『孤独なボウリング』 ロバート・D・パットナム





日本の強さの源泉は「社会関係資本」にあったと浅はかながら考えている。
皆が信頼しあって、助け合い、アイデアを出しながら、共存共栄を目指した。
今の日本は正反対。アメリカでも昔は「社会関係資本」によって、コミュニティは
様々な恩恵を受けていた。いや、余計なコストを必要としなかった。

ネットワークに帰結するけど、人の行動はその人が所属しているコミュニティや
そのコミュニティの持つ社会関係資本に大きく依存していると思う。
「信頼」のあるコミュニティであれば、余計な心配をしなくてすむけど、
不信を抱いているのであれば、「もしかしたら」という予防線を張る行動を取る。
自分が疑い深いからそういう行動を取るわけではない。そういうコミュニティに
所属しているから。

インターネットはどうなのだろうか?残念ながら、パットナムはサイバースペースでの
ソーシャルキャピタル構築は難しいと述べている。一方、これは規模と開放性によっても
左右されると思う。適正な規模で閉鎖的なコミュニティであれば、おそらく
ソーシャルキャピタルは成立すると思う。



(以下、要点抜粋)

第2部 市民参加と社会関係資本における変化

第8章 互酬性、誠実性、信頼


P156
社会関係資本の試金石は、一般的互酬性の原則である-直接何かがすぐ返ってくることは期待しないし、あるいはあなたが誰であるかすら知らなくとも、いずれはあなたか誰か他の人がお返しをしてくれることを信じて、今これをあなたのためにしてあげる、というものである。


P158
信頼しあうコミュニティにおいては、他の条件を等しくした場合に、無視できない経済的利点があるということを経済学者が近年見いだしたが、その理由がこれであることは疑いない。

社会的信頼が価値あるコミュニティ資産となるのは、それが保証されたときである。われわれが互いに対して正直であったときの方が、(裏切りを恐れて)協力を断ったときよりも、あなたと私の双方が利益を得ることになる。しかし、不誠実が続く中で誠実であろうとすると、聖人君子を探す者のみが利益を得てしまう。一般的互酬性はコミュニティの資産であるが、一般的な騙されやすさはそうではない。単なる信頼ではなく、信頼性が、鍵となる要因である。

信頼(とマフィア)に関する研究者のディエゴ・ガンベッタが指摘するように、「力の使用に重度に依存する社会は、信頼がその他の手段によって維持されているところと比べて、効率性が低く、高コストで、不愉快であることが多い」。


P159
個人的な経験に基づく誠実性と、一般的なコミュニティ規範に基づく誠実性との間には、重要な違いがある。強力、頻繁で、広範なネットワークの中の個人的関係に埋め込まれた信頼は、「厚い信頼」と呼ばれることがある。他方で、コーヒーショップでの新しい知り合いのような「一般的な他者」に対する薄い信頼もまた、共有された社会的ネットワークと互酬性への期待を背景として暗黙のうちに存在している。薄い信頼の方が厚い信頼よりも有益であることすらあるが、それは個人的に知っている人々の名簿を越えて、信頼の半径を拡大してくれるからである。しかし、コミュニティの社会的織物が擦り切れてくると、評判を伝え、また維持するというその有効性が減少していき、誠実性、一般的互酬性、そして薄い信頼という規範を補強していた力が弱体化していく。

ここで「薄い信頼」と名付けたものを指して、政治学者のウェンディ・ラーンとジョン・トランスは「社会的、あるいは一般的な信頼は、ほとんどの人々に対して「疑わしきの利益」を与える「暫定判断」と見ることができる」と論じている。この意味での社会的信頼は、市民参加と社会関係資本のさまざまな形態と強く関連している。


P160
まとめると、他者を信頼する人々はオールラウンドな良き市民であり、コミュニティ生活により参加している者はより信頼し、また信頼に値する人間である。逆から言うと、市民参加の少ない者は自分が悪党に取り囲まれていると感じ、自信が誠実でなければならないことへの圧力をあまり感じない。

これらすべての理由によって、米国の社会関係資本における過去数十年の傾向の重要な診断検査となるのは、互酬性と社会的信頼性 - 親しく知っている人々の中での単なる厚い信頼ではなく、匿名の他者に対する薄い信頼 - がいかに展開してきたかということである。


第9章 潮流への抵抗? -小集団、社会運動、インターネット

P201
その一方でそれ(電話)は新たな友情を生み出すこともなく、マッハーに特有の活動を本質的に変化させたわけでもなかった。歴史学者のダニエル・ブーアスティンが、電話が米国の社会関係資本に及ぼした驚くほど平凡なインパクトをまとめている。曰く、「電話は単に便利なものにすぎず、人々が以前から行っていたことを、より気軽に、労力が少なく行えるようにしただけだった」。

P211
コンピュータ・コミュニケーションは確かに、対面コミュニケーションと比べると平等主義的、率直で、課題志向的である。コンピュータ基盤のグループへの参加者は、広範な解決策を見いだすことが多い。しかし、社会的手がかりと社会的コミュニケーションの不足によって、コンピュータ基盤のグループでは合意を達成することが難しく、互いに連帯感を感じることが少ない。彼らは「脱個人化」の感覚を抱くようになり、グループの達成への満足感が低下する。コンピュータ基盤のグループは、共有する問題の知的理解に到達することは速い - おそらく社会的コミュニケーションにおける「余分」なものに気を散らされにくいからである。しかし、その理解を実現するために必要な信頼と互酬性を生み出すことはずっと苦手である。

P212
コンピュータ・コミュニケーションは情報の共有、意見の収集、解決策の議論にはよいが、サイバースペースにおいて信頼と善意を構築することは難しい。

これらの理由により、コンピュータ・コミュニケーションには頻繁な対面での接触が本来必要であるとノーリアとエクルズは示唆している、「広く、深く、しっかりした社会的下部基盤が存在すれば、電子メディアを利用する者も、他者が何を伝えようとしているのか真に理解することができるだろう」。

言い換えると社会関係資本は、効果的なコンピュータ・コミュニケーションにとっての前提条件なのであって、それがもたらす結果ではないということかもしれない。

P213
対面ネットワークは密で境界が存在するが、コンピュータ・コミュニケーションのネットワークは疎で境界が存在しない傾向がある。バーチャル世界の匿名性と流動性は、「出入り自由」の「立ち寄り」的な関係を促進する。まさにこの偶発性が、コンピュータ・コミュニケーションの魅力であるというサイバースペースの住人もいるが、しかしそれは社会関係資本の想像を阻むものである。参入と退去があまりに容易だと、コミットメント、誠実性そして互酬性は発達しない。


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最終更新:2008年01月14日 18:04