一週間が経った。
クロードはちゃんと毎晩新妻ジュスティーヌの待つ寝室へ足を運び、酒杯を傾けがてら他愛ない話などはするが、
寝台は常に彼女ひとりに明け渡し、枕を並べることは一度もなかった。


(こんなことでいいのかしら)
昨日と同じくひとりでに目が覚めたジュスティーヌは、昨日と同じことを思った。
窓から差し込む光がぼんやりとあたりを照らし出しているが、
なにぶん部屋が広すぎるので四方の角にはとても届かない。
クロードが眠る絹張りの長椅子も、まだ薄暗がりのなかにたたずんでいる。

上体だけ起こしたジュスティーヌは、昔からのくせで膝を引き寄せその上に顎をのせた。
昔から、遊戯室や図書室でこんなふうにぼんやりしていると、昔から兄妹たちが何かとちょっかいをかけてくれたものだ。
だが今は彼らはいない。
自分の世話を焼くのが仕事である侍女たちは別として、自分に「特別な」関心を向ける者はこの宮廷にはいない。
ジュスティーヌは両膝の間に顎をもう少し深く埋めた。

たしかに結婚には多大な夢を抱いていたけれど、
自分たちの婚姻の一番の目的は継嗣となる赤子をもうけることだと、それぐらいのことは分かっている。
そして赤子をもうけるには夫婦が同衾しなければならない。
ふたりの人間が同じ布団で眠るとなぜ新しい命が授かるのかいまだによく分からないが、
そのあたりの詳細はお婿様がよくわきまえておいでです、
だから姫様は何も疑わずお婿様のおっしゃるとおりにお従いなさればよろしいのです、
とばあやたちからは何度となく懇切に言い含められてきた。
みんながそう言うからにはそういうものなのね、と彼女はこれまで納得してきたのだ。

しかし現実はといえば、花婿が自ら同衾を放棄しているのだからどうしようもない。
かと言って、ここまできた以上ジュスティーヌとて譲歩はできない。
あなたからの愛の誓いも崇拝のまなざしも恭しい接吻もこの際すべてあきらめますから、
わたしが本来の務めを果たせるようにこちらに来て共寝してくださいなどと、そんな懇願をいまさら口に出せるはずがない。
そんなことを言うぐらいなら、「役立たずのうまずめ」と夫方の親族に陰口を叩かれるほうがましである。



それからこの一週間の出来事を思い出そうとした。
クロードがあの晩言明したとおり、彼ら若夫婦は宣誓式の翌日も、
すなわり婚礼二日目も朝から仰々しい身支度に追い立てられ、
盛大な馬車行列の先頭に戴かれてこの国の守護聖人の名を冠する城下の大聖堂に参拝したかと思うと、
宮中に戻されては王室付属礼拝堂にて長い祈祷を上げ、
次いで宝物庫から引き出されてきたガルィア王室開祖伝来の宝冠に夫婦二人で接吻するよう促され、
最後には御苑にて一対の葡萄の植樹をおこなうことになった。

それは、絡まりあう蔓のように夫婦の情愛が堅固にはぐくまれんことを、とか
両国の友誼が末永く保たれんことを、だとか
象徴的な祈念のこめられた祭事であることは間違いないのだが、
婚礼初日以来どころか国境をくぐって以来ひとつひとつの作法をまちがえないようにひたすら気を張りつめ
そのぶん如実に疲労しつづけてきたジュスティーヌにしてみれば、
もはや果樹の苗を植えるのにどんな意義があってもなくても同じようなものであった。

主だった儀式はこのようにして二日がかりで終了した。
三日目からは本格的な祝宴である。
満を持すようにして幕を開けたそれは、王宮中心部の大広間を開放して三日間つづけられ、
ある意味では宣誓式にもまさる婚礼の華であり山場であった。
殊に年若い貴族の子女にとっては、
宴席と並行しておこなわれる連夜の舞踏会が婚約者候補の品定めの場として大きな意義をもっており、
また、男女の倫理がとかく弛緩していることで有名なこの国の宮廷行事だけあって、
既婚の貴婦人にとってはひとときの戯れの相手をみつくろう社交場としても有益に機能していた。

しかしながら、婚礼の主役である王太子夫妻には心軽やかに舞踏や会話を娯しむ権利はなかった。
彼らのもとには祝辞を述べるために、そして新しい王太子妃への紹介を乞うために賓客が集り来り、
その列は途絶えることがなかったためである。
もちろん闇雲に人々が押し寄せるわけではなく、それぞれの身分に応じて伺候の順序は厳格に定められていた。
すなわち、祝宴の一夜めは花嫁の姻戚となるガルィア王室の成員たち、
二夜めは国政の中枢を担う重臣たちおよび名門貴族の当主たち、
そして三夜めにあたる昨晩は、王太子の友人や直属の家臣及び
以後夫妻の身辺にかしずくことになる女官や侍従たちからの挨拶、という具合にである。



祝宴の最終日、婚礼初日から数えれば五日めにあたるその日の晩も、
ジュスティーヌはいつ果てるともしれない挨拶の波ににこやかに対応していた。
正直なことを言えば目元口元の筋肉はいまやひきつりそうであり、
頭部の血行は純金の装飾品ときつく結われた髪のために確実に悪化しつつあり、
さらに首から下を見れば、宣誓式のときにまとった花嫁衣裳ほどではないとはいえ、十分に重厚な盛装が肩から胸から全身を圧迫している。
とりわけ、祝祭らしい気合の入ったコルセットの締め上げぶりは腰骨に対する拷問といえた。
当初は緩慢と思えた数々の責め苦も、この時点でほぼ限界に達しようとしていた。

それに加え、祝賀の会場は次々にくりだされる酒肴と貴婦人たちの濃厚な脂粉の香り、そして人々の熱気で満ち満ちており、
吹き抜けの大広間であるにもかかわらず空気は確実に沈滞し淀みつつあった。
それは軽装かつ素面で過ごしている下働きの人間にとってさえあまり心地よい環境ではなかった。
祝宴の主役を務めるふたりにとってはなおさらである。
ジュスティーヌはそれでもなんとか気力をふりしぼり、一切の疲労と不快感に耐えようとした。
「苦行者になりきるのです」
輿入れをすぐそこに控えて母后から何度も言い聞かされたそのことばを、彼女は胸のうちに何度となく繰り返した。
それでようやく、そこから逃げ出さずにいることができるのだった。

時折隣を見やれば、初夜に自分を平然と子ども呼ばわりした花婿が、
相変わらず涼しげな顔で祝辞を受けては丁重に答礼している。
相手が初対面の人々ではない分、ジュスティーヌに比べれば心理的緊張から免れられているのはまちがいないものの、
それでも祝宴初日から一貫してたゆむことのない余裕に満ちたその応対ぶりは、たしかに賞賛に値するものであった。
そして、なればこそ、ジュスティーヌは競争心と克己心を妙に刺激されずにはいられなかった。
たとえ中座までいかなくても、ここで務めなかばにして弱音を吐いたりため息をついたりするところを見られれば、
自分を子ども扱いする彼の論拠をいっそう補強することになってしまう。そう焦らずにはいられなかったのだ。
この数日間というもの、何もかも放り出したい衝動をかろうじて抑えこみつづけることができたのは、
愛する母親からの訓戒以上に、あるいはその意地が不屈の牙城として機能しつづけたからかもしれなかった。

最後の拝謁者が彼らの足元から辞去したときには、夜はだいぶ更けていた。
祝宴自体は閉幕をすぐそこに控えて最高潮とでもいうべき盛り上がりに達していたが、
務めを終えた王太子夫妻は客人たちより一足先に寝室へ下がることになっていた。
ただし花嫁のほうが盛装を解くのに時間を要するため、
両人は一緒に寝室の扉をくぐるよう定められているわけではない。

花婿に一旦別れを告げたジュスティーヌが、祖国から連れてきた侍女たちを伴って大広間に付属する王族女子の控え室を出たころには、
廊下の採光窓の外に広がる夜はいっそう闇を濃くしていた。
ようやく重装備を脱ぎ捨てたという開放感に包まれつつ、
もの言わぬ忠実な影たちとともに新居である東宮殿へと連なる回廊に向かってしばらく歩いてゆくと、
あたりはたちまち静寂に満ちた。
広間の喧騒ももはや別世界のように思われる。



ふと、足元が揺らぐのを感じた。
着替えたばかりの平服の裾を少し持ち上げて確かめると、同じように履き替えたばかりの左足の靴が脱げかかっている。
足首のところで留めていた靴紐が緩んでしまったのだ。
礼装用ではないただの内履きとはいえ、輿入れに際してきちんと寸法を取って作らせたはずの品である。
紐がなければ履くに履けないという仕上がりは一体どういうわけなのか。
名状しがたい疲労に追い討ちをかけるような不手際に、ジュスティーヌはつい苛立ちを発散したくなる衝動に駆られたが、
そんなことをしても何もなるまいと自らを説き伏せ、口をつぐんだ。
そして付き添いの侍女のなかから履き物の世話をする者を呼んで足元にひざまずかせると、きつく結いなおすように頼んだ。

該当の侍女はおずおずとした足取りで進み出てきた。
靴の仕上がりは職人の責任とはいえ、管理や手入れは彼女の責任であるから、叱責されることを恐れても無理はなかった。
ジュスティーヌは何も言わなかった。侍女は主人の足元に跪き、紐を解き始めた。
しかし彼女の手際は悪かった。付き添いの者としてはめったに見られないほどの不器用さだった。
足の甲あたりで絡んだ紐を解くのに異様に時間をかけていたかと思うと、またすぐに別の絡まりをこしらえる。
それを解こうとするうちに、また別のところで輪ができあがる。
そしてとうとう紐を足首にかけ直す前に、金具のところで引きちぎってしまったのである。
これはもちろん靴の粗製が第一の原因だった。
けれど忍耐が臨界点に達そうとしているジュスティーヌの眼には、もはや誰の過失だろうと同じことであった。

さらに言えば、この年若い侍女はジュスティーヌの身辺に上がって以来、同様の粗相を懲りもせず繰り返してきた。
王女はこのたびの輿入れに際しては本来別の信任厚い侍女を伴うはずだったのが、健康上の理由により実家に下がらせることになり、
彼女の従妹にあたるこの娘を急遽随員に加えることになったのだ。
良家の令嬢としてこれまで安逸に育てられてきたのであろう身の上を思えば、
宮仕えを始めた当面失敗を重ねてしまうのはやむをえぬことではあったが、
この侍女の場合はあまりにも程度が甚だしすぎ、そのうえ学習の気配というものが一向に感じられなかった。

それに加えてジュスティーヌの忍耐力を試さずにおかなかったのは、あまりにも臆しがちな彼女の物腰だった。
平素ならその仔鹿のような内気さを気の毒に思うあまり叱責を踏みとどまることも多いのだが、
今はこの侍女のどんな挙措を見るにつけてもジュスティーヌの苛立ちは募るばかりだった。
矜持というものを知らぬかのようにおどおどしきった表情も腹立たしいが、
怯えが昂じるあまり謝罪さえろくに口にできないでいるさまが何より神経を逆撫でする。
人に仕える者としての心得をそもそも弁えていないとしか思われぬほどの非礼である。

ジュスティーヌは一瞬目を閉じた。
先ほどまで後ろ髪をこの上なくきつく結い上げられていたために、頭痛の余韻がいまだにうなじやこめかみあたりに残っている。
再びぼんやり目を開けてみると、あのおどおどした顔がすぐ足元で色を失っていた。
(ああもう、―――癇に触る)
自分に付き添う侍女団を除けば、周囲にはもはや人目はない。
今はどんな振る舞いをしても、ここガルィア宮廷の人々の口の端にのぼることはあるまい。
もう限界だと思った。
―――国へお帰り、この役立たず。



よほどそう怒鳴りつけたかった。
しかしジュスティーヌは、のどまで浮かび上がったその罵倒をすんでのところで腹に飲み込んだ。
そしてほんの少しのあいだ唇を噛んでから、床にひざまずいたままの侍女に立ち上がるようにと呼びかけた。
「どうかそんなに萎縮しないで。このままでも歩くことは歩けます。
 以後は気をつけて下さい」

あまりに高ぶった緊張の反動か、新米の侍女の顔は泣き崩れそうにくしゃくしゃになった。
それに合わせて横に細くなる目元の隈を見るにつけても、ジュスティーヌの苛立ちは静まっていかざるを得なかった。
蝶よ花よと愛されて育った親元からひき離され郷里からひき離され、この娘も不安でたまらないのだ。
まして、どれほど失敗を重ねようとも必ず誰か供の者に擁護してもらえる自分とは違い、
彼女はおそらく仲間内でさえ見くびられ孤立している。
勤めが終わるやひとり片隅で泣き過ごしているのは想像に難くなかった。

(ひとには赦しを、己には規律を)
祖国の宮廷を後にする際、母后から最後に贈られたことばを、ジュスティーヌは胸のうちに繰り返した。
片方の靴をつっかけるようにして履くのはたしかに不便だったが、それでも侍女に告げたとおり歩けないことはなかった。


数歩進んだところで、突然聞き慣れた声が後ろから彼女を引きとめた。
侍女たちとともに振り向くと、やはり彼だった。
ジュスティーヌと同様すでに盛装から平服に着替え、
いつものように落ち着き払った表情で立っている。

「クロード」
「おや、私の名をご存じか」
「あなたはお先に、ご寝所のほうへお戻りだとばかり」
「そのつもりだったが、<黒鷲の間>で友人らに引き止められて遅くなった。
 ここなるご婦人がたはいずこへお出かけか。さても華やぎのあることだ」
「―――酔っていらっしゃるのね」
先ほどの宴席ではあまり杯を重ねておられるようには見えなかったのにと思いながら、ジュスティーヌは極力無愛想な声で言った。
「どうやら、貴女がたは私と帰路を同じくされるようだが」
「わたし共は疲れておりますの。あなたの戯れにお付き合いしたい気分では―――えっ」

言い終わらぬうちに、ジュスティーヌの身体はふわりと宙に持ち上げられた。
周囲の侍女たちもはっと息を呑む。
かと思うと女主人は夫の顔がすぐそばまであることに気づき、彼の両腕で抱き上げられたことを知った。
「そしてどうやら、こちらの淑女は足元に不自由をかこっておられるようだ。
 目的地が同じようだし、 よろしければご護送申し上げる栄誉を私に」
ひとに請願するというよりは決定事項を淡々と告げるような口調で花嫁に語りかけると、
クロードはそのまま歩き始めた。

ジュスティーヌの筆頭侍女にあたるブランシュという娘が王太子の袖を引き、非礼を抗議しかけたが、
当の主人は呆然としてはいるものの抵抗はしていないと見て取り、結局は引き下がった。
そして彼女を含め侍女たちは困惑を押し隠せぬながらも、黙って主人夫妻に付き従うことにした。
いずれにしろ、王太子妃は就寝前に湯浴みや諸々の身づくろいをせねばならず、
そのためには彼女たちがそばにいなければならない。



背中を夫の左手で、太腿の下を右手で支えられながら、ジュスティーヌの視界に入る壁の装飾は徐々に移り変わっていった。
彼女はいささか驚いていた。こんなふうに移動させられても、案外安定感というものはあるのだ。
そしてまた、夫はいかにも尚文の国の王子らしいというか、長身とはいえ全体的には脆弱な印象が先に立つにもかかわらず、
実はそれなりの筋肉を備えているのだということに、いささか驚きをおぼえてもいた。

段差にさしかかるなどして少し身体がかしぐたび、彼の吐息が間近で聞こえる。
そこには酒の匂いもいくらかは混じっているようだが、決して不快なほど濃密ではない。
というよりむしろ、何か胸の鼓動を早めるようなものを、彼女はその吐息のなかに感じていた。
しかしよくよく考えてみれば、婚礼にまつわる一切の務めをふたりで果たし終えたばかりのいま、
彼の全身を包む疲労とて相当な域に達しているはずである。
別に自分から頼んで運んでもらっているわけではないとはいえ、ジュスティーヌはなんとなく罪悪感が芽生えてきた。

「クロード」
自分たちの新居である棟につづく扉が見えてきたところで、彼女は小さな声で言った。
「あの、もう、ひとりで歩けます。
 お疲れではありませんか」
「この種の疲労なら悪くない」
「でも、―――わたし、かなり重くないかしら」
ここ数日間、正餐の卓上に相次いで供せられた豪勢な食事の数々と、
疲労とストレスをしのぐために私室で摂取しつづけた間食の内容を、彼女は今さらながら恐る恐る思い出そうとした。
「そんなことはない。
 だが、思ったより肉付きはよろしいようだ」
「な、無礼な」
「褒めたつもりだが」

クロードが短く笑ったときには彼らはすでに寝室の前へ着いていた。
そして左右に控える衛兵たちに扉を開けさせると、彼はそのまま部屋の奥の寝台へと妻を運び込み、そっと下ろした。
いつものように、そのまま背を向けて遠ざかるかに思われたが、彼はそうしなかった。
上半身だけで覆いかぶさる姿勢をとったまま、仰向けのジュスティーヌを黙って見下ろしつづけている。

「いかがなさいました」
先に口をひらいたのは彼女のほうだった。
落ち着きはらって尋ねたつもりだったのに、振り絞った吐息のような声になってしまった。
「思案している」
「何をですか」
「思ったよりは、大人と見てよいのかと」
「……」

ジュスティーヌは頬を染め唇を噛みながら、枕を胸元に引き寄せてかき抱いた。
本当に野卑な男だと思った。
「―――いや、身体だけの話ではない」
そう呟くと、クロードは思い出したように上体を起こした。
視界を覆う影が去ったことで、ジュスティーヌの淡い色の瞳は一瞬灯火の明るさにひるみそうになった。
「そういえばわれわれふたりとも、沐浴がまだだったな。
 私は軽めにすませて先に休ませていただく。貴女もよくよくご自愛なされよ。
 この数日間、誠にお疲れだった」

クロードは背を向け、扉のほうへと立ち去っていった。
それはあの晩と似たような情景だった。
寝台の上にひとり取り残されたまま、彼女は妙な空虚感にとらわれ始めていた。



これが二日前のことだった。
そのあとは何の行事もなく新婚夫婦ふたりのための休息のときがゆったりと流れ、
今日は婚礼初日から数えて七日目になる。
ジュスティーヌはふと思い立って寝台を降り、夫が横になっている長椅子のほうへ近づいていった。
これまでの一週間はいつもクロードのほうが先に起きていたので、
彼の寝姿を見るのは今朝が初めてになる。
窓の向こうの太陽は少しだけ動いたらしく、淡く降り注ぐ光の片隅で手すり越しに長椅子を見下ろすと、
わりと大事に手入れしているらしい金髪にはいくらか寝癖がついていた。
こんな優男には実にいい気味だと思った。
けれどよく見ると面立ちの端正さ隙のなさは寝ているときも昼間とさほど変わらず保たれているので、
ジュスティーヌは改めて腹が立った。
(ほんとにいやなひと)

蝋人形のように形のよい鼻をつまみあげてやろうかと思ったが、
それはさすがに一人前の淑女として嫁いだ者のすることではないと思い直し、
彼の顔の上に手を伸ばすのは自粛した。
しかし一旦こみあげてきた衝動というのは何か他の形であれ昇華されずには収まりがつかぬものらしく、
ジュスティーヌはふと背中を押されるようにして長椅子に膝を突いて上がった。
しばらく膝立ちで夫の顔を見下ろしてみたものの、
それはそれで不自然な気もして、ついに彼のすぐ左脇にぎこちなく横になった。

ジュスティーヌの祖国からすれば東北方に位置するこのガルィア王国の人間は、
平均的体格において彼女の同胞たちより若干優れているためか、
この椅子の幅や奥行きは祖国で見慣れてきた長椅子一般よりも広々としている。
だが、さすがに成人男女ふたりの全身を積載してなおかつ余白たっぷりというわけにはいかない。
畢竟、彼女は夫の身体のすぐ脇に自分の身を寄せることになった。

(殿方と同衾するというのは、こんな感じなのかしら)
案外大したことないじゃないの、と自らに言い聞かせながら、ジュスティーヌはあえてそのままの姿勢をつづけた。
けれど本当のことを言えば、
すぐ耳元に男の呼吸が聞こえ吐息の温度さえ分かるというその一事だけで、
彼女の鼓動は遠くの空に生まれた雷鳴のように小刻みに高ぶり始めていた。

(大丈夫だわ、こんなことなら、すぐに慣れてしまえる。
 大体このかたが、『醜悪』などときつい言い回しをなさるからいけないのだわ)
そう思い至ると、当初の腹立ちがまた蘇りかけてきたが、完全に息を吹き返すところまではいかなかった。
仰向けに寝ていたクロードが突如寝返りを打ち、鼻先をこちらの首筋に触れんばかりになったからだ。
そういう位置関係になったのはただの偶然かと思われたが、
次の瞬間に彼は目を閉じたまま少し身動きし、ジュスティーヌの胸元に顔を埋めてきた。
そして片手を彼女の背中に回したかと思うと、妙に意味深な弧を描くようにして腰の辺りまで下ろしていった。

(なんと馴れ馴れしいことを)
せめて舞踏会で貴婦人を踊りに誘う殿方のように、事前に許可を乞うぐらいの礼はふまえたらどうなのです、
と彼女は唇をきつく噛みながら思ったが、そんな悔しさよりもはるかに強い恥ずかしさと恐ろしさに全身が支配されていたため、
それを口にすることなどとてもできなかった。

ふと太腿のあたりに違和感をおぼえた。
いくら男性の身体は女性よりも筋肉質だとはいえ、
人体の一部だとはとても思えないような硬直が両腿から両膝にかけての谷間に押しつけられている。
図々しく腰を抱き寄せようとしている彼の腕の筋肉の硬さも気になるといえば気になるのだが、
こちらの硬度はそれの比ではなく、少し圧迫されただけで痛みさえおぼえる。
こんなところに何を隠しているのかしら、とジュスティーヌはますます腹が立ってきた。



そのとき、クロードがゆっくりと目を覚ました。
しばらく褐色の瞳を細めて腕の中の花嫁を見ていたが、
二三回瞬きしたかと思うと唐突に彼女を引き剥がし、自身は寝椅子の背もたれぎりぎりにまで後退した。
「おはよう」
「おはようございます」
「いかがされた」
「いかがとは」
「なぜ私の隣におられる」
「試そうと思って」
「何を?」
「あなたとの同衾に耐えられるかどうかと」
どういう言い草だ、と思いながらもクロードはそれを顔に出すことはしなかった。

「結果は?」
「まだ、分かりません。でも、順応できる気がしてまいりました」
「それはよかった」
「あの、伺いたいのですけれど」
「何か」
「足の付け根に何を入れていらっしゃるのですか。武器を常に携行していらっしゃるの?」
「―――いや。なぜ武器だと?」
「だって、こんなところに腕や足がついているはずはないでしょう」
「機密文書を入れた筒かもしれん」
「それは望ましくありませんわ」
「まあ、保管場所としてはいささか守備が甘いな」
「肌身離さず帯びるというなら、護身具のほうがずっとロマンティックですわ。
 叙事詩に出てくる古代の勇士たちみたい」
「ロマンティックか」
クロードは声にかすかな苦々しさと疲労感をにじませながらつぶやいた。
そしてしばらく思案するような目をしていたが、やがて口をひらいた。

「誠に残念ながら、これはわが儚き肉体の一部だ」
「嘘。骨が剥き出しになっているのでもなければ、こんなに硬い部分があるはずはありません」
「実は、これは私の持病なのだ」
「持病?」
「罹患部位はここだけだが、一方で呼吸が乱れたり集中力が途切れるなど、その弊は往々にして全身に及ぶ」
「まあ!どうして言ってくださらなかったの?」
「恋患いならともかく、器質的な病や傷に詩情の香りはないからな。
 貴女のお耳に入れるようなことではあるまい。
 ちなみに婦人に伝染することはない」
「まあ……!」
ジュスティーヌは突然頭を殴られたかのようにことばを見失った。
そんなふうに思われているとは知らなかった。
たしかに自分はきらきらして胸ときめかせるものが大好きだけれど、それ以外のものは目にも入れたくない娘だと、
それだけの世界に生きている娘だと、彼はそう考えているのだろうか。

「なぜそのようにおっしゃいますの。
 わたし……わたしは、ロマンティックなことでもそうでなくても、あなたのことならちゃんと知りたいのです。
 あなたの妻ですから」
知って初めて、恋に落ちる資格があるのだと、あなたはそうおっしゃるのでしょう。
ジュスティーヌはそうつづけようと思ったが、やはり口ごもってしまい、伝えることはできなかった。



「妻、か」
クロードは口角を少し上げた。
もともと表情豊かとは言えない男であるが、
今はとりわけ感情の所在をおしはかることが困難な、肖像画の一様式のような微笑を浮かべている。
ジュスティーヌにしてみればこれほど腹立たしいこともない。
わたしが何を言おうとこのかたにとっては子どもの戯語なのだ、
と思うと目の奥が何だかまた熱くなってくるような気がしたが、それは隠しおおさねばならなかった。

「何をお笑いになるのです。わたしは真剣に案じておりますのに」
「これは申し訳ない。貴女がいつも真剣だということは存じている」
「ならばどうか、あなたも真剣にお答えくださいませ。
 ご持病というのはどのような症状なのですか。痛みは激しいのですか。
 わたしを娶って以来ずっと、押し隠していらっしゃったのですか」
「いや、まあ、落ち着かれよ。
 一般的な傷病による苦痛とは違うが、疼痛といえば疼痛がある。
 当初はさほど凌ぐに難くはないが、ひとり耐え忍ぶ期間が長引く場合、ほとんど苦行の域に達するな。
 鎮静の妙薬なしで過ごせるのは、せいぜい一週間が限度だ」
「まあ……!ではもう御身は限界に達しておられるのですか」
「そういうことになる」

「では何としても安静になされませ。寝台からお降りになってはなりません。侍医を呼んでまいります」
「いや、以前お話したろう。今朝は友人たちと狩りの約束があるのだ。すでに応接室あたりで私を待っているはずだ。
 この話は私が帰ってきてからしよう」
「いけません!何をお考えなのです。御身は予断を許さない重態だとご自分でおっしゃったではありませんか」
「そこまで言ったろうか……?いや、だが、それとこれとは別物だ。
 実は前回の狩猟も私の都合で延期させてしまったゆえ、今回は何とか決行したい。天候も恵まれていることだしな」
「仮にも王太子であらせられるあなたが、遊興の約束を果たさんがために倒れてしまわれては元も子もありませんわ。
 事情をお話すればきっと皆様は分かって下さいます。
 いくら親しいご友人でも、寝室に招じ入れるなど本来なら礼に反しておりますけれど、今は場合が場合ですものね。
 今こちらにお呼びいたしますから皆様にご説明なさいませ」
「―――ちょっと待った。何を考えている」
クロードが妻の意図を察して声を上げたときにはすでに遅く、
彼女は扉の外に控えている当直の侍女たちに向かって命を下していた。

「ご友人にもずっと隠しておいでだったのですか?」
長椅子近くに戻ってきたジュスティーヌは、起き上がりかけた夫の上体を厳然と押しとどめ、再び不安そうな声で問いただした。
「いや、伏せていたというか、語る必要もないというか、男同士なら自明というか」
「自明?それなのにご友人がたは病身のあなたを遊興へ連れ出さんと企図してらっしゃるのですか?」
「いや、それはだな」
「あら、いらしたようだわ」



客人の来訪を告げる侍女の声につづいて、二人の若者が遠慮がちに入ってきた。
ひとりは明るい亜麻色の髪に青灰色の瞳、もうひとりは濃褐色の髪に灰色の瞳をもち、ふたりとも王太子妃とはすでに面識があった。
ここ数日間に夫方の親族や友人、直属の家臣らに休むまもなく引き合わされつづけたジュスティーヌにしてみれば、
顔と姓名、肩書きが一致する者のほうが少ないのだが、彼らに関してだけは例外的に相続予定の領地まで覚えていることができた。
それというのも、ふだんは何につけても淡白なクロードが、彼らを新妻に紹介するにあたって、
珍しくそれなりの気安さを込めて「学窓以来の悪友だ」とふたりの肩を叩いたからである。

王族の傍系でもある名門貴族の子弟らしく、両者とも気品ある容姿と身のこなしに恵まれていたが、
今朝はすでに狩猟用の軽装に身を包んでいるためか、初対面時に比べるとやや打ち解けた雰囲気を漂わせていた。
しかしながら、王太子と長年の友誼を結んできた身とはいえ、
さすがに夫婦の寝室に招かれる日が来ようとは予測していなかったのであろう、
妃に寄り添われながら寝衣のまま長椅子に横たわっているクロードの姿を、彼らは実に訝しげな顔で見つめてきた。
クロードの側はといえば、何とはなしに申し訳ない気持ちがふつふつと沸き起こりつつあった。

「畏れ多くも朝まだきよりご拝顔賜りましたこと、臣等つつしんで御礼申し上げます」
友人たちは宮中作法に則った朝の挨拶を王太子夫妻に捧げた。
彼らとてふだん私的な場所でクロードと顔を合わせるときはこんな形式ばった真似はしないのだが、
面識の浅いジュスティーヌに配慮したのだろう。
「すまない、足労をかけたな」
「クロー……殿下はご健康を崩されたと伺ったが。一体どうなされた」
「体調の都合でこたびの狩猟を延期なさるというなら、わざわざこのような場を設けてご釈明いただかずとも、我々は無理強いなど」
「いや、それはだな」
「いいえ皆様、今後の不測の事態にも備えて、ぜひ今ご周知させていただきたいのです。ほらクロード、お話しになって」
「いや、話すと言ってもだな……何と言えばいいのか」
「もう、皆様にご心配をおかけすまいとするお気持ちは分かりますけれど、ことはあなたのご寿命さえ左右する問題ですのよ。
 ご自身でそうおっしゃったではありませんか」
「いや、だがしかし」
「どういうことだクロード、何か深刻な患いを俺たちに隠していたのか?」

驚きと懸念のあまり平素の対等な口調に戻った友人たちに対して、
クロードは逃げ道を探しつつ口をひらきかけたが、こらえがたくなったようなジュスティーヌの声に先んじられてしまった。
「そうなのです。このかたは周囲を案じさせまいと、ずっとおひとりで抱え込んでいらっしゃって。
 わたしもつい今朝がた異状に気がつきましたの。
 この一週間ずっと寝所を共にしておりましたのに、お恥ずかしいことです」
「して、その異状とは」
「いや、ちょっと待った。皆待ってくれ」
「患部は主として下腹部ですの」
「下腹部?」
「今朝このかたのご起床のさまを拝見しておりましたら、当該部位に尋常ではない隆起が認められましたの。
 お医者様に倣って触診を試みましたら、およそ人体とは思われぬほどの著しい硬化の進行が感じられました」
「……はあ」
「口を堅く閉ざされるこのかたを説き伏せてようやくお話しいただいたところでは、周期的に現れる症状なのだそうです。
 その疼痛は、時の経過と共に大変やりきれないものに増長してゆくのだと」



「―――ああ、まあ、そうかもしれませんね」
「ご存じなのですか、エドゥアール殿?」
「ええ、心あたりは」
「まあ、まさか本当に、既知の上でクロードを外出に誘っていらっしゃったなんて!」
「まあまあ、どうかお声を荒げられますな、妃殿下」
「ひどいわ。なぜあなたはそんなに落ちついていらっしゃるの?
 あなたはこのかたの病についてどこまでご存知なのですか?」
「そうですね、殿下のご説明にさらに付け加えさせていただくなら、その苦悶を暫定的に鎮める術はあっても、
 決定的な治療はないに等しく、周期はほぼ初老の頃まで繰り返されると言われています。
 人によっては不運なことに、老境に達してもなおその業深き病より免れられぬ場合もあるとか」
「まあ、なんということ……!
 ―――何がおかしいのです、エドゥアール殿」
「いや、決して、何も」
「いいえ、あなたは笑っていらっしゃるわ。親友が不幸に見舞われるのがそんなに楽しいのですか?」
「いや何も、そんな」

「ジュスティーヌ、拘泥されるな。彼に悪気はない」
「悪気はないだなんて。こんなひどい仕打ちはありませんわ。ご友人なら心配なさるのが当然ではありませんか。
 あなたに最も近しきご朋輩として、こちらの方々こそわたしと気持ちをひとつにして下さると信じておりましたのに」
「どうか妃殿下、そうご立腹なさいますな。せっかくのご麗容が台無しに」
「わたしの見た目などどうでもよろしいのです。あなたがたは昔からのご友人なのでしょう?
 クロードの健康が心配ではないのですか?このかたはあなたがたのことをとても大切に思っているのに」
「まあまあ、どうかお気を楽に。さほど深刻に捉えるようなことでは」
「そのような、わが夫を軽んじるような侮言をわたしの前でおっしゃらないでください。
 これが深刻でなければ何が深刻なのですか。
 もういいわ。あなたがたのご理解とご援助を得ようとは思いません。わたしひとりだけでもこのかたにお付き添いいたします」

「あるいはそれがおよろしいかもしれません、妃殿下」
「何ですって?」
「件の疼痛を鎮めるのに最も効能ある妙薬ならびに看護とは何か、クロードから聞いておいでではありませんか」
「いいえ、何も。クロード、どういうことなのです?」
そなたらはまた余計なことを、という目でクロードは悪友たちを交互に眺めたが、
饒舌なほう、すなわちエドゥアールと呼ばれた若者はどこ吹く風とばかりに問いかけを重ねた。
「まことに、伺っておられぬのですか?」
「ええ」
「よくないな、それはよくない」
エドゥアールは王太子の苦りきった顔も意に介さずもっともらしく首を振った。

「クロードよ、妃殿下におかれてはかくも巧まざるご真情よりおまえの身を案じてくださっているのだから、
 この際初夜以来の片意地は捨てて、ありがたく御献身を受け入れるべきだと思うがな」
「おまえに意見を求めた覚えはない」
「エドゥアール殿、看護というのは、わたしのような者にも務められますでしょうか。
 自分で包帯を替えたこともないのですけれど」
「むろんです。妃殿下でなければ十全には果たしがたい至高の任務と称せらるるべきでしょう。
 むしろわたしが看護役に指名されたとしたら、なんとしてもご辞退申し上げたきところです」
「まあ、至高の任務だなんて……!わたし、がんばります。
 一生懸命習い覚えて、今できないことも必ずできるようになります。
 このかたのご難儀を取り除くためなら、どんなご奉仕でもできるようになります」
「聞いたかクロード。おまえは何と果報者であることか」
「黙れ」



「さようなわけですから、妃殿下、われわれはこのあたりで退出させていただきます」
寡黙なほうの男アルトゥールが初めて口を挟んだ。
「まあお二方、お待ちくださいませ。
 この種の疾病に対する看護について、初歩の作法だけでもご教示いただけませんでしょうか。
 クロードによればすでに疼痛が始まっているようですから、できるかぎりのことをしてさしあげたいのです。
 侍医が来るまで手をこまねいてお見守りしているわけにはまいりませんもの」
ふたりの若者は無言で顔を見合わせた。
アルトゥールがおずおずと答弁するのを妨げるようにして、エドゥアールが明快な声で申し出た。

「妃殿下のご所望とあらば、それはもう、喜んでこのわたくしが」
「まあ、ご親切に」
「いかほどの労でもございません。では誠に厚顔ながら、妃殿下のご居室までご案内いただけましょうか」
「あら、ここではいけませんの?」
「御身におかれまして御不都合なかりせば、もちろんこちらでもかまいません」
「ええ、不都合などありませんわ。少しでも早く、身につけたいのです」
「というわけだ、クロード。
 世の塵芥をいまだ何ひとつ知り初めぬ清浄無垢なつぼみたる妃殿下に、畏れ多くもこの俺が手取り足取りお教え申し上げるのを、
 おまえはそこでひとり侘しく指をくわえて見ているがいい」
「黙れ。おまえたち、いい加減にさっさと下がれ」

「クロード、あなたは何という口をお聞きになるのです!
 エドゥアール殿は何もかもあなたのために、これほどご親切にお申し出くださっているのに」
「いやいや、妃殿下、おかまいなく。
 王太子殿下の命とあらばもちろん退出しますとも。
 わたくしどもが果たせなかった御教導の任は、殿下御自身にお委ね申し上げましょう。
 必ずや後事を全うしてくださいましょうほどに。
 それじゃ行こうか、アルトゥール」




そのことばを最後に、ふたりの若者は狩猟靴の音だけを残して軽やかに立ち去っていった。
「ご親切な方々でしたわね」
「いちど制裁を加えたほうがよさそうだ」
「では、クロード」
ジュスティーヌは夫に向き直って言った。
「看護の方法について、お教えくださいませ」
「教えると言ってもだな」
「お気が進まぬのですか?」
「まだ、貴女には難しいというか、衝撃が大きいのではないかと思っている」
「でも、ご教示を乞いたいのは初歩の初歩なのです。誰だってそこから始めるのではありませんか」
「それはまあ、そうだが」

「そういえば、疼痛を鎮めるための妙薬がおありだと、先ほどおっしゃっておられましたわね。
 それはどちらにしまっておられるのですか?
 せめてそのお薬の煎じかただけでもお教え願えませんでしょうか。
 今後、ご就寝中に発作が起きたときなど、侍医が駆けつけるまでに時を要することがあるやもしれませんもの」
「いや、それはいいのだ。当面は自分で何とかする」
「ご自分でって……」
「処理には慣れている」
「でも」
「言うなれば身辺の一雑事にすぎん。お気持ちだけいただく」
「でもわたしは、あなたのお役に立ちたいの!」

突然地表から湧き上がった泉のような怒声に、クロードは目を丸くした。
「あなたは大人だからご自分のことはよく分かっていらして、ご自分のことは何でもできるのでしょうけれど、
 それでよしとして完結なさるのでしたらわたしが嫁いでまいった意味がないではありませんか。
 わたしだってあなたのために何かしたい。
 痛みも喜びも、願わくばあなたとふたりで分かち合いたいのです。
 そうでなければ、神前での誓いは嘘になってしまいます。
 たしかに、ロマンティックな幻想しかもっていなかったのは本当だけれど、
 あの誓詞を唱えるとき、わたしは、……わたしは、真剣でした。あなたは、どうなのですか」
クロードは黙って新妻を見ていた。
彼女の肩は少しだけ震えている。
淡い青緑色の瞳にも、ゆらゆらと震える膜が浮かんでいる。
ふとクロードは口元を緩めた。そうせざるをえなくなった。

「そうだな。わたしも、神を畏れるのは同じだ」
そして上体を起こして寝椅子の上に座りなおすと、枕元に立っていたジュスティーヌを促して自分の隣に腰掛けさせた。
「お教えするには、ひとつ条件がある」
「条件?」
「私の指導に最初から最後まで従うと誓えるのなら」
「まあ、もちろんですわ。ではよろしくお願いいたし……っ」

突然重ねられた唇に、ジュスティーヌは文字どおりことばを失ってしまった。
腰を引き寄せられて抱きすくめられるがまま、あまりのことに身動きもできない。
彼の両腕に込められた力には有無を言わせぬものがあった。
けれど、背中に置かれた左の掌は優しく、少しだけ乾いた唇から伝わる体温はもっと優しかった。
何が何だか分からないでいるうちに、その優しさに陶然となってしまいそうだった。それがジュスティーヌには怖かった。
ふいに柔らかい舌先がこちらの唇をこじあけて侵入してくるのを感じ、彼女は反射的に顔を離した。
クロードが小さく息をつくのが聞こえた。ジュスティーヌほどではないとはいえ、彼もいくらか呼吸を乱している。

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最終更新:2009年05月06日 14:50