「またお前か」
 これが年頃の娘なら褥に侍らせてやるものを尻も胸もあったもんじゃない子どもでは話にならない。はだけた夜着を正しもせず、ユベールは不機嫌に愚痴を漏らす。
「お前だなんて失礼だわ。訂正なさい。わたくしの名はライラです。お前などではありません」
 扉の前で仁王立ちになり、少女は僅かに頬を染めた。肌の色が白いから少し興奮しただけですぐ赤くなる。ひらひら飾られた薄桃色の夜着と相まってそれは愛らしく見えた。
 後四年早く生まれていたら寝台に連れ込んでいたなと考え、けれどああ口やかましくては萎えるかもしれないと考え直す。黙っていれば可愛いのにとは思っても言わずにおくのが賢い手だ。
「部屋を間違ってるぞ。シャルルの部屋はこっちじゃない」
「存じていますわ。わたくしは、あなたに用があるのだもの」
「生憎だが俺はお前に用などないし、今夜は先約もある。人が訪ねてくる前に帰れ」
 猫の子でも追い払うようにユベールは手を振ってライラを追い出そうとする。しかしライラは動じない。
「あなたの部屋の前でご婦人とお会いしたのだけれどわたくしを見るなり帰ってしまわれたわ。あのご婦人が先約だったのかしら」
 苦虫を噛み潰したかのような顔をしてユベールは深く溜め息をついた。
「追い返したのか」
「違います。わたくしを見るなり逃げ出したのよ」
「お前が用もないのに俺の部屋に来るから逃げなきゃならなくなったんだ。お前が悪い」
 不機嫌極まりないユベールの様子にライラが僅かにたじろぐ。
「そんなに大切なお客様だったの」
「ある意味ではすごくな」
「そう。悪いことをしたのね。ごめんなさい」
 しゅんとうなだれ、ライラは素直に頭を下げる。この娘のこういうところがユベールはとても苦手だった。いつも生意気にしていればいいのに、意外に素直なのだから調子が狂う。
「まあ、そう大事な用でもない。気にするな」
 ライラが安堵して胸を撫で下ろす姿に体がざわめく。子ども相手に一瞬でもやましい思いを抱きかけた自分にユベールは嫌悪する。
「それで、何の用だ」
 とっとと話を聞いて追い返そう。それから、別の女を呼びつければいい。餓えているから子どもに反応するのだ。
 ユベールは気を取り直してライラに問いかけた。
「本を読んでいたのだけれどよくわからないところがあって」
 やっと本題に入れるのが嬉しいのか、ライラは微笑みながらユベールに近づき、躊躇いもせずに寝台に上がってくる。
「あなたに教えてもらおうと思ったの」
 ユベールの隣に座り込み、後ろ手に隠していた本を出す。栞を挟んだページを開けようとした手をユベールが阻む。
「待て。その役目は俺でなくともかまわないだろう」
「あなたが勧めてくれた本だもの。あなたに教わりたいわ」
「それならば昼間に来い」
「昼間は忙しくしているじゃない。わたくしの相手をしている暇がないことくらい知っています」
 だったら尚更他の者に聞くべきだと口にしかけ、ユベールはライラの目が潤んできていることに気がついた。このまま追い出せば自室でこっそり泣くのだろうと思えばユベールはそれ以上言うことができずに掴んでいたライラの手を離した。
「教えてやるからすぐに帰れよ」
 頷き、ライラは本を開いた。子ども向けというには少々難しいものを選んだせいか、ライラはわからない言葉が出てくる度に辞書を引いているのだと言う。それでも、意味の通らない文章がいくつかあり、それをユベールに問うてくる。
「あなたの教え方が一番上手よ。わかりやすいわ」
 嬉しそうに笑い、ライラはユベールの腕に頭をもたせた。腰まで伸びた柔らかな髪が露わな手の甲に触れる。
 ふわり立ち上る香りは女のものとも赤子のものとも違うはずなのにその二つが混じりあったようなユベールには馴染みのない香りだ。ライラからはいつもこの香りがしており、気がつく度にユベールは落ち着かない気分にさせられる。
「重い」
 小さく呟くとライラがはっとして体を離す。
「眠いなら帰れ」
「まだ大丈夫よ。眠くはないわ」
「子どもはとうに寝る時間だ。シャルルは大人しく寝ているぞ」
 無意識にユベールの手はライラの髪を撫で、指で弄ぶ。絹糸に似た感触を心地よく思いながら、それを認めることができない。
「シャルルさまは子どもだもの」
「お前とそう変わらんだろう」
「変わります! わたくしの方が四つも年上だわ」
 きゅっと唇を噛みしめるライラの横顔を見下ろし、ユベールはふと思い至る。ライラは寂しいのかもしれない。
 他国の王室に嫁ぐことが決まり、他国の習慣に慣れるためにと婚姻前から自国を離れることを強要され、頼みの綱の婚約者は年下の子ども。知らぬ国で一人ではさぞや心細かろう。夜毎ユベールを訪ねてくるのは父兄の代わりに甘えているのかもしれない。
 俺のどこがそんなに気に入ったんだかとユベールは独り言ちる。好かれるようなことをした覚えは欠片もないのだから不思議だ。
「四つなんてもう少し年をとれば大した差でもなくなる」
「でも、殿方は年若い女性を好むとききます。シャルルさまも、今は女性に興味など示されないけれど、でも、いつかはあなたのように女性と浮き名を流すようになるもの。そうなった時にはわたくしはもう若くはないからシャルルさまに見向きもしてもらえないんだわ」
 ぐずぐず鼻を啜り始めたライラをユベールは呆れた顔で見下ろした。一体どこでそんな知識を得てくるんだろうか、侍女の噂話にでも聞き耳を立てているようなら止めさせねば。
「若い娘を好む男は確かに多いが、だからといって年上の女が嫌いなわけでもないだろう」
「そう、なのかしら?」
「そうだ。俺だって若い頃は年上の方が好きだった」
「今は違うの?」
「今も嫌いではないが。それは、あれだ、相手になる女が俺より年上より年下の方が多くなったから仕方がない」
 潤んだ目で見上げられ、一つ鼓動が大きく跳ねた。
「とにかく、お前がいつまでも魅力的でいられるように努力すれば年上か年下かなど関係ないはずだ」
「そうかしら?」
「そうだ。今の内からシャルルの心を掴んでおけば他に目移りもすまい。他を知らんのだからな」
 言いながらだんだん心に暗いものが満ちてくるのがわかる。
 シャルルもライラも無垢なまま、互い以外の相手を知らずに生きていくのか。シャルルは別としても、ライラはシャルル以外の男を知らずに死ぬに違いない。柔らかな髪も、育ち始めたばかりのしなやかな肢体も、艶のある唇も、全部シャルルのものだ。
 数年後すっかり女らしくなったであろうライラの体をシャルルが貪る姿を想像すると激情が胸を焼く。
「あなたの話を聞いているとわたくしはいつも安心します」
 か細い腕を強く引き寄せそうになったところで声がかかり、ユベールははっとして息を吐いた。
 相手は異母弟の婚約者でまだ子どもだ。恋の駆け引きも知らない相手に自分はなぜこんなに心かき乱されるのか。ここのところずっと頭を離れない疑問が、気づけば脳裏を駆け巡る。
「わたくしの不安な気持ちをあなたはいつも解してくれる。少しも優しくないはずなのになぜなのかしら」
 ライラは体を動かしてユベールに向き直り、ぎゅっとユベールの手を掴む。
「本当はわかっているのよ。こうして日が落ちてからあなたの部屋に来るのがいけないことだって。今はわたくしが子どもだから許されているだけで、その内許されなくなることも」
 泣きそうなのを隠すようにライラは笑う。その表情が子どもとは思えないほど大人びて美しく、ユベールは思わず息を飲む。
「これはあなたとわたくしだけの秘密にして下さいませね」
 そっと身を乗り出し、ライラがユベールの胸に手を添える。
「……ユベール」
 柔らかな感触が唇の端に触れ、一瞬の後に離れた。
「わたくしの夫になるのがあなただったらよかったと思ったことがあるのよ」
 呟かれた言葉と唇の感触が理解できず呆然としている間にライラは猫のように軽やかに寝台から下りて扉をすり抜けていってしまった。
 ライラが後少しだけ早く生まれてきていたら。シャルルが後少しだけ遅く生まれついていたら。そうしたら婚約者はシャルルではなく自分だったかもしれない。
そう考えたことは一度ならずある。シャルルの母も自分の母も後ろ盾はさほど変わらない。違うのは歳だけだ。ライラに釣り合う未婚の王子がシャルルであった。それだけのこと。
 それだけのことがなぜこんなにも口惜しいのか。あれがそこらの貴族の娘なら抱いて手込めにしてしまえばすむ話。それができないのは他国の王女だから。
 生まれと出逢いが悪かったと頭では理解できるが感情がついていかない。だからといって、何ができるわけでもない。既に婚約はすんでいるのだ。
「俺だって、シャルルではなく俺ならばと思ったことがあるよ」
 今頃泣いているのだろうかと考え、そう言ってやればよかったなと今更遅い呟きをユベールはもらした。

 

 

 

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最終更新:2008年12月27日 05:30