「――疲れた……」
早朝に出発しナザル国城に到着してからも何かと慌ただしかったせいか、
日が落ちる頃には、リリアはぐったりと疲れきっていた。
ある程度整えられていたとはいえ、新しく自分が生活する場所である。
内装全般、持ってきた衣装や小物の整理などやることはたくさんあった。
馴染みの侍女たちに任せればきっともっと楽だっただろう。
けれど彼女たちのほとんどは数週間でエデラールに帰ってしまうし、
新しく付いてくれるこの国の者たちに自分の存在をしっかりと認識させる必要がある。
動きまわり監督し続けたせいか、足腰が特に痛かった。
しかも先ほどまで、フェルディナントの五つ年下の妹アンナ――確か年の頃は十六――が突然やってきて喋り倒していったのだ。
自分と二つ三つ歳が違うだけなのだが、なかなか強烈な性格だったせいで疲労は三割増しとなっていた。

今、リリアは自室に一人。
人払いもして落ち着けるはずが、ある事実がその心をざわめかせていた。
あと幾らかすると、ここにフェルディナントがやって来るのだ。
が、あとどれくらい待てば彼が来るのかはさっぱりわからない。
わからないまま、すでに1時間近く彼女は待ち続けている。

「あぁもうっ。しっかりしないと」

一度椅子から立ち上がるもまた座り直す。さっきから何回も繰り返している動作だ。
会うのはフェルディナントの留学時以来であるから、かれこれ七年振りである。
当時十四歳の彼に、十二歳の彼女。お互い歳の離れた兄・姉妹しかいなかったのもあり、歳の近い二人はすぐに親しくなった。
更に王族の女子としては珍しく学問に興味があったリリアはともに机を並べることができ、半年の留学期間が終わる頃に二人の婚約が決まった。
その頃のフェルディナントは、聡明、誠実、温和を基本にした、第二王子に相応しいと言えば相応しい控えめな性格であった。
彼の顔を思い浮かべようとすると、いつも微笑んでリリアを見つめていてくれたことを思い出す。
それに合わせてはにかんだり、怒ったり。たまにその胸にしっかりと抱きしめて貰うのが、あの頃何よりも嬉しかった。

いま彼は銀の仮面を付けている。成長期もプラスすれば、どんな姿になっているか想像が付かない。
故国で聞いた話には、彼がしたとは到底思えない処断の数々もあった。
銀仮面の下には、人ではない魔物の顔がある。
そんな噂をする人もいる。
ただ、現在暫定的に、そして未来きっと末永く国を統べる者として。
そうしなければならなかったのだとリリアは考える。

あの人に会えるという期待、不安、喜び、恐怖。
千々と乱れているのは、それでも乙女らしい感情。
綺麗と言って欲しい。会えた喜びを表現してほしい。でも幻滅されたら。冷たくされたら。
色々考えてしまっても、結局一度きつく抱きしめてくれたら、それだけで満たされてしまうのだろう。

「失礼します。フェルディナント様がお越しでございます」
「……ええ。お入りいただいて」

覚悟と希望だけは失わず。
リリアは立ち上がると、下腹部で緩く手を重ねて背筋を伸ばした。

「…お久しぶりでございます、フェルディナント様」
新しくリリアに与えられた部屋に入ってきたのは、フェルディナント一人であった。
以前宝物庫で見た古代文明の黄金のマスク、舞踏会に現れる道化師の仮面、
紳士淑女が戯れにつける目元だけ飾った仮面。
「銀の仮面」 ということしか知らなかったリリアは色々と想像を巡らせて彼を待っていたのだが、
彼の物は仮面と呼ぶにはあまりに――
「――本当に、全くお顔が見れないのですね」
仮面と言うよりは寧ろ、騎士のかぶる兜(かぶと)に近い。
顔どころか首筋も見えず、その下に纏う服はほとんどが黒か濃紫色を基調としたもの。
人としての温かみが感じられない。
彼の存在に様々な憶測がついて回るのも頷けるものだった。
「…………」
「……何か話していただけませんか?」
「…あなたは。変わりないようだ」
「……まぁ」
聞こえたフェルディナントの声は多少くぐもってはいたものの、意外と明瞭に聞こえた。
「そこはお世辞でも綺麗と仰って下さればいいのに」
「王家の女性にしては、男性並みに頭の回転が速い。噂はかねがね聞いているが、昔よりも一層巧みになったのでは」
「………お礼、申し上げます」

昔よりも喋るフェルディナントに、リリアは少々面食らう。
しかもなんだか皮肉っぽい。諭すように優しく話していてくれた彼とはまるで別人だ。
「あなたは私の婚約者だが、まだ正式に我が王家の一員となったわけではない。公の場に出る必要はないので、取り敢えずこの城に慣れていただきたい」
「わかりました」
「不自由があったら周りになんでも申し付けていただければ、すぐに対処するだろう。
 ――では、失礼」
え、とリリアが呆けると、フェルディナントはさっと踵を返した。
「ちょ、ちょっとお待ちになって」
リリアは慌てて彼の手首に触れ引き留めた。
指先に布越しでも伝わる柔らかさが彼が血の通う人間だという証拠の気がして、
リリアは心中秘かにほっとする。
「――何か」
「何か、はこちらの言葉ですわ。フェルディナント様は何しにこちらにいらしたのです」
「到着した婚約者の顔を見に来たのだが」
「そ、それならそうで、もっとしようがあると思います」
「…………なるほど」
フェルディナントは掴まれていた手首を外すと、腕を組みリリアを見据えた。
「あなたは私の婚約者とはいえ未婚の淑女。日が暮れた中、部屋に二人きりというのは要らぬ噂を呼ぶかと思うが」

「それは、そうかもしれませんが……」
久しぶりなのに。もっと砕けた口調で話したいのに。
しかし以前よりも遙かに高い上背に、表情を完璧に覆い隠す仮面が、
言いたい言葉を飲み込ませる。
「……それなら、明日もお会いできますか?」
「今はまだ混乱から抜け切れていない。……約束はできかねる」
「…………」
それは即ち、忙しいからこれからは会うつもりは特にないということ。
是非にと請うておいて、来たら来たで婚約者は放置。あんまりな扱いである。
「……わかりました。まだ、わたくし達は婚約中ですものね。
 仕方がありませんわ。――ただ、最後に一つ」
リリアは王家の一員として確かに淑女である。聡明と評されることも度々ある。
だがしかし、彼女は末っ子でもある。負けん気が強い。何かやり返してやらないと気が済まない。
「お顔をお見せ下さい」
「………………」
「これからしばらくお会いできないなら、せめて顔ぐらいは見ておきたいですわ」
にっこりと微笑むリリアに対し、フェルディナントは無言のまま直立不動を崩さない。
「噂では寝るときもそのままだとか。完全に人払いしていますし、
 わたくしだけなのだから安心してお外し下さい、ね?」
「………………」

それとも、とリリアは片手を伸ばし、仮面の冷たい頬に手を当てた。
「――それともこの下には、どうしても隠しておきたい秘密があるのかしら?」
「…………本当に、昔と変わらないな」
「ええ? ――きゃあっ」
フェルディナントは頬に当てられた手を掴み勢いよく引っ張ると、
リリアの腰を強引に引き寄せ抱き締めた。
ほとんど爪先立ちに近くなった彼女は、自然フェルディナントに寄りかかった状態になる。

「な、何をなさるのです!」
「あなたは私の顔が気になるようだ。それなら近くに寄って確かめればいい」
鈍く光った銀色の表面に、リリアの姿がぼんやりと映る。鼻先と目にある隙間からは、暗い闇の色しか見て取れない。
先ほど感じた体温も忘れ、リリアは小さく震えた。
「……仮面越しでは、よくわかりませんわ」
「確かに。
 ――この仮面を外して欲しいのなら、しかし、方法は無くはない」
彼女を抱えるフェルディナントの左手が、思わせぶりに、リリアの背中から腰の辺りまで辿る。
「――まぁ、それなりの代償をいただくが」
「…わたくしが嫌だと申しましたら?」
「関係ない。
 そもそもあなたが挑発的な態度をとったのに、何を今更」

フェルディナントは腕を緩めると、彼女の顎をくいと持ち上げた。
「そう、一つだけ忠告しよう」
更に顔が近づき、彼の声にあわせて仮面の中で反響する僅かな声まで聞こえるようになる。
「あなたがこの城からどんな情報を祖国へ送ろうとも、その意味は無に等しい。
 あなたは私の妻になりこの国の母になるのだ。その意味を、深く考えて行動することだ。
 ……では、数日中にまた」
フェルディナントは黒衣のマントを翻すと、リリアの前から去っていった。


「どうしよう…………」
自分がかけた罠に引きずり込まれた気分だ。
リリアは全身の力を抜くと、ぐったりと椅子にもたれかかる。
『フェルディナント』の正体を探ること。出立前に父王からも暗に仄めかされていた。
ただ、そのような政治的思惑などだけではなく、リリアは純粋に知りたかった。
『彼』がフェルディナントでないのなら、安否を確かめ場合によっては保護しなければならない。
『彼』が本物ならあの仮面の意味を、そして心身ともに疲弊しているだろう彼を精一杯支えて行きたい。

なのにこの有様。自分では落ち着いているつもりだったが、どうやら知らぬ間に気が急いていたようだ。
最初の素っ気ない態度からして、リリアを困惑させてペースを乱そうという魂胆だった気がする。
しかも去り際には無視できないほどの釘を刺されてしまった。
あれは即ち、この国のために、そして『フェルディナント』のためにこの身を尽くせということ。手段はたぶん、選ばない。

このままでは己の貞操も危ない。フェルディナント本人にならともかく、
知らない相手に蹂躙されるのだけはどうにかして避けたい。

数日中ということは、連れて来た侍女たちの一部が帰国する間際か。
少しでも有益な情報を持ち帰らせたいと思いながらも、それが非常に厳しいことは、
リリア自身がよく痛感していることであった。

 

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最終更新:2008年12月27日 06:07