ジュスティーヌは指折り数えながら待っていた。
これでもう五巡目になる。
あとほんの少ししたらあの扉が開かれ、それから彼女の人生は新境地へと導かれる。
それがどんな世界なのかは分からないが、
とにかく何か煌々しく清冽で、四肢がしびれるほどに胸を熱くさせてくれるもので満ち溢れているということだけは信じられる。
彼女がこれまで宮中の奥深くで読み漁ってきた恋物語の数々、
あるいは王室専属の詩人たちが優しい旋律に乗せて聞かせてくれた古よりの恋愛詩の数々は、
もれなくそれが事実だと保証してくれている。
すなわち、恋に落ちることこそ女が女として生を享けた意味を知る契機であり、
真の幸福に至る唯一無二の条件なのだと。

彼女が今迎え入れようとしているのは、正確には親がとりきめた結婚相手であって恋人ではないのだが、
そんなものは本質的な障壁にはなりえない、とジュスティーヌは自分に言い聞かせた。
なぜなら、ほんの数時間前司祭の立会いのもとで初めて顔を合わせたその青年は、
婚約時代に彼の国の使節たちから聞かされ続けた評判に違わず美しく、
若鷹のように凛とした、という形容が誇張ではないことを知ったからだ。
さらに言えば、単に姿形に優れているだけでなく、
親族や家臣たちに向ける公平で抑制の効いた挙措やことばづかいは、
十七歳のジュスティーヌよりたった五歳しか年嵩でない若者とは思えぬほどの余裕ある成熟を感じさせるものだった。

とりわけ忘れがたいのは、祭壇の前で目が合い、ごく自然にほほえみかけられたときに感じた鼓動の高鳴りだった。
それをときめきと称していいのか、彼女にはまだ判じかねたが、
そんなふうに気持ちを揺さぶられたことに意味があるのだ、とジュスティーヌは信じることにした。
そしてまた、あのかたも同じときに同じことを感じたにちがいない、と信じることにした。

(なぜなら)
豊かな髪を背中にゆったりと流した異国の王女は、寝台に腰掛けたままひとりうなずいた。
あたかも自分で自分を安心させようとするかのように。
(わたしはこんなに美しいのだもの)
そして身体の向きを変え、寝台の枕元から少し離れたところに置かれている鏡台に半身を映そうと試みた。
広大な寝室の各所に据えられた燭台はそれぞれ粛々と己が務めを果たしているが、
いかんせんそれぞれの距離が大きくひらいているため、明かり自体はあまり頼みにできるものではない。
今の位置からでも自分の姿を確認できないことはないが、
やはり運命の一刻がすぐそこに控えている以上、念には念を入れるに越したことはないと思い、
ジュスティーヌは立ち上がった。

朝から何時間も通してあの絢爛美麗な花嫁衣裳をまといつづけたあとであるだけに、
今身に着けている薄絹の寝衣は羽毛のように心地よく感じられる。
解放感に浮き立つような足取りで鏡台の前に立つと、王女はまず自分の顔を眺め、髪を眺め、それから全身を眺めた。
故国の宮廷詩人たちの誰もが翡翠のようだと褒め称えてくれた青緑色の瞳は、疲労で血走ったりなどしていないし、
腰まで伸ばした赤みがかった黒髪は、陽光の下にあるようなつややかさを保ったまましっかりと香がたきしめられているし、
侍女たちの手で丹念に磨き上げられた肌は、見えているところも見えないところも申し分なくなめらかに照り輝いている。
そのはずだ。誰から見ても、そのはずだ。

ふたたび自分自身を安心させるように鏡の前でうなずいたそのとき、遠く背後から扉の開く音が聞こえた。
彼女が振り向く決意を固める前に扉はふたたび重々しいきしみをたてて閉ざされ、
後にはこちらへ近づいてくる人間の足音だけが残った。


「ジュスティーヌ殿」
あの声だった。
数時間前に祭壇の前で自分の手を取りながら生涯の誓いを交わしたのと同じ、
どこか無関心なようでいて深みのあるあの声だった。

「お待たせした。お疲れのところ、すまない」
「いいえ」
声を上ずらせまいとするばかりに奇妙な高音を発してしまった気がして、ジュスティーヌはひそかに顔を赤らめたが、
ついに覚悟を決めて後ろを振り返った。
王太子クロードはそこにいた。
花嫁と同様、昼間の重厚な式服はすでに脱ぎ去っているが、ちょうど今のような簡素な寝衣に包まれていると、
彼の立ち姿は却ってその端正さが引き立てられていた。

「あなたをお待ちする時間が、どうして苦痛でありえましょうか」
「それはよかった。
 ではあまり時間もないことだし、床に入ろうか。
 貴女も脱がれるがいい」
そう言って花婿は自らの帯を解き始めたので、ジュスティーヌは呆気に取られた。
怒りでも驚きでもない、この地上にこんな事態が現出していいのだろうか、という根源的な問いに包まれた思いだった。

「お待ちください」
ようやくのことで口を開くと、彼女は自ら手を伸ばして花婿の作業を中断させた。
彼は不興の色を浮かべるでもなく、おやどうしたという顔でこちらを見た。
「いけませんわ、クロード様。
 何か、何かおっしゃることがあるはずです」
「何かとは」
「寝台までの道のりはそう容易なものであってはならないはずです。
 まずは誠意を尽くしてくださらなくては」
「誠意?」
「恋心を語ってください。惜しみなく忌憚なく倦むことなく語ってください。
 思いつく限りの美しい文言で、わたしの心を揺り動かそうと努めてくださいませ」
「たとえば」

「たとえば?たとえば、そうね、
 『私こそ、貴女をこの腕に抱くという栄誉を焦がれるように待ち続けていたのだ。
  あたかも終末のときを前にして主の慈悲をこいねがう罪人のように。
  冬空の星よりもまばゆい貴女の瞳を見つめながら交わす抱擁はいかに甘美であろうかと、ただそればかりを考えていた』と。
 細部は多少変えてもいいけれど、せめてこれくらいはおっしゃって下さらなければ。
 それが緊張に震える新妻を前にした夫君の義務というものです」
「少し長すぎはしないか」
花婿は控えめに所感を呈した。

「そんなことはありません。これでも十分切り詰めましたのよ。
 本来ならあなたは、わたしの目だけでなく眉も鼻も唇も声も髪もくまなくほめたたえてくださらなければならないのに。
 そうして初めて、あなたはわたしから接吻を許されるのです。
 恋人になるための手順はきちんと踏んでくださらなければ」
「恋人か。われわれはすでに、正式な夫婦だと思うが」
「でも、夫婦として結ばれるより前に、恋人同士になっておいたほうが素敵ではありませんか」
「それも悪くはないが、恋人というのは説得されてなるものではないからな。
 周囲が膳立てしてくれる婚姻とは違って」
「まあ」
ジュスティーヌは大きな緑色の瞳をますます大きく見開いた。


「あなたはわたしに恋をしてくださらないの?」
「どうして恋をするはずだと?」
「だって、わたしはこんなに……こんなに、美しくて貞淑で、行儀がよくて気立てもいいのに」
「おまけに謙虚だ」
「その通りですわ。
 どんな殿方だって、わたしを妻にできると知ったら天にも昇る心地になるはずだと、
 ばあやや女官たちはみんなそう言っていたのに。
 あなたは情熱の詩句を囁いてくださるどころか、私の前に跪いて手を乞うこともなさらないなんて」
「貴女はどうだ。私に会って恋に落ちたか」
「もちろんですわ。恋に落ちました。
 落ちたと思います。おそらくは、落ちているはずです」
「その点では別に、譲歩していただかずともかまわんが」
クロードは少し笑った。

「ならば問題はないだろう?
 少なくともわれわれのうち一方が恋をしているというのなら、もう一方が望むままに身体をひらけばよい。
 男女はそうして完全になる。
 夜は短い上に、明日も朝から諸儀礼が控えている。貴女も早く帯を解いて寝台に上がられよ。
 最初の晩だ、手を貸してもかまわんが」
「い、いやです」
「ひとりで脱げるか。感心だ」
「ちがいます。あなたとこんなふうに、ど、同衾するのはいやです」
「なぜだ」
「だって、これでは流れ作業みたい、昼間の儀式の延長みたいだわ」
「儀式なのだから仕方ない。そうするべきだから、われわれはそうするのだ」
「―――そんなのはいやです」
ジュスティーヌは思わず叫んでしまった。
「儀式だから、義務だからなんていや。
 何かもっと、崇高なもののために結ばれたいの」

今度はクロードのほうがいくらか目を丸くする番だった。
しかしすぐにその褐色の瞳は平常の切れ長を取り戻し、口元には微苦笑らしきものが浮かぶ。
らしきもの、といったのはジュスティーヌの視界がほんのりと滲んできていたからである。
「崇高なものか。難しいな」
「難しくなどないわ。恋に落ちれば、みんなその感情を知るのよ」
「と、どこかの四行詩に書いてあったか」
クロードがふと一歩前に踏み出した。ジュスティーヌは反射的に後ろへ下がった。
「私は貴女に恋はしていない。できない、というべきか。
 肉体の成熟に比して、貴女の言動は幼すぎるからだ。
 惜しいことだ」

ジュスティーヌの頬がいっそう赤く染まった。
(何が惜しいものですか)
一国の王子の身で何と野卑なことを口にするのだろう、と実に腹が立ってきた。
しかしそれ以上に彼女の動悸を高まらせたのは、自分は「女」を見る眼で見られている、と知ったことだった。
夫婦とは一対の男女である以上、それは当然ではあるのだが、
祖国の宮廷でならば「非礼」とそしられるはずの一線を踏み越えて、
冷静な観察の眼を畏れ憚ることなく自分に向ける男に会うのはこれが初めてだった。
クロードは花嫁の小さな顎をそっと持ち上げ、自ら顔を近づけた。
彼女がそこに己の分身をしっかりと見出せるほどに、褐色の瞳は淡く透き通っていた。


「さらに言えば、貴女は私に恋などしていない。
 かねてより胸に抱いてきた理想の貴公子像に、私をすり寄せようと努力しておられるにすぎまい。
 それは妥協、もしくは逃避というべきものだ」
「そんなことありませんわ。
 わたしは、あなたのことを、ちゃんと」
お慕いしております、とつづけようとしてジュスティーヌは口ごもった。
それは予想しないつまずきだった。
花婿に想いを吐露する場面は、すでに何度も頭の中で演習してきたつもりである。
人に好意を表明するのにためらいなどいらない。
「好きです」と告げるのはあたりまえだと思っていた。
だが今は、それをたやすく口にしてはならないと誰かに耳元で戒められている気がする。
かねてより思い描いてきた筋書きに合わせるためだけにそれを口にしたら、
わたしの「好き」は意味をもたなくなってしまう、
そしてこのひとには意味のない「好き」を告げるわけにはいかない。
そう思ってしまったのかもしれない。
しかしこの男は実に憎たらしいのだから、意味のない「好き」で片付けてしまってもいいはずなのも事実である。
わたしはどうしたいのかしら、とジュスティーヌは自問せずにいられなかった。

彼女は花婿の顔をじっと眺めた。
切れ長の瞳は相変わらず温度らしい温度を感じさせなかったが、
口元だけは先ほどよりもほころんでいるように見えた。
「謹聴している。つづけられよ」
「―――わたしは、あなたのことを、ちゃんと」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」

言いかけたまま、ジュスティーヌは唇を強く噛みしめた。
わたしはなんて愚かだったのだろう。
こんなひとと恋に落ちることができると信じていたなんて。
こんな、人の気持ちに踏み込むだけ踏み込んでおいて、自分は高みから笑っているようなひとと。
周囲からあてがわれただけのひとなのに。
全く知らないひとなのに。

(ちがうわ)
ジュスティーヌはとうとう、花婿から顔をそむけた。乾き始めた黒髪がさらさらと肩の上で揺れた。
全く知らないひとだからこそ、そう思い込みたかったのだ、と彼女は悟った。
ある日を境に異国の宮廷に身を置き、見知らぬそのひととの暮らしがすべてになるのだから、
どうしても希望が、あるいは幻想が必要だったのだ。
「そのひと」はわたしを好きになってくださると、せめてわたしを拒まないでくださると。
そう信じなければ、長い長い輿入れの途上で、
あるいは婚約期間のさなかに、わたしは逃げ出してしまったかもしれない。
だからただ、信じたかった。自分を勇気づけたかったのだ。
よく考えたら、それだけだった。

そしてふと、疑念が立ちのぼってきた。
このひとはわたしと違って、赤の他人を待ち続けるのに幻想など不要だったのだろうか。
それともわたしみたいなつまらない娘には、幻想を抱く余地もないということなのだろうか。
―――わたしは本当に、幼稚すぎて相手にもならない娘なのだろうか。



「同衾を望まぬというのなら、まあかまわん」
ふいにクロードが、横顔を向けたままの彼女に語りかけた。
その口調はやはり、人を突き放すような淡白さと誰をも拒まない穏やかさを同時に保っていた。
「かまわない?」
「ああ、寝台は貴女にゆずろう」
「……だ、だけれど、今夜じゅうに同衾を果たすことが、わたしたちの何よりの責務ではありませんか」

「だが貴女は、私の態度が改善されぬことには応じたくないと言われる。
 私は私で歩み寄るつもりはない。無理強いはなおのことしたくない。
 貴女が何を期待しておられるのかは分かるし、
 心身ともに余裕がある晩ならば私とて余興の一環としてそのように振る舞うこともできなくはないが、
 あいにく今夜は昼間の儀式の繁縟さにすっかり疲れ果てている。
 貴女が素直に身を投げ出してくださるというならありがたく務めを果たさせていただくが、
 そうでないなら早く休みたい。
 貴女もたいそうお疲れだろう。私はあちらの長椅子を貸してもらう」

「でも、でも、初夜に『何もなかった』では許されないではありませんか。
 明日の朝必ず、寝台を検分されるのですから」
「こんなこともあろうかと、厨房から鶏の血を少しばかり調達させておいた。
 明日の起床時、これをシーツに注がれよ」
そう言うとクロードは、赤黒い液体がほんの少し入った小瓶を花嫁に渡した。
動物の鮮血を見ること自体がはじめてのジュスティーヌは、恐る恐るそれを掌に乗せたが、はっと気がついたようにクロードを見た。

「どうして、わたしが応じないかもしれないなどと予期なさったのですか」
「わが婚約者殿はよほどの夢想好きだと、貴女と文を交わすうちによく分かったからだ。
 貴国方の使者殿も、わが宮廷に礼物を届ける折々、何かにつけてそれを口にしていたしな」
「夢見がちだとどうして、初夜を拒むことになるのです」
「生身の男は醜悪だからだ。
 そして私は、せめて初夜だけでもその醜悪さを糊塗してやろうと努めるほど親切ではない」
「醜悪?―――でもあなたは」
美しいわ、とつづけようとして、ジュスティーヌはあわてて口をつぐんだ。
そしてしばらくこの場にふさわしい悪態を探しつづけてから、とうとうこう言った。

「たしかに、あなたはいやなひとだわ」
はは、とクロードは低く笑った。
そして彼女に背を向けると、鏡台のさらに向こうに置かれた長椅子のほうへ歩き出した。
「そうだ、ひとつ言っておきたい」
「何ですか」
人と話をするときはこちらを向いたらどうなの、と思いながら、ジュスティーヌはぶすっとした声で答えた。

「現実に耐えるために夢を見るのは結構だが、現実を見る前に夢を募らせるのはやめておかれよ。
 我欲も体臭もない白馬の貴公子を胸中に創り上げ、
 そのうえで私と対面して失望されたと仰せならば、それはむしろ貴女の落ち度だ。
 これまでの文通で、私はあなたの期待を煽り立てるようなことは一切書かなかったと思うが」
「だって」
ジュスティーヌは呟くように言った。
遠ざかりゆく背中に届かないであろうことは分かっていた。
「だって、夢が必要だったのだもの」



(続)

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最終更新:2009年05月06日 14:47