいらっしゃるように、とのことです」
「お父様が?」
悪い予感に取り付かれながら、セシリアは重い腰を上げた。

いよいよ、婚約の事実を宣告される時が来たに違いない。
セシリアは心を奮い立たせた。
何も、記念祭の期間中に、そんな重要な話をしなくてもいいのにと思わなくもないが、
いかにも間の悪いあの父親らしいではないか!

両親の話し合いを盗み聞きしてから、すでに一ヶ月が経過していた。
その間に、セシリアは、いかに両親たちに反抗するかを考え抜き、入念に牙を研いできたのだ。
怒りに我を忘れて「結婚なんてしません」と叫ぶのは愚かだ。
むしろ、涙ながらにしおらしく「お父様たちと離れるなんて嫌です」と訴えた方が得策だろう。
頭の中で、台本を練りながら、セシリアは父親の書斎へと向った。

「やあ、セシリア。元気かい」
扉を開けると、不自然な笑みを貼り付けた父親が立っていた。
「こんばんは、お父様」
セシリアは、彼の腕の中に飛び込み、甘えるような鼻声を出した。
彼の衣服からは、いつも薬草の渋い香りがした。

「おや、セシリア。なんだい、まるで子供みたいではないか」
「だって、リアはまだ子供だわ」
「いいや。お前は立派な淑女だよ。だから、自分のことを『リア』と呼ぶのはやめるんだ」
フィールド公爵は、すがりつくセシリアを無情にも引き剥がしながら、感慨深げに頷いた。

「どうだい。この夏、ノイスへ避暑に行ってみる気はないかな」
「―――避暑ですって」
セシリアはぽかんと口を開いた。
「そうだ、お前も成人したのだから、遠方へ旅行に行くのもいいだろう。ノイスの夏は涼しくていいぞ」
「そんなこと突然、おっしゃられても……」
「何を迷う必要があるんだ?
お前は、以前から避暑旅行をしたがっていただろう」
「だって、それは―――」
セシリアは、絶句した。
そもそも、親友が行くから、自分も一緒に行きたいと騒ぎ立てたのであって、
何も外国で夏を過ごしたかったわけではないのだ。

フィールド公爵は、夏をノイス王国で過ごすことが、どれくらい素晴らしいか、
あちらの文化がどれくらい興味深いか、などを事細かに語ったが、
すっかり毒気が抜かれたセシリアは、満足に耳を傾けることができなかった。
最後には、「考えておきますわ」と言葉を濁し、よろよろと父親の書斎を退出した。

用意していた反撃の言葉は何一つ使えなかった。
まさか結婚以外の話が飛び出てくるなんて思いもしなかった。
よりにもよって「避暑」だなんて、寝耳に水だ。あの父親は何を考えているのだろう。
興奮冷めやらない頭で考え込むが、納得できる答えは見つからなかった。


続く

 

 

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最終更新:2008年12月27日 05:51