その昔、『芙蓉の君』と呼ばれる女官がいた。
賓客を舞や歌でもてなす、宮廷の──正確に言うと、女官が所属
するのは後宮だが──尚儀という部署に属していた。
彼女は容姿も大層美しかったが、下級遺族の出身ながら教養深く、
詩歌にも精通し、そして何よりも抜きん出ていたのは、その歌声。
彼女が唄えば、男も女も、老いも若きも、言葉の通じぬ異国からの
来訪者さえ、高く低く、不思議と心を揺らされたという。
大輪の華のような女性、という意味を込めて、彼女は誰から
ともなく『芙蓉の君』と呼ばれるようになった。

当然のようにあまたの貴公子が彼女に求婚したが、結局彼女を
手に入れたのは、皇帝陛下だった。
『芙蓉の君』は正二品の貴妃として迎えられ、寵愛を受けることになる。
陛下はひどく彼女に夢中になり──他の貴妃達の事を次第に顧みなく
なった。
それにつれ『芙蓉の君』は陛下からの寵愛と同様に、他の貴妃たち
からの憎悪も一身に集めた。
その頃から、彼女は体調を崩し始め、徐々に床に伏せる日が増えていく。
呪詛を受けたとも、人知れず毒を盛られたとも言われたが、真相は
分からないままだ。
陛下も一流の医師と一流の祈祷師を彼女のために用意したが、
彼女の衰弱を止めることは叶わなかった。最後は静養のため実家に
戻り、そのまま帰らぬ人となった。
後に、わずか五歳の皇子を一人、遺して。


  *   *   *

「──というのが『芙蓉の君』の話の概要かな、大体。
まあ、妃同士のいざこざで悲劇が起きる、ってのは後宮ではごく
ありふれた話だけど。」
メイファは身じろぎもせず学友の語る過去の噂話を聞いていた。
「その話で母親を亡くした皇子、ってのがあのレンなのか?」
「そう。一説には『芙蓉の君』が有り余るほどの才能を持った
所為で憎まれる様になったから、残された皇子は才能を開花させる
ことを拒むようになった、とかね。
『あの方』はそんなに繊細じゃないと思うけど。」
「わたしは、何も、知らなかったのだな・・・。レンのことについて。
本当に知ろうとすれば、すぐに分かったはずなのに。」
泣きそうに顔をゆがめて唇を噛むメイファを見て、ルイチェンは
慌てて付け加える。
「それは…、『あの方』自身が、そう仕向けていたのだから、
メイファが自分を責める必要は全然ないと思うよ。同情するのも、
何か違うと思うし。」
好きな娘の関心を引くために、同情を引き出すのも、それなりに
良くある手だ。
「『あの方』の心情を推測するのも僭越だけど、普通にしてて、
欲しかったんだと思うな。」
「普通に…」
「大体『あの方』を前にして普通にしていられる事自体稀有だしね。」
「…悪い奴じゃ、ないぞ?」
「それはメイファに対してだけだって!
他の奴に対してはもっとなんか怖いし、得体が知れないの! 
『あの方』なら呪われたら呪い返すし、毒を盛られたらご自身は
無傷な上で相手に盛り返すよきっと!」


「…蛙を」
「へ?」
「レンが初等1年の頃、レンと親しくなろうとして、蛙やら青虫やら
贈られた人がいたって聞いた。
あの人たちは、知ってたのかな、この話」
「さあ…王都にいる貴族の子息なら、普通知ってるとは思うけど」
「じゃあ、気持ち悪かったろうな…。親愛の情に見せかけた裏に、
同情や打算や損得勘定が見え隠れしてたら。外見だけは取り繕われた
綺麗な箱に、気味の悪い虫の類が入ってるのと、同じくらいには。」
「…ああ。」
メイファは思った。では自分はどう思われていたのだろう。
貴き身分には貴きなりの悲哀が、あることは知っていた。メイファ
だって小国とはいえ、末姫とはいえ、王族の端くれだ。でも目の前の
レンは、何もかも持っているかのように思っていた。勝手に。
何も知らない子供だ──と、思われていたような、気がする。


  *   *   *

卒院したシン国の学友達は、大抵が宮廷へ出仕することが決まっていた。
何人かは、郷里に帰って地方総督府に仕えることになる。
学友達が慌しく過ごす中、『留学生』は、人質として切れ間なくシン国
への滞在を求められるため、メイファは私物の整理をしながら、入れ替わり
に来る従兄弟の少年、コゥウェンの到着を待った。
彼は今年13歳になり、年齢的には去年から入院してメイファと一年滞在期間を
被らせることも出来たが、そうはせず今年から来ることにしたらしい。
メイファが沈んでいるのを心配したルイチェンが、レンに手紙を書くことを
薦めてくれた。
色々な事が頭の中を駆け巡ってほとんど筆が進まなかったが、なんとか封を
してルイチェンに託した。


それは、メイファの従兄弟のコゥウェンが、明日にも到着するという日だった。
階下に、久しぶりに誰か訪問者のの気配がする。
他の貴族の娘達は、郷里に帰っていて、いまこの学寮にいるのはメイファと
その侍女、従者たちだけだ。正面玄関から来るのなら、メイファの客なのだろう。
従兄弟のコゥウェンが、予定より早く到着した知らせだろうか。
メイファが階段を下りてゆくと、侍女が下から上がってきた。
「メイファ様。──お客様が」
「分かった。すぐ行こう」
この時期に、学寮に訪問があるのは祖国からの使いの類だろう、としか思って
いなかった。
だから、共用の応接室にその人が悠然と座っているのを見たときには、心臓が
止まりそうになった。
『あの方』のことなら前振りしてくれ、といった友人の気持ちが、少し分かる
気がした。

その人は、ほぼ一ヶ月の間忽然と王都から姿を消していたにもかかわらず、いつもの
ように髪を結いもせずひとつに束ね、ゆったりとした袍を纏って茶器を前に
メイファを待っていた。
「レ・・・レンっ?! いつ帰った?!」
「今朝」


今朝、ということは、帰ってきてすぐにここに来たのか。そう思うと、少し胸の
奥が熱くなる。
「疲れたー。大体、仕事というより誘拐か拉致だよ。
誰に言う間もなく強制的に連れて行かれるし。
終わるまで帰して貰えないし。
凄く急いだのにメイファの卒院式には間に合わないし。
──綺麗に着飾ったところも見たかったのに。
ねえメイファ、労わって、ねぎらって?」

言いたいことが沢山、あった。
訊きたいことも沢山、あった。
それらがぐるぐると頭の中で渦を巻く。
──仕事だろう、甘えるな。
──女子学寮は男子禁制だぞ。何をのんびりこんなとこで茶を啜っている。
──今までいったいどこへ行っていた? 
──このまま二度と逢えないかと思った。
──わたしのこと、どんな風に思っていた?
──もっとたくさん、話がしたかった。もっと深く、知りたかった。

全てを飲み込んだまま、もう逢えずに王都を離れるのだ、と諦めていた。

熱く胸の内で渦巻く感情は言葉にならず、大粒の涙となって瞳から零れた。
十二歳で祖国を離れるとき、軽々しく泣いたりしない、と心に決めていたのに。
「…っく、…レンの、馬鹿ぁ…」
堪えていた分だけ、一度崩れると止まらない。激しくしゃくりあげ、ぼろぼろと
涙を落とす。
「そんなに、寂しかった?」
「寂しかった…とか、じゃないっ…。…っく、た、ただ…別れも…っ、言えずに、
離れるのが、…嫌だった、だけだ…っ……」
頬から零れた雫が、メイファの旗袍の胸元の辺りにいくつも小さな染みを作ってゆく。
「僕は、寂しかったけどな。メイファの声を聞かないと、こっちも元気が出ない。」
「勝手な…ことを…っ。どのみち、もう…わたしは、帰るのに…」
もうこれからは、逢えないのに。

「──メイファ。」
ふいに、傍で声がした。レンが、立って傍まで来ていたのだ。あまりの近さに
どきりとする。
「メイファは、泣き顔も、そそるね? あんまり泣いてると、襲うよ?」
ぞくりとするほど甘い声でそう囁かれて、思わず後ずさる。
と、ついと顎を持ち上げられ、唇のあいだから何かを押し込まれた。
「むぐ…」
突然のことに頭の中が真っ白になっているあいだにも、それは口の中でほろりと
溶けて、甘い味が広がる。──砂糖菓子だ。
「少し、甘いものでも口にして、落ち着きなさい。」
微かに香がかおり立つ手巾でそっと涙を押さえられ、そのままレンに手を
引かれて、椅子に腰掛けさせられる。卓上には、先程の砂糖菓子が、皿に盛られていた。
「これ、ね…お土産。そう変わったものでもないんだけど、形が可愛かったから、つい。」
親指の先ほどの大きさのそれは、確かにころりと丸く、可愛らしい形の
──梅の花の形をしていた。
別に自分の名が梅花[メイファ]だからといって関係ないし、たかが砂糖菓子にそこまでの
意味を込めたはずもないのだが、なにとはなしに、頬が熱くなる。


「──あ、あの話。」
「ん?」
「前に、『試験が終わったら、話す』って言ってた話。
友人が、『芙蓉の君』の話だろうって言うから、友人から、聞いてしまった。
もうレンとは逢えないと思っていたし。──いけなかった、だろうか?」
「いけない、なんてことはないよ。そもそもまさか本当に卒院間際まで全く聞いてない
ようなことになるとは、思ってなかったし。
リィ君から概要を聞いた限りでは、間違った内容も含まれてない。
母親が死んだ話なんてするのは気詰まりだから、いざとなると誰かに聞いてって、
他人に振ったかも。」
「あれ…もうルイチェンと会ったのか。」
そしてルイチェンはあっさり喋ったのか。あんなに凄い勢いで、僕が喋ったって
ことは言わないでくれぇぇぇ!! と叫んでいたのに。
「会ったよ。彼はもう出仕してたから、出かける前に、ちょっとね。
ねえ、それであの話、メイファはどう思った?」
「ど、どう思った?! それをいま、答えろと?!」
近しい人の、重苦しい過去。それを聞いたときの、名状しがたい、重苦しい気持ち。
纏まらない想い。
それらを、簡潔に述べよというのか。いきなり難問を課すな。

メイファはふと、レンがじっ…とこちらを見ていることに気づいた。
──表情を、読まれている。
こんなときはいつもの細目の微笑ではなく、吸い込まれるような深い色の瞳が、
瞬きもせず、微動だにせず、こちらの眼を捉えていて、少し動悸が上がる。
レンは、人の表情から心の動きを読むのがひどく得意だ。特にメイファは、
素直で分かりやすい、とよく言われた。その特技の所為でレンは、『人の心が読める』
という噂もあるくらいだ。

メイファは諦めて、なるべく率直に答えた。
「簡単な言葉では、あらわせない…」
「成る程。メイファの表情は、見てて面白いよ。飽きない。
じゃあ、メイファなら、どうする? 子供のうちに、庇護者を亡くしてしまって、
宮中で独りぼっちになったとしたら。」
──またしてもやけに難しい質問を。
メイファは、六人兄弟の末姫だ。たとえ両親供に亡くなったとしても、庇護者が
いなくなるわけではない。それにハリ国は余程子供が出来ない場合を除いて、
王族でも妃はほぼ一人。
妃が何人もいて、それぞれに位やら後ろ盾やらあって権力争いしているシン国とでは
状況が全く違う。
ハリ国は、小さくて、貧しくて、ゆえに平和な国なのだ。
強大な力と領土と文化を誇り、常に内部とも外部とも戦わねばならない中華の国、
シン国の中で生きる母も同母兄弟もいない皇子の立場になって考えるには──
知識も、経験も、何もかもが足りない気がした。確かに自分は、レンから見れば
どうしようもなく子供に見えるだろう。

ひどく逡巡するメイファより先に、レンが口を開いた。
「そんなに難しく考えないで。
メイファだったら──きっと、周りに認めてもらう為に、一生懸命頑張るんだと
思うな。そして、君の場合はそれでそれなりに上手くいく。
僕の場合も同じ。
幼くして親を亡くす、なんて世間ではごくありふれた事象だ。誰でも自分に出来る
範囲で、何とかやっていくしかない。
目立たないよう末席に居る、というのが自分に出来る最善の処世法だっただけ。
まあ、それも死んだ母上の考えたことだけど。」
「母御が、そんなことを?」
「勝者には、妬みを。敗者には、嘲りを。それが宮廷の常なら、おまえは、
なるべく彼らにとって目立たない存在で居なさい…ってね。」


──そうか。
宮廷内部の貴人達から敵と見做されなければよくて、それ以下の貴族達から
どう思われようと、末席に居ることを咎め立てされなければ良かったのか。
それが、レンの言う処世法、ということなのか。
「それも成人するまでのこと。
十八歳で成人してしまえば、結婚して宮廷の外に邸(やしき)を構えることも出来る。
その頃までに、自分の身を守る程度の力はつけておきなさいって。」
「…それも、母御が?」
「そう。」
メイファは、ようやく求めていた答が得られたことを感じた。
どうしたら、レンはあの不思議な『捨て続ける生』を生きないで済むのか。どこに
その終着点はあるのか。
何のことはない、それは既に目前、あるいは得られていたのだ。
レンは間もなく誰かと結婚して、静かに幸せに生きるのだろう。
自分がそれを見ることがないのは、少し切ないけれど。
「最後にそれが聞けて、良かった。」
メイファは心の底からの微笑を返した。しかし、次に聞いたのは、予想もしない言葉だった。

「さっきからまるで他人事だけど、約束のことは、憶えてる?」
「…は?」
話の矛先が急に自分に向いたらしきことを感じて、思い切り間抜けな声を出してしまう。
── や く そ く ?
やくそくって、約束? 何の? 
「約束どおり、間もなく、結婚の申し込みをするよ。シン国からハリ国へ。」
へ?
また気の抜けた声になりそうだったので、今度は注意して口には出さないようにした。
「結婚って…誰と、誰、の」
「シン国皇子、チェン シュンレンと、ハリ国王女、ラン メイファでしょ。他に
誰か居る?」
「待て待て待て待てっ! 約束って何だ?! 全く覚えがないが?!」
「いいよ。憶えてないなら憶えてないで。決めるのは自分じゃないってメイファも
言ってたし、必要なら証人も居るし」
そう。
王族の、特に姫にとって、自由な恋愛など存在しない。婚姻は、国と国、王族と
有力者の重要な絆であり、姫はそのための貴重な駒なのだ。決定権を持つのは
国の王であり、メイファの場合は、父王だ。
高確率で、望まぬ相手とめあわせられ、しかも逃げ場はない。
だからこそ、我儘と知りつつメイファは非婚を望んでいたのだ。

それはそれとして。
本当に、全く覚えがない。
「それはいったいいつ頃の…?」
「メイファが十二歳の頃かな。『婚姻を決めるのは自分自身じゃないから、然るべき
手順を踏んで、国の機関を通して、正式に申し込むように。』って言ってた。」
  じ ゅ う に さ い ?
まるっきり子供じゃないか。
かすかに、似たようなことを言ったことがあった…ような気がする。
あれは、いつのことだったか。十二歳の自分と、十三歳のレンが居て。
必死で記憶の糸を手繰る。

 ──そのようなからかいは、無礼でしょう!!
   王族の婚姻は当人同士で取り決めるものではありません!
   然るべき年齢になってから、然るべき手順を踏んで、
   シン国として正式に申し込むものです!!
   そうすれば、わたしではなく、お父様が判断なさいます!!


…確かに言った、似たようなことを。あれは、何かでレンにひどくからかわれて、
激昂して。
しかしあれは、喧嘩の売り言葉に買い言葉で、しかも十二歳の子供が十三歳の子供に
対して言ったわけで。
おとといきやがれ、的な意味合いでは、なかったか…?
それとも、全然別の場面でなにか別の約束でもしたのか。

「あの…。何か、喧嘩の途中で。」
「まあね。」
「わたしは、凄く怒ってて。」
「そう」
「どちらかというと、やれるものならやってみろというか、やれないだろうというか、
やれないだろうからこの話はおしまいだ、的な…。」
「そう。偉いねメイファ、よく思い出せたねー。」
いいこいいこ、と頭を撫でそうな勢いのレンに、メイファがぶち切れる。
「ど・こ・が・、約束だっっ! 心配して損したっ!!
言葉尻を捉えただけじゃないかっ!!」
「…うん、でもね、一国のお姫様としてはね、言動に注意したほうがいいよ?
こうして言葉尻を捉えて悪用する、悪い人も居るからね?」
──『言わされた』。
メイファはそう思った。レンは驚くほどそういった話術が得意だ。人を怒らすのも、
畏れさすのも思いのまま。しかも、王都に来て日の浅い頃の、いまより更に幼い自分なら、
怒らせて目的通りの言葉を言わせるのも、この男にとっては容易いだろう。
「それに、その後すぐシン国とハリ国で内約を結んだから、約束ってのも嘘じゃないし」
ないやく?
「内約って…なにを」
「メイファが十八で卒院したら改めて結婚を申し込むから、それまで他から申し込みを
受けないこと。」
……事実上の婚約内定じゃないか。
「それを本人に何の相談もなく…?」
「いや、メイファは言質とられてるから、承諾扱い。」
「言質!! 言質って言ったな! やっぱり約束じゃなくて騙し討ちだろうそれは!」
「ハリ国の人達がのんびりしすぎなんだよ。全く。
メイファなんかいまだに留学生の役割は、人質役と勉学だけだと思ってるみたいだし。」
「それ以外を、求められたことなど、……ないが?」
何かやり忘れたことでもあるというのか。
「王子の場合、その役割は、すぐに分かっていたようだよね。他国の皇族、貴族、王族と
繋がりを作っておくこと。
『留学』は、王族に適齢の男児が居なければ、『出仕』によっても換えられる。
では、あえて姫を、送りこむとしたら? 君が王なら、その場合、国益のために、何を望む?」
『出仕』というのもまた、朝貢国の王族がシン国の朝廷に出仕するという制度だが、
妻と、未成人の子供を伴うことが条件で、要は妻子が人質なので、人選は『留学』のときより
更に難航するのだが。

国益。
王族の姫が、国益のために、最大の価値を持つのはどんなときか。
そんなことは、幼い頃からよく言い聞かせられてきた。──でも。
「わたしは…、父上からは、何も聞かされていないし、現状以上のことは、望まれていない!」
「その様子、少し気づいた? 
そう、姫の場合は、他国と婚姻関係を結ぶことが、最も国益になる。
シン王朝が始まってから、姫が留学生に選ばれた例は少なくて、いままでに全部で
十五名。うち八名がシン国の皇室に嫁ぎ、三名がシン国の貴族、二名が近隣の朝貢国に
嫁いでいる。」
「そんなに…?」


「王朝が始まってから数えるほどしか居ないのだから、本当に稀だよ。一番近い例は十七年前。
皇族の間でこそ君が来てから『前例』の話が出たけど、多分、学院に居た貴族の子たちは、
前例のことはほとんど知らなかったんじゃないかな。
政略結婚を求めるのは普通朝貢国のほうだけど、娶る側としては、相手がそこそこ
魅力的な相手で、国交が安定して紛争の種を潰せるなら、充分に価値はある。
見たこともない異国で育った娘より、同じ学院で学んだ経験があれば娶りやすいしね。
妻に学を求めるなら尚更。
君は、そうとは知らず、見合いの席に放り込まれていたようなものだよ。」
もはや、メイファは愕然としすぎて声も出ない。
「ハリ国王は、お転婆な娘に学問をさせてやるつもりだったみたいだけど、それが
シン国側からどう見られているかまでは頭が廻ってなかった。」

「それは…でも、わたしに、求婚なんかがそうそう来るとも思えないが。」
「分かってないなあ」
レンは呆れたような声を出した。
「卒院式では随分沢山の花を貰ったそうじゃないか。
あれが君に関心のある男達の数だよ。
学院内の奴らも、その他の奴らもね、牽制するのに、結構苦労してたんだから。」
少し憮然として言い放つ。
「花…って、おまえ、卒院式のときは王都にさえ居なかったのに、どうして知って」
「鼠さんや猫さんが、時々報告してくれます。」
レンは少しいたずらっぽく笑った。何の比喩だろう。

「ともかく、君は自分で思うより魅力的な娘だよ。
たとえ僕の話を断ったとしても、求婚者はどれだけでも来る。いずれ、断りきれなくなる。
いつか誰かと結婚するのなら、僕にしておきなさい。」


──なんか、変だ。息が、苦しい。
メイファは真正面からこんな風に褒められるのは、はじめてのような気がした。
こんなに長い間、見つめ続けられるのも。
「君は、女としてはまだ蕾。蕾をかたく閉じることで、人の世の悲しみも辛さも避けようと
したのだろうけど、花は遅かれ早かれ、開くときが来る。──大人になれば。」
──手が、震えて、動かない。
「わたしが、子供だと、そう言いたいのか。」
──頭が、働かない。何も、考えられない。
「どうかな? 僕としては、そろそろ咲いて欲しいところだけど。
…試してみる?」
ゆっくりと、椅子から立ったレンの手がこちらに伸びてきた。その動きがあまりに
優雅で美しくて、何故か目を離せない。彼の手が自分の顎を捉えるのを、かがんだ
その顔が近づいてくるのを、不思議な気持ちで見つめていた。

……。

「──ッッぎゃ────────ッッッ!!!」
メイファは耳まで赤くして、素っ頓狂な叫び声を発しながらレンを突き飛ばした。
「何もそんなに色気のない叫び方しなくても…く、くくく…っ…。」
突き飛ばされた方のレンは、身体を折り曲げて震わせながら、押さえ切れない
といった様子で喉の奥で笑っている。
「うるさいっっ!! ちょっとじっとしてれば調子に乗って…っ。どうして、
唇を舐めるっ?!」
「くくく…、ふふ、舌を使うのくらい、今時子供だって…もしかして、
口づけするのも、初めてだった?」
レンは少し意地悪な笑みを浮かべて、『問いかける』。
「もしかしても何も、すべて初めてに決まっているだろうっ!!」
彼は決して、聞きたいことを素直に聞いたりしない。誘導尋問のように、相手が
取り乱して自ら口を開くのを待つのだ。メイファも今『問い』の答えを『言わされた』
ことはうすうす感じたが、今はそれどころではなかった。第一、そんなはしたない
ことを自分が経験しているはずがないではないか。
「王都に来てからなら、悪い虫がつかないよう見ていたけど、その前のことは分からないし。
早い子なら、十二歳なら充分…ねえ?」
「ねえ、じゃないっ! おまえと一緒にするなっ!! 物凄い侮辱だっ!!
…あと、なんか変なとこも触ったっっ!!」
それで反射的に突き飛ばしてしまったのだ。
「ああ、胸? あっちも、ちょっと味見。
服の上から見ると平原ぽいのに、触ってみると意外と丘っぽく育って」
「失礼なっ!! なんか、失礼だ!!! 平原に謝れ! ついでに草原にも謝れっっ!!!」
だんだん支離滅裂になってくる。
レンの方は真っ赤になって怒りまくるメイファを眺めながら、愉しげに目を細めていた。

それが、メイファが『留学生』として王都で過ごした最後の日。
次の日には、彼女の5つ年下の従兄弟が到着し、彼女は祖国への帰途につくことになる。



        ────続く────

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最終更新:2010年04月24日 19:11