すでに傾斜地帯を通り抜けた馬車は少しずつ速度を上げ、
前方に見えてきた湖畔から吹き漂う清澄な風の下をくぐるようにして進んでいく。
車上の三人の髪は少しずつ乱され、後方へと吹き流される。
けれど彼ら自身をとりまく空気は微塵も動かなかった。
エレノールが小さく瞬きをし、膝の上に置いた両手をそっと組み直したのがアランには分かった。
エマニュエルは表情を変えずにただ前方を眺めている。
エレノールのいるほうから、ほんのかすかに奇妙な物音が聞こえてきた。
アランが左隣を振り向くと、それは妻が息を奥深くまで飲み込んだ音だった。

「マヌエラ?」
ひとつ間をおいた後、かろうじてアランの耳に届いたのは母国語に戻った妻の声だった。
向かい風に流されてしまったのか、彼女の呼びかけは妹姫に投げかけられたまま応じられることはなかった。
エマニュエルは依然として前を向いている。
その視線の先をたどれば、御者の濃褐色の帽子を彩る鮮やかな羽根飾りの先が揺れはためき、
楽しげに不規則な弧を描いている。
あるいはその先に何かを見出したのだろうか。

「マヌエラ」
エレノールはふたたび妹の名を呼んだ。
夫を間に挟んで座っていることさえ失念したかのように、
ただ妹の横顔だけを見つめ、先ほどよりもはるかに毅然とした声音で彼女の名を呼んだ。
けれどその語尾は、静寂のうちに雷鳴の訪れを予感する森の梢のようにかすかに震えを帯びている。
ふいに馬車が何か背の低い隆起物に乗りあがり、車上の三人の肩も小さく揺れる。
車輪はまたすぐに地面に降下する。
いまの震動でやはり聴覚を妨げられたためか、エマニュエルは振り向かない。
彼女の横向きの輪郭は額縁のない肖像と化し、ただ額にほつれ落ちた黒髪だけが麦穂のようにそよいでいる。

「こちらを向いて、マヌエラ」
エレノールの声が車上に響き渡る。
それは決して悲鳴ではないが、すでにその予兆を孕んでいることをアランははっきりと感じ取る。

風が止まった。
自身をとりまく空間の静止により初めて束縛を解かれたかのように、エマニュエルはゆっくりと首をめぐらせ姉姫を見た。
そのまなざしには悪意も満悦の色もなく、凪を迎えた湖面のように、彼女の内側で完結した静けさだけがあった。
「遅かったわ」
「―――マヌエラ?」
「遊びはここでおしまい。ほらもう、着いてしまった」
「違うわ、マヌエラ。そうではないの」
「終わりは終わりよ、姉様。わたしたちは最初に、これは離宮に着くまでの慰みごとと決めたはず」
「違う、わたくしが聞きたいのはそんなことではないの」
「答えを教えてあげる」
すでに馬車の扉に手をかけながらエマニュエルは言った。
「ひとつめよ、もちろん。驚かせるつもりはなかったの」
「違うわ」
妹姫の背を見つめながら、エレノールは掠れた声で呟いた。
「聞きたいのは、そんなことではないの」

 

木立が風にそよぐかのような静けさで扉が叩かれたかと思うと、返事を待たずに華奢な人影が書斎に忍び入った。
部屋の窓際、燭台の据えられた文机に近づきながらその輪郭は徐々に明確になり、
その影はますます濃さを増していった。
「こんばんは。―――起きていらっしゃって、よかったわ」
混じりけなき安堵の吐露かと見紛うばかりの微笑をこぼしながら、
エマニュエルはアランの前に現れた。
今夜も薄手の絹の寝衣一枚をゆったりと身にはおり、豊かな髪を背に下ろしたままの姿である。
ただ黒い瞳だけが、いつにもまして鮮やかな生気を宿しながら炯々ときらめいている。
そして二日前と同じく文机に向かって沈黙を守りつづける義兄の顎に手を伸ばし、
かろうじて怒りを押し殺しているその無表情な顔を優しくなだめるように嫣然と見下ろした。

「今日は書き物をしておいでなのね。紋章入りの封筒ということは、都のご親族へのお手紙かしら」
アランは義妹を一瞥しただけで答えずに脇を向いた。
しかしそんなそぶりさえ見るのが愉しいとでもいうかのように、エマニュエルは微笑を保ちつづけている。
「朝方はともに遊戯を楽しんだ仲だというのに、相変わらず冷淡でいらっしゃること。
 あの遊びと同じくお義兄様に一興をおぼえていただけるよう、今夜は趣向を凝らしてみようと思い立ちましたの」
「趣向だと?」
「ごらんになって」

エマニュエルが取り出して見せたのは、筒状に丸めたレース地の布だった。
白い指にゆっくりと留め紐をほどかれながら、布は徐々に床に広げられていった。
寸法は縦横とも成人男性の背丈ほどだったが、素材があまりにも薄手で軽やかなので、
一歩近づけばそのときに生じた風のために布全体が宙に浮かざるをえないほどだった。
燭台の明かりのもとでじっと目を凝らすと、
そこには初夏の御苑もかくやとばかりのとりどりの薔薇が満面に散りばめられている。
むろん白一色にはちがいないが、世に二人といないレース職人の手になると思しき文様はそれだけでひとつの世界を形づくっていた。

(どこかで、見たような)
義妹の思いつきに撹乱されるなどあってはならないことだったが、
そのおぼろげな既視感ゆえにアランはレース地に目を注ぎ続けずにはいられなかった。
そしてはっと思い当たることがあった。
「―――これは、エレノールが輿入れのときに」
「ええ、姉様が婚礼で用いたヴェールです。
 衣裳部屋のさして奥まっていない棚にしまってあったので、すぐに見つけることができました。
 なつかしいわ。この薔薇のレース文様は、わたしが自分の婚礼でかぶったものと同じ。
 婚約期間中、母に嘆願いたしましたの。
 どうかわたしの輿入れ時もレオノール姉様と同じように装わせてくださいませ、と。
 大好きな姉様と同じ花嫁姿で嫁ぐことができるように」

「何を、考えている」
「まあお義兄様、怖いお声。さように訝しがられることはありませんわ。
 今夜はこれを敷いた上でわたくしを抱いてくださいとお願いしたいだけ」
「―――馬鹿な」
「あら、馬鹿げていて?格別の趣きがありませんこと?
 生涯で最も神聖な誓いを交わしたその場の証人に見守られながら、花婿が花嫁の妹と情を交わすのですもの。
 なんと皮肉なことかしら」
「貴様、ふざけるな」
「口の利き方にご注意あそばせ。
 あなたは仮にも一国の王太子殿下ではありませんか」
「ならばそなたは王女の身に生まれついた淫売だ」
「結構な響きですこと。
 そしてあなたは淫売の意のままにならねばならないのね。
 おいでになられませ」
エマニュエルは文机に向かったままのアランに向かい、指先だけで招く仕草をして見せたが、彼は動かなかった。

「お義兄様ったら」
聞き分けのない幼子をあやすような口調で義兄に語りかけながら、エマニュエルは彼の背後に立ち、その肩に指を這わせた。
アランは反射的にその手を払いのけた。
「やめろ」
「何かご不満があって?
 とても独創的な趣向だと思いましたのに」
「俺には、できない」
「まあ、どうして?」
「そなたこそよくも実の姉に対してこれほど冒涜的なことを思いつけるものだな。
 エレノールに対してだけではない、あの場で誓約を捧げた神に対してもだ」
「案外敬虔でいらっしゃるのね。聖域へ参拝されたばかりの御身だからかしら」
「そなたとて同様であろう。畏れを思い出すがいい」
「涜神的だからこそ、興奮するでしょう?」
その声の涼やかさにぞっとしながらアランは後ろを振り返った。
エマニュエルの顔には何の曇りも卑しさもなかった。
ただ確信を物語る微笑だけがあった。
心の底からそれを信念として奉じているというように。

「―――そなたは狂女だ」
「狂女でいいわ。お義兄様、あなたと寝たいの。
 すべてを手にしている姉様から、ひとつふたつ奪ったとて罪にはあたらぬでしょう?
 姉様の幸福の源たるあなたを、責め苛まずにはいられないの」
エレノールと瓜二つの黒い瞳には燭台の火だけが揺らめき、その奥には何も見えなかった。
もしもここで同衾を拒みとおせば、この女は今すぐにでも自らの服を引きちぎって悲鳴をあげ、
駆けつけた衛兵や姉姫に義兄の狼藉を涙ながらに訴えるであろうことがアランにははっきりと分かった。
狂信者に迷いはない。
彼はいまそれを真理だと思った。

「ありがとう存じます、お義兄様。
 あなたならきっと『いもうと』のわがままを聞き入れてくださると思っておりましたわ」
長い沈黙の後、アランがほとんど機械的な動作で文机の前を離れヴェールが敷かれた床に横たわるのを見届けると、
エマニュエルは嘲るように言った。
アランは目を閉じた。
正面からこの女の顔を見据えつづけていたら、妻と全く同じ眉目とはいえ、殴打せずにいられる自信がないと危惧したのだった。

まもなく女のたおやかな手が自分の帯にかけられたことをアランは知った。
その手際はいつものように滞りなく巧妙で、肌着の下から彼自身をとりだすまでに時間はかからなかった。
女の側からこれほど積極的な挙に出てくる場合、本来なら牡はすでに猛り狂っていて当然なはずだった。
だがエマニュエルのやわらかな手に握られたそれは屹立の兆しもみえない。
目を閉じていてもアランはそれを自覚していた。

「お義兄様、どうなさいましたの。お元気がないみたい」
心配するような声で尋ねながらも、その実エマニュエルはさして困ったふうでもなかった。
「激務で疲れておいでなのね。
 わたしが、慰めてさしあげますわ」
柔らかく温かい舌が裏側を這いはじめ、彼の根元から先端まで、ゆっくりと焦らすように上ってゆく。
すでに十日近くアランの肉体を愛撫してきたその舌は、
彼の生理的感覚を知り尽くしているかのように裏筋を舐め上げ、亀頭の周囲に何度となく円を描いた。

徐々に硬直が始まるのがアランには分かる。むろんエマニュエルはすぐに気づいたことだろう。
早くも滴り始めた先走りの液を指にとり、義兄の視界に納まるように顔を上げると、その指を口に運んでゆっくり舐めてみせた。
「やっぱり我慢できなかったのね、お義兄様。
 ほら、こんなにたくさんおこぼしになってしまわれて。
 とても美味しいですわ。貞操堅固なお義兄様がようやくわたしに発情してくださった、その証ですもの」
「だま、れ……」

苦渋に満ちた義兄の呟きなど意にも介さず、
彼女は隆起した彼の下腹部にふたたび顔を近づけ、甘露を吸いつくしたがる蝶のように丹念に舌を動かし始めた。
硬直しきった幹の周りをすみずみまで濃密に舐めつくしたあと、
頂にたどりついた愛らしい唇は迷うこともなく亀頭を包み込み、
今度は上から下へと下がってゆき、また上がってはまた下がった。
その運動が小刻みになるにつれ、先走りの液と温かい唾液の混ざり合う音がますます卑猥に灯火の下に響き、
アランの呻きを抑えがたくする。
それを察したエマニュエルはもはや十分に準備ができた牡を口から放し、義兄の耳元へ顔を近づける。

「お義兄様ったら。今さら我慢してどうなりますの?あなたの吐息をどうかお聞かせくださいませ。
 殿方の荒ぶる呼吸を聞かせていただくのがわたしは好きですの。殊にあなたのそれはとても好ましく存じますわ。
 抑制が効いていて、切なげで、官能的で、でもどこか雄々しくて。
 ねえ、聞かせて?」
嬰児に対するようにこの上なく優しく囁きかけながら、
エマニュエルは自らの帯に手をかけ、襟を開き、やがて生まれたままの姿になった。
かぐわしい黒髪に覆われた小麦色の滑らかな素肌、小ぶりだが上向きの乳房、花弁のような薄紅色の乳暈、
なだらかな腹部、足の付け根を隠す淡い茂み
―――姉姫と全く同じ造形をそなえた、甘美な夢そのもののような肉体が彼の眼前に露わになる。

そして彼女は床に片膝を突きながら脚を開き、アランの下腹部の上にゆっくりと腰を落として彼を迎え入れた。
秘所は温かくやわらかく、あたかも剥いたとたんに蜜を滴らせる旬の果実のようにすでに十分すぎるほど潤っていた。
エマニュエルはそれを強調するかのように、
少女のような細腰をあられもなく下方へと突き動かし、卑猥きわまりない水音をふたりの接合部分から響かせてみせた。
「お義兄様、聞こえていて?
 触れていただく前から、こんなにも濡れてしまったの。
 あなたを犯すのが、あなたのもので貫かれるのが待ちきれなかったせいですわ。
 あなたの、硬くて大きな、太いものが、こんなに待ち遠しかったの。
 ああっ……すごい……すごく、熱い……」

義兄の顔を上から傲然と見下ろしながらも、エマニュエルは押し寄せる快感の波に耐えられなくなるかのように、
ときおり目を瞑っては大きく背中を後ろにそらし、彼の頭上で形の良い乳房を、そして硬く尖った乳首を激しく揺らした。
その吐息はアランと同様に、もしくはそれ以上に熱く荒く乱れ始めていたが、
それでも彼女はいっそう激しさをまして腰を使いつづけ、陶酔に溺れそうになる漆黒の瞳をかろうじて開きながら、
顔を背けようとする義兄の眼を強いて覗き込み、迷い子を慈しむ天使のように切なくも甘やかな声で滔々と囁いた。

「ねえ、お分かりになって?
 お義兄様は、もう、『いもうと』のなかに、根元まで、すっかり入ってしまわれましたわ。
 あなたの大切な妻の妹と、深いところまで、つながってしまわれました。
 お義兄様のもの、いつも以上に、硬くて、太くて、素敵……
 ほら、もう、……奥まで、当たってしまう……すごい……
 もっと、もっと突いてほしいの……ああっ……そこ、もっと……っ

 かわいいお義兄様、わたしのなかで、脈打っていらっしゃる……びくびくって……いやらしい……
 あんなにいやがっていらしたのに……いまはもう、こんなに、興奮して……
 わたしのなかで締め付けられると、そんなに気持ちいい?
 それとも、この腰使いを気に入ってくださって?
 妻の妹に犯されながら、そんなに感じてしまわれるのね。
 ほら、また、はっきりと脈打ってらっしゃる……本当に、いけないかた……

 そろそろ、果てたいのね……わたしのなかで、果てたいのでしょう?
 義妹のなかを、自分の種子でいっぱいにして汚したいのでしょう?
 お出しになって、かまいませんのに……お義兄様の白くて熱いもの……たくさん、たくさん出して……」

そこまで語りかけると、もうこれ以上は耐え難いというかのように、
エマニュエルは大きく背中をそらして彼の顔から離れ、腰の動きをいっそう早く、小刻みにした。
修道女のように清楚な面立ちは禁じられた愉悦に染まり、花のような唇は悩ましくひらきつづけ、
なめらかな両手は自らの乳房を揉みしだきつつ指先で乳首を弄び、
華奢な腰は娼婦のように浅ましい動きに支配されているというその光景は、世のあらゆる男たちの獣欲を解き放つに十分であり。
アランも思わず視線を奪われかけたが、すぐに目を瞑り、彼女の表情も姿も決して意識に入れまいと心に堅く命じようとした。
だが書斎の底に艶かしく響き渡るその声だけは、やはりどうあっても遮断することはできなかった。

「お義兄様、すごい、……出して、早く出して……
 ほしい、ほしいの……お願い……っ
 わたし、もう、耐えられな……あっ、あああぁっ……
 早く、どうか、一緒に……」
一緒に、というその一語だけが何度も繰り返されたような気がした。
だがその確信ももてないうちに、アランは一瞬混沌に呑み込まれざるを得ず、
そのすぐ後に、しなやかな温かい身体が自らの胸の上に崩れ落ちたのが分かった。

卓上に揺れる燭台の火は、蝋燭が尽きるまでにまだ間があるというのにひどく弱々しかった。
まるで病人の微笑のような、とアランは意識の隅でぼんやり思った。
彼らが重なり合う書斎の床には、静寂の底を這うようにして熱気と気怠さが沈殿している。

突然、扉を叩く音が響いた。
瞬間、彼はほとんど力ずくで剥ぎ取るようにして義妹の身体を自分の躯体から下ろし、
素早く立ち上がって寝衣の前を合わせながら扉に向かって問いを発した。
「誰だ」
「わたくしですわ、アラン」
「―――」
彼は息を呑み込み、凍土のように硬直したまなざしで扉を凝視した。
背後で衣擦れの音が聞こえた気がした。しかしそれ以上意識にのぼることはなかった。

「一体どうしたというのだ」
「遅くにごめんなさい。あなたとお話がしたくて」
「話?」
「ええ、入ってもよろしい?」
「待て。―――いま目覚めたばかりだ。部屋に明かりがない。足もとが危うかろう」

アランはことばを切った。
ここで「燭台を持参しておりますから、火を移して差し上げますわ」との返事が来たら
もはや観念するしかない。そう思った。
だがエレノールは少し考えるように間をおき、それからまた扉越しに言った。
「そうですの。ではあちらの角に立つ衛兵たちに、調達してくれるよう頼んでまいります。すぐ戻りますわ」
「すまない」

アランはひとこと呟くとただちに義妹のほうに向き直った。
彼の焦燥など嘲笑うかのように彼女は悠然とヴェールの上に寝そべっているものとばかり思っていたが、
意外にもすでに立ち上がって服を着なおし、乱れていたはずの髪も緩やかに束ねていた。
「俺の言いたいことは、分かるな」
エマニュエルは彼を一瞥しただけで答えなかった。
だが黙ってヴェールを拾い上げると、窓から降り注ぐ月光さえ届かない書斎の奥へと歩き始めた。
「書棚の後ろにおります」
歩きながら彼女はひとことだけ告げた。
そして実際、奥の壁に最も近い書棚に至るとその裏側へしなやかに身を滑り込ませてゆくのが見えた。

この女の自己決定を許していいものか、とアランは一瞬自らに問うた。
エレノールと向かい合って話している間に、突如物陰から美しい悪夢のように姿を現さないという保障は全くないのだ。
しかし迷っている暇などなかった。
(信じるしかない)
そう自らに言い聞かせると、アランは帯と襟元を正し、乱れた金髪を手早く整えた。
そして文机のそばに戻って書きかけの手紙がそこにあることを確認し、
末尾にインクを二三滴垂らして吸い取り紙を押し当てると、卓上の灯火をそっと吹き消した。

(そうだ、衛兵は)
アランはふと思い出した。
彼らはエマニュエルが「王太子妃として」入室するのを見届けたはずなのに、
今さっきエレノールが廊下の向こうから姿を現したのをなぜか奇異としなかった。
そのまま見咎められずに通されたからこそ彼女は書斎の扉に至ることができたのだ。
それともエレノールは彼らから予期せぬ尋問を受け、ひとりで事情を掌握したのだろうか。
アランは慄然とするものを感じたが、一瞬後、それは背中から去っていった。
(ああ、―――当直交代の時間をまたいだのか)
ごく単純な事実に思い至り、アランは安堵の息をついた。
だが同時に、今夜の幸運をこれで蕩尽したようにも感じていた。

エレノールが戻ってきたのはちょうどそのときだった。
彼女は扉を軽く叩いたが今回のそれはただの合図に過ぎず、
夫の答えを待たずに扉を開けると静々と中に入ってきた。
彼女もやはり髪をうしろで軽く束ねていたが、寝衣の上に薄いショールをはおっていた。
真夏にもかかわらず、ふいに訪れた秋口のような今夜の涼気が身体にこたえるのかもしれない。
文机のそばに立つアランの姿を見定め、彼と目が合うと、
エレノールは携帯用の燭台に据えた小さな蝋燭の向こうでほんのりと笑った。
彼のすべてを信じ、何もかも許しきっているかのようないつもの笑顔だった。
そして他ならずそのことが、アランの呼吸を苦しくさせた。

「使い走りのような真似をさせて、悪かった」
「かまいませんわ、ついでですもの」
「どうもそなたが来るまで机の上でうたた寝をしていたようだ。火が消えたことにも気がつかなかった」
そういって彼は妻から受け取った燭台を掲げ、書きかけの便箋にちらばるインクの染みを示して見せた。
自分がこれほど卑しい小細工に頭を回す人間だとは、彼はこのときまで思いも寄らなかった。

「―――話とは」
エレノールに手近な安楽椅子を勧めながら、アランは机の前の椅子に腰掛けた。
彼女は言われるがままに一旦座ったが、ふいに立ち上がると少し恥ずかしそうに、
だがそれを切実に求めているというように、夫の膝の上に座りなおした。
アランの鼻先に突如現れた潤いある黒髪は、やはり白檀の香りがした。

「どうしたのだ」
慎み深い妻が自ら接触を求めてくるなど、これまでのアランなら諸手を上げて歓迎していたはずだが、
今ばかりは気分を高揚させることなどとても不可能だった。
しかし何ひとつとして異状を気取られるわけにはいかない。
アランは強いて自らを奮い立たせながら、そのかぐわしい髪や首筋、肩にゆっくりと接吻を落としていった。
じらすようにしたあとにようやく唇を重ねてやると、エレノールはそっと小さな口を開き、夫の舌を自発的に受け入れるに至った。
アランとしても、挨拶ではない本物のくちづけを彼女と重ねるのは久しぶりだった。
腕の中で熱を帯びてくる華奢な身体の素直さに彼の胸もつい熱くなり、舌のみならず指先もつい動員せざるをえなくなる。
横向きに座る妻の腰を左手で支えたまま右手で布越しにゆっくり乳房をまさぐってやると、
エレノールの息は如実に熱くなっていった。
だがその下肢の裾を割って肌着越しに秘所に触れようと試みたとき、彼女は夫の愛撫をやんわりと押し留めた。

「ごめんなさい。今夜はそのつもりではなかったの。
 なんとなくあなたに触れて、体温を感じてみたくて」
「何があった」
「目を覚ましたら妹が寝室にいなかったのです。
 しばらく起きていたのだけれどなかなか帰ってこないものですから、なんだか心配になってしまって。
 部屋部屋を探しておりますの」
「そうか」
アランは相槌を打った。声に震えが滲むことのないように、とただそれだけを念じていた。

「思い当たるところはたいてい探しつくしたのだけれど、見つかりませんでした」
「―――それで、この書斎に?」
「勘違いなさらないでね。妹が今朝がた帰り道で口にした戯れを気にしているわけではありませんわ。
 たぶんあの子は入れ違いで寝室に戻っているか、庭園の奥でひとり月を愛でながら涼んでいるのでしょう。
 昔から屋外で横になるのが好きな子だったから」
「ならば、何も案じることはあるまい」
「ええ、案じることはありませんわ。案じることはないはずなの。
 ―――でも、なんだかあなたにお会いしたくて」
「俺に?」
「ごめんなさい。なんだか支離滅裂なことを口にしているわね。
 わたくし、―――なんと申し上げたらよいのかしら、不安なの」
「やはり妹御を案じているのか」
「いいえ。あの子がいま寝室にいないことではなくて、あの子が―――遠く感じられること」

アランは少しだけ強く妻の身体を自らに引き寄せた。
エレノールは従順にその力を受け入れ、彼の肩に頭をもたせかけた。
「そなたがこれまで妹御のことを、身近に感じすぎていたのではあるまいか。
 あたかも彼女の時間はそなたが嫁いだ日を以て停止したかのように。
 だが心も肉体も、人は移ろいゆくものだ。ことに乙女から人妻に、それも一国の主の妃になったのであればなおさらだ。
 変わらずにいることのほうが世の摂理に反している」

「ええ、それはそうだわ。でも、ちがうの。
 うまく申し上げられないのだけれど、あの子はただ成長してしまったのではないわ。
 あの子は遠くなっていく。まるで少しずつ別人に生まれ変わろうとするかのように。
 今朝の最後のあの問いかけ。嘘だということは分かっておりましたわ。
 でもあの子は、あんな問いをいたずらに口にして人を惑わせたり傷つけたり、
 周囲の間に不信の種を蒔こうとするような子ではなかった。
 あの子をここに迎えた日から少しずつ、ほんの少しずつ違和感をおぼえていたのだけれど、
 今日はとうとう、あの子が―――見知らぬひとに見えてしまった」

その語尾は何かをこらえるように震えていた。
アランが彼女を抱く腕に力を込めると、それが堰の決壊を促したのか、エレノールは静かに落涙した。
「―――ごめんなさい」
「謝ることはない」
「こんな、見苦しいふるまいをするつもりではなかったの。
 ただ、あなたの体温を感じると、安心してしまって」
エレノールは嗚咽を小さく呑み込んだ。
そしてふと、透き通る夜の泉のような瞳で夫の顔を覗き込んだ。

「あなたはあの子を、厭うておいでですか」
「いや、そんなことはない」
「いいえ、そうだわ。あなたは明らかにあの子を忌避していらっしゃる。
 ヴァネシアに放った密偵から噂を聞き及び、それゆえにご心証を害されたのでは」
「噂?」
「お教え下さい。あの子について何をご存知なのです」
漆黒の双眸が、柔和な顔立ちには似合わぬほど突如鋭くなる。
かつてない変貌に、アランは思わず気圧されるようなものを感じた。

「いや。―――ヴァネシアの交易体制や有力商会の動向については逐一報告を受けているが、
 公室の内情への言及はほとんど耳にしたことがない。
 俺が知っているのは、ヴァネシア公はエマニュエル殿を娶った後もあまたの側妾への惑溺をやめず、
 彼女との間にはいまだ子がないということだけだ。
 ―――ああ、大事なことが抜けていた。
 公はすでに初老に達したこともあり、近年、
 公位継承者をまだ生まれ来ぬ我が子ではなく親族の男子のなかに求めはじめたとも聞いた。
 その候補者のひとりは母方がガルィア貴族の血筋なのだ。
 ゆえに間諜たちも定期報告書の中でヴァネシアの後継問題に紙幅を割いたのだろう」
「―――そうですの」

安堵したような、けれど夫が自分と何か大切な事実を共有していないことにどこか心細さをおぼえたような声で、
エレノールは小さくつぶやいた。
「あなたがご存じないのなら、―――ご存知なのがそれだけなら、それでいいのですわ」
「どういうことだ」
「まつりごとを左右するような事柄ではございません。どうか今の問いはお忘れになって。
 ほんの、内々のことにすぎませぬから」
「だがその内々のことを心に懸けるあまり、そなたはひどく憔悴している。
 今まではついぞ思いも寄らなかったが、―――離宮に着いた日以来妹御をそばに呼び寄せ、
 朝も夕も片時も離そうとしなかったのは、実は旧交を温めるという以上の目的があってのことなのか」
エレノールは答えなかった。
潤いを帯びたその瞳はただ自分の膝を見つめ、
細くたおやかな指はアランによって今さっき乱されかけた裾を念入りに直してはその光沢ある表面をなぞっていた。

「目的、―――あるいはそうかもしれません」
しばらくの沈思のあと、エレノールは小さな声で言った。
「このレマナの地であの子と偶然にも再会できたとき、わたくしは本当に幸せでした。
 むろん、ともに昔を偲びあうことができる、そう思えたのが何よりうれしかったのです。
 わたくしたちはどれほどの土地と時間に隔てられても多くを共有しつづけ、これまでもこれからも愛し合っているのだと、
 それをたしかめられるのがうれしかった。

 けれど一方で、これを機に妹に面と向かって、今まで伝聞してきたことの真偽を問うことができると、
 そう焦燥に駆り立てられたのも本当です。これこそが天機だとわたくしには思えたのです。
 あなたもご承知のとおり、わたくしたちのように外国の王室に嫁いだ王女は実質上、
 生家と婚家の同盟関係をより補強するための人質、生きた楔でございます。
 楔は突き立てられた場所から抜かれてはなりません。
 王位継承権において上位に位置するのでもないかぎり、父母が亡くなったとて容易に里帰りすることもできず、
 戦争で捕虜にでもならぬかぎり、その後の人生で兄弟姉妹に再会できる保障はほとんどないと申せましょう。

 それゆえに、避暑に訪れたこの地で偶然に与えられた機会、妹に巡りあえた幸運を逃すわけにはいかないと思いました。
 時を浪費せず、一刻も早くこの子とふたりで向かい合わなければ、と。
 いえ、必ずしも偶然とは呼べないかもしれません。
 ある意味では必然だったのだわ。あの子が国境を越えてまでこの地を訪れたのは。
 ―――聖リュシアンの故地をめざしたのは」

エレノールはふと口を手で押さえ、しばらく黙り込んだ。
自分で意図していた以上に語りすぎたと思ったのかも知れない。
だがアランは言い逃れを許さぬように妻の瞳を覗き込んだ。
あの女について知っておかねばならぬことがある。本能的にそう思った。
「どういうことだ。
 俺はたしかにエマニュエル殿の血縁ではないが、そなたの伴侶だ。
 そなたの心を日夜煩わせていることがあるならそれを知りたい。知らねばならない」
エレノールは自らのうちに閉じこもるように目を伏せた。だがそれも長くはかからなかった。
あるいはすでに心を決めていたのかもしれない。

「やはり、知っていていただいたほうがいいのでしょうか。
 ええ、そうですわ。知っていていただいてほしい。
 わたくしはずっと、あなたと分かち合いたかったのです。あの子をめぐる状況を。それを解決するための模索を。
 お話いたします。
 エマニュエルがこの地を訪れたのは、自身の静養のためなどではなく、
 ―――赤ちゃんを亡くしているからですわ。
 無事に育っていたらきっと今ごろ、御加護を乞うために連れてくるつもりだったのでしょう。
 そしてもう、産めない身体なのです」
「子どもが、いたのか」
心に不思議なものが差し込んだ感触をおぼえながら、アランは言った。
義妹にはついぞ、そのような気配を感じたことはなかった。

「ええ。
 あまりにも早く亡くなり、しかも女児だったために、あなたの密偵もわざわざ言及することはなかったのでしょう。
 わたくしも、出産後の経緯は全て、あの子の侍女からの手紙で知ったのですけれど。
 あの子自身はわたくしとの文通のなかで、結婚生活の不満や苦痛を訴えることなど一度もなかったから。
 昔からそういう子だったの。
 新調したドレスの袖飾りが取れかけていても、それを周りの大人に訴えたらお針子がひどく折檻されてしまうからと言って、
 拙くても自分の手で直して着て、しばらくしてから『舞踊のお稽古の最中に取れてしまいました』
 と母に言上して修繕に出すような子でした。まだ十歳かそれぐらいのときのことですわ。
 わたくしならきっとすぐに母に泣きついて、何も考えず事を露見させたでしょうに。
 エマニュエルは年下なのにずっとものがよく見えていて、自制心があって、そのうえ心優しかったの。

 そう、あの子の赤ちゃんのことでしたわね。どこからお話したらいいのかしら。
 ヴァネシア公に嫁いでから一年後、今から二年前ですわね。
 あの子は初めての子どもを、女の赤ちゃんを生んだのです。
 けれどひどい難産で、分娩後は長い産褥熱にも苦しめられ、
 侍医からはおそらくもう身ごもることはない、身ごもることがあっても産まないほうがいい、と宣告されましたの。

 あなたもそれとなく報告を受けていらっしゃるでしょうけれど、
 あちらでは女児には基本的に公位継承権が認められておりませんし、
 エマニュエルは元々寵愛を受けていたとは言えないこともあって、夫君の足はますます閨房から遠のいていきました。
 けれど妹は幸せだったと、わたくしは信じますわ。
 全身で愛を注ぐことのできる対象をいつも自分ひとりのそばに置くことが許されたのですもの。
 わたくしも驚いたのだけれど、あの子は自分で乳を与えてさえいたのだと、侍女は手紙に書いておりました。
 けれど一年もしないうちに、すべてが変わってしまいました。
 赤ちゃんは生まれて初めて迎えた冬のある日に、高熱で死んでしまったのです」

「そうか、―――気の毒に」
「どこの家庭にもありうる話、かもしれませんわね。
 ええ、それはいつでも、誰の身にでも起こりうることですわ。
 口にすることさえ恐ろしいけれど、
 まだ二歳にならないわたくしたちのルイーズとて、半年後にも、今日明日にも天に召されてしまうかもしれない。
 疫病や気候の異変に満ち溢れたこの地上では、
 子どもが無事に生まれて丈夫な身体に育つということ自体がすでに、神の御慈悲の領域ですものね。

 ―――でもたとえ、万が一ルイーズを失うことがあっても、
 わたくしはあなたと悲しみを、喪失に伴うすべてを分かち合うことができますわ。
 自分のなかの空虚さにただひとり放り込まれずに、あなたとともに悲しみに向かい合うことが許されますわ。
 でもあの子は、エマニュエルは」
「ただひとりで、喪失に耐えなければならなかったということか」
「ええ、
 ―――でもそれならば、それだけならばあの子はまだ耐え抜くことができたのかもしれない。
 あの子は本当に強い子だから。
 でもやっぱり、限界はやってきたのです。あの子は強いけれど、とても強いけれど、けれど鋼鉄ではないから」
「何があった」

「夫君は、喪失そのものを忘れてしまったのです。喪失を分かち合おうとしなかったのではなく。
 エマニュエルの娘が亡くなってから半年が過ぎたころ、ヴァネシア公の愛妾がやはり女の赤ちゃんを産みました。
 公はその子に、エマニュエルの娘と同じ名前を与えました。ジョヴァンナと。
 わたくしたちの間ではフアナと呼び習わす名前です。
 女児の名としてはとてもよく好まれるものだから、公は迷うことさえなかったのかもしれません。
 誰にでも愛されるこの佳名を、愛する女に産ませた愛する娘に授けるのは当然のことなのだと。

 むろん家臣のなかには反対し諫言を呈する者もおりましたが、
 その婦人は公の側妾のなかでもとりわけ寵愛が深く権勢を誇るがゆえに、
 結局はみな口をつぐんだということです。
 そしてあの子は、エマニュエルは、その命名の事実を知った日にきっと、何かが壊れてしまったのだと思います。

 娘を失ってからそれまでずっと、あの子は祈祷と供養を重ねつづけ、
 ついには『もう嗣子が産めないのだから』と出家さえ願い出たのだけれど夫君の承諾はどうしても得られず、
 はたで見ているのが苦しくなるほどに心うつろな日々を過ごしていたと、侍女から伝え聞いております。

 ヴァネシア公は個人としては妻に関心を持っておらずとも、中継貿易で栄える都市国家の首長である以上、
 わがスパニヤのような巨大水軍を擁する海洋国家との連携はどうしても維持したかったのでしょうし、
 何より、エマニュエルの出家を許して入れ替わりに別のスパニヤ王族を娶るにしても、
 あの子が修道院に入るために帰国すれば、夫君からいかに粗末な扱いを受けていたかが歴然と証明されることになり、
 わが父王の不興をこうむることはまちがいありません。下手をすれば問責の使者さえ飛ぶでしょう。

 それゆえに、スパニヤ以上に結ぶに適した国が現れない限り、
 彼としてはあの子を正妃の地位から退けることだけはしたくなかったのだと想像されます。
 継嗣の問題は小さくはありませんが、あなたも報告を受けておられるように、公族につらなる男子は探せば探せるものですから。
 けれどそういった思惑の一切が、あの子の心をじわじわと侵食し、
 取り返しのつかないほど損なっていったに違いありません。
 そしてある日、娘の名が別の女児に与えられたという知らせがもたらされ、あの子は―――」
エレノールは初めてことばを切った。

「―――あの子は、姦淫に慰めを見出してしまったのだと、侍女はそう書いておりました。
 もちろん、宮中の公族や貴族のなかから心の通い合う相手を愛人として選び出すのなら、
 賞賛はされないにしろ、一般に黙認される行為ではございます。
 けれどあの子はひとりだけにはとどめず、常に何人もの貴公子を侍らせ、寝台に招き、
 あまつさえ、―――時には城下町の辻に立ち私娼のふりをして客をとり、
 ときには馬車を走らせて平民の男を拾い、『歓楽の館』と称する場所に連れ込むのだとか。

 どうかアラン、お分かりでございましょう。
 これら一切がわたくしのなかのあの子の思い出とはあまりにかけ離れていて、
 信じるも信じないもなく、何をどう考えればいいのか分からないのです。
 この噂はスパニヤの父母の元にもすでに届いており、とりわけ父は相当に怒っているようすです。
 もしこれが事実ならば、王家開闢以来の不名誉、父祖の名に唾する冒涜だと。
 けれどわたくしはあの子の助けになりたい。
 わたくしだけは何があっても味方だと、あの子に信じていて欲しい。
 侍女もそのために、主人の怒りを買うかも知れぬという禁を犯してまでわたくしにひそかに書き送ってくれたのです。
 けれど離宮に招いて以来、朝から晩まで一緒にいても、妹はこれまで何ひとつ語ってくれません。
 わたくしが嫁ぎ先の暮らしについて尋ねようとすると、あの子はいつもかわしてしまう。
 ただひとこと、幸せです、とだけ答えるのです。
『わたしは今いる場所でとても幸せです。姉様と同じように、姉様がそう望んでくださるように』と」


エレノールは口をつぐんだ。
そのまなざしはアランの肩を越えて窓の外に懸かる白い月へと注がれ、そしてまた、彼のもとへと戻ってきた。
「あの子は怒っているのでしょうか」
「怒る?」
「わたくし自身が欺瞞を抱えたまま、あの子の真実を聞き出そうとしているそれゆえに。
 あの子はそれに気がついてしまったのかしら。
 だからわたくしに腹を立て、何も語ろうとせず、憎しみさえ抱くのかしら。
 今日あの子がわたくしの前で別人の顔になってしまったのは、―――あれは憎しみのせいではないのでしょうか。
 あなたはもしや、あの子の口からわたくしへの怒りを聞き及んでおいででは」

エレノールの語尾はふたたび震え始め、湿り気を帯びた吐息はアランの首筋にまつろわった。
ただの気体でありながら、それはあたかも絞首台のささくれ立った縄のように彼の気管をしめつけ、臓腑を圧迫した。
他者の苦痛をこれほど切実に共有したのは生まれて初めてのことだった。
「そんなはずはない」
妻を両腕で抱擁しながら、アランはゆっくりと囁きかけた。
「そなたがこれほど愛しぬいている妹御が、他ならぬそなたに憎しみなど向けようはずはない。
 それは他人の俺でも分かることだ」
「でも」
「馬鹿な考えは捨てるがいい。
 姉妹と言えど、秘密のひとつやふたつ隠し持つのは当然のことだろう。
 殊にそなたの語るように、それほど賢明なエマニュエル殿のことだ。
 ひたすら口を閉ざす理由はひとえにそなたを案じさせまい、自分ひとりで解決しようと心に決めてのことだろう。
 だが、ひとつ気になることがある。―――そなた自身の、妹御に対する偽りとは何だ。
 俺すらも知りえないことか」

吐息のような声で問いかけながら、アランは妻の口元に耳を近づけた。
それがどんな種類の嘘であれ、エマニュエルに聞かせたくないというならば
書斎の奥に隠れる彼女の耳に届かぬようにしなければならない。
だが予期に反してエレノールは口を開かなかった。
夫の褐色の瞳を見つめ、ゆっくりとまぶたを閉じ、それからまた開いた。
「お許し下さい。あなたにも、申し上げられません」
「なぜだ」
「あなたを信じていないというのではありません。
 けれどそのことをお知りになったら、必ずや、じきにあの子の知るところとなるでしょう」

確信を帯びたその口調に、アランは急速に動悸が早まってゆくのを感じた。
(もしや、妹と俺の関係をすでに察しているのか。―――いや、そんなはずは)
だがそうでなければこのような物言いをするはずがない。
今度はアランが瞑目すべき番だった。けれどそうする前に彼は息を殺しながら妻の瞳を見つめた。
奮い起こした勇気は報われた。
漆黒の双眸には疑念も非難の色もなく、そこに読み取れたのはただ、伴侶にさえ真実を伏せなければならぬことへ罪悪感のみだった。

「どうしても口にできぬというなら、仕方がない」
アランはわずかに下を向き、絨毯で覆われた床の上に降り積もる月光の断片を眺めやった。
椅子の上で抱き合うふたりの影は天上の月と卓上の灯火によってそれぞれの方向に投じられ、
二種の影の重なり合った部分は夜陰そのもののようにひときわ黒々と床の上に刻印を押していた。

「ありがとう、アラン」
彼の耳元でエレノールがつぶやいた。
「そろそろおいとまいたしますわ。
 あの子が寝室に戻ってきたときわたくしがいなかったら、
 この書斎であなたと、その、夫婦の務めに励んでいると勘違いされるかもしれないし。
 姉妹の間とはいえそれはやはり気恥ずかしいものね」
エレノールは少しはにかむような表情になった。
その恥じらいに嘘はなかったが、これは同時に別のことを案じてもいるのだ、とアランには分かった。
われわれがいかに離れがたく睦まじい夫婦であるかを妹に示す機会など、願わくばないほうがよい。そういう意味なのだ。
「おやすみなさい、アラン」
卓上の蝋燭に火を分けたあとの携帯用燭台を手にしながら、エレノールは夫に別れを告げた。
そして彼の唇に短く接吻すると、白檀の香りを残して去っていった。

 

「愁嘆場だこと」
エマニュエルが最初に発したのはそのことばだった。
アランはゆっくりと振り返って義妹を見た。
書斎の奥からふたたび現れたしどけない寝衣姿は先ほど見送った姉姫と空恐ろしくなるほど似通っていたが、
その無関心な表情と口調はことさら彼の敵愾心を煽り立てようとするものだった。
さまざまな思いが錯綜する胸中に一塊の苦味を味わいながら、アランはできるだけ冷静に言った。

「言い放つことはそれだけか」
「わたしの口から何をお聞きになりたいのです?」
「そなたは何も思うところがないというのか。
 ―――エレノールからあれだけ愛されているのを知りながら」
ほんの一瞬、エマニュエルの瞳から何か暗い膜のようなものが去った。
けれどアランがその奥にあるものを見届ける前に、彼女はすぐに平坦なまなざしと声を取り戻した。

「何度も申し上げるようですけれど、わたしも姉様を心から愛しておりますわ。
 ただ少し、憎しみのほうが勝っているだけ」
「貴様、―――」

言いかけたところで、アランはためらいがちに口をつぐんだ。
この先のことばを見失ったような、禁じられているようなもどかしい思いだった。
そしてその気配はエマニュエルに如実に伝わり、彼女の口元を優美に歪ませた。
「あらお義兄様、どうされましたの?
 いつものようにわたしを存分に罵られたらよろしいのに。
 ひょっとして、姉様から聞かされたわたしの来歴を気の毒に思って、自重しておいでなのかしら」
エマニュエルの顔にはこぼれそうな微笑が広がる。そしてアランに一歩近づく。

「善良なかた。
 姉様は何度もおっしゃったでしょう?わたしは強いのだと。
 そのとおり、わたしは強い女ですわ。
 だから過去など必要ないの。過去を振り返る必要などないの。
 過ぎ去った昔を偲びあい慰めあうなど、無力で怠惰な者たちがすることよ。
 わたしには今があればいい。今目の前の歓楽を手に入れるためならどんなことでもできますわ。
 他の人々、たとえばあなたや姉様がそれをしないのは、何も信仰心のためだけではありません。そうでしょう?
 単にその機会に踏み切るだけの強さが、勇気が欠けているだけですわ」

エマニュエルはついにアランの眼前に立った。
そして彼の顔を優しいまなざしで見上げ、なめらかな右手でその頬に触れた。
「さあ、邪魔が入ってしまったけれど、先ほどのつづきをいたしましょう。
 一晩中、可愛がってさしあげますわ」

 

(続)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 06:03