ぶつぶつ平成23年


11月11日(金)

いつの間にか、アトラス展や事前審査展も終わり、あとはアートパスなど残すだけ。私の展示なども、無事ピークまで上り詰め安全に下山しつつあります。本日は、ゼミとして8x8講評,自己紹介プレゼンののち、それらの打ち上げとしてお好み焼き、たこ焼き、サプライズとして高木さんの大台1日前を祝う会。美味しく楽しく過ごしました。そして午前は授業で逃した11年11月11日11時11分11時秒の写真も。









10月03日(日)

本日より後期開始。いまだにワカメになれていませんが、何とか井野アーティストビレッジオープンスタジオ+SANT展オープンまで乗り切りました!後は横浜の新港村の作品制作と展示まで。今回初めてフルデジタルです。データ編集とプリントは、元助手の安田暁さんにお願い。全く持って針穴に糸を通すようなピンホール人生。まあそんなもんかな。後期、今年はあと残り3ヶ月!学生諸君、悔いが残らないようにやりきりましょうね。私は少しユックリさせてもらいます。横浜以降、なんてね。なれるといいなあワカメ。ところで、最近タイムリーな話題は、facebookにアップしています。開発者の若干29歳で資産45億ドルのマーク・ザッカーバーグには、おののきながらも、とても便利な新メディアです。ずっとご無沙汰の知り合いから突然連絡がくるのは驚きながらもとてもうれしいものですね。

09月20日(火)

ワカメになりてえ!今の正直な心境です。お湯の中でとろとろにゆらゆら。最後は溶けてスープ。今週末はTAPのガスタンクカメラ。さすがに疲労感を感じています。幸いに、OBの伯耆田君が手伝ってくれています。焦点距離23メーターのレンズ鏡筒を制作中。この夏は各地で色々なカメラを制作していて、今回のガスタンクが山場なのですが、来週は、「団地を掘り下げる」で、地下カメラです。何とか針の穴の糸を通して、抜けきりたい!一番やばいのは、横浜の新港村用の新たな写真作品。データを編集する暇が無い。





09月14日(水)

この夏休みは忙しい。北海道から始まり、和歌山、仙台、横浜、岡山と、次々と出かけては仕事をしている。ずっと不審がって使っていなかったが、随分安心できる感じになってきたので、この夏から本格的に始めたfecebook。夏のことはこれに色々書き込んでいる。和歌山県立近代美術館のワークショップが美術館ホームページに紹介されているので紹介しよう。
あと、今週からは個展と電車カメラが始まっている。

04月19日(火)

新学期もいつのまにか始まった。先端の方針で、最初の2週間は上野を中心に学部授業や科のメインのカリキュラムは進めることとした。
研究室のゼミなどは、IAV101で連続してやっている。
昨年は、私自身が忙しすぎて、こぼれ落ちてしまった事が多々あったが、今年は研究室内のコミュニケーション、じっくり考えたいと思います。

03月26日(土)

今年は卒業式も中止になり、4月の入学式も中止である。一応4月から新学期が始まる予定だが、どうなるだろう。昨日は震災後初めて取手に行った。メディア教育棟は、取手校地の中でも一番被害が少なかった。やはり建物が古い順に被害があるようだ。被害といえば、2階の図書室の図書の散乱と、4階5階の研究室の物品散乱。特に5階の研究室がひどいようだ。佐藤研は、誰かが整理してくれたのだろうけど、モニター類が落下している。研究室2011はどうなるだろうか。卒業修了生達とも会えていないので、何だかすっきりしない。


03月24日(木) ー近況ー

前回の書き込みが昨年の10月だから、もう半年ぶりである。ツリーハウスカメラの制作とか、昨年の夏には書くべき事も沢山あったのだが、機を逸した。

この3月は、8日(火)より、『rear-car-mera』の公開制作のために宮城県美術館へと向かった。自転車で牽引するリヤカーの上に設置するカメラボックスを制作し、仙台の町を走り回る。新たな視覚や身体体験を願ってのプロジェクトである。9日(水)10(木)と、2日間は東北大学の学生とともに順調に制作は進んで行った。「芸術家に接してみたかった」という参加理由の東北大の学生達は4年の英文学専攻のTさん 3年の工学部機械工学のO君、1年の英文学志望のS君。工作をするのは小学校以来だと言っていたが、なんのなんの、すぐにジグソーや丸鋸を使いこなしていく。何よりもボーッとしていることが無い。好奇心が大せいで、何にでも興味を持ち、積極的に関わってくれる。きっと偏差値の高い子達なんだろうけど、気が利いたりすることは、人間としての基本だな、と感じた。とても気持ちよい共同制作となった。



3日目の11日(金)午前中は、入り口をどういう開き方にするか、悩んだ。ランボルギーニカウンタックのような、ガルウイング式のダンパーを使って上に開くことにした。まあ、観音開きが無難なところなんだけど、作品だから、少しのケレンがあっても良いだろう。
午後本体は、東北大チームに任せて私はレンズ鏡筒の製作に入った。その時のことである。大きくユラーリと揺れた、ここまでは8日にあった震度5の余震(後で知った)と変わらなかったが、その後縦揺れが来た。美術館の建物は頑丈で映画のようには破壊されない。しかし、ロッカーが倒れ、キャビネットが飛び出した。永遠に続くのかと思われるぐらいの揺れだったが、10分続いたそうだ。その後、高山さんが個展で作品を展示していた中庭に避難する。次々と余震がくる。音が遠くから近づいてくるのが分かり不気味だ。ワンセグをつけると、大津波警報。津波警報では無く大津波警報である。そのうち港で大きな漁船が流され転覆するのをみる。しかし、ワンセグの小さな画面では、リアリティが無く現実として受け取ることが出来なかった。美術館からの眺めもさして変わらない。普段通りの光景に今後起きることを予測できない。



美術館は休館に決まり、我々のプロジェクトもその日は終わりにすることにした。まあ、ホテルに戻ってゆっくりするか、と。ホテルに戻る道は大渋滞だった。わずか10分の道のりに約1時間かかった。途中何度も緊急地震速報が流れる。しかしながら、仙台の少なくとも駅から西側である繁華街は見た目も人の動きもなんら変わらない。雪が降っていることを除いては。やっとのことで駅前のホテルに戻り、ロビーに入った途端、現状を了解した。ホテルは電気が消えて真っ暗。床には、毛布にくるまった人々で溢れていた。緊急避難所に変わっていたのだ。私は戻って風呂に入るつもりでいた。それが大いに甘い考えであることをその時やっと理解したのだ。停電で余震が続き、建物の倒壊の危険があるので、皆ロビーにいるとのこと。非常階段から支配人と一緒に部屋に入り、ポットやらテレビやら湯飲みなどが、床に散乱しているのを尻目にパソコンと衣類の荷物を引き上げ、おりる。ロビーにはとても居る気になれなかったので、建物が倒壊しても大丈夫なように車を外の駐車場に入れ、そこで一夜を過ごすことにした。

ホテルで毛布1枚と布団を1枚もらった。外は氷点下に近いものの、天気が良く町が暗いから、星がよく見える。自分のおかれた状況がどうのこうのよりも、非日常性を楽しむ気分の方が強い。テレビも見れないし、ガソリンが少ないので、車のエンジンもかけられない。だからラジオも聴けない。携帯は使えないものの、メールやインターネットはなぜか通じていたので、家族の無事や学生達からも連絡が入る。関東も揺れたらしい。何もすることも無く、食べ物も無いので、いつの間にか寝込んでいた。途中車が風で揺れるのか余震なのか解らないが、ぐらぐらと揺れ続ける。台風前夜のような、国民的一体感のある雰囲気が嫌いでは無いので、一晩目は熟睡できた。

3月12日(土)翌朝は快晴である。早朝から仙台市内を歩き回る。駅は閉鎖らしい。古いビルの壁の一部が崩落していたり、お店のガラスが一部われたりしているものの、概ね大震災後という雰囲気では無い。人々も普通に歩いている。一部のコンビニは開いていて、行列になって、店のものを売っているようだ。すいているコンビニを探して歩き回り、ホテルの前の大きなセブンイレブンに並ぶことにした。店は真っ暗でガラスを新聞紙で遮へいしているので、中を覗くことができないがどうやら一人づつ入れて販売しているようだ。およそ30人ぐらいの列。私も並ぶことにした。しばらく並んでいると列は100人ぐらいになっただろうか。結局2時間近く待って、買い物ができた。私が入ったときは、わずかに総菜も残っていた。ハンバーグと、煮物、そしてチョコレートやチーズを沢山買い込んだ。お湯の当ても無かったがカップ麺も二つ。最後はカジれば良いかと、日清のものを選ぶ。最後にふと気がついて、癇番娘2個とカップ焼酎2個。計6000千円ぐらいの買い物。結局このときの買い物がその後の私の行動を楽にしてくれた。



今見ても、翌日の仙台市内は、海岸沿いの壊滅的な被害が想像出来ないほど落ち着いている。停電や断水があるものの、人々は本当に落ち着いていた。携帯がつながらないが、公衆電話を見つけて自宅に連絡したりする。使えない携帯って何なんだ!と憤ってみる。車に戻り、丸一日ぶりの食事をする。冷えたハンバーグがどれだけのエネルギーを与えてくれるか。コーヒーを飲み精神的に平常に戻る。美術館のS氏に何度も連絡を試みるが、全く連絡が取れない。むやみにガソリンを消費しないようにホテルから動けない。コンビニで購入した文芸春秋を読んで時間を過ごす。東京からの電話が携帯につながり驚く。普通に仕事の電話で、入試の件の問い合わせ。とてもそんなことに冷静に判断出来ない自分を押し殺しながら、応答する。東京方面からの電話はつながるようだ。しばらくして、待ちにまった美術館から連絡がつながる。美術館に出勤しているとのこと。私も美術館に出かけた。

前日は、今回のプロジェクトを続けられると考えていたが、全くそんな状況では無いことを了解する。その晩は、美術館に非難することにしたが、他の美術館職員のご家族も美術館に避難してこられたので、その晩は私を招聘してくれたS氏のお宅にお世話になることになった。15キロほど離れた住宅地。S氏も私もほぼ同い歳。嗜好も近くこんな状況を楽しもうとされている。美術館にあったシーバスリーガルを抱えて、ご家族の待つS家にうかがった。彫刻科に在籍されたS氏は、家に立派なアトリエも有る。停電と断水で大変だが、暖かく迎えていただいた。ご両親とご子息とご令嬢の6人家族。こんなときだからこそ、家族が一緒にいることに幸せを感じる。暗闇の中にランタンを灯し同世代なりの話をで盛り上がりながら二人で一本を空けて寝た。ずっと続く鼻炎により、ゴミ箱をテッシュの山にしてしまったことゴメンナサイ!

3月13日(日)震災後2日目。S氏の自宅から、美術館に向かう。いつもの道が渋滞で動けない。何とか遠回りをしながら、いつもは1時間の道を3時間かけて美術館に到着する。美術館はすでに停電が回復していた。テレビで全国の惨状を知る。原発の事故の拡大も報道されている。予定の日程もこの日までだし、何とか帰宅することを考える。このまま仙台にとどまっても、食いぶちがひとり増えるだけだから。問題はガソリンだ。仙台市内で給油できるガソリンスタンドは、すでに何キロもの行列で給油など出来そうにも無い。倹約してわずかに残ったレガシーのガソリンは、10リッターぐらいか。静かに走れば、100キロ。峠道なら、80キロが限度か。覚悟を決めて午後3時頃山形に向った。

山形までは48号線が一般的である。私も先ずはそこに向かった。山形に向かえばガソリン給油が仙台よりも楽であろうという読みである。しかし同じ考えの人間が多いのか、大渋滞している。15キロ程走ったが、すでに1時間が経過した。これではガス欠になってしまうと私の感覚は反応した。カーナビを調べて286号線に廻ることに決断する。10キロ程戻ったが、私の判断は正しかった。秋保温泉をへて、釜房湖経由(ここは以前にみちのくアートフェスティバルでなじみの道路)車も少なくすいすいと距離を伸ばすことができた。笹谷街道は浪人時代に酒田から原付ダックスで東京に向かった道。高速が出来てからは通っていなかったが懐かしい面影が有る。おまけにラッキーにも笹谷インターチェンジからは、高速山形道に入ることが出来た。都合85キロを走り、山形市内に入る。山形市内は、コンビニこそ普通に開いているものの、商品棚はエンプティ。ガソリンスタンドも殆ど休業中。焦りながら、1軒の営業中を見つけて、並ぶ。1キロほどの行列だろうか。4時半にならび、途中ガソリンスタンドの雇い人が「営業が6時までなので、無理です」と迫ってくるも、ここで諦めてはなるものか、と無視して並ぶ。幸い下り坂だったので、エンジンを止めて、行列を進む。順調に進み5時半には、給油できた。しかし一人3000円までだったので、ハイオク18リッター程給油した。

昨日買い込んだチーズやらチョコレートやら、ピーナッツやらをかじりながらエネルギーの補充をして、新潟に向かう決意をする。18リッターあれば、新潟までは行けるだろう。13号を南下し、赤湯温泉から113号にはいる。途中大雪で有名な小国を通るがスタッドレスなので、問題ないだろう。南陽市付近で開いていたラーメン屋に入る。普通に食堂が開いていて、暖かい食事が出来ることに感動する。テレビで流れる震災のニュースになんだか自分の置かれた状況を重ねる。

新潟までの道のりは意外に道路も整備され広い。近年は高速道路でしかこのあたりは走っていないので、峠道に不安を感じていたが、しっかり除雪もされていて、美しい夜景にうっとりする。途中睡魔に襲われて、ふらふらと走りもしたが、9時半ごろ新潟県内に入る。眼がスッと覚める。ガソリンスタンドが開いているのだ。すかさず入り、満タン給油を告げると、何のことは無く、給油された。いつでもビバーク出来るように寝具とお酒も準備していたが、今晩中に自宅に戻ることを決意する。中条から、高速道路に入る。高速道路はガラガラだ。普段の日曜の夜ならこんな状態では無い。首都圏からのレジャー客がいないことで空いているのだろう。法定速度を意識しながら、心では先を急ぎ、殆ど休憩もしないまま関越をひた走る。サービスエリアのガススタンドも殆ど休業である。しかし満タン給油した我がレガシーは足取りが軽い。11時頃には、峠を越えて関東平野に入った。最後のサービスエリアである高坂は幸いにもガソリンスタンドが開いていた。10分ほどならんで満タン給油。無事に12時半頃自宅に戻った。自宅のテレビでは、津波被害の映像を流している。これまで、ラジオだけで想像してきたが、実際に映像で見ると、震えが止まらない。

いわきの海でさんざん作品を制作したが、そこに今回のような惨禍があれば、私はひとたまりも無かったであろう。たまたま駅の西側にいたから何とも無かっただけなのだ。余震も続く。しかし自宅で暖かい風呂につかりながら、長すぎた非日常に終わりを告げ、新たな日常を迎えることにする。

3月24日現在、未だに日常には戻れていない。関東は関東で、原発事故の成り行きにハラハラし通しだ。人々の様々な反応にも心が上下に動く。次々に明らかになり、いまだに全貌の解らない津波の被害には、心が張り裂けそうだ。肉親がそこにたまたまいなかったから平穏に過ごせているが、誰かがそこにいたとしたら、どうだろう。毎日ぐるぐるしながら過ごしている。3月11日は、22回目の結婚記念日だったということに気がつくぐらいの余裕ができてきたこの頃ではあるが。


最終更新:2011年11月12日 02:34
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