「近寄らないでください!」
空を切り裂いた鋭い平手が、しかし虚しくも受け止められる。
「おーおーつれないねぇ、お姫様は」
そのまま暴れる女を軽々といなし、男は軽薄な笑いを漏らした。

  時は帝国暦の414年。
  帝国の南の要であり、祖帝による大陸統一時からの名城だったゼズ城は、
  今まさに建国以来の未曾有の変事に晒されていた。
  南方の蛮夷、オルブ族。
  中央の民からは赤鬼(せきき)とも蔑称される、粗野で野蛮な未開人達が、
  大挙して南方のヴェンチサ要塞に押し寄せるとこれを陥落、
  そのままの勢いでヴェンチサ地方の領主館であるこのゼズ城を攻め立てたのである。
  ヴェンチサ侯フェリウスは猛将として知られる英傑であり、
  過去20年間、幾度にも渡ってヴェンチサ要塞の防衛に成功していた戦上手だったが、
  それでも今回は持ちこたえるべき要塞の陥落があまりにも早すぎた。
  慌てて兵を集め、ヴェンチサ要塞とゼズ城の中間地点にて迎撃のための陣を敷くも、
  急ごしらえの編成と行軍が祟ってか、
  敵重騎兵の怒涛の攻勢に半挟撃状態から全軍潰走したのがこの春の終わり。
  フェリウスは残った兵約3000を率いてゼズ城に篭城したが、
  救援の援軍を待たずして敵包囲による補給遮断を受け精神的に追い詰められていき、
  起死回生を狙って打って出るもあえなく敗死の憂き目となった。

  ――とまあ、『帝国の側から記述するのならば』このような書き方になるのだろう。
  ともかくそうやってフェリウスが討たれ、ゼズ城が陥落したのが十日程前の出来事だ。


「っ、離して!」
掴まれた腕を振りほどいた拍子に、美しい鳶色の髪がふわりと揺れる。
その持ち主こそヴェンチサ侯フェリウスの妻、リュケイアーナ・オル・ペレウザ・ウェド・ヴェンチサ。
三ヶ月にも及ぶ篭城戦の直後だけあり、
装いは本式の喪装にはほど遠く、髪もやや肩に掛かるほどに伸び放たれていたが、
内側から滲み出る貴人の気迫は翳りを押して尚強く、
白磁のごとき美しき肌は、青白いどころか憤怒にほんのりと朱くさえあった。

「たとえ落ちぶれようとも、私はペレウザ家の娘、帝国はヴェンチサ侯爵の妻です」
ただ亡将の妻という肩書きを差し引いても、その姿は悲壮の一言だ。
御歳わずか19。
齢は50の手前、海千山千な老練の極みだったヴェンチサ侯フェリウスの妻にしては、
あまりにも彼女は若すぎた。
「蛮夷に辱めを受けるくらいならば、自ら命を絶つ方を選びます」
護身用の懐剣を自らの胸元につきつけた手が隠しようもなく震えていても、
誰にもそれを責められはしない。
そういう時代だったのだ。
女は剣を持てず、政治に口出しできず、内助の功に尽くすことこそが美徳とされていた。
懐剣を握る手つきがまるで素人だったとして、誰がそれをなじれよう。

「ですがお願いです。我が臣下、領民の厚遇を保障してくれるのならば――」
「いや、死ねないだろそれじゃ」
そして男の軽口は、そんな彼女の覚悟を踏み躙る。

「そんな細腕と中途半端な刃じゃ、胸や腹なんか突いたってまず死ねねーぞ?
せめてやるんなら手首か首筋にしないとな」
「…ッ!?」
ハッとした表情で胸元の懐剣を確認する女を前に、男が悠々と一歩踏み出す。
「や、ち、近寄らないでと言いましたッ!」
それに過剰に反応して、震える腕で切っ先を自分から男へと向け直すが、
男の歩みが止まる気配はない。
「…し、舌を、舌を噛みます! 噛みますから!」
「…勘違いしてないと思うけどな、舌噛んで死ぬのって激痛で憤死とかそういうのじゃないぞ?
噛んだ舌上手く喉に詰まらせて、窒息できないと無駄に痛いだけで死ねないかんな?」
「!!」
狼狽と共に、後退りする背中が窓枠にぶつかる。
平然と間を詰めてくる男を前に、窓枠がカタカタと小刻みな音を立てた。
「…いや……来ないで……こないで……」
懐剣を構えたままの少女に対して、とうとう男が真正面に迫る。

黒ずんだ褐色の肌に、血の色のように赤い髪、濁った黄土色の目。
どれも帝国の主教である太陽神信仰においては邪悪で不吉とされる色合いであり、
同時にそれが一般的なオルブ族の容姿容貌だった。
腐っても帝国の貴族階級、太陽神信仰の影響を強く受けて育ってきた少女にとって、
どうしても生理的恐怖が先立つのも無理はない。
なにせ聖典の中に語られる、鬼や悪魔の姿そのものなのだ。

だからこそ、激昂もした。
「もうやめなって」
「……ッ!」
鬼であり悪魔であるはずの相手が、憐れみの目で彼女を見るのを見た時、
彼女の中の何かが弾け飛んだ。
「殺せねーし、死ねねーよ。そんな剣の握り方一つ知らない細っこい腕じゃ」
「――口を閉じなさい下郎ッ!!」
叫んで、懐剣を振り上げて。

……それでも振り下ろすことが出来なかった。

「……っ」
殺めるだけの大義名分はたくさんあった。
相手は彼女の夫を殺した。相手は帝国の民を殺した。
男は敵の司令官だ。彼女は領主の妻だ。
相手は卑しい蛮族であり、知性の欠片もない人畜にも劣る野蛮人なのだ。
人間ではない。鬼だ。悪魔だ。異教徒だ。

だが。

「…なぁ、あんたはもっと賢いだろ?」
「……う、ぁ」
彼女の手の内の懐剣が、ゆっくりと絨毯の上へ転がり落ちる。
全身の力が弛緩して、無様に床へとへたり込んだ。

そうだ、彼女はそこまで愚かではない。
真実を知る機会を与えられず、都合のいい知識と歴史だけを教えられた民草とは違う。
「俺らが本当に同じ人間じゃない、鬼か悪魔だなんて信じてる?」
政略の道具たる女の分際で、
政治や歴史、神学に興味を持ってしまった、愚かでいられなかったのが少女の罪だ。
「…男は殺す、女は犯す、子供や年寄りも容赦しない、村は焼き払って財産は奪う。
邪神を崇めてて、人間を生贄に捧げる儀式をしてる、赤い髪や黒い肌はその証拠」
答えは明らか、少なくとも少女は気づいている。
「…そんな与太話、本気で今でも信じてるのか?」
「あ……あ……」
そうやって民に流言を吹き込んで脅しつけなければならないほど、今のこの国は歪んでいる。
そうしなければ北夷や南夷に対抗出来ないほど、この国の威力は衰えている。

「ひ……ぐ、ぅっ……」
喉が引き攣り、気がつけば涙がとめどなく頬を伝う。
男の態度と言葉が破壊槌のように、容赦なく少女の心を打ち砕いていた。
信じていた。
信じていたかった。
でももう信じられない。盲で居続けることは許されない。
彼女達は負けた。
悪だと信じ続けていた相手が実は悪ではなかった。
では何のために自分達は戦って来たのか?
何のために民は苦しみ死んだのか。
彼女が耐え続けてきた苦痛、受け続けてきた責め苦に、一体何の意味があったのか?

空虚で。
果てしなく空虚で。

「…男が怖いか?」
ビクリと身を竦ませる少女の身体が、そのままぐいと抱き寄せられる。
そんなことをする人物は、少なくともこの部屋の中に一名しかいないはずなのだが、
「泣けよ」
抗う気力も、逆らう覇気も、今の少女には存在していない。
それがどういう不義なのか分かっていても、熱さを増す目頭の潤みは止められない。
「泣いちまえって、それくらいは神様だって許してくれるだろ」
言葉は優しく、神をも語る。
肌に感じた相手の身体は、同じ人間の熱く血の通った暖かさだった。
「あんたは十分頑張ったよ」
「……ひぅ」
ぎう、と男の胸にしがみついて、小さな子供のように泣きじゃくりだす。
嫁いで来て四年、誰も言ってくれなかった言葉がそこにあった。


  言いたいことはただ一つ、腐らぬ国はないという話だ。
  むしろ一つの王朝が400年も続いてるという時点で、察しのいい歴史家なら気づくべきだろう。

「落ち着いたか?」
「…………」
寝台に並んで腰掛けながら、手渡されたハンカチでぐしょぐしょの顔を拭いつつ、
幼き元侯爵夫人は暗澹たる気持ちで己の軽率さを恥じ入った。
いくら非常事態の最中とはいえ、夫以外の、それも敵であり蛮族である男の胸に伏して
取り乱し泣き崩れるなど、およそ貴人のすべきことでない。
しかも男は『卑しい蛮族』でありながら、
そんな彼女に暴力を振るうわけでもなければ、強引に寝台に押し倒すわけでもなく、
嗚咽が止むまで背中を擦り、ハンカチまで差し出してくれたのである。
…範疇外にも程がある。
頼みの綱である侍従や侍女達も、今は男の手により人払いされてこの場にない。
自分の知る貴族社会の礼法や慣習を可能な限り思い返してみたが、
この場合取るべき適切な行動というものを、少女はどうしても見つけられなかった。

そんな中で男の方から行動を起こしてくれたのは、彼女にとっての僥倖だ。
「やめてください、子供ではないのですから!」
まるで幼児か動物にでもするように、
ポンと頭に乗せられた手がくしゃくしゃと自分の頭を撫で回すのを受けて、
少女が反射的にその手を払いのける。
そうして次の瞬間、自分のしてしまった失態に僅かにその身を強張らせた。
通常であれば無作法と謗られ、相手の機嫌を損ねてもおかしくない行動である。

が。
「あ、わりーわりー」
「…………」
…それでも男が彼女の思い上がりを責める風でもなく、
例によっての軽薄なニヤニヤ笑いを続けているのを確認するに及んで、
ようやく彼女にも多少の余裕が生まれてきたらしい。
「……何をしに来たのです。こんな夜更けに、惨めな未亡人のところへ」
出来る限りそっけなく、抑揚のない声で言ってみる。

「そりゃーお前、男がこんな夜中に女の部屋に来るっつったら、一つしかないだろうがよ」
「…………」
ぽむぽむと、非常に馴れ馴れしく喪服の肩を叩かれた。
沈黙。
困惑。
「……だったらお望み通り、疾く私を組み敷き穢せばいいではないですか」
言って、ちらりと男の体躯や二の腕を垣間見る。
…どれほど控えめに見たとしても、華奢な文官や貴公子の細腕には見えはしない。
彼女を力ずくで押さえるくらい、男にすれば朝飯前のはずだ。
「古来よりの戦場の習いを分からぬほど、世を知らぬ子供ではないつもりです。
温情を施されるつもりはありません、存分にご自分の獣欲をお満たしくださいませ」
挑発の意味合いを込めて、皮肉の一つも言ってみる。
媚び、心まで売り渡すつもりは毛頭なかった。せめてそれぐらいは――

「いや、それじゃつまんないだろ」
「……は?」
思わず間抜けな声を上げる。

「そりゃ力ずくで押し倒して、無理矢理犯すとかも出来るだろうけどさ。
でもそれじゃ、あんたの身体は手に入っても、心までは手に入らないよな?」
「…………」
それは、確かにその通りだが。
「大体、泣き叫ぶ女を無理矢理手篭めにしたって弱い者いじめと大差ないだろ。
そういうの俺好きじゃないんだよね、フツーにチンコ萎えてくるっていうか」
「……要するに。一体何をご所望なのです?」
床に目を落としたまま、少しイライラしながら聞いてみる。
そうして後悔した。

「いや、なんつーかこう、出来れば勝者とか敗者とか抜きにして、そっちの方から、
『きゃーステキ濡れちゃう、抱いて!』な風に来てくれるのが嬉しいっていうか……」
「…………」
「……ア、アレ? ナニソノ絶対零度の目?」

…初めてまじまじと、男の頭の天辺からつま先までを舐めるようにねめ回した。
およそ淑女のすべきではない、破廉恥この上ない行為だが、それはこの際やむを得まい。
「…貴方、馬鹿ですよね?」
口を突く言葉も、もはや皮肉を通り越して完全に罵倒だ。
これで相手が怒りで顔を青黒くして『誰に向かって口を利いている貴様!』とでも
言ってくれれば、彼女としてもまだ気が楽だったのだが。
「ん。よく言われる」
嬉しそうに照れ笑いを浮かべる、それが男の返した反応である。
…呆れるを通り越して、何か珍獣でも見るような目に女の目が変わった。

「…本当に司令官なのですか? 実は一兵卒とかではなくて?」
まず、冷静に見てみると非常に若い。
彼女より数歳上な程度、どれだけ高く見積もっても30を越えてはいないだろう。
一軍の将を任されるには、あまりにも歳が若すぎる。
「ん、一応な。あんまり乗り気じゃないんだけど、今日付けでそういうことになった」
身の装いにしたとて、蛮族だという事実を踏まえたとしても酷い。
丈の足りず腹の出たシャツに、飾り気の欠片もない革のズボン、腰に帯剣もしていない。
馬番の小僧や農民の子だとしても通用するだろう、
人の上に立つ者の装いではなければ、夜分に女の部屋を訪ねる服装でもなかった。

「てかそういうアンタだって侯爵夫人って貫禄じゃないだろ、チビ」
「ちっ!?」
そして礼儀作法の片鱗もなくゴロリと寝台に寝転がった男の言葉に、さしもの少女も絶句する。
言わんとする所は身に覚えもなくはないが、しかし『チビ』はないだろう。
罵声や侮辱すら通り越して、もはや子供の悪口だ。
「フェリウスの爺、確か50近くだったぞ? まさかその成りで30過ぎだとか言う気もないよな?」
「……私は、あの人の四人目の妻ですから!」
「んー、知ってる」
カッとなって怒鳴りそうになるのを、必死で押さえ込みつつ抑揚無い口調を保つ。
何しろ相手は蛮族なのだ、帝国側のマナーを期待するだけ徒労だろう。
堕ちても貴人の身代らしく、寛容な心で接しなければと、繰り返し自分に言い聞かせる。

「んで、その件についてちょっと頼みがあるんだけど」
「……なんですか?」
久しく忘れた感情のうねり、一体何年ぶりの激昂なのかにも気がつかぬまま、
「脱いで」
「ばっ!?」
でも、流石にこれはプッツン来た。

「だから! 脱がしたいなら存分に服を引き裂けばいいでしょう!?」
腕ずくで穢されたとか、民や子らを人質に取られ脅されてとかならまだ分かる。
が、繰り返すが何処の世界に好んで簒奪者に身を許し、心を許す妻がいるというのだ。
彼女は娼婦ではない。姦婦や毒婦になるつもりもない。

「汚したいのなら力ずくで陵辱なさったらどうです! 人を侮辱するのもいい加減に――」
「……地下の拷問部屋見てきた」
「――!!」
つもりはない。
「爺の部屋にある、変態臭い道具の勢揃いもだ」
つもりはないのだ。

「昔からの従僕に聞き出したぞ?」
「…………」
時が止まった彼女の目の前で、むくりと男が身を起こす。
「『病に臥せった挙句』? 『不慮の事故で』? よくもまあしゃあしゃあと。
二人目は首括って、三人目は折檻が過ぎて頓死したってのがホントじゃねーか」
獣じみた黄土の瞳に睨まれて、少女は思わず目を逸らす。
…逸らさせるだけの、強さがあった。

「もう一度言うぞ、脱げよ」
飾り気のない、しかし強い調子の賊徒の言葉に、元侯爵夫人はカチカチと奥歯を鳴らす。
「お前にはその義務があるし、俺にはその責務がある」
もしも仲睦まじい夫婦だったなら、こんな脅しには怯みも屈しもしなかったのかもしれない。
「この城を預かった以上、前任がしでかした蛮行確認すんのは施政者の務めだしな」
仲睦まじい夫婦だったなら。


  全ての良家の婦女子が、しかし『妻』として他家に嫁げるわけではない。
  時には最初から『妾』として、あるいは『人質』や『献上品』として送られることもある。
  力の弱い家に美しい娘が生まれた場合などは、特に後者の傾向が強い。

「…ひっでぇなオイ……」
角灯の明かりに照らされた裸体を見て、さしもの男も呟きを漏らす。
「…どっちが悪魔だよ、ホント」
「……」
サラサラとした鳶色の髪に、絹のように白く滑らかな肌。
安らぎと穏やかさを感じさせる蒼い瞳も合わさって、さながら人形のような美しさだけに、
そこに刻み込まれた狂気の痕は、尚更その惨たらしさを際立たせていた。

背に、尻に、腹に散らばる、
鞭で打たれた痕と思しき黒ずんだ痣、杖で殴られたと思しき折檻の跡。
左脇腹と右肩の二箇所に至っては、
火箸か何かでも押し当てられたらしく酷い火傷痕まで残されている。
いずれも肩から上や膝から下など、
公的な場で衆目につく可能性のある部分は巧妙に避けて刻まれている辺りが、
陰湿、狡猾極まりない。

そうしてそれらの中で一番直視に耐えかねる代物が、
豊かで張りのある双丘の頂点に施された、さながら乳牛を思わせる二つの輪飾りだ。
「……イカれてんだろこれ」
見ているだけでこちらが痛くなるその様子に、蛮族であるはずの男の声が引き攣る。
痛ましいにも程があった。
戦場での酸鼻、捕虜への拷問の残虐さには見慣れていたはずだったが、
女、それも明らかに非戦闘員な女に対して身内がこんな仕打ちを加えたという事実が、
男の嫌悪感を刺激してやまない。
股座に取り付けられた物々しい貞操帯が、一番まともな常識の産物に見えるのが、
なんとも救われない光景だ。

「……これで分かったでしょう」
背を向けたままの少女の声は気丈だが、僅かな震えまでは隠せない。
「これを見てまだ私を犯そうと思えますか? 股座の粗末なものは奮い立ちますか?」
ここに至っては男でなくとも気がついたであろう。
孤高を保つかと見せかけた裏に、滲んだ自虐と自棄の色に。
「私の身体は夫の『モノ』です」
振り返った瞳が輝いて見えたのも、光の錯覚ではないはずだ。
「とっくの昔に。余すところなく」
その目は確かに潤んでいた。
彼女が自覚しているか、認めているか否かは別として。

「……ふざけんなよ」
当然、怒った。
「何が『夫のもの』だよ、何が『侯爵夫人』だよ!」
略奪の経験がないわけではない。
部下の指揮を保つため、仕方なく非道な行為に目を瞑った経験も何度かある。
だが、好んで皆殺しや焼き討ちをした覚えはない。
至らず、力及ばずが故に至善に届かず苦汁を舐めたことはあっても、
進んで女子供をいたぶって、それを喜ぶほど腐ってはいない。
妊婦の腹は割かないし、子供の四肢は切り取らない、女に糞便は食わせない。

「それのどこが妻なんだよ!? まんま家畜や奴隷じゃねーか!」
「……ッ」
粗野で卑俗な蛮族風情に、しかし簡潔に正鵠を射られて、女もただただ奥歯を噛む。
抗弁したいが、出来なかった。
耐えるしかない恥辱と苦痛の中で、それでも狂妄には逃げ込めなかった。
夫のしたことは全て正しくも間違っていないと、叫べるほどには堕ちれなかった。
これでは『貞淑かつ従順な妻』には程遠い。
だから少女は辛苦を噛み締め、男は苛立ちに憤る。

「っだぁー、くそ!」
「いっ!?」
叫んで頭を掻いた男に次の瞬間腰へと取り付かれ、少女が僅かに息を呑む。
しかし続けてやってきたのはガチリという音と、股に感じる開放感だった。
「……え?」
同時にガシャリと音を立てて、床の上に落ちる貞操帯。

「……きゃああッ!?」
余りの突然の出来事に、繕った虚勢も剥げ落ちてしまったようだ。
発作的に両腕が胸と股間とを覆い、明らかに頬が赤みを増す。
「…ど、して……」
「押し倒してみたら貞操帯あってヤれませんでしたなんて、アホらしいにも程があるだろ」
一体どこから見つけ出して来たのやら、
くるくると手の内で鉄鍵をもてあそび、ふて腐れたように男が言う。
「その内、その胸の耳飾りも取ってやる。…見てるこっちが痛えかんな」
信じられないものでも見るような目で、少女は男の顔を見上げた。
簒奪者にそこまで施される理由が、本気で理解できなく混乱しているのだった。

「大体なんだ! こんくらいの傷!」
だから目の前の男が上着を脱ぎ捨て、褐色の裸身を彼女の前に晒しても、
ぽかんと口を開けるだけで何もできない。
突き飛ばされるようにして、無駄に豪華で贅の凝らされた寝台に押し倒されても、
事態に思考が追いつけなかった。

「ほら見ろよ! こいつは矢傷だぞ、それとこれもな!」
彼女に跨るよう膝立ちになりながら、筋骨隆々とした己の肉体を指差す。
……少女と違い、肌の色が暗いせいで一見では目立ちにくかったが、
よくよく見ればそこかしこに、戦場でのものと思しき惨たらしい傷が刻まれていた。

「これなんか三年前にお前らんとこの弩兵に鎖帷子ごと撃ち抜かれてな!
めっっっちゃくちゃ痛かったぞ、恥ずかしい話死ぬかと思って泣いたかんな!」
示されるままに左胸の腕の付け根近くを見てみれば、
傷口を焼いて止血した痕だろう、見るもおぞましい肉の盛り上がった火傷痕の姿。

「これは横っ腹槍で突かれて馬から落ちた時の傷!
こっちは砦攻めの時に背中から不意打ちで切りつけられた傷!」
そうして他にも大小様々、
帝都の社交界で日々夜会に明け暮れる貴婦人方が見たならば、
即刻卒倒して倒れるような生々しい傷痕を見せ付けた後、
「どうだ分かったか! 俺の方がずっと多いし傷も酷い!」
最後にふふんと鼻を鳴らして、勝ち誇ったかのように胸を張った。

「…………」
絶句。
文字通り手も足も、言葉さえも出ない。
鼻息荒く、勝手にまくし立てて、
か弱い女に見せるようなものじゃない代物をさも誇らしげに誇示した挙句、
何でだか偉そうに自信満々で笑っている。

「…だからそんくらいの傷、全然大した事ないわけだ」
ぽすん、と顔の両脇に手を突かれ、馬乗りに覆い被さられる形になっても、
それだから少女は抵抗の意気を奮い起こせなかった。
「…俺に比べりゃ、屁でもないんだしな」
目の前の男は、殴らない。
ぶたない、罵らない、嘲らない。

見上げる目に、見下ろす目がかち合った。
角灯の光を反射して、燃え盛る硫黄のような輝くそれは、正に悪魔の瞳なのだが、
どうしてか少女は吸い寄せられるよう、目を逸らすことができなかった。
光よりも闇になじむ指が一房、おもむろに散った彼女の髪をもてあそぶ。
そして糸の切れた人形のような彼女の腕を持ち上げると、
ゆっくりと彼女の掌に、自分の掌を重ねてきた。
そのまま硫黄の瞳が降りてくる。

警告の声は、ずっと頭の中で響いている。
彼女は白く、男は黒い。
白、鳶色、青を抱く彼女は、清らで、善な、神の側であり、
褐色、赤、黄土を持つ男は、穢れた、悪たる、悪魔の側だ。
交われば、穢れてしまう。

――だが、女は『キス』というものをされたことがなかった。
してもらったことがなかった。
肉棒を咥えさせられ、轡を填められたことこそあったが、
およそ普通の夫婦や恋人がするように、ささやかな愛情の交わし合った記憶はない。
…昔、書物の中の物語を読んで憧れたのを思い出す。
悲劇の恋人達の切ない逢瀬。
竜退治の王子が悪竜を打ち倒し、眠れる姫の呪いを接吻によって覚ますのだ。
だから。

唇を重ねられても、少女は黙ってそれを受け入れた。
ぼうっとした思考の中で、舌が割って入り込んで来たのを感じ取る。
オルブは焔の民と言われるだけもあって、
合わせた掌はとても熱く、絡みついてくる舌は温かかった。
すぐにちゅ、ちゅ、という水音が聞こえ出す。
その微かな水音と、相手の柔らかな口付けに、少女は安堵にまどろんで――

――ようやくそこで、淡い恐怖を覚えた。
心地よいのである、何も感じないというのとは違って。
安らぎさえ覚えるのだ、相手は蛮族で、しかもこれから犯されようとしているのに。
苦痛や嫌悪を感じるならまだいい、痛めつけられるのには慣れている。
何も感じないのもまた許せる、人形のように機械的に、ただ役目を果たすだけなのだ。
だが、これは。

「ふ……」
相手の舌を押し出そうと押し返した舌が、しかしぬるりと絡め取られた。
結果的にそれは更なる摩擦を伴って、愛撫をより激しいものにする。
(……いや)
半身のしかかってくる男の上半身が彼女の乳房を押し潰し、重みがとても心地よい。
(ちがう、違う)
合わせた掌を握る指を、ついついこちらから握り返してしまう。
(違う、違う、違う、違う!)
心臓がとくとくと高鳴って、えもいわれぬ感情が胸中で蛇のようにとぐろを巻いた。
(私、そんな……)

  叶う筈がないと、諦めながらに見ていた夢がある。
  悪い竜をやっつけて、囚われの姫を助け出しに、白馬の王子様がやってくるのだ。

「いや、ぁ」
ようやく解放された唇から、か細く震えた悲鳴が上がる。
一体全体何が嫌なのか、彼女自身にも混迷の極地でよく分からないにせよ。
対して首筋に移動した男の唇は、そのままゆっくりと舌を這わせる。
「や……」
それはれろれろと動物のように白い肌を舐めながら、ゆっくりと下方に移動して、
やがてなだらかな乳房の上を這い上がると、
耳輪の填められた乳首へと辿り着き、そこを重点的に責め始めた。
同時に反対側の乳房を、片方の手がやわやわと揉みしだく。
「ん……」
くすぐったさともこそばゆさとも付かぬ、優しくも柔らかな細波に、
耐え忍ぶかのようにぎゅっと目を閉じる少女だったが、
ふいに男の攻め手が止まり、乳房を枕にするが如く頭がぽふりと預けられた。
僅かに安堵の息を吐けたが、それも一瞬のことだった。

「――どきどきしてる?」
「ッッッ!!」
聴かれていると分かった時には、もう遅い。
心臓が跳ね上がるかのような驚愕と共に、全身がビクンと痙攣を起こす。
それは確かに徴となって、乳房に耳を当てる男の鼓膜に届いただろう。
母の胸にと身を預けるがごとく、微動だにしない男に対し、
やはり反抗らしい反抗もできず、ただただ身を縮込まらさせて震えるしかない少女。
『かつて』がそうだったのと同じように、
しょせん『家畜』の彼女にできる抵抗などそれぐらいなものなのだ。

「……最初はさ、半月くらい様子見て、友達同士から始めようとか思ってたんだけど」
対して女の胸に顔を擦りつけるように、その上で大きく伸びをした後、
「やっぱやめたわ、今から犯すな」
「……うえ?」
思わず聞き返した少女を他所に、男は勢いよく身体を起こした。

「悪いなー、でも俺も包囲やら戦後処理やらで最近死ぬほど忙しくてさ。
ここ一ヶ月近く女抱いてないせいで、やっぱり溜まってんだよね」
おもむろにカチャカチャと自分のズボンを脱ぎ出す男。
例によって男の言葉についていけず、言われたい放題で固まっていた彼女だったが、
「…それに『こんな身体見て粗末なもん勃つわけないでしょ』なんて挑発されたらさぁ」
「……え?」
露になった男の下半身を目にし、泳がせていた焦点をその一点へと集約させた。
少し。
いや少しどころではなくかなり。
「……ここで勃たなきゃ男じゃないっしょ?」
「……え、ええ?」
朗らかに笑う男だったが、股間からそそり立つそれは明らかにおかしい。
色もそうだが、長さも、太さも、形状も、彼女の記憶にあるものとは大幅に違っていた。
というか、入れるものではないだろうこれは。
錯覚でなければ、胴回りが彼女の手首くらいはあるように見えるのだが。

「ん? どったの? 急に怖気づいたみたいだけど?」
ぬうっと顔を突き出してきた男が、獣のような笑みを浮かべる。
「さっき『犯したいなら勝手に犯せば?』とか言ってなかったけ? おかしーなぁ?」
「……う」
ねっとりと耳元に囁く姿が、まるで猫科の肉食獣に見える。
「だーいじょぶだって、優しくするから!」
なのに『人間』よりはよっぽど優しく、
「それに断っとくけど俺、『言うこと聞かないと民が地獄見るぞ』みたいに
女一人と領民の命天秤に架けるトコまで頭のネジぶっ飛んでもいないからさ!
安心して俺に気持ちよくされちゃっていいぞ!」
『人間』よりは、よっぽどまともだ。

「…どう…して……」
思わず女が問い返してしまうのも、無理はなかった。
欲情されていると気がついて、途端にどうしてか羞恥が込み上げ胸と股とを腕で隠した。
弄ばれ、傷つけられ、畜生以下にまで貶められてしまった自分の身体を見られたくなかった。
どうして放っておいてくれないのか。
どうして冷たくしてくれない。
自分に果たしてどれほどの利用価値があるか、他でもない彼女自身が実は一番知っている。
侯爵夫人などという肩書きとて、昔も今も形骸でしかない。
『奴隷や家畜と変わらない』という男の言葉の正しさを、誰よりも知るのは彼女自身だ。

「だってあんた、可哀想だろ」
なので『空の色は青いだろ』とでも言うのと変わらぬが如く普通に男が言い切ったのは、
青天の霹靂とばかりに少女の瞳が見開かれた。
「…そんな人間に酷い目に合わされまくった犬ッコロみたいな目されてたらさあ、
なんかこう、幸せ見してやりたくなるのが男の人情ってもんじゃん?」
「い、ぬ……」
『犬ッコロ』という単語にやや強張りを見せるものの、
嫌味や侮蔑を含むでもなし、あっけらかんと言われた『可哀想』という言葉は、
頑なな岩に染み通るがごとく、少女の心を浸潤する。

自分はやっぱり、可哀想なのだろうか?
自分はやっぱり、憐れまれるような境遇にあるのだろうか?
自分はやっぱり、『犬』なのだろうか?

「それに、最初に言っただろ」
迷いの内におとがいを指で摘まれ、ぐいと顎を持ち上げられる。
猫のような目と笑みに、鳴るはずのない心臓がドキリと鳴る。
「敵国の美姫を手に入れたからって、嬲って晒し者にしなきゃダメっつー道理でもなし」
火照るはずのない奥が火照りを覚える。
疼くはずのない芯が疼きを覚える。
「身体だけありゃいいんならな、山羊のマンコにぶち込んでりゃいいんだ」
下卑た俗語にさえ反応する、卑しい己が身に赤面する。
至近から覗き込まれる男の目の輝きに耐え切れずして、少女はふるふると目を閉じた。
「俺は心が欲しいんだよ」

 

『犬め!』という言葉と共に、杖でぶたれた記憶が蘇る。
『犬め!』という言葉と共に、鞭で打たれた記憶が蘇る。
罵られ、蔑まれ、蹲った所で更にお腹を蹴り上げられて無様に床を転がされる。
周りの誰も助けてくれない。控える小姓や侍従達も、飛び火を恐れてただ縮こまるだけだ。
実家の身内も助けてくれない。おそらく叔父は、承知で自分をここに送った。

そういう時代だったのだ。
女は弱く、不浄とされ、貞淑であることが美徳であり、夫に逆らうのは許されなかった。
なにより対等な家柄の婚姻ではなく、彼女は名実共に『献上品』だった。
そういう時代、――『だった』のだ。

<続>

 

 

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2008年12月27日 06:09