目が覚めて初めに見たのは、見慣れぬ天井だった。
喉がからからに渇いていて、頭がぼうっとする。節々の痛む体を動かして周りを見廻すと、埃の積もった箱、
掃除道具、梯子やそのほかのよく分からない道具類が棚に置かれていた。多分、物置部屋だ。
開いた場所に俄か作りの寝台が設えてあって、そこに寝かされている。

どうして、こんなところに寝ているんだっけ?
考えようとしても、頭が朦朧として考えが上手く纏まらない。
水だ、とにかく、水。
ひどく喉が渇いていて、水が欲しいのに、体が重くて動くこともままならない。
漸く体を起こしたと思ったら、眩暈がして、大きな音を立てて床に倒れこんでしまった。
それでやっと気がついたけど、どうやら熱があるみたいだ。床の高さから見上げる天井が、ゆっくりと
回転して見える。

仕方なく寝台に戻ってから暫くして、大きな足音がしたかと思うと、扉がギッ、と開いて、怒った顔の
鄭(チョウ)おばさんが現れた。
この邸の女中頭で、勿論この邸には長く仕えていて、僕もこまごまと、よくお世話になっている。
おばさんは入るなり、手に持っていた手桶で僕の頭をがつんと殴った。
「ぐっ……」
おばさんの一撃は、頭痛のする僕にはありえないほど響いた。そして、その言葉も。
「このっ!! 悪餓鬼がっっ!! 姫様に、何をした?!」
そうだ、メイリン。
僕はもうメイリンに、憎まれ、嫌われているはずだ。
そのことを思い出して、おばさんに殴られたときよりももっと鋭い痛みが胸に広がる。
ぜいぜいと息をするばかりで声の出せない僕に、おばさんがなみなみと水の入った茶碗を差し出す。
水差しは、何のことはない、物置棚の一角にそっと置かれていた。
それを一気に飲み干してから、居住まいを正して覚悟を決めて答える。
「すべて、姫様の仰った通りです。」
僕はここに、監禁されているのだろうか。斬首までの短い間。

そう思いながら室内を見廻していると、ふいに脳天におばさんの二撃目を喰らってしまった。痛みに
声も出ない。
「姫様が何も仰らなかったから、訊いてるんだよ!! 正直に答えな!!」
おばさんは怒りに震えながら僕を睨みつけた。
「姫様が夜中にあたしの寝床にもぐり込んで来なさるときはね、何かひどくお辛いことがあったときとか、
恐い目に遭いなさったときなんだよ!!
それなのに、姫様は今回に限って、なんでもないと仰る。ところが朝になったらあんたが姫様の寝室で
倒れてるし、姫様の様子からも、あんたが姫様に何かしたってことは、明白なんだ。さあ吐きな!! 
どんな狼藉を働いたんだい?!」

おばさんの剣幕とは裏腹に、僕はまだ熱と痛みでぼうっとしていた。
──庇われた、のだろうか?
僕を罰する気なら、凄く簡単だったはずだ、ただ誰かを呼べばいい。
何故、そうしなかったのだろう?
何故、何も言わなかったのだろう?
出来ることなら、訊いてみたい。


「あの……それで姫様は、いまどこに?」
「今朝、御発ちになった。」
おばさんは苛々しながら僕をねめつけた。
「あんたね……、自分の周りで起こっていたこと、何も憶えてないのかい。何日寝てたのかも。」
そういえば、体がやたらとだるくて、関節が軋む。寝ていたのは一晩だけ、ではないのだろうか。
「三日だよ、三日!! しかもその間、誰が世話してたと思う?!」
「あ……すみません。お世話になりました。」
僕はてっきり、おばさんが世話をしてくれたのだと思い、お礼を言った。
「違──うっ!! 姫様だよ、姫様!!! お前ごときに、直々に!!!
肺炎まで起こしたあんたをあたし達がこんなところに隔離したにもかかわらず、目覚めるまではと、
かいがいしく世話をなさって夜も昼も離れようとはなさらなかった!!
そして仰ることは、『早く元気になって欲しい』『目が覚めたらわたしと仲直りして欲しい』と来たもんだ!!」
おばさんは、我慢できなくなった様子でまた僕の脳天に手桶を振り下ろした。が、僕は今度は間一髪で避けた。
メイリンが……僕の看病? しかも、『仲直りして欲しい』?
「避けるとは生意気な……こういうときは、殴られときな!!」
「すみません癖になってて……避けないとまた愚図とかゴミとか言われてユイウ様に罰稽古を食らう
ような気がして。」
「安心していい、長公子様も二公子様も旦那様に呼ばれて、とっくに邸を空けていらっしゃる。
姫様だけは、おまえの傍を離れるのを嫌がって出発を延期なさったが、今朝には容態も落ち着いたんで、
御発ちになった。」
「御発ちになった……どこへ?」
「あたし達には、知らされていない。ただ、長旅の用意はしていらした。」

メイリンが……いない? この邸のどこにも? 
僕を、置いていった? 何にも言わずに?
あんなことがあった上に、意識もなく臥せっていたのだからそれも当然なんだろうけど、僕は突然
何もないところに放り出されたような酷い喪失感を感じた。
「置いていくくらいなら……殺してくれればよかったのに。」 
そう呟いた途端、後頭部にもう一度鋭い一撃を食らった。やばい、また不意打ちで食らってしまった。
おばさん侮りがたし。
「いい若いもんが、命を粗末にするようなことを言うんじゃない!!
あたしはね、あんたを元気にすることと、姫様に平身低頭詫びを入れさせることを請け負ったんだ。舐めた
口きくと、承知しないからね!!」

「だって」
僕はやっとの思いで反論した。
「あの戦場で拾われたときから、僕の命は姫様のものでしょう? そしてそれも、姫様が他の男と結婚でも
すれば、必要なくなる!!」
本来なら、必要とされなくなったときが自由になる好機の筈で、僕はそれを待っていたはずだった。
なのになんで今は、必要とされなくなったときのことを考えるだけでこんなに死にそうな気持ちになるのか。

おばさんはちょっと呆れた、気の抜けたような声であー、と呟いた。
「…姫様はまだ学生だから、結婚は少なく見積もってもあと二年はないだろ?」
「でも婚約だけなら、すぐにでもあるかもしれない……釣り合う家格の男と。」
おばさんはまあねえ、とか、そういうことか、とか、曖昧な相槌を打った。
「あと二年かそこら、誠心誠意お仕えして、そのあとは放免していただくとか。」
「あと二年も優しくされて、そのあといらないものとして棄てられるよりは、今すぐ終わらせたい。」
おばさんは、もう手桶で殴ろうとはしなかった。代わりに、あんたはまだ乙女心も分からない馬鹿な
餓鬼なんだね、と言った。

「そういう風に思ってるって、姫様か旦那様に、ちゃんと言ったかい?」
「メイリ…じゃなかった、姫様に? とんでもない!! 姫様に直接『勘違いするな』なんて言われたら僕、
死んじゃうよ!!」
実際に死ぬわけじゃなくて、心が死にそうに苦しいのに、体はなんともなくてお腹がすいたり眠くなったり、
普通に生きていってしまう、その矛盾がどうしようもなく苦しいのだ。

「言ってみなよ。」
鄭おばさんは、軽い口調で言った。
「おばさんは、僕が姫様に対して邪まな感情を抱くのは、いけないことだと思わないの。
ユイウ様なら、いつもそう言うよ。『勘違いするな』『身分を弁えろ』って。」
「長公子様は、奥様に似て厳格な方だからね。
だけどあたしとしては、あんなに可憐で気立てが良い姫様に何も言わずに、自分だけで抱え込んだ末に
姫様を泣かせて何かを解決した気になる方が、よっぽどいけないことだと思うよ。
あんたは、そんなに人と上手くやっていくのが苦手な子だったかね? あたしを含めてみんな、あんたの
ことをもっと心根の真っ直ぐな子だと思ってたけどね。」
「……ごめんなさい。」
僕はなんとなく、桂花の民としての振る舞いを避難された気がして、素直に謝った。
「謝るなら、姫様に謝りな。
それに、この邸で最終的に物事をお決めになるのは、旦那様だ。旦那様は、弱い立場のあたし達を
ことさらに苛めたりはなさらない。きっとあんたにも、何かいいようにして下さる。」
敵には容赦がないけどねえ、とおばさんはぼそりと小声で零した。
何かいいようにして下さる、の内容が、他の女を見つけてくれるとかだったら絶対に願い下げなんだけど、
と密かに思う。何をどうしたら好転するというんだろう。
「それに多分、姫様は、今あんたが言ったようなことをお聞かせしたら、喜ばれるだろうね。」
メイリンが喜ぶ──
それを聞いた瞬間、メイリンの花のような笑顔を思い出して、心がぽわっと浮き立つ。
「そんなはず、ないよ。」
きっとあれだ、奴隷の忠誠を喜ぶとか、そういう意味だ。本気で好きとか言っても、困らせるだけだ。
……と必死に否定しても、心がなんだか浮かれていくのを止められない。本当にどうかしてる。
「あんたみたいな若造と、あたしみたいな熟女では、どっちが女心が分かるだろうね?」
自信ありげなおばさんを前にして、僕だって短い期間だけど、この邸に来てからは誰よりも長い時間を
共にしてるんだから! と無駄に張り合いそうになる。
「と、に、か、く!! 体をしっかり直すことと、姫様が帰ってきたら、御満足頂けるまで謝ること!
このふたつは、このあたしの年季にかけて、守ってもらうよ!」
鄭おばさんは、この邸での年季は多分一、二を争うくらいなんじゃないだろうか。
僕はこの自称熟女のおばさんにそれ以上逆らっても無駄な気がして、まずは大人しく養生することにした。


     *     *

僕の肺炎が跡形もなく治る頃になっても、メイリンたちは──ユイウ様、スゥフォン様、それから旦那様も含めて、
なかなか帰ってこなかった。
この邸の主人格の人間は、学院があるからと残された末子のシゥウェン様と、時々帰っているという奥様のみ。
ただし、僕はひきつづき奥様の気配すら感じることはなく、主人の気配の希薄なこの邸は、ひどく静かで
寂しそうにさえ見えた。

シゥウェン様は、時々兄上から言付かったという『宿題』を渡しに来た。彼はいつも無口で、必要最低限
しか口を開こうとはしなかった。
僕が彼とまともに口を利いたのは、彼の大切な姉の話をしたときだけだ。

「……出て行けばいいのに。」
僕と比べても少し背の低い少年は、ぽつりとそう言った。
兄上達と比べて、まだ体つきは随分と華奢で、女の子のようですらあった。
「は?」
「メイリンを、泣かせたそうじゃないか。気に入らないことがあるなら、出て行けばいいのに。
今なら誰も、おまえを止めはしない。出て行って、家族の元にでもどこにでも行けよ。」
彼は吐き捨てるように言った。

ここを出て、桂花の民の元に帰る? この邸を抜け出して?
この邸に来たばかりの頃は、想像もつかなかった。だけど今は、地理も分かるし、地図さえ持っている。
関所を通るのは難しいけれど、抜け道があるのも知っている。お金は持っていないけど、その辺で日雇いで
働けばなんとかなるし、出来ないことではなかった。
それでも、僕はかぶりを振る。

「鄭おばさんと、約束したんです、姫様の帰りを待つって。帰ってきたら、ちゃんと謝るって。
勿論姫様が僕に出て行けというなら、そうします。」
彼はキッと僕を睨んだ。
「メイリンの帰りなんて、待つ必要ない。今すぐ出て行けよ、この山ザル。」
一応悪口を混ぜてみていることは分かるが、根が真面目なのか、ユイウ様ほどの迫力も、スゥフォン様の
ほどのキレもない。ちょっと上げておいて物凄く落すとか、油断させておいて鋭く切り込むとかの技を
全く使わない悪口は稚拙で、微笑ましくさえあった。
「御本人のいないところでは、『姉上』とは呼ばれないんですね、三公子様。」
呼び方のことを指摘すると、彼はさっと顔を赤らめた。僕も本人の前では名前呼びするかどうかにいつも
気をつけているから何となく分かる。多分彼も、他の兄弟の例に漏れず、あの綺麗で魅力的な姉を、
特別に慕っているのだろう。
「おまえみたいな下賎の者が、メイリンに近づくなっ!! 無礼者!!」
彼にしては珍しく声を張り上げ、強い目で僕を見据えて怒鳴りつけると、次の瞬間にはくるりと踵を返し、
真っ直ぐに背中を伸ばしてつかつかと去っていった。

メイリンの弟としての彼の怒りももっともである。
メイリンはいい主人として僕に優しくしてくれたのに、僕は勝手な理屈をつけて、彼女を傷つけたし、
泣かせた。メイリンが庇ってくれた所為で誰も知らないけれど、きっと彼が僕のしたことを本当に知って
いたら、首を刎ねるべき、って言ったんだろうな。
ねえメイリン、どうして僕を庇ったりしたの。
君にとって、僕はなんだった?
まだ本当に、僕と仲直りしたい、なんて思ってくれてるの。

僕はここで、君を待つ。もう一度会ったら、約束通り平べったくなるまで謝るよ。
誰に背いたとしても、僕はもう君だけには背かない。
メイリンが僕に出て行けと言ったら……と、そこでさっき自分が言った事を思い出して死にそうな気持ちになる。
うーん、そうしたら……自分の気持ちをとりあえず言ってみよう。出て行きたくないって。


その後もメイリン達はなかなか帰らず、時はゆっくりと過ぎていった。
王都である盛陽は雪深くはなかったが、それでも冬が深まる季節は何度か雪下ろしと雪かきが必要だった。
勿論、いい鍛錬になるとか言って、若い僕は便利にこき使われた。ユイウ様のいない間、僕の稽古の面倒を
見てくれたのは家令であるツァオという男で、邸中の力仕事を経験させてくれてそれはそれで面白かったが、
手合わせのときには、ユイウ様よりはるかに手加減を知らなかった。

ひどく寒い夜には、メイリンがどこかで凍えていないようにと祈った。晴れた暖かい日には、メイリンが
ふと帰ってくるような気がして、何度も門の前を見に出てみたりした。
そして、厳冬の季節を越え、ある日、雪の中で庭の梅の木が、ふっくらした小さな蕾をつけているのに気付く。
もうすぐ冬が、終わるのだ。
雪の中で、寒さに耐えて咲く花。
この邸の誰からも愛されている姫君、梅玲[メイリン]と、同じ名を持つ花。
この邸の南向きの庭には、かなり立派な梅林がある。

──この梅は、結婚なさってすぐの頃、父上が母上の名にちなんで植えさせたのだ。
いつかメイリンが、誇らしげにそう語っていた。

──美しい林であろ? 父上が、木々の手入れにも心を砕かれておるのだ。
  もっとも母上は、恥ずかしがって滅多にここに近寄られたりはせぬのだが。
両親のことを話すメイリンはいつも幸せそうで、くすぐったいくらいだった。
両親にも兄弟にも惜しみなく愛されて、その分周りの人間にもとことん優しく出来る女の子。
誰が、メイリンを好きにならずにいられるだろう。
そう、僕がメイリンを好きで仕方なくたって、ぜんぜんおかしくなんかない。
たとえ、かつては敵同士だったとしても。

──これだけの梅が一斉に花開くと、なかなか壮観なのだぞ。
  今年は一緒に見られるな、ねぇユゥ、きっと一緒に見よう。

そういって零れるように笑うメイリンは、きっとどんな花よりも美しかった。
ねえメイリン、もうすぐ君の名の花が咲く。
いま君はどこで、この空を見ているの。

逢いたい。
君に逢いたい。
痛いほどに、そう思う。


     *     *

その夜、メイリンの夢を見た。
真っ暗な中に雪がしんしんと降る、寒い夜。
雪明りでぼんやりと明るく見える中、ほっそりとした人影が見える。

ああ、メイリンだ。
近づく前からなぜかそう思う。きっちりと編み上げて左右にひと房ずつ細く垂らした編み髪、
優美な細いうなじ。
僕に気がついて、振り返る。──離れてからずっと、待ち望んでいた瞬間だ。

──……ユゥ……
鈴を鳴らすような声が、僕の名を呼ぶ。もうそれだけで、胸が一杯になってしまう。
彼女の手を取ると、雪の中でその体はまるで氷の塊のように冷え切っていた。
「メイリン?! どうしたのこんなに冷えて!! 早く邸に入って、火を熾してもらって温まらなきゃ!!」
少しでも温めるように、思わず抱きしめる。
僕の腕の中で、メイリンがぽつりと言った。

──ユゥは、わたしのこと、嫌いなの?
その声があまりに儚げで哀しげで、胸をぎゅっとつかまれたような感じがする。やっぱり、メイリンが
哀しそうなのは嫌だ。絶対嫌だ。
「違うんだ、好き。君が好き。好きでそうしようもなかったんだ。
ごめんね、ごめんね、ごめんね──!!」
もう何をどう謝るんだったか忘れてしまった。謝れといったのは誰だっけ。何を謝れと言ったのだっけ──?

言葉が出てこない代わりにぎゅっと抱きしめて、冷えたその体が、少しでも暖まってほしいと思った。
代わりに僕が、氷のようになっても構わない。

「ふむ。では、許す。」
耳元ではっきりとした、よく通る声がして目が醒める。

えっ? 
ここは間違いなく、使用人部屋の僕の粗末な寝台だ。そして僕の隣にいるのは。
「め、メイリン?! どうして?! まだこれも夢なの?!」
「いま帰った。あまり大声を出すな。せっかく寝た他の者が起きる。」
そう、ここは大部屋だ。周りの寝台には他の下男が寝ていて、決してメイリンが足を踏み入れるような
ところではない。
……っていうか、何でこんな密着してるの。
「言っておくが、わたしがおまえの寝台に潜りこんだ訳ではないぞ。
おまえを起こしにきたら、おまえの方がわたしを強引に引きこんだのだ。」
そう言って身を起こすメイリンは、横になって僅かに乱れてはいたが、まだきっちりとした正装をしていた。
いつもより華やかな、桜色の豪奢な絹の襦裙。細かく編み上げられて簪で飾られた髪。薄く紅を引いた唇。
一瞬、何もかも忘れて見蕩れてしまう。
「ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!!」
状況がさっぱりつかめないのでとりあえず謝っておく。謝りつつも、ちらちらと久しぶりのメイリンを
盗み見ていた。
ああ、メイリンってこんなにも可愛かっただろうか。勿論初めて見たときからとんでもなく綺麗な女の子
だとは思っていたけど、こんなにも…何というか、匂い立つような、光り輝くような、幻惑するような、
可愛さだっただろうか。

「ここは狭いし、わたしも着替えておらぬから、わたしの寝室へゆくぞ。
まったく、おまえが主人の褥を温めておかぬから、わたしがこんなところまで来る羽目になったではないか。」
メイリンは迷わず先に立って、背中をぴんと伸ばしてすたすたと歩く。
僕の方はといえば、ゆくぞ、と言われたからにはついて行っていいのだろうが、少し自信がなくて
離れたところを歩く。
さっき、許す、と言われただろうか? 何をどこまで許す? そんなに簡単に?
逡巡する僕をメイリンが振り返る。
「どうした? 足元がおぼつかないなら、手を引いてあげようか?」
そんなことはない、廊下にはまだ明かりがぽつぽつ灯っているし、ちゃんと歩けます、と答えようと
したけれど、差し出された手のひらの魅力には勝てなかった。
ほっそりとしてなめらかな手を握ると、その指先ははっとするほど冷たい。
思わず包み込むようにぎゅっと握ると、向こうもぎゅっと握り返してくる。
それだけでもう幸せな気分が満ちて、他には何もいらないとさえ思う。
好き、好き。君が好き。
言葉にできないこの気持ちが、繋いだ手から伝わればいい。
そう思いながら、やわらかな手を握って暗い廊下を歩いた。

メイリンの房室に着くと、火鉢には火が入っていて、数人の侍女が控えていた。
「おまえ達、こんな夜遅くに起こして、済まなかった。」
メイリンが詫びると、侍女達はにっこり笑って応え、なめらかな動作で主人の髪をほどき、衣を脱がせて
体を拭いたりし始めた。
僕はメイリン付きの従者で、いわゆる『男ではない』扱いなので、こういうときも外に出されたりしない。
男としてのものを要求されるときもあるのに……と納得いかない思いだが、毎回、目のやり場に困って
いいのか眼福に喜んでいいのか迷う。
「今日はもう遅いし、わたしも疲れた…。簡単でいい。
薬酒で体を温めてから眠る……。ユゥ、わたしのお気に入りのやつ、出してきて。」
用事を言いつけられ、この場を離れられることに、ちょっと安心する。
『お気に入りのやつ』というのは、実は薬酒でもなんでもなく、ただの梅酒だ。メイリンの御自慢の梅林で
取れた梅の実を、メイリンのお気に入りの配合で漬けたやつ。毎年甕ひとつ分は自分用に取り置きしているらしい。
梅酒を薬酒の括りに入れるの? と僕が怪訝な顔をするといつも、『梅は古来より不老長寿の妙薬として
珍重されてきたのだぞ!! だからこれは薬酒!!』と、真っ赤な顔で反論して、可愛い。
メイリンとしてはシン国の基準で言えば成人していないので飲酒は禁じられているが、薬酒はその範疇では
ないので可、ということらしい。真面目なんだか不真面目なんだか。
やはりメイリンお気に入りの、模様の付いた細瓶に入った梅酒を隣室の棚から取ってくると、着替えの
終わったメイリンが、目をしょぼしょぼさせながら小卓の脇の椅子に腰掛けていた。
「お湯を持ってきて貰ったから、割って温かいのが飲みたい。ユゥも飲む?」
「お供します、姫様。」
メイリンに酒を勧められたら断らないのが二人の間の小さな約束事だ。断るとメイリンが拗ねるのだ。
僕は深めの杯に梅酒を注いでお湯で割って差し出す。メイリンがいつも飲む、六対四の比率で。
自分用にも同じようにして注いでいると、とろんとした瞳で杯に口をつけながら、メイリンが言った。
「姫様、じゃなくてメイリン、って呼ぶの。」
「はい、メイリン。」
まだ後片付けをしている侍女が傍にいて、決して二人きりというわけではなかったが、僕は迷わずそう呼んだ。
メイリンの言うことなら何でも聞いてあげたかったし、何よりそう呼びたかった。
「はいもだめ。そんなによそよそしい言い方しないで。」
「うん、メイリン。君の言う通りにする。」
後ろで扉の閉まる気配がする。最後の侍女がいまそっと、音を立てないよう出て行った。
「ふふ……ユゥ、今日は素直。」
椅子の背もたれにもたれかかりながら、メイリンは蕩けた表情で笑った。もう酔っているのだろうか。
それとも、単に疲れて眠いから、こんな風に妙に色っぽくなっているのだろうか。
もしそうなら、他の男の前で疲れたり眠くなったりするのは、是非止めて頂きたい。
「仲直り、したいから……。あの、鄭おばさんが、そのほうが姫様が喜ぶって、だから……。」
出て行けとか、この期に及んで言われたらどうしよう、と一抹の不安がよぎる。しかしメイリンの
答えはあっさりしていた。
「ふむ、さっき、許すと言ったのに。それに、月のものも順調に来たし。」

月のもの────。
そのときはじめて、メイリンに僕の子供を宿して貰いたかったんだ、それが一番の望みだったんだ、と気付く。
その目論みはとうに失敗していた。
例え妊娠していても、強制的に堕胎させられるなら、失敗した方が良かったに決まっているが、もし
子供が出来ていたら、メイリンがどうしたのか知りたかった。
怒るのか、泣くのか、少しは悩むのか、それとも──?
「仲直りは……せねばならぬ。これからもっと……いそがしく、なる。ユゥにはてつだって…もらわねば。
なにか……たりぬかの? ……そうだ。」
メイリンのろれつの廻らなくなってきた言葉をぼんやりと聞いていると、突然、メイリンは隣の椅子に
座っていた僕の首に腕を廻し、しなだれかかってきた。何が起こったのかわからず固まっている僕の唇に、
なにか、柔らかいものが触れる。

瞬間、すべての音も気配も弾け飛び、世界は僕とメイリンだけになる。
甘い、甘い世界。他には何もいらない。
君が欲しい、君が。もう全部、僕に頂戴───


「……ぷはっ!!」
苦しげにメイリンが息継ぎする声で我に返った。つい夢中になって加減を忘れてしまったみたいだ。
「もぉっ、そんなに激しくくちづけたら、息ができないよ。もっと、やさしく……。」
抗議する声も、少し怒ったような表情も、可愛くて愛しくて仕方がない。
僕は、どうかしてしまったんだろうか?
メイリンは、僕の首に腕を廻したまま、僕の膝の上でころんと丸くなった。
「でも、これで仲直りね。もう、眠くなっちゃった。寝台に連れて行って、ユゥ。」
なんだか、メイリンの方も、いつもより甘えたがりになってるような気がする。
言われた通りに細い体を抱えて立ち上がると腕の中のメイリンがぽつりと言った。
「わたしねえ、すっごく大変だったの……。でもすっごく頑張ったの……。だからほめて、思いっきり。」
「頑張ったんだね、メイリン。」
何のことかは分からないけど僕は素直に褒めた。
メイリンは、滅多にこういう自慢はしない。そのメイリンが、自分から大変で頑張ったなんて言うほどなら、
それは本当にそうなのだろう。
「それからぁ。」
急速にろれつの廻らなくなってきた舌で、メイリンはなおも喋ろうとする。
「さっきわたしのこと……、すきって…、いった……。あれ、ほんと?」
「本当だよ。」
「そぉゆうときはぁっ、すきだよメイリン、って、ゆうのぉっ。」
メイリンは身体もくてんとしてきて、瞼も重く、いまにも寝てしまいそうだ。明日になっても、いまの会話を
憶えているかどうか怪しい。
それでもいま、言ってみたかった。
「好きだよ、メイリン。」
メイリンはまるで上等のお菓子を食べたときのようにくふふ、と笑って、言った。
「わたしもよ。」
それからまた、くふふ、と笑う。
ちょっと待って、それってどういう意味なの。
「いっぱい、はなさなきゃいけないことがある……。でももうねむいから、またあした。」
そうっと寝台に下ろしてあげると、メイリンはほとんど寝ているようだった。ただし、僕の袖は離さない。
「きょうはねぇ、よとぎはなし。でもさむいからぁ、ずっとそばにいて、あたためて。
それからぁ、わたしがねむるまで、かみをなでていて。がんばった、ごほうびに。」
一緒にいることを許されて、胸の中に灯がともったようになる。
「君の望むままに、メイリン。」
ほとんど意識を失う寸前まで僕に甘え続けるメイリンを、どうしてこんなに可愛く感じるんだろう。僕が
隣に身を横たえると、小さな子供のように擦り寄ってくる。
寝入りばなを起こされて、ちょっと目が冴えてしまったけれど、今夜はメイリンの寝顔を見ていられれば
もう他は何も望まなかった。
拭いただけの髪からも、冷たさの残る手足からも、旅の匂いがした。
どこをどう旅して、何を頑張ってきたのだろう。
手伝って欲しいことって、なに。君の傍に、僕の居場所はあるの。
好きって、どういう意味。
君にとって、僕はなに。
訊きたい事は山ほどあったけど、触れ合っているうちに、すべてどこかへ溶けてゆく。
何度か髪を撫でているうちに、すうっと、メイリンの息が寝息に変わっていった。

好きだよ、メイリン。

おやすみ。




     ──続く──

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最終更新:2012年02月25日 19:21