「こんばんは、お義兄様」
顔を上げると、いつのまに扉を開けて入ってきたのかエマニュエルのすらりとした輪郭が文机の雨に佇んでいた。
燭台から放たれる淡い光は書斎の闇の中にその滑らかな小麦色の肌を浮かび上がらせ、
礼拝堂の一角から信徒たちを見下ろす聖女像のようにおごそかな気品をまとわせていた。

「何を読んでいらっしゃるの?」
首を少しだけ前に傾けて義妹が問う。
湯浴みから上がって間もない洗い髪がアランの目の前で揺れ、白檀のゆかしい香りを惜しみなく漂わせる。
「この図解は黄道かしら。
 そういえば、お義兄様は自然科学のなかでもとりわけ天文学をお好みなのだと、以前姉様からうかがったわ」
夜毎の訪問だけでなく自分という女の存在そのものを忌んでいる義兄が
こういった問いに決して答えるはずがないことはよく分かっているので、
エマニュエルはひとりごとのように淡々とつづけてゆく。
アランは文机の上で両手を組み合わせ、視線を本の上に落としたまま微動だにしない。

「避暑と休息のためにこちらにいらしたはずなのに、
 昼間は離宮近郊の農村を視察なさったり、直訴状に目を通されたり、
 今日などは州長官を招聘して行政の現状を聴取なさったりと、勤勉のきわみでいらっしゃる。
 それなのに夜はまた学問に励まれるとは、君主の鑑と申し上げるべきですわね」
アランは依然として何も答えない。
しかしその伏せられた褐色の瞳の奥では、
かろうじて静けさを保ちながらも紅蓮の怒りが今に炎上せんばかりであるのは明らかだった。
その事実にエマニュエルはほとんど倒錯的な喜びをおぼえたかのように口元をほころばせる。
それは誰の目に触れたとしても、善良無垢にして自らのうちに品位を保つ高位の修道女のような微笑だと評されたことだろう。

アランは義妹のほうを努めて見まいとしていたが、
彼女が椅子の近くに膝をつきあたかも従順な婢女のようにこちらを見上げてきたので
どうしてもその微笑を視界に収めないわけにはいかなかった。
顔の造作も同じならば微笑の性質さえ妻と同じであることに彼は気づかされ、
いっそうやりきれない陰鬱な思いに身も心も浸食されてゆく。
だがエマニュエルは、義兄にそれ以上の思索を許さないかのように自らの身を彼の両膝の間に滑り込ませ、
微笑そのままの柔らかいまなざしで彼を見上げながら幼子に言い聞かせるように優しげな、しかし確固とした口調で語りかけた。

「終日の疲れを癒して差し上げますわ、お義兄様」
そして彼の帯に指をかけて銀の留め具をはずし、寝衣の合わせ目から肌着へと手を差し込み、ためらいなく彼自身を取り出した。
突如女性の滑らかな手に包まれたというだけでなく、取り出す際に彼女がその裏側にほどこした愛撫があまりに巧みであったため、
純粋な生理現象としてそれはすでに充血を始めていた。
「硬くなっていらっしゃる。待ちきれなかったのね?」
「人を、愚弄するな」
突き放すように乾いた声でアランは答えた。彼女の指使いに快感を得ているということだけはこの娘に気づかれたくなかった。

「ようやく口を利いてくださったわね、お義兄様。
 既に七日目なのですから、もう少し打ち解けてくださってもよろしいのに」
「黙れ」
腹の底からの怒気を込めた声を上げようとした途端、アランは唇を噛みしめることを余儀なくされた。
彼自身の先端は今や品のよい形をした紅唇に包まれ、
その内側では柔らかな舌が長寿によって魔力を得た蛇のように執拗な愛撫を始めていた。
円を描くように亀頭の周囲を舐めつくしてしまうと、エマニュエルは一旦口を離して義兄の顔を見上げた。
その端然とした美貌はあくまで執務中のような平静を保とうと努めていたが、
唇を噛んでいなければ今にも深い呻きと熱い息を自分の頭部に吐きかけるであろうことが、彼女にはよく分かっていた。

「我慢などなさらなくていいのよ、お義兄様。どうかお楽になさいましな。
 もとよりこのような願望はおもちだったのでしょう。
 書物に囲まれた静謐な学究の場で淫らな奉仕を受け、
 形而下的な欲望をすっかり吐き出しては思考を純化させるという。
 けれど姉様はそのような痴戯には決して応じてはくださらぬでしょう?
 わたしたちの生国でさえ今どき珍しいほど、
 ましてこの享楽的な貴国におかれてはめったに見出せないほど生真面目で信心深いひとですものね。
 けれどわたしなら、あなたの願望をくまなく満たして差し上げられますわ。
 どれほど罪深い営みでも、どれほど浅ましい愛撫でも。
 どうしても受け入れられぬとおっしゃるなら目をおつぶりなさいませ。
 そして他ならぬ姉様が、愛する奥方がいまあなたのまえに跪き、
 あなたに歓んでいただかんがため無心に奉仕に励んでいるのだとご想像になればよろしいのですわ。
 用いている香料とて同じものですし、何も難しいことはありませぬでしょう」

「馬鹿なことを。そなたのような淫婦とエレノールを同列に並べるなどと」
「あら、最初の晩にお膝の上で『姉様』を激しく責め苛みながら何度も淫乱呼ばわりなさったのはどなたでしたかしら。
 自明の真理のように呼び慣れていらっしゃるご口調でしたわね。
 よほど時間をかけて惜しみなく開拓あそばされたのかしら。
 あの慎ましい姉様が、とわたしでさえあの晩は意外に思ったものだけれど、
 でも考えてみれば当然という気もいたしますわ。わたしと同じ血が流れているのですもの。
 精力あふれる殿方を欲してやまない淫蕩な血が」
「―――そなたは」
努めて呼吸をなだめようとしながら、アランは初めて義妹と目を合わせた。
「なぜエレノールだけでなく、自分をも貶めなければ気がすまない。
 まるで自ら泥濘のなかに身を沈めたがっているようにしか思えぬ」

エマニュエルは微笑を消した。答えを返さないまま、義兄の視線を無感動に受け止める。
しかしやがて沈黙のうちにこうべを垂れると、硬直を保ったままの彼自身にさらなる愛撫を加えんと
先ほどにもまして巧妙に口舌を駆使しはじめた。
小さな愛らしい舌で裏側を丹念に舐めているうちに先端から透明な液が分泌されてきたことに気づくと、
一滴でも床に滴り落とすことを惜しむかのようにすばやく舐め取ろうとする。
その貪欲なまでにこまやかな奉仕ぶりは否応なくアランの興奮と背徳感を煽り立てた。

そして世の男たちのそのような生理的回路を知り抜いているかのように、
エマニュエルは小さな唇をできる限り大きく開けて彼自身を根元近くまで咥えこみ、
姉姫生き写しの気品ある眉目とは水と油のように相容れぬ卑猥きわまりない音を立てながらゆっくりと吸い上げた。
この期に及んでは鋼の自制心と自尊心を以てしても喘ぎをこらえることはできなかった。
アランは右手で口を覆うことで、書斎の天井に声を響かせることだけはかろうじて免れ得た。

「姉様はこのようなことはしてくださらぬでしょう?お義兄様」
囚われの牡が限界まで反り返っているのをたしかめるようにして彼女はそれをゆっくりと口から取り出し、
義兄の下腹部から少しだけ顔を離した。
「でもわたしならできるわ。わたしには姉様のような自己欺瞞はありませんの。
 ただこの肉体が欲するままに動くだけ。
 もう一週間ほども肌を重ねて下さっているのですもの、すでにお分かりですわね。
 どうかお義兄様、そのようにお身体をこわばらせず、ご自分に忍耐を強いることなく、
 わたしを娼婦のようにお取り扱いなさいませ。そのほうがお互いに満たされますわ」

「そういう言い方はするな」
「密通を強要されている貞夫という体裁をお保ちになりたいのなら、あえてこれ以上は申し上げませんけれど。
 けれどお分かりでしょう、お義兄様。あなたのご命運はあくまでわたしの掌中にあるのだということは。
 たとえどれほど不本意でも、あなたはわたしの希望を満たしてくださらなければなりませんわ。
 わたしが中に出してと申し上げたら中にお出し下さいませ。何をおそれていらっしゃるのです?
 すでにお察しのとおり、わたしはヴァネシアの宮廷に幾人も愛人を抱えております。
 半年後にお腹のふくらみが隠せなくなってきたからといって夫が正しく見当をつけられるはずはありませんわ」

「―――よくも平然と、そのような愚昧を口走れるものだな。
 愛妾を侍らせてそなたを省みない夫君への意趣返しとして愛人をつくるのはまだ理解できる。
 だが夫以外の男との間に努めて子をもうけ、それを継嗣に据えて恥じないかのようなそなたの言い草は、
 ヴァネシア公のみならず彼を正統な君主として戴いている臣民に対する裏切りに他ならんぞ。
 君侯の妃として確固とした自覚をもつがいい」

「―――わたしが自ら望んだ地位ではありませんわ」
「だが現にその権益を享受しているだろう。
 外国の保養地へ静養におもむくのも、若く美しい廷臣を愛人に抱え俸禄を加算してやるのも、
 そなたの身をきらびやかに飾るのも、すべて拠るところは民の―――」
「わたしにどうしろと?他に行くところなどないからよ!」

突如荒げられた白銀の鈴のような声は、彼らふたりを包み込むようにしばらくその余韻を宙に漂わせていたかと思うと
書斎の最奥部へとゆっくり吸い込まれていった。
「失礼いたしました」
エマニュエルはぽつりと呟き、そしてまたアランの顔を上目遣いに覗き込んだ。
その漆黒の瞳はすでに穏やかさを取り戻していたが、しかし同時に、不気味なまでに平板な色を感じさせた。
「どうかこれ以上、わたしの不興をこうむるような言辞はお控えくださいませ。
 さもなくばじきに、あなたが最もお避けになりたかった事態が出来いたしますわ」
そしてアランの反駁も許さぬかのように彼のものをしっかりとつかんで口に運び、先走りの汁を滴らせるその先端に接吻した。
「どうか一滴も無駄になさらず、わが口にも秘所にもあなたのものを余さず放ってくださいませ。
 これはお願いではありません。わたしたちの『契約』に正しくのっとった義務のご履行を促しているだけですわ。
 あなたの白いものでわたしを奥まで満たして、―――汚しきってくださいませ」

 

かすかに衣擦れの音を伴いながら、エマニュエルが窓辺に近づいてゆく足音が聞こえた。
熱気と情事の余韻が籠もった室内の空気を入れ替えようというのだろうか。
アランは寝椅子に横たわったまま、寝衣を胸元で掻きあわせただけの姿でひとり天井を仰いでいた。
昼間に見たならば鮮やかな彩色が施されているはずの広々とした方形は、
この真夜中にはただ漆黒の覆いの内側で沈黙を守るばかりだった。
やがて山麓特有の澄んだ空気が火照りの残る肌を優しく包み始めたころ、エマニュエルもゆっくりと彼のほうへ戻ってきた。
「お義兄様、お顔色が優れないわ。せっかくのご明眸が台無しに」
「離れよ」

甲斐甲斐しい新妻のように彼の額にかかった乱れ髪を掻き上げようとする義妹の手を払いのけながら、アランは短く言い放った。
「そろそろ好意を受け入れてくださってもよろしいのではなくて?」
別段気分を害するでもなく、気怠さの残るゆったりした声で問いかけると、
エマニュエルはいとおしそうに義兄の形のよい唇に長い接吻を落とした。
その真意はむろん親愛の表明などではなく、
彼に己の立場が虜囚にすぎないと思い出させるための示威行動であることは言わずもがなの事実であった。
義妹が顔を離すや、彼は袖口で口元を拭った。
そのようすを見ながら、エマニュエルは依然として淡々とことばをかけた。

「かえすがえすも律儀なかたね。
 ここにはわたしたちふたりだけなのだから、あなたもお気持ちを入れ替えてお愉しみになればよろしいのに。
 わたしと姉様が寸分違わぬ顔に見えるのは今でも同じことでしょう?
 ならば姉様が―――あなたの愛する貞淑な奥方が今だけは夜毎娼婦のように振る舞ってくれる、
 そうお考えになればよろしいのですわ」
「馬鹿な」
「愚かなのはどちらかしら。
 伝え聞いたところでは、お義兄様はご婚約時代、ひいては結婚後も姉様がかの侍従に操を立て契りを拒んでいるうちは、
 宮廷の内外で相当な風流貴公子ぶりを発揮しておられたご様子。
 そのころのことを思い出されませ。
 身元さえも知れぬ女人と枕を交わすことには常に新鮮な情趣が伴ったことでございましょう。
 それこそが生の歓びというものですわ。
 姉様に伺ったところでは、あなたは本来、信仰や戒律を日々の拠り所とされるかたではあられぬのでしょう。
 女々しく思い煩うのはお止めになり、割り切って官能の歓びを追求なされませ。
 それでこそ地上の一切の苦悩は救済されるのですわ」

アランはふと顔を動かし、だいぶ弱々しくなった灯火にぼんやりと映し出されている黒髪と端麗な横顔を眺めた。
寝椅子の傍らの安楽椅子に腰掛けたエマニュエルはすでに寝衣の帯を締め、
悩ましく乱れた豊かな髪を白銀の櫛で流れるように梳いていた。
これもやはり東洋の名匠の手になる極上の舶来品なのであろうか、
彼女の腕が上から下へと優美に下ろされるたび、うねるような漆黒のなかに月華のかけらにも似た白い粒子が気まぐれに煌めいた。
義兄が初めて自らこちらを向いたことに気づき、エマニュエルは動作を止めた。
しかし表情の落ち着きは変わらなかった。

「いかがされました」
「救済と言ったか」
「ええ」
「本心からの、信条か」
「世の理に目を向ければ、誰もがいずれはたどり着く結論ですわ。それが何か」
「―――何でもない」
短く答えるとアランは寝椅子の上で寝返りをうち、今度こそ義妹に背を向けた。

七日前に「契約」を交わして以来、彼らはこうして別れを告げるのが習いになっていた。
互いの身体を離した後はアランは常に義妹から顔を背け、
その艶やかな肌から情欲の残滓が拭われる様もしなやかな肢体が優雅に寝衣を羽織る様も、決して見届けようとはしなかった。
殊に、エマニュエルの囁きに促されたごとくに、交わりのさなかふとした瞬間に一種異様な興奮を
―――それはむしろ倒錯と呼ぶべき奇妙な感覚だったが―――覚えてしまったときなどは、
身体を離したあとに彼女を視界に収めたくないどころか、
文字通りその存在を地上から消し去りたいと願わずにはいられないほどの狂おしい後悔と憎しみに苛まれるのだった。
今夜はそのような倒錯的歓喜は免れえたものの、彼女の望むがままにその口に秘所に精を放ち、
あまつさえ事後にことばをかけてしまったことで、アランは今さらながら形容しがたい自己嫌悪の念にとらわれた。

さらにまた、あと数時間もすれば朝餐の席でエレノールと顔を合わせねばならない。
妻は乳母に付き添われているルイーズのようすに目を配りながらも、
今日は妹とどのように過ごすつもりかをアランにうれしそうに話すだろう。
今さっき彼の精液をためらいなく嚥下し、
引き出せる快楽は余さず引き出そうと彼の膝の上で腰を打ちつけ続けたその妹との予定を、彼女が居合わせる食卓で。

(気を、強くもたねば)
エレノールの心の安定を守るどころか、このままでは俺が精神を危うくしかねない。
両手を額に当て、アランは何とか平静を取り戻そうとした。
だが自分を暗い淵から引き戻そうと思えば、浮かんでくるのはエレノールの柔和な面影ばかりだった。
幼いルイーズに向ける微笑、
義理の弟妹たちが騒動を惹き起こすたびに浮かべる困惑と心配、
御苑で早咲きの薔薇を見つけたときの歓喜、
そしてアランの身体の下であられもない声を上げて果てたあとに見せる、自らの乱れぶりに消え入らんばかりの恥じらい。

(―――あれをこれほどに想うことさえなければ)
アランは静かに唇を噛んだ。
政略のために娶ったにすぎない妃をここまで真摯に愛することさえなければ、今回のことは単に刺激的な情事になりえただろう。
エマニュエルの説くとおり、官能の欲するままに義妹との交情を、かつてない愉悦を堪能できたはずなのだ。
世の習いからいえば、背徳的な関係ほど人の興奮をより深くより熱く駆り立ててゆくものなのだから。

そうだわ、と思い出したように呟くエマニュエルの声が静寂を破った。
「明晩は参りません」
「――――そうか」
天恵のように降り来たった安堵に包まれながら、アランも短く無関心に答えた。
義妹の行動を把握しておきたいがためにその理由を問いただしたい気もしたが、
あえてそれを口にすればまるで彼女の不在を惜しんでいるかのようで、彼は結局何もつづけなかった。
身支度をすっかり整えたエマニュエルが音も立てずに扉のほうへ向かいかけたとき、アランはようやくその理由に思い至った。
しかしそれがあまりに意外であったため、つい口から問いが漏れた。
「明後日に参拝を控えているためか」
エマニュエルは何も答えず、振り向いて義兄を一瞥することもせずそのまま扉に手をかけ、やはり音も立てずに出て行った。
品よく伸ばされた背筋はもちろん、小粒の真珠を散りばめた金鎖で軽くまとめられた髪の長さまで
エレノールと寸分違わぬ義妹の華奢な背中が暗闇に消えてゆくのを見届けてから、アランはゆっくりと寝椅子の上で起き上がった。
書棚の列の合間から見える窓に目をやれば、白々とした黎明の気配がわずかだがすでに感じられた。

(案外信心深いものだ)
姦淫の正当などを説いておきながら、とアランはぼんやり霞むような頭で思った。
明晩は聖域に詣でる前夜であるから、潔斎を守り罪深い行いは慎むというのだ。
総じて現世の生の充足を追求することが奨励され退廃的な空気を色濃く漂わせるガルィア宮廷で生い育ってきたアランにしてみれば、
昨年ついに僧籍に入ってしまった三弟ルネを除けば、
神の名において定められた戒律をそこまで厳格に履行しようとする人間を身辺に見いだしたことはほとんどなかった。
それゆえに義妹のこのような一面にふと触れてみると、
いかに激しく姉への憎悪を吐露するとはいえやはりエレノールと同じく、
聖人聖女や彼らにまつわる聖地を心から崇敬し聖遺物の収集に尽力してやまないスパニヤ王家の血が流れているのだな、
と今さらのように思い起こされた。

ここレマナの地は比較的なだらかな山岳地帯より成り、ガルィア王家の離宮はその山間に広がる小紺碧湖のほとりに建てられている。
小と名がつくとおり別の山間には本来の「紺碧湖」と称される湖があり、
さらにいえばこの一帯は山頂や山間、山麓とを問わず大小さまざまな美しい湖沼に恵まれていた。
滴るようにゆたかな緑と透き通るような湖水、さらにそこへ万病に効くとされる鉱水の発見が加わって、
レマナはいまや国内外に名高い一大保養地であり、王家からひときわ深い愛顧を賜る王室直轄地のひとつでもある。
近隣の農村には離宮の増改築のための徭役が課せられているものの税制上は優遇措置がとられており、
また土地全体が水利に恵まれているため住民の暮らしはまずまず豊かである。

だが偉大なる創造主の格別な恩恵を受けて久しいかのように見える風光明媚なレマナの地も、
隣国との戦後条約によりガルィアの版図として確立されるほんの百五十年ほど前までは
大国の狭間に位置する主なき土地として紛争地帯の悲哀を底まで舐めつくし、
度重なる戦火と暴徒による略奪、そして両国の軍隊による威圧行動に住民は疲弊しきっていた。
ことあるごとに男手が動員されるため山肌に開墾された畑は荒れ果て、
漁撈用の船や網の修繕さえも省みられることがない。
ことに全大陸的に疫病が流行したその年、レマナの多くの農家では生産力を有する年齢に達した子女を養うことが限界となり、
不運にも生まれてきた赤子や乳離れしてまもない幼子の多くが人知れず山奥に捨てられては命を落とした。

現在王家の離宮が聳え立つ小紺碧湖のほとりからほど近いところに、山向こうへと通じる正規の街道があり、
その途中で分岐する小径のひとつが山中のとある洞窟へとつづいている。
そこもやはり件の年に近隣の山村の住民たちがしばしば子捨てのために訪れた場所であった。
洞窟の最奥部は大人の腰のあたりまでくぼんでいるため、
乳飲み子はもちろん体力の衰えきった幼子がそこから抜け出すことはまず不可能と考えられたのだ。
住民からは「暗き柩」と呼ばれるそのくぼみの底へ、ある日ひとりの男児が涙にくれる若い母親の手で降ろされ、
聖人の加護を祈る護符とともにただひとり取り残された。

数日たったころ、せめて埋葬だけでもしてやりたいと痩せ細った足でふたたび洞窟を訪れた母親が目にしたのは、
背中に羽根を生やしゆったりした服をまとったこのうえなく美しい人間、
男とも女ともつかない見知らぬ人間の腕に抱かれて眠る我が子の姿だった。
彼女が洞窟にこだまするほどの驚きの叫びを上げると羽根をもつ人物の姿は消え、後には安らかに眠る男児だけが残された。
天使の降誕はあるいは幻覚かもしれなかったが、幼い息子が「暗き柩」から逃れ出たこと、
そして洞窟内の岩壁からいつのまにか沸き出でていた鉱水により渇きを癒し、
洞窟の入り口付近に立つ山葡萄の木から落ちた実によって飢えをしのいだことは事実であった。
不思議なことに、近隣の村人は誰一人その鉱水と山葡萄の木の存在を知らず、必然的にその幼子が見出した
―――言い換えれば創造主が彼の延命のために賜ったのだということになった。
その後も男児はこれまで誰も知らなかった鉱水が流れ果樹の群生するところへと大人たちを導き、
近隣の村々を病や飢えから救ったのだという。

そして彼は十五のときに自ら山奥の修道院の門を叩き、
生い立ちにまつわる神秘的な伝承に驕ることなく学問と修身に励んだばかりか、
その徳行と学識により教会の中央組織から莫大な聖職禄を伴う地位を打診されたときも毅然として断り、
終生粗衣粗食を貫きながらここレマナの地で人々への奉仕と両国の紛争回避に尽力したと語り伝えられている。
その高僧は没後ほどなくして聖人の認定を受け、今では聖リュシアンと呼ばれ国中から広く敬愛を集めている。

教会の認定を受けた聖人聖女は通常、生前起こした奇跡にちなんだ守護対象をもつことになっているが、
聖リュシアンもその例に漏れなかった。
今では一般に樽職人および果樹園主の守護聖人として崇められており、
彼の命日には山葡萄をかたどった木の彫り物を作業場や果樹園の門前に提げる例が広く見られるが、
一方ではまた、「見捨てられし者、忘れ去られし者たちの守護者」とも呼び慣わされている。
そしてかの鉱水が沸きいづる洞窟は彼の生前から奇跡の地として徐々に近隣の村人たちの信仰を集めるようになり、
今ではガルィア国内外からあまたの信心深い人々、苦悩を抱える人々を迎え入れる国際的巡礼地のひとつである。

教会の調査により洞窟全体が聖域と定められているが、
殊に今も脈々と湧きいづる鉱水は、生まれてまもない幼子に健やかな肉体と魂を約束するものとして
多くの年若い父母たちを惹きつけている。
王太子夫妻が娘ルイーズを伴って明後日に参拝を予定しているのはまさにその洞窟であった。
そもそもが敬虔な信仰生活とは縁遠いアランは、高名な巡礼地が離宮近郊にあるからといって大した感興を覚えるでもなかったが、
エレノールの熱の入れようはまるで対照的で、
「去年はルイーズが幼すぎて避暑地に伴うことができなかったのだから
 今年こそあの子に聖リュシアンのご加護を乞うてあげなくては」
と都にいるころから何度となく夫に力説するほどであり、
彼女の意向により洞窟への参拝はだいぶ前から離宮滞在中の予定に組み込まれていた。

しかしエマニュエルを離宮に迎えた後、
妹を聖地に伴ってゆきたいという懇願をアランは妻から聞いたことがなかった。
その代わり数日前、まだ彼が義妹と関係を持つ前に、
「エマニュエルがわたくしたちとともに参拝したいと申しておりますが、よろしいかしら」
という妻の控えめな問いにとくに深く考えることもなく肯定を与えたことだけおぼえていた。
考えてみればこれは奇妙な次第だった。
エレノールは湖水での舟遊びさえ妹を伴わなければ出かけようとしないのだから、
巡礼のような晴れの行事とくれば、何をおいても彼女を誘いたがるはずなのだ。
それがどうやら今回はエマニュエルのほうから願い出られ、それを消極的に、どこか困惑しながら受け入れたかたちらしい。

聖地の参拝者にはとりたてて資格が求められるわけではない。
老若男女、病人や貧民、盗賊や娼婦たるを問わず、
救済を求めてやまない誰をもその懐に受け入れるのが他ならぬ奇跡の地の役割なのだから、それは当然のことである。
エレノールはエマニュエルを参拝者として不適格だと見なしたのだろうか。
それとも単に、愛娘の祝福の儀を夫婦ふたりだけで執りおこないたかったのか。
彼女が妹を己の半身のように慈しみむしろ尊んでさえいるという事実に鑑みれば、どちらも説得力のない仮説だった。

(―――考えても仕方がない)
アランは小さく首を振った。その日はたまたま姉妹で口論でもしたのだろう。
仲がよい兄弟姉妹ほど容易に喧嘩し容易に仲直りするのは無理もない話である。
そういえば、とアランはふいに思い出した。
明日はエマニュエルの訪れがないことに安堵して終わるわけにはいかず、
彼自身もまた斎戒を守らねばならぬのだった。
明後日の参拝の主役は二歳に満たない娘ルイーズであるが、
彼女に付き添う父母としてアランとエレノールは房事を控えるのはもちろんのこと、
食事もパンとオリーブと葡萄酒のみにとどめ、日没後に二回沐浴して身を清らかに保っておく必要があった。
(清らか、か)
その一語を脳裏に反芻すると、彼は今夜の営みの代償そのもののような激しい疲労に襲われた。
エレノールは最後まで気づかぬかもしれない。
だが聖リュシアンは、あるいは天は、果たして俺を許すだろうか。
深い眠りに沈み込みながら、アランは初めて祈るという行為の意味を知った気がした。

 

朝靄は白亜の壁のように立ち込め、馬車がそのなかを進もうといくらも動じる気配はなかった。
御者台の一隅に座を占めお抱えの御者が手綱を振るう音を聞きながら、
山間の早朝とはこういうものか、とアランはひどく清新な思いに打たれていた。
後方の絹張りの座席には妻と妻の妹が並んで歓談している。
今日の主役であるルイーズはといえば乳母とともに後続の馬車に乗せられ、
耳を澄ませている限りではむずかりもせずいい子にしているようだ。

本来ならアランこそ談話の主人役となるべきであったが、彼はむろん後ろへ赴いて妻たちに加わるつもりはなかった。
山道が岩がちになってきたためかふと馬車が大きく揺れ、息を呑みこむような女たちの声なき悲鳴が空気を震わせた。
アランは慌てて振り返ったもののむろん左右の頑強な手すりを越えて落ちた者などおらず、
一対の鏡像のような姉妹たちが肩を寄せ合いながら笑いさざめいているのが見えただけだった。
エマニュエルの両手が、エレノールを車上につなぎ止めるかのようにその胴体にしっかりと掛けられている。
こうしてふたりはしゃいでいるのを目にすると、一児の母と人妻どころかまだろくに宮中から出たこともないほんの少女のようだ、
とアランは一瞬不思議な気持ちに襲われたが、すぐにまた、形容しがたい陰鬱さに包まれた。

―――あの女は夜毎あのような振る舞いに及びながら、なぜ今こうしてエレノールの身を案じることさえできるのか。
しかも姉の身体を支えようとしたのは作為的なそぶりではなく、明らかに反射的に出たかのように見えた。
(女は分からぬ)
微笑ましいというよりむしろ暗澹たる思いに呑み込まれそうになりながら、
アランは努めて周囲の景色に注意を向けようとした。
山間にある離宮近くの湖畔とは違い、薄暗い山中に分け入っていくこの道はさほど景勝に恵まれているわけではないが、
国王の衛士のように左右に密に茂る草木と朝靄とを貫くようにして姿を見せ始めた黎明の荘厳さは、
やや眠気に襲われがちな王太子夫妻一行を刮目せしむるには十分だった。

御用馬車はある三叉路で脇に入り、今までにもまして岩がちな道を進んでゆく。
道幅が急速に狭まったため、ここまでその左右に付き従ってきた騎馬兵たちは
やむを得ず御用馬車の前後に回り込み、新たな護衛配置に就いた。
山越えをする本道ではないのに一応の馬車道が敷かれているのは、
教会の意向を奉じたガルィア政府により巡礼路として認められ舗装の対象となったがゆえである。
大抵の巡礼者は徒歩で悪路に耐えながらはるばるレマナを訪れることに加え、
老人や病人には近隣の修道院にて乗合馬車が提供され、
また富貴の者たちの多くは自家用の馬か馬車で乗り付けるのが常であったから、
巡礼路の整備維持はまさに不可欠な公共事業だった。
この少し先は荒々しい岩肌に閉ざされて行き止まりになっているが、
その隅には大人がようやく入れるほどの小さな洞窟が口を開け、
件の伝承の舞台につづく細長い道を万人に開放していた。

そしてアランたちが本日あえてこのような時刻に参拝に訪れたのは、
「王太子夫妻ご参拝」のお触れによって
遠路はるばる聖地を踏みにきた信心深い平民たちを無碍に追いたてるような事態を避けるためだった。
実際、薄まりつつある朝靄のなかで見晴るかすかぎり、馬車道の両脇に広がる歩道には人影らしい人影もほとんどなかった。

「こちらで下車していただくことになります」
王太子夫妻の接待と道先案内を司るため、ここからほど近い山間の修道院
―――聖リュシアンが後半生を送ったまさにその修道院より遣わされてきた副院長が穏やかな声で告げた。
道の両脇に山葡萄の木が腕を伸ばすこの地点から洞窟までは、すでに前方に岩壁が見えているとはいえまだいくらか隔たりがある。
しかし聖人への表敬作法は世俗の君侯とて従容と受け入れるのが当然であり、
アランたちは老僧のことばどおり最後は徒歩で聖域の入り口へと辿り着いた。
外界が徐々に朝の陽光に包まれつつあるだけに、洞窟のなかは別世界のように冷然と感じられた。
番僧の手により常に火が灯されているらしく、
最奥部にゆらめく明かりが入り口付近からでもすでに窺われ、ほのかに足元を照らしてくれる。
洞窟自体がそれほど深いつくりではなく通気もよいため、訪問者たちが煙で燻されるということはない。

エレノールは乳母の腕に抱かれたルイーズの小さな顔を覗きこみながら、
この子にはもう少し厚着をさせてあげればよかったかしら、と案ずるかのようにそっと額に接吻すると、
ぬめりがちな足元に気をつけながらアランとともに副院長の先導に従った。
その後ろにはエマニュエルと乳母と護衛たちが、さらに恭しく間をおいて従僕たちがつづいてゆく。

広く語り伝えられているとおり、聖なる鉱水は洞窟の突き当たりの何の変哲もない粗い岩壁から突如として湧きいでていた。
大人の胸ほどの高さにある穿孔から糸紡ぎのように細々と流れ落ちる清水は、
少し下のほうに突き出ている水盤めいた形状の岩に受けとめられたのち、再び岩壁の隙間に染み込んでゆく。
静寂の底に奏でられる水音は聖リュシアンそのひとのように穏やかで調和に満ち、
聖域にて粛然と襟を正していた一行の心を解きほぐしてくれるかのようだった。

湧き水の周囲には囲いらしい囲いもなく、巡礼者たちが蝋燭や貴金属などを奉納するための祭壇もなかった。
いくら清貧を以て称えられる聖人ゆかりの地とはいえ、あまりに簡素なしつらえにアランはやや呆気ない思いにとらわれたが、
エレノールはあくまで厳粛な面持ちで進みいで、老僧に促されるまま地に跪いて祈りを捧げ、次いで流れ落ちる鉱水に指先を浸した。
それを合図にルイーズを抱いた乳母が歩み寄り、幼子の頭部を恭しく王太子妃のほうに向けると、
エレノールは額、首、右肩、左肩の順で娘の身体に触れてゆく。
最後にもう一度指先を濡らして額に触れ、以て儀式の締めくくりとした。
この一連の流れは近親者に祝福を授ける作法としてはガルィアの一般的なそれとは若干異なっており、
ゆえに王太子妃かつて王室付き司祭より厳しく咎められたこともあるのだが、
信仰の本質に関わる問題ではないとしてアランは妻に矯正を強いることはなかった。
実際、ガルィアの廷臣や民の不興を買うほど頑なにスパニヤの流儀を通そうというのでない限り、
エレノールが生国にいるときと変わらず心安らかに過ごせるよう極力取り計らってやりたいものだ、
というのが彼の偽らざる思いであった。

エレノールが一歩退くのと入れ替わるようにしてアランは進みいで、
細かい順序や仕草には違いがあるものの、ほぼ同様の流れにのっとり鉱水の滴りによって娘に祝福を与えた。
少量だとはいえ冷え切った水を何度も降り注がれるのであるから
ルイーズはよほど儀式の途中で泣き出すのではないかと思われたが、
意外にも不思議そうな面もちで両親の仕草をじっと見守っているだけだった。
肩まで伸びた黒髪は母親と同じ艶やかさを示しているものの、透き通るような青緑色の双眸はアランの母后譲りであり、
そのまなざしに触れるたび、アランは愛らしく思うというより心慰められる心地がしたものだった。
だが今は、妻への背信と周囲への欺瞞に首まで浸っていながら平然と聖域を訪れた我が身の不遜を、
この無垢なまなざしは何もかも見通しているのではないかという虞れが何より先に彼を襲った。
生まれてまだ間もない幼子ほど罪から遠く神に近い者はいない。
アランは娘と目を合わせるのを最後まで避けた。

「わたしにもお許しいただけるかしら」
義妹の控えめな問いかけに彼ははっとして顔を上げた。
彼女から話しかけられるのは今日初めてのことである。
だが一息間を置いて聞き返してみればそこに何も含意はなく、
エマニュエルは姉夫婦が儀式を終えたのを機に自分も姪に鉱水の祝福を授けてよいかと許可を請うているだけだった。
「貴意のままに」
アランは短く答えてそのまま義妹から目をそらしたが、エレノールの返事は少しだけ間が開いた。
違和感を覚えてアランが見やると、先ほどまで厳かに引き締められていた妻の顔はかすかだが驚きを浮かべているようだった。

「―――ええ、もちろん。うれしいわ、マヌエラ。ありがとう、ルイサのために祈ってくれて」
そう言うとエレノールはいつもの柔らかい微笑を浮かべたが、その実彼女の動揺がかなり深いものであることは、
今はアランを交えた三人で話をしているはずなのに唐突に母国語に戻ってしまったという異状からも明らかだった。
母后がスパニヤ王家の出身であるためアランもその国語に関してはそれなりに教育を施されており、
文語での読み書きはもちろん、会話を主導できるとは言わないまでも口語もある程度は理解できる。
それを知っているエレノールが夫から何かを隠すために母国語に切り替えようなどとは思いつかぬはずだし、
何より今の彼女の返答にはアランに聞かれて困る点など何もなかったはずである。
つまるところ、妹のことばにあまりに気をとられたがため、
本来この場で口にすべき夫の母国語ではなくエレノール自身にとって最も自然な言語が口をついて出た、ということなのだ。

(だが、なぜだ)
エマニュエルの申し出には何も奇妙なところはなかった。
近親者の幸福を祈ること、とりわけ年若い叔母が愛くるしい姪のために祝福を授けることなど
身分の貴賤を問わずどんな家庭でも自然におこなわれ受け入れられていることである。
エマニュエルは一歩前に進み出で、姉夫婦と同様に冷たい鉱水に指先を浸した。
(まさか)
アランはある危惧に駆られて義妹の動作を凝視した。

わたしは姉様を憎んでおります。
アランの牡を貪るように愛撫しながら、彼女は何度となく言った。
そしてそれが真情だということはもはや疑いようがなかった。
ならば、エマニュエルの憎しみがルイーズの上にまで及んでも決しておかしくはないはずだ。
エレノールの幸福の最大の源、彼女の生活を日々満ち足らしめているその小さな命の上に。
エレノールはよもや、最愛の妹が自分に苛烈な憎悪を向けているなどとは微塵も気づいていまい。
だが母親としての直感で、妹がルイーズに対し何らかの害意を抱いているのだと、たった今悟ったのではないか。
アランは再び妻を見やった。彼女もやはりどこか緊張しながら妹のなすところを眺めていた。

だが予期に反して、エマニュエルは悪霊の力を呼びだすとされる禁忌の仕草をしたり呪詛を吐くわけでもなく、
ましてルイーズの首に手をかけるでもなく、非の打ちどころのない粛々とした挙措で以て祈りに入った。
彼女が優雅に踏襲してゆく作法のひとつひとつはアランにも馴染み深いものであったが、
全体としてはスパニヤのものでもガルィアのものでもない独特の順序―――恐らくはウァネシアの流儀に則っているものと考えられた。
エマニュエルはルイーズに祝福を与えるとまた一歩後ろに下がった。
しかしそのまなざしが姪の顔から逸らされることはなく、
まさにこの鉱水のようにひそやかに注がれつづけていることがアランにも分かった。

「マヌエラ様は、すっかりあちらのお作法に染まってしまわれたのですね」
ルイーズを抱いた乳母がスパニヤ語でぽつりと呟いたのは、
幼子の心身に聖人の加護を乞う儀式が無事に終わり、
一同が再び副院長の先導のもと洞窟の口に向かって歩き始めたときのことだった。
「―――そうね」
つい習慣が出てしまったわ、とエマニュエルは穏やかに答えた。
彼女に語りかけた人の好い中年の乳母はエレノールが輿入れの際に生国より伴ってきた随員のひとりであり、
王女姉妹自身の乳母ではないとはいえ、恐らく幼少時からふたりに親しみ身辺の世話をしてきた身なのであろう。
年配者であればあるほどものごとの変容に感傷を抱きやすいのは当然であり、アランはとくに気に留めることなく聞き流した。
ふと傍らのエレノールが振り向き、妹姫に語りかけるのが聞こえた。

「何だか寂しいわ」
「姉様ったら、子どものようなことをおっしゃる」
「だって、あなたがすっかりあちらの人になってしまったのだと思うと」
「嫁ぎ先の家風なり国風なりに合わせて自らを変えていくのは務めではありませんか」
「でも……、ねえマヌエラ、わたくしたちがスパニヤで共に培った習わしも、どうか忘れないでいて。
 そうでなければ、きっとお父様お母様も寂しくお思いに」

「レオノール妃殿下」
かすかに刺を含んだ若々しい声が王族たちの背後から上がった。
「大変僭越ながら、そのような思慮に欠ける言辞はお控えください。
 ヴァネシアの国俗を習得し我がものとして受け入れるためにマヌエラ様がいかほどのご辛労を重ねてこられたことか―――」
「おやめなさい」
エマニュエルの短い命令で発言の主はまた自らの隊列に戻った。

アランが振り返って見やると、
それは今回の参拝に際してエマニュエルが自らの従者たちのなかからただひとり同行させた青年だった。
鍛え上げていながらもどこか骨ばった体つきに加え、面立ちのほうもいまだ少年の趣を残してはいるが、
貴人の血が感じられる眉目はまずまず整っていた。
ことに濃い栗色の髪に淡い緑色の瞳がよく映えている。
ただそのまなざしだけは初々しい顔の輪郭に不釣り合いなほど尖鋭な印象を見る者に与えた。
あるいは今だけに限った険しさなのかもしれないが、
エレノールの発言はそれほど深く彼の憤慨を揺り動かしたということなのか。

先ほどのスパニヤ語の会話からも明らかなように、
彼はヴァネシア出身ではなく第三王女の輿入れに従って祖国を後にした随員のひとりなのだろう。
王族の随員といっても下働きから廷臣までさまざまだが、彼の挙措やことばづかいは名家の素養を感じさせる。
だが父兄の威光を背負い将来の栄達を約束されている貴公子と見るにはその身なりはあまりに慎ましく、
今日の参拝においては護衛たちの列に身を置いているという事実からしても、彼の序列は窺い知ることができた。
恐らくは中下流貴族の庶子か、とアランは見当をつけた。

妻の母国はその民びとの敬虔さと聖職者の強権ぶりで名高いとはいえ、
王侯貴族が愛人を抱えるのは他国と同様に当然のこととされており、
またその結果として生まれた庶子を神の祝福によらざるものとして疎む傾向が強いのも他国と同様であった。
彼らは正妻の子たちと対等な相続権を主張することはおろか父の姓の継承さえ許されないのがふつうだが、
身分相応の経済力を誇る大貴族の家ならば、嫡子たちとは別に
「祝福されざる」子どもにも何がしかの領地や財産を分け与え新興貴門としての地位を保証する例もしばしば見られた。

だが大抵の家庭では庶子に対しそこまで寛容な待遇がとられることはなく、
そもそも父親である家長自身が家産の分散や奥方の不興を被る事態を嫌って庶子を厄介払いしたがる傾向が強い。
その方策のひとつとして王子の親征や王女の出嫁の際に「祝福されざる」我が子の身柄を差し出し、
王族の側仕えという誉れとともに辺境や異国に追いやり終生をそこで送らせる、というのはよくある話だった。
エレノールが母国から伴ってきた侍女たちのなかにも、
明らかに名家の育ちでありながら貴族身分を示す辞が姓に冠せられていない者が何人かおり、
この若い男の出自もおそらくはそんなところであろうと思われた。

生まれはさておきこの凛として瑞々しい存在感からすれば、
並み居る随員のなかで王女エマニュエルの目に留まり
空虚な結婚生活を補う愛人のひとりとして彼女との距離を縮めたのだとしてもおかしくはない。
そして年若い寵臣であればなおさら、自らの忠心を王女に知らしめんがため、
また王女によって保証された自らの重みを確かめんがため
人前で声高に強硬に主人を擁護してみせるのは無理のないことだとも思われた。
だが、とアランは訝しんだ。この男はエマニュエルどころか女そのものを知らないように見える。
別に根拠があるわけではないが、エレノールひとりを妻と定めるまでさまざまな女を渉猟してきた彼は、
単に女たちの類型だけでなく、女の生々しさから遠いところにいる男、女色を知りそめて耽溺する男、
ひいては惰性で色事をつづける男たち等の識別にも慣れているつもりだった。

(無私の忠臣か)
肉欲に汚されない愛と称して美しい貴婦人に一定の距離を保ちつつ賛美を捧げる者たちが
世の中に少なからずいることはアランも了解している。
懐疑的ではありつつも彼は青年の立場をなんとなく理解したように思った。
しかし同時に、この男はエマニュエルのような女には青すぎるのではないかとも思った。

許可も得ていないのに発せられた青年の諌言は僭越というよりほとんど不敬の域に達しており、
エマニュエルが制止したのも当然のことではあった。
だがエレノール自身は怒るでもなく、むしろ指摘されて初めて気づいた自らの短慮を悄然と悔やむような、
少女のようにいたたまれなさそうな表情を浮かべていた。
「まあ、ごめんなさい、マヌエラ……わたくしそんなつもりはなかったの。
 ただあなたが、遠い人になってしまったと思うのが寂しくて」
「いいのよ、姉様。分かっておりますわ」
微笑を含んだ穏やかな声でエマニュエルは答えた。
「姉様はお変わりでないことが、わたしはうれしいわ」
普段は感情を抑制しがちな妹姫からの愛情の言明に、エレノールはたちまち喜色に染まったのがアランにも分かった。
だが彼は妻の思いとは裏腹に、背筋の強張るような冷ややかさを義妹の声のうちに感じていた。

(この女と共にあることでエレノールが満ち足りるのなら、俺が言うべきことは何もない)
諭すように自らに言い聞かせながら、アランは一行に先んじて馬車を停めた地点に着いた。
留守居を務めていた御者は主人たちの帰還を知ると羽根つきの帽子を脱いで敬礼し、後部座席の昇降口を恭しく開く。
先に車中に昇って妻と義妹との乗車を助けると、アランは座席から降りて前方の御者台に向かった。
アランはむろん、帰路も妻たちの談話に加わるつもりはなかった。
御者もそれと心得て主人の登台を助けるべく待機している。

「あら、お義兄様、お帰りの道くらいわたしたちと同席してくださればよろしいのに」
やや咎めるようなエマニュエルの声が背後から聞こえた。
それも実に遺憾だといいたげな―――非礼にならない程度の非難を込めたうえに、寂しさを滲ませた声だった。
「そうよ、アラン。帰りぐらいはこちらにおいでになられませ」
「いや、俺はいい。気にせずにふたりで話していてくれ」
「お義兄様はかねてより、わたしをお避けになっておられる気がいたします。
 こちらに参って以来わたしが姉様を占有しつづけているからでしょうか」

どこか臆したようなその声は何も知らない者が聞いたら同情を寄せずにはいられないような、深い自責と遺憾の念に満ちていた。
アランが腹も煮え繰り返らんばかりの思いに耐えているとも知らず、
エレノールは妹をなだめるように語りかけた。
「まあエマニュエルったら、そんなことがあるはずないでしょう。我が君は子どもではないのよ。
 わたくしたちがふたり水入らずで過ごせるようにいつも心を砕いて下さっているから、それだけよ。
 でもアラン、あなたも」
そう言って今度は夫のほうに向き直った。
「ここのところ、少しお気を遣ってくださりすぎではないかと思いますの。
 食事の席でもずっと黙っていらっしゃるのだもの。エマニュエルが誤解するのも無理はないわ。
 今日の帰り道ぐらいは三人で一緒に過ごしましょう」
「―――分かった」
姉妹ふたりは瓜二つの顔をともにほころばせ、細められた漆黒の瞳は全く同じ弧を描いた。
そして座席の両隅に座りなおすと、アランを中央に迎え入れた。

「ルイーズは今日、とてもお利口でしたわね。
 わたしたち三人に次々と冷たい指で触れられても、少しもいやがらなかったわ」
乳母に抱かれた姪が乗っている後方の馬車をちらりと見やりながら、エマニュエルが朗らかに口を開いた。
むろん同席する義兄への礼儀として彼の国語で話している。
「ええ、わたくしも驚いたわ。あの子がおとなしくしてくれるとはあまり期待していなかったものだから。
 これも聖リュシアン様のご威光かしら」
「あら姉様、あのかたはいかめしさではなくご慈愛深さでもって称えられておいでなのに」
「そうね、『忘れ去られし者、見捨てられし者たちの守護者』ですものね」
「ご威光というよりむしろ、幼子への慈しみの霊気があの洞窟には満ちているのでしょう」
「本当にそのとおりだわ。ルイーズがあんなに長い間おとなしかったことはめったにないもの。
 ねえアラン、あなたはお小さいときにこちらへいらっしゃることはなかったの?」

合槌を打つだけの夫を会話にいざなおうとしてか、エレノールがやんわり水を向けた。
アランは依然として気詰まりだったが、妻に気を遣わせるのは彼の望むところではない。
不自然でない程度にぽつりぽつりと話し出した。
「いや、生後一年やそこらで参拝の話は出たようだが、そのころこの山間部で土砂災害があり、
 王室の巡礼行列を差し向けるどころの騒ぎではなくなったようだ」
「まあ、残念なこと」
「だが都近郊の何箇所かの大寺院には、幼いころ母上にしばしば連れられていったおぼえがある。
 ずいぶん長い祈祷に参加させられたものだ」
「いずこの聖人のご加護にせよ、お義兄様がお健やかにご成育なされてよかったわ。
 姉様とわたしも小さいころからお祈りや参拝をともにしておりましたのよ」
「そうね。わたくしたちはいつも一緒だったわ。
 年子だからかしら、周りの皆からもふたりで一組と扱われておりましたし」
「あまり都から離れた地方に赴いたことはなかったけれど、巡礼の行き帰りは楽しかったわね、姉様」
「ええ、道中の風景は宮廷ではとても目にできないものばかりだったものね。
 田園も牧草地も町並みも、土地によって少しずつ表情が違っていたわ」

「姉様、おぼえていらっしゃる?
 馬車の上で風景を眺めながら、わたしたちが好きだった遊びのこと」
「目に入るものを次から次に題材にして、即興で詩を作ったりしたわね。音韻を全く無視しながら」
姉妹はそろってくすくすと笑った。
「ごっこ遊びもよくしたわね。
 今から外国の宮中舞踏会に出かけるのだとか、落飾を控えた修道女志願者になりきったりだとか」
「それから、あてもの遊びもしたわ。お義兄様はお小さいときになさったことがある?」
「あてもの?」

「告解式をまねたような遊びですわ。
 最初に題目を決めて、ひとりが三つずつそれにまつわる自分の秘め事を話して、そのうちのどれが本当かをあてるの」
「いや、そういうのはないな」
「あれも楽しかったわね。
 ねえアラン、エマニュエルったらどんなことでも詳細に本当らしく話すから、
 わたくしはいつも言い当てるのに迷ったものですわ。
 あのころからとても賢い子だったの。女優の才能もあったわ」
「そなたのほうはつねに見抜かれていたのだろう」
「そうよ、姉様ったら嘘がつけないのだもの。
 ―――でも、ふたりとも大人になった今なら事情が違うかもしれませんわね。
 どうかしら姉様、もういちどあてものをしてみませんこと?今度はお義兄様を交えた三人で」

首筋に刃を添えられたような悪寒が、アランの皮膚をゆっくりと覆いはじめた。
義妹の顔は相変わらず、いとしい日々への懐古に染まりきったかのような無邪気な微笑を浮べている。
少なくともエレノールの目にはそう映るだろう。
「それもいいわね。アラン、やってみましょうよ。まだまだ離宮まで山道は長いのだもの」
「いや、俺は―――」
「決まりごとはごく簡単ですわ、お義兄様。
 三つのうちひとつだけ、本当のことが語られるのです」
彼は黙っていた。
義妹の声の末尾は冷気のようにアランの耳朶にまとわりつき、余韻を漂わせながらやがて消えた。
馬車が一瞬、轍から逸れかけて大きく揺れ動いた。

「題目はどうしようかしら」
「奇跡の地にて徳高き聖人のご加護をお祈りしたあとですから、
 自分のこれまでのおこないへの悔悟も込めて、誠意と不実というのはどうかしら」
「いいわ。ではあなたから始めて、エマニュエル。
 今度はちゃんと見破るんだから」
「そうね、期待しておりますわ」
茶化すような声で応じつつ、エマニュエルはほんの一瞬だけ思案するような顔になった。

「―――ではひとつめ。
 わたしは六歳の頃、アルフォンソ兄様のお部屋でとある侯爵令嬢にあてた手紙を見つけましたの。
 読めたのは宛名ぐらいだったのだけれど、兄様はすっかり狼狽なさってしまって、
『黙っていれば菓子を好きなだけくれてやる』とおっしゃいました。
 わたしはむろん大喜びで、絶対に黙っていますと誓ったわ。
 その翌日に兄様はお約束どおり大籠一杯の焼き菓子をわたしの部屋まで届けてくださったのだけれど、
 たぶんご存じなかったのね、わたしの嫌いな干し葡萄が入っているものばかりで、
 ひどく腹が立ったからばあやにこっそり話してしまったの。

 ふたつめ。
 九歳のとき、侍女のひとりが家畜番から譲られたという仔猫を大切に育てていました。
 もこもこした毛並みの手触りは絹糸そっくりで、瞳はエメラルドのようで、妖精のように可愛らしいの。
 わたしは羨ましくて羨ましくてついに一晩貸してもらったのだけど、
 うっかり逃がしてしまって内緒で別の猫を返してしまいました。
 処女雪のような真っ白な猫だったから代わりはすぐに見つかったけれど、
 これが模様の入り組んだぶち猫だったりしたら大変な思いをするところでしたわ。
 絵筆とペンキに頼るしかなかったかもしれません」

「まあエマニュエル、ずいぶんと人道にも悖る不実を重ねてきたのね」
あなたに限ってとても信じられないわ、という口調でエレノールはくすくす笑いながら言った。
妹姫は答えずにつづけた。
「みっつめ。
 姉様のお輿入れ前日に『離れ離れになってもいつまでもお揃いで身につけていましょう』と約束してふたりで選んだ銀の腕輪を、
 その後まもなく人に譲ってしまいました。
 名前は挙げないけれど、姉様を崇拝していた貴公子たちのひとりですわ。
 あまりひたむきに哀願するものだからつい断りきれなくて差し上げてしまったの。
 ―――代償に、とても美しい栗毛の馬を贈っていただいたし」

エレノールは一瞬固まったような表情を見せた。
だがすぐに、冗談ぽく咎めるような姉らしい顔になった。
「まあエマニュエル、ひどいことをしてくれたわね」
「本当のことはひとつよ、姉様、お義兄様。さあ当ててごらんになって」
(まさか三番目ということはあるまい)
そうは思いつつも、万が一これが真であったならエレノールの胸中はいかばかりか、とアランは息苦しさを感じた。
妻はくだんの腕輪を片時も離さず身に帯びていることを彼はよく知っている。

「ひとつめではないのか」
笑話で流せればいいと念じながら、彼は妻に先んじて口を挟んだ。
「昔俺も上の妹に―――ナディーヌというのだが、同じようなことをやらかされた覚えがある」
「あらお義兄様、本当に?」
「アランったら、そのようなお話は伺ったことがありませんわ」
エレノールの声音が優しい姉のそれから嫉妬深い妻のそれに突如変わったことに、アランはむしろ安堵をおぼえた。
とにかく彼女の注意をこの遊戯から、ひいては妹から引き離すことができさえすればよかった。

「そうだったか?余計なことを口にした。早く忘れるがいい」
「お逃げにならないで。お相手の詳細をお聞かせ下さいませ」
「ずいぶん昔のことだ。髪の色さえ忘れてしまった」
「あなたというかたは、そんなにたやすくお心変わりばかりして―――」
「姉様、お義兄様とおふたりきりの場ではないのですよ」
たしなめるような妹の声にエレノールははっとして顔をかすかに赤らめ、片手でそっと口元を覆った。
「そうよね、ごめんなさい。つい見苦しい真似をしてしまったわ。
 ええと、あなたの告白を当てるのよね。
 ―――わたくしもひとつめにするわ。その実例がここにいるのだもの」
「過去に流せばいいものを」
「では申し上げます。正解は」
妻からの厳しい視線も一瞬忘れ、アランは小さく息を呑んだ。

「そのとおり、ひとつめよ。あの後まもなくアルフォンソ兄様にことの次第が伝わって、ひどく叱られてしまったわ。
 おまえにはしばらく甘味を与えぬよう侍女たちに申し渡しておくとまでおっしゃって」
「思いだしたわ、あなたが六つだからわたくしが七つのときね。
 たしかに一時期、わたくしがひとりでアルフォンソ兄様のお側に行くと、
 兄様は不思議とそっけなくいらっしゃって遊んでも下さらなかったわ。
 あれはあなたとわたくしを見間違えておいでだったのね」
「そんなことがあったの?姉様には申し訳ないことをしたわ」
ふふ、と笑いながらエマニュエルは詫びた。
そこにはたしかに、昔を偲ぶときの肉親同士だけに見いだすことのできる親愛の情があった。

「では次は姉様がどうぞ」
「ええと、そうね……」
エレノールは眉を寄せながら膝の上に視線をさまよわせ、長いこと沈黙していた。
緊張が解けてほっとしたばかりのアランには、これはいささか考え込みすぎではないかとも思われたが、
よく考えてみれば矛盾のない嘘を即興でいくつも思いつくには相当な機転と俊敏さが必要である。
ゆえに妻の長きにわたる呻吟は決して魯鈍と言われるべきではない。

むしろ尋常でないのは、とアランは思った。
尋常でないのはあきらかにエマニュエルのほうだ。
あの女はほとんど逡巡もせず三つの告白を述べ立て、いずれもそれなりに筋の通った話だった。
彼女の明敏さをもってすればこれくらいの思いつきは文字通り児戯にひとしいのか、
あるいは―――このあてもの遊びのための話をわざわざ前もって考えていたのか。
仮にそうであったなら、何かの事態を誘発したいという意図がそこには働いているのか。
アランが義妹の目の奥をそれとなく探ろうとしたとき、ふいにエレノールが顔を上げた。
ずいぶんと晴れやかな表情を浮べていることから察するに、まずまずの着想を得たに違いない。

「お待たせてしまってごめんなさい。では告白するわね。
 ひとつめは八つのときのこと。
 お母様がかなり重い風邪をお患いになって何日も寝込まれたとき、エマニュエル、あなたと一緒に
『お母様がよくなられるまで大好きな蜂蜜を絶って毎朝毎晩お祈りしましょう』と誓い合ったわよね?
 たしか斎戒は二週間ほど続いたと思うのだけど、
 あのとき一度だけ、我慢できずに厨房に忍び込んで蜂蜜をひとさじ食してしまったことがあるの。
 でも結局、あなたと一緒に禁欲を守り抜いたような顔をしてお父様お母様からお誉めのことばを受けてしまった。

 ふたつめはそれのおよそ一週間後で、わたくしも風邪を引いて寝込んでしまったの。
 あなたも覚えているわね、エマニュエル。毎日枕元でご本を読んでくれたものね。
 本当は、熱は最初の二日ぐらいで引いていたのだけれど、お医者様に頼み込んで少しだけ『治療期間』を延ばしてもらったの。
 みんなが心配してくれるし、我慢していた蜂蜜も好きなだけ食べさせてもらえるし、お母様を独り占めできるし」
「まあ、姉様もひとのことは言えないわね」

「ええ、でも仮病はあれきりなのよ。
 みっつめは十二歳頃のこと。
 あのころわたくしは淡い色の髪にとても憧れていて、世の殿方もみんな金髪の婦人を誰より重んじて崇敬するのだと思っていたわ。
 外見を気にしすぎるのは虚栄心につながることだと聴罪司祭様に戒められていたから、決して口には出せなかったけれど」
「そういえば、心あたりがあるわ。
 そのころ姉様はなんだかいつも、鏡を見てはため息ばかりついてらっしゃったもの。
 北国に旅行したら髪の色が淡くなるのかしらと呟いたり」

「もう、よくおぼえているのね。
 そうよ、もしあのころ、世の中には脱色という方法があるのだと知っていたら
 侍女たちに命じてどんないかがわしい方法でも試させたことでしょう。
 幸いなことに当時のわたくしは、自分にできるのはお祈りすることだけと思っていたから髪を傷めることはなかったけれど。
 本題はここから。ちょうどそのころ、わたくしはようやくガルィア語の読み書きが板についてきたから、
 お母様に言われてアランに手紙を書くことになったの。許婚としてね。
 まず時候の挨拶、ご機嫌伺い、こちらの近況等を型どおり綴っていったのだけれど、
 自己紹介をする段になったとき、―――つい『わたしの髪は少し暗めの金色です』と書いてしまったの。
 虚栄心に勝てなかったのね」
アランとエマニュエルはほとんど同時に笑いだした。
エレノールはやや傷ついたような顔になったが、先に進んだ。

「わたくしは嘘をついたつもりはなかったのよ。それはいずれ本当になると信じていたの。
 心を込めて朝夕お祈りをつづければ―――実利的なことはお祈りしてはいけないと言われるけれど―――
 きっと神様が聞き入れてくださるって」
「それで結局、どうなったのだ。そなたとの文通のなかで、そのような記述は読んだ覚えがないのだが」
「ええ。阻止されてしまったの」
「阻止?」
「語学の先生に。手紙を書き終えたあとで添削のために目を通していただいたら、
『姫様、これに許可をお出しすることはできません』と遺憾な顔でおっしゃるの。
『文法上の間違いはほとんどありませんが、ある一点でアラン王太子殿下への誠意を欠いていらっしゃる。
 それだけならまだよいのですが、姫様、残念なことに、このお手紙はご肖像画とともにガルィア宮廷に送られるのです』
 みっつめのお話はこれでおしまい。
 では、どれが本当でしょう」

「最後のでしょう」「最後のだろう」
ふたりの答えが発せられたのはこれもほぼ同時だった。
エレノールは少しがっかりしたように目を瞬いたが、潔く首を縦に振った。
「そのとおりよ。ふたりとも分かってしまうなんて」
「それだけ詳細に語ればな」
「それに姉様、ひとつめのお話だけれど、お母様が罹られたのは夏風邪で、七月の終わりごろだったでしょう。
 真夏の時期は、蜂蜜は厨房の一角ではなく地下貯蔵庫に置かれたはずよ」
「まあ、よくおぼえているわね。やっぱり細部までちゃんと気を配らなければだめなのね。
 ではアラン、次はあなたですわ」
「俺か。俺は、―――」

「お義兄様はまだ、不慣れでいらっしゃるかしら」
エマニュエルがふと顔を寄せ、彼の耳元で囁いた。
「姉様、お義兄様はこの遊びが初めてでいらっしゃるから、よろしければもう一巡わたしたちふたりで進めましょう」
「それもそうね。アラン、では一回飛ばして―――」
「いや、いい」
アランはほとんど反射的に口走った。
この遊びに加わることそのものには拘泥もなかったが、
彼を思いやるように提案されたエマニュエルのことばのなかに、その温雅な微笑の向こうに、
何か抗すべきものがふと感じられたのだった。
それが何なのか、果たして実体を伴うものなのかどうかも分からない。
だが膝に置かれた彼の掌には少しずつだが確実に汗がにじみ出てきていた。

(―――嫌な気分だ)
唇を噛みしめてから、彼はゆっくりとことばを紡いだ。
一方で考えながら一方で話し続ける。
それはこのたぐいの遊びでは誉められたやりかたではなかったが、時を費やすことさえできれば勝ち負けなどどうでもよかった。
(もうまもなくすれば、湖畔に離宮の正門が見えてくる)
ひとつめ。ふたつめ。みっつめ。最後の問いかけと答え。
極力微に入り細を穿ちて語ったつもりだったが、山道の終点を過ぎたばかりのころに、彼の番は終焉を迎えてしまった。
今語り終えたばかりなのに、自分で何を語ったのかもつまびらかには思い起こせない。
正体の分からない懸念がそれほど深く心に根を下ろしているということなのか。

「ではまた、わたしの番ね」
エマニュエルの落ち着いた声で彼の沈思は破られた。
エレノールは合図の代わりに微笑む。
外の風景に目をやりながらアランは額の汗を拭った。
背中まで汗ばんでいるように感じられるのは、先ほどまで長々と話を主導していたからだろう。
そうとしか考えられない。それ以外のことは考えたくなかった。

「食べ物の話がつづいたから、少し艶やかな話題にいたしましょうか。
 わたしが十三、姉様が十四のころだったかしら。
 アルフォンソ兄様の小姓のひとりにロベルトという少年がおりました。
 おとなしい子だからその存在も気づいていらっしゃらなかったと思うけれど、あの子は姉様のことをとても慕っていたわ。
 ほとんど信仰といっていいくらいに。
 ある夏の夕べ、わたしがひとりで宮中の百合園を歩いていたとき、ロベルトが木陰から近づいてきて恋を告げたのです。
 わたしが妹のほうだと弁明する間もないくらい彼は唐突に話し出したものだから、
 結局最後までレオノール姉様だという顔をして耳を傾けてしまいました。
 ロベルトも初めから想いの丈が報われることなど期待していなかったのでしょう、
 告白だけ告白すると満足したように去って行ってしまったから、
 わたしも結局返事さえせずに、自分の胸のうちにだけしまったの」
「あらエマニュエル、それは―――」
言いかけたものの、エレノールはまた口をつぐんだ。
しかし何か思い当たることがあるかのように、その唇の端にははっきりと笑みが浮かんでいる。

「いいわ、つづけて」
「あら、姉様にだけ有利な告白をしてしまったのかしら。
 それでは公平を欠きますから、ふたつめはお義兄様にお心当たりのあることにいたしましょう。
 これはつい最近のことですわ。
 その晩、もうずいぶん更けてしまったころ、わたしはふと姉様の隣で目が覚めてしまいなかなか寝付けないものだから、
 なんとなくお義兄様の書斎にお邪魔したのです。
 淡い灯火に頼るほかないこの夜陰でも、わたしと姉様を見分けてくださるだろうかと子どものようなことを思いながら。
 案の定、お義兄様はお気づきになりませんでした。
 わたしは迷ったけれど、結局自分から真実を告げることはしなかったの」
「まあ―――それで、どうしたの?」
「お義兄様はわたしを妻として遇し、情熱的に愛してくださいましたわ。姉様に夜毎そうなさるように」

車上の空気が氷のように凍結するのを、アランはたしかに肌で感じた。
だが一瞬後、彼の目に映ったのはエレノールの翳りなき微笑だった。
もうこの子ったら、と姉らしく困ったような顔でもある。
「いくら公正を期すためだといっても、そのような形でアランを告白に登場させるのはおやめなさい。
 あなたたちは義理とはいえ今では兄妹なのだから。
 それにエマニュエル、ひとつめが本当だと言うことをわたくし知っていてよ。
 実はその日の夕方、あなたを探してわたくしも百合園を歩き回っていたの。
 あなたたちふたりの姿が遠目にも分かったわ。
 ロベルトはすぐに立ち去ってしまったから、話の中身までは聞けなかったけれど。
 だからこれでは公正を期したことになっていないわ」
「まだ、すべてではありませんわ」
エマニュエルは淡々とつづけた。

「みっつめ。これは簡単だけれど、誠意と不実という題目に最もよくかなった告白だと思います」
アランは外の景色から車内に目を戻した。
その先にある漆黒の双眸は、何も語ることなく彼を迎えた。
「わたしは今、この遊びのきまりごとを守っておりませんの」

 

(続)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 06:02