鳥取藩分家の一つ、西館池田家(若桜藩 領地はなく、禄米の支給を受けていた。2万石)の5代当主池田冠山(1767~1833)の末娘、
露姫が家族に書き残した遺書の木版刷り4通が鳥取市鹿野町鹿野の雲龍寺で見つかった。
露姫が家族に書き残した遺書の木版刷り4通が鳥取市鹿野町鹿野の雲龍寺で見つかった。
冠山は、好学の文人大名としてその名を謳われていた。彼は九男十六女の子を得たが、子供らのうち無事育ったのは二男四女に過ぎなかった。
文化14年(1817)江戸藩邸に生まれるも、疱瘡(天然痘)によってわずか数え六つで亡くなった十六女(末娘)露姫
彼女は、ごく幼少の頃から聖賢や仏像などに興味を持ち、法華講なども退屈せず聴聞(ちょうもん)したといい、また子供らが喧嘩をすれば之を申し宥(なだ)め、生き物は常にこれを放ち、邸内に上がってくる蟻さえも殺生することをゆるさなかった。
彼女は、ごく幼少の頃から聖賢や仏像などに興味を持ち、法華講なども退屈せず聴聞(ちょうもん)したといい、また子供らが喧嘩をすれば之を申し宥(なだ)め、生き物は常にこれを放ち、邸内に上がってくる蟻さえも殺生することをゆるさなかった。
文政5年(1822)十一月八日、露姫は所持の品を母や姉に託し、愛玩の玩具はみな伽(とぎ)の子供たちにわけ与えて、その翌日に疱瘡を発病し、同月の二十七日に死去した。
彼女の死後、愛用の机の引き出しから父母、兄、侍女へ宛てた遺書が見つかり、その内容に心打たれた定常の友人、松平定信や滝沢馬琴ら当時の幕閣や文化人1500人以上から追悼の書や絵画を定常に贈った。遺書などは「玉露(ぎょくろ)童女追悼集」(全30巻)として今も浅草寺に残っている。
酒豪として知られ、数え56歳の父 冠山へ宛てた遺書には、
「於(お)いと(老い年、または お愛(いと)しい)たから(だから)
こしゆ(御酒)あるな(上がるな)つゆが於ねかい(お願い)申ます めてたくかしく おとうさま まつたいら つゆ」
(お年だから、お酒は飲まないでね。つゆがおねがい申ます。おとうさまへ まつたいら つゆ)
と書かれ、冠山は、露姫亡き後10年ほど生き、最晩年に『思ひ出草』という随筆を書き、こう記しています。
酒は露児が戒しにより今は唇をも濡さず
(酒は露姫に戒められたので一滴も飲まなくなった)
母(たえ)には、
「まてしはし なきよのなかの いとまこい むとせのゆめの なこりおしさに おたえさま つゆ」
数え六つで、むとせのゆめ(六歳の夢)を持ちながら死んでいく自分のはかなさを詠み、6歳という短い命は名残惜しい)と心情を書いていた。
兄への遺書には、桜の絵を描いた下に
「つゆほとの はなのさかりや ちこさくら」
ちござくら(稚児桜)の短い盛りに、わが身をたとえる。
「あめつちの おんはわすれし ちちとはは 六つ つゆ」
(雨土の 恩は忘れじ 父と母)
乳母のたつ、ときの二人には
「ゑん(縁)ありて たつとき われにつかわれし
いくとしへても わすれたもふな 六つ とき たつさま つゆ」
(この世で縁があって、たつもときもわたしによく仕えてくれました。わたしが死んで、いく年たってもどうか忘れないでください。わたしも忘れはしません。)と願っている。
満5歳にして 「たつ」と「とき」を「立つ」と「時」に懸けている。
満5歳にして 「たつ」と「とき」を「立つ」と「時」に懸けている。
定常の家臣が書いたとみられる覚書も遺書とともに見つかった。そこには露姫の死去や遺書発見の経緯が記され、「定常様の悲しみは深いので木版刷り4通を全国六十余州の霊地に送りました。御寺にもお納めください」と手書きで記されていた。
覚書を読み解いた鳥取市歴史博物館の伊藤康晴学芸員(日本近世史)は「覚書の発見は、露姫の遺書が江戸だけでなく全国各地に広く伝えられていたことの証拠になる」と話した。