「──なんですって?! メイファお姉さまがあの男と結婚?!」
その噂が彼女にもたらされたのは、夏の休暇に入る少し前の、昼休みのことだった。
「許せない…あの男。のらりくらりと胡散臭くていかがわしくて、ぜんっぜん、
お姉さまに相応しくないわ! 在学中は歯牙にもかけられていなかったくせに…
一体どんな汚い手を…っ!」
「普通に政略結婚だろ」

この春に卒院した、一級上の異国の姫君、ラン メイファ女史と、その前の年に
卒院したこの国の皇族男性の結婚話。客観的には順当な話に怒りまくっているのは
俺の同期生、裏の通称は『黙ってりゃ可愛い』の榎二娘[チァ アルニァン]である。
彼女と俺、直胡風[チ ホゥフォン]は同郷のよしみで──同郷と言っても、王都の
この学院に来てから知り合った、ただ同じ州の出身というだけだが──よく話す仲
だった。ただ通称の通り、『黙ってりゃ』可愛い、なので、よく話すのも良いんだか
悪いんだか…って感じではあったが。
彼女は黙ってりゃそこそこの容姿と、鈴を鳴らすような声でとんでもないことを喋り始める。

「いいえっ!! あんなに相手にしていなかったのだから、お姉さまだってお嫌だったはず!
…そうだわ、女子学寮に残っていた下働きの女の話だと、あの男、春の休暇の間に女子
学寮に来たことがあるとか言ってた…!
他の貴族の娘たちは全員、帰郷していて…。
まさかあの男、私たちの目がないのをいいことに、お姉さまにあんなことやこんなことを…!
いいえそうに違いないわ、きっとお嫁にいけなくなるようなことをされて、それで泣く泣く
結婚を承諾せざるをえなかったのだわ…!
なんてうらやま…いえ、卑劣なのかしら!!」
「おまえこそ普通に不敬だろ。何だその妄想。」

昨年までは『あの方』に不穏な口の利き方をすれば、どこに居ても上級生が真っ青になって
飛んできて、『悪いことは言わないからその辺にしておいた方がいい』と忠告されていたもの
だが、彼らが卒院してしまえば、割と野放しである。
いや、以前から、男に対しては厳しかったが、女に対しては眼中に無いというか、あまり
厳しくなくて、だからこそアルニァンもここまで暴走しているのかもしれないが。
それにしても仮にも皇族の一員に向かってあの男とかそんな口の利き方をしてもいいのか
と思うが、突っ込む余裕もなくこの同期生は凄い勢いで妄想を垂れ流している。

「はっ…そういうことなら、機会はまだあったはずだわ。
お姉様が遅くなった学院からの帰り道、暗がりで…!! ああ、なんてこと!!
そういえばあの男、昨年はお姉さまの帰り道でよく目撃されてっ…!!」
「護衛がついてるだろ」
「護衛なんてシン国に雇われている奴らよ。いざとなれば皇族に逆らえる筈も無いわ。
侍女だってそうよ。…あぁっ!! ということは、夜這いの手引きだって簡単だわ?!」

「おまえさっき、女子学寮では『わたしたちの目がなかったから』とか言ってなかったか。
女子学寮は大して広くもないひとつの邸(やしき)なんだから、他の奴らが居る時は無理だろ。」
アルニァンの妄想のあまりのひどさについ真面目に突っ込みを入れてしまう。
「いいえ、侵入さえ出来れば、声を出させない方法なんていくらでもあるわ!
可哀想なお姉様!! 安全だと思っていた自室に侵入されて、眠っている間に手足を拘束されて、
口には何か噛まされて…!!
ああっ!! わたくしが同じ房室に寝泊りして、お守りするんだったわ! はぁ…はぁ…」
「どう考えてもおまえが一番危ないだろ。つーかラン女史に対しても、物凄く失礼だろその妄想。」
一応合いの手を入れてはみたものの、最早全く聞いている様子も無い。

「大国の軍事力にモノを言わせてお姉様の国に結婚を迫って──いえ、経済力かしら?
いずれにせよお姉様の祖国は小国の朝貢国、逆らえる筈も無いわ。
無理矢理奪ってきて妻にして──ということは、お姉様のあの極上のしなやかな肢体に
夜な夜なあんなことやこんなことを出来るってこと?!
なんて、うらやまねたましいッッ!!」
「女の癖に、ありえない本音がだだ漏れだぞ、アルニァン。
つーか、なんか生々しいな。女子寮では、もしかして一緒に風呂でも入ったりすんのか?」

「まさか!! お姉様は、シン国がお招きしている『留学生』よ? 国賓よ?
いつも侍女がきっちりついていてそんな気軽なこと、出来やしないわ。
でもね、抜け道はあるの。
自由に外出しにくいお姉様と一緒に、女の子だけで近場の温泉旅行を企画したことが
あったの。
女子寮では抜け駆け禁止協定があるから、皆でよ。
といっても、そのときはお姉様も含めて五人だったけどね。
事前に申請さえ出しておけば、近場の外出くらい駄目ってこと無いし。
何よりメイファお姉様も大変、喜んでくださって…。

──勿論目的は、 裸 の お つ き あ い 。」

アルニァンは、うら若き乙女にあるまじき腹黒さで、にやりと笑った。
「…はあ。」
俺が護衛なら、こんな危ない奴との小旅行なんて許可しないが。

「わたしたちも、とっても楽しかったわ…!!
お姉様の身体を洗って差し上げるときはね、『お背中お流しします。』って、
言い切らなきゃ駄目なの。
『お背中お流ししましょうか?』では、断る隙があるものね。
お姉様はお優しいから、ちょっと強引に迫れば学友の少女の申し出を無下に
断ったりなんて、なさらないのよ。
お姉様は、大変肌がきめ細やかで、すべすべで…何というか、さすが王族のお姫様、
『素材が違う』って感じ?
勿論それだけではなくて、お姉様はお体を鍛えてらっしゃるから、全身引き締まっていて、
その身体の線の美しいこと!!
胸の方は…その、痩せていらっしゃるから多少控えめではあるのだけれど、形は美しいし、
充分柔らかいし。」
「やわ…っ?! ちょっと待て、触ったのか?!」

「あらやだ、黙ってるから無視してるのかと思ったら、しっかり聞いてるのね。
女同士でお風呂に入るんだから、当然でしょ? むしろそれが目的でしょ?
コツはね、あくまで可愛く、明るく、爽やかに。」
「…何やってんだ女ども。」
「女同士だから楽しいんでしょ? すべすべだし、可愛いし、柔らかいし。
お湯に浸かってほんのりと桜色に染まったお姉様の肌も素敵だったわ…!!」
俺が護衛だったら、こいつは姫様に近づけちゃ駄目だと思った。

「まさかそのノリで、宿でも雑魚寝したんじゃ無いだろうな。」
「何言ってるのよ雑魚寝なんて…お姉様に、似つかわしくないわ。
他の子達だって貴族の娘なんですから、それぞれ侍女付きで来てたし、
部屋は別々に取ったわ。
ただ、夜は寂しくなって、皆でお姉様のお部屋にお邪魔したけど。」
「同じことだろうが。」
「そんなこと無いわ、夜半にはおいとましたし。
お姉様を寝不足にして、お肌を荒れさせるわけにもいかないしね。
まあ、それまでにくすぐり倒したり、寝台で添い寝させてもらったりしたけど。
濡れた浴衣越しの肌もいいけど、薄布の夜着もお可愛らしくて。
また瞼の少し重くなった頃が、しどけなくて色っぽくて」

「さっさと開放してやれよ。ラン女史も闖入者を追い出さないとどうせ
眠れないんだから!」
過去の話に突っ込んでも無駄と知りながら、俺はしつこい下級生に付きまとわれる
人気者のお姫様に同情した。
「お姉様だって翌朝楽しかったって言ってくださったわよ。」
「ああいう気品のある姫様が『昨日は酷い目に逢った~』とか、愚痴を言えるはず無いだろ?!
察してやれよそのくらい!」

「違うわっ! お姉様は心根も綺麗でいらっしゃるから、私たちの心のこもったもてなしに、
そんなひどいこと、お考えにならないわ!!
あんたは知らなくともねえ、お姉様の美しいところは外見もだけど何より内面! なのよ!」
そう言ってアルニァンはうっとりと遠い目をした。


「そう、あれはわたくしがこの王都に来て間もない頃…。
女史学寮のお姉様方が、親睦会も兼ねて茶話会を開いてくださったことがあったの。
お姉様方のうちお一人が、わざわざ侍女にできたてのお菓子を買いに行かせて。」
いきなりさらに過去話か。女の話はどうもぽんぽん飛んでちょっと辛い。まあ、ついていく
必要も無いが。
「揚げ菓子だったわ。
でもね、買ってくる途中でちょっとした事故があって、その侍女が二、三個落としてしまったの。
勿論余分に買ってはおいたようなんだけど、結果的に、ひとり分足りなくなって…
そのとき、真っ先に譲ってくださったのが、メイファお姉様よ!」

「要は食い気か。
おまえ、甘いもの好きだしな。」
「揚げ菓子が好きなのは、そのときからよ!! 
ひとり分足りないと分かったときには、微妙な雰囲気が流れて。だってそのお菓子からは、
凶悪なほどに美味しそうな香りが流れてきていたんだもの。あの香りの魔力に逆らえる
女の子なんて、そうそういやしないわ。
誰もが、足りない状況と自分のことを考えて押し黙っている、と思っていたら…。
メイファお姉様があのよく通る素敵な声で、おっしゃったの。
『わたしの分はいいから、侍女を怒らないでやってくれないかな』
…って。
ああ!! なんて素晴らしいのかしら!! とっさに場の雰囲気を変えた上に、侍女のことまで
思いやって…!!」

「ああ、なんか人徳あるもんな、ラン女史。
あれなら皇族に嫁いでも大丈夫なんじゃないか。」
「ちょっと!! ひとが美しい思い出に浸っているときに、嫌なこと思い出させないでよ!!
ともかく順序から言えば、そのとき最下級生であったわたくしが辞退するのが筋だわ。
そう申し上げたら…っ。お、お姉様は、半分こにしようって……!!
あぁっ…!! あの白魚のような指で、手ずからお割り下さって、しかも奥ゆかしくも
小さい方をお取りになって…!!」
「そこはおまえが小さい方取るとこだろ」

「うるさいわね! お姉様のお優しさに水差さないでくれる?
そのときの菓子の味の、甘美だったこと…!!
私はそのとき思ったの、世の中には、こんなに美味しくて、素敵なものがあるんだって。
一生懸命お勉強を頑張って、この学院に入って良かった!!って。
そのあと、同じお店で何度も同じ揚げ菓子を買い求めてはみたけど、あのときほど美味しく
感じたことは無いわ。」
「まあ、状況でメシが美味くなったりすることって、あるよな。」

「あら、珍しく同意してくれるのね。
そうなの、そのときのお菓子は、とってもとっても美味しかったのよ…!!
…とってもね。」
少し遠くを見つめるようにして、アルニァンは、溜息をつくように最後の言葉を呟いた。
「…そうか。」
その感傷ぶりにほんのちょっと共感しかけたその刹那。

「ああ…わたくしがせめて男だったら、お姉様を攫って逃げて差し上げるのに。」
うわ、まだ話し続ける気か。いい加減にしろ。
せめてさっきの表情のまま黙ってろ。
「普通に身分違いだろ。つか迷惑。」
「それも駄目なら、一夜限りの美しい思い出とかっ…!!
はっ?! 一夜限りなら、女同士でも出来ないことはないわね?
問題はお姉様のほうが腕っ節がお強いことだけれど、それはいくらでも方策はあるわ…!!」
俺は確信した。こいつを、姫様の半径五里以内に立ち入らせては駄目だ。
姫様の祖国が、遠い西の辺境で良かった。

そのときやっと、昼休みの終わりを告げる鐘が二回、打ち鳴らされるのが聞こえた。
ようやく、このとんでもない妄想話から開放される。
「やれやれ、次の講義の時間だ。
アルニァン、王族や皇族とは格が違うとはいえ、おまえだって出るとこ出れば貴族の
お姫様なんだから、もう少し言動には気をつけた方がいいぞ。」
「あら、わたくしだって、出るとこ出れば貴族のお姫様なのですから、場面くらい
ちゃんと読めますとも。
いざとなったときの猫被りの鮮やかさを、あなたにお見せできないのが残念ですけど。
それに、他人には話しづらい妄想話を一緒に楽しむのも、わたしなりの親愛の情の
現われなのですけれどね。」

「親愛の情なら、もうちょっとましな現し方をしろ。」
俺が少し苦い顔でそう吐き捨てると、アルニァンは女の子特有の甘ったるい笑い方で
ふふっと笑った。
そしていつもの、鈴を鳴らすような声で言う。
「さあ、次の講義に遅れますわよ!」
そして明るい色の裳裾を翻し、簪の飾りを揺らしながら、俺の前を軽やかに駆け出した。



        ────終────

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最終更新:2011年11月19日 15:54