月の明るい晩だった。
王宮の後門と内廷を結ぶ長い歩廊を、ひとつの影が流れるように進んでいた。
この先は御苑の一角を迂回して王太子夫妻の宮室へとつづいている。
その人影が一分の乱れもない間隔で残していく低い靴音を除けば、
大理石の廊下は天蓋をもつ墓地かと思われるほど静まり返っていた。
むろん局所局所に衛兵がいかめしく槍を構えているが、
影が無言で前を通り過ぎるたび、彼らはばね人形のように居ずまいを正して敬礼の姿勢をとった。

最後の曲がり角に来て影はようやく立ち止まった。
よく櫛の入れられた金髪に背後から月光が降りかかり、まだらな白銀色へと染めてゆく。
彼はふだんならごく無造作に扉に手をかけているところだが、
今夜だけは狼の気配を察した羊のように注意深く音を立てないようにしてなかに身を忍ばせた。
扉と向かい合う廊下側の壁には大きな丸窓がうがたれ、そこから覗く月の位置はすでに夜が深まったことを示していた。

入室してみるとアランはやや面食らった。
彼ら夫妻の主寝室はこの次の間で、ここはまだ宿直の侍女たちの控えの間にすぎないが、誰一人詰めている者がいないのだ。
宮中の規則では王族の寝所には最低でも四人が不測の事態に備えて待機するよう定められているというのに、
今夜に限っては影も形もなかった。
(どういうことだ)
アランは秀でた眉を軽くしかめた。

彼は本来なら今夜はまだ王宮に帰還していないはずであった。
都の南西に位置する歴史ある小都市にて、
妻の生国でもある隣国スパニヤとの境界線の修正および領民の帰属をめぐり国際会談が開かれたのは今月初めのことである。
彼は国王の名代として開会時から臨席していたが、長い討議を経てまずまず満足のゆく条約締結に漕ぎ着けたのち、
相手国の外交団を送り出したのが三日前のことであった。
そして諸々の後処理を済ませたのち、外務官僚および直属の騎士団とともに町を出立したのが昨日のことである。

通常の帰京行程であれば父王の御前に帰参するのは明日の昼ごろになるはずであり、
アランとしても当初そのつもりで先触れの伝令を走らせていた。
しかしながら帰路にて、街道沿いの王族用宿舎が火災により一部損壊した模様との報告を受け、
(もともと一泊せねばならないほどの距離ではないしな)
と考えを改めた。
そしてそのまま休息せずに都へと急ぎ、今ここに帰館という運びになったのである。

本来待機しているべき宿直の姿がないというのはどういうことか。
それもひとりやふたり欠けるのならともかく、全員が持ち場を離れているとは。
考えられるのは、妃のエレノールが独断で、
彼が帰館する日まで侍女たちを夜通しの宿直奉公から解放してやったということぐらいである。
(まったく)
アランは唇の端をかすかに曲げた。
身辺に仕える者たちへの温情ゆえのことであろうが、
それはそれとして、宮中の規律には規律として定められているだけの必然性があるのだから、
上に立つ者が随意に曲げてくれたりしては困るのである。
遵法精神の点からも問題だが、現実に災害などの不測の事態が生じたとき主従もろとも大きな困難に陥ることこそ危惧すべきなのだ。

月明かりだけが差し込む無人の控えの間を通り抜けながら、アランは苦い表情を保とうとしていた。
が、やはり徹底することは難しかった。
なにしろ約一ヶ月ぶりの帰館である。
もちろんエレノールはすでに眠りについているだろうから、
いくら溜まりに溜まった情欲に駆り立てられようと今夜は迫ったりはしないつもりだが、
たとえ手を出せなくても自分のすぐ隣に愛しい妃のやわらかな肢体が横たわっているというのは
やはり気分を浮き立たせるものがあった。

それに、半年前に第一子を出産してからというもの、彼女は何かといえば赤子のことばかりで、
「夫婦の義務」を後回しにしたがる傾向があった。
アランもある程度理解は示してきたつもりだが、今回ばかりは一ヶ月も離別していたのであるから、
(これからしばらくは、やや強引に迫ってもあれは否とはいうまい)
と虫よく見積もりひとりで悦に入っているのであった。
彼自身は旅疲れの身とはいえ、できれば明朝すぐにでも妻に覆いかぶさりたいところだった。

朝の用具一式を侍女たちが運んでくる前に、
淡い日差しのなかで豊かな黒髪を乱し羞恥に頬を染める彼女をどんな体位で何度至らしめてやれるかと想像すれば、
それだけで下肢が熱を帯びてきてしまい、ひとまず休息するために夫婦の寝台に向かう身としては困ったものだった。
ともかくもアランは寝室へ向かう扉に手をかけ、妻の安眠を乱さないようにごくゆっくりと手前へ引いた。
金細工がほどこされた重厚な扉と敷居とのあいだにほんの少しすきまができたそのとき、妙な音声が彼の耳に届いた。

(―――なんだ?)
くぐもったような、途切れ途切れのような、意味の判別しづらい音だった。
一瞬、妻の可愛がっている白猫が入り口付近の寝椅子に置かれたクッションの下にでももぐりこんで唸っているのかと思ったが、
よくよく耳を澄ますとその音は広大な寝室の最奥部、寝台の据えられている一角から響いてくるのだった。
エレノールには寝言をいう癖はない。
たとえあるにしてもこんな動物的な音声を漏らすはずがない。
そしてふと、彼は寝室から漂ってくるかすかな香りに気がついた。
妻がふだん髪にたきしめる白檀ではない。
たまに用いるジャスミンやラヴェンダーでもない。
もっと言えば婦人たちが一般に好む草花の類ではなく、何かもっと男性的な、抑えた香りだ。

アランは扉を小さく開けたままそこに立ち止まった。
身じろぎもできなかった。
足元から少しずつ体温が失われていくような気がした。
まちがいない。「誰か」が寝台の上にいるのだ。妻とともに。
そして彼女に覆いかぶさり、獣のようによがらせている。

アランは目を閉じた。
額に汗が浮かんでくるのが分かる。
いや、―――だがまず、冷静に、事態を検討し把握しなくてはならない。
そうだ、たしかにあらゆる点が符合するのだ。
自分は今夜中に帰ってくるはずではなかった。
王宮の誰もがそれを知らなかった。もちろんエレノールも。
彼女は自分がいない間に、空閨にて何かを実行しようとしていた。
それゆえに侍女たちを休ませるためではなく、遠ざけんがために宿直を免除してやったのではないか。
「その男」との密通を誰ひとり妨げないように。

「その男」とは誰か。
愚問だった。
自分以外でエレノールの心を占めたことがある
―――あるいは今も部分的であれ占めているかもしれない―――男といえば、ひとりしかいない。
彼女がただひとり、自ら望んで肌を許した男。
貴族といってもごく下流の出で、おのが才覚を頼みに運命を切り開くほかなかった男。
それゆえに彼女を選べなかった男。
アランは妻の性格をよく知っている。
彼女はこの国の一般的な貴婦人たちと違い、一時の慰みのために手ごろな愛人をみつくろって寝台に招くような女ではない。
灰になるまで真摯に想いを燃焼させることしか知らないのだ。
遊び相手などを立ち入らせるすきはあるまい。

だがなぜ、エレノールの同国人であるその男がガルィア宮廷にいるのか。
彼は二年前のエレノールの輿入れに前後してしばらく謹慎を被ったらしいが、その後は宮仕えを継続しているらしい。
宮仕え、官僚、―――とつぶやいてアランはふと思い至った。
そうだ。外交団は三日前にあの町をあとにしている。
そして彼らは本国へ帰還する前に都へ寄り、しばし領事館に滞在する予定だと言上した。
そのときはそのときで聞き流したが、考えてみればあの一団の中にくだんの男が加わっていてもおかしくはないのだ。
なにぶん若すぎるため、また官位の関係で表の折衝に出る機会はなかったことであろうが。

三日前にあの町を発ったのならとうに都には着いているはずである。
王太子妃の同国人であり旧臣である旨を強調して謁見を願えば、宮中に上がることは難しくあるまい。
しかし当然ながら、人妻として艶やかに花開いたエレノールと数歩の距離を隔てて再会するだけでは
想いが満たされるはずもなかっただろう。
むしろ、決着をつけようとした旧情を煽り立てられるばかりだったはずだ。
おそらくはエレノールの側も。何しろ過剰なほど情のこまやかな娘だ。
そして男は彼女を押し切って夜まで宮室に身を潜め、厚顔にも王太子の寝台を乗っ取ったというわけだ。

アランは唇をきつく噛んだ。
目の前に鏡があったなら自分の顔がどれほど陰惨に変貌しているかを見て驚愕したにちがいない。
彼の心の中ではそれほど暗い怒りが業火のように渦巻いていた。
その炎を制御できなくなるのを恐れるかのように、アランはあえて先ほどと同様にゆっくりと、
音も立てずに扉を半分まで開き身をすべりこませた。
毛足の長い豪奢な絨毯に靴音を吸い込ませるように踵から踏み込みながら、彼は一歩ずつ寝台に近づいていった。
奥側の壁の中央には大きな飾り窓が穿たれ、降り注ぐ白い月光がシーツに刻まれた皺のひとつひとつを克明に浮かび上がらせている。
そして、シーツの下で妖しくうごめく塊を。

アランはもはやその輪郭を直視できなかった。
寝台まではあと数歩である。
ここまでくると獣の呻きにも似たあの音は、布団の下で愉悦に耐えている妻の喘ぎなのだということは疑いようもなかった。
なつかしいあの声、彼の耳元でだけ聞かせてくれたあの吐息。
アランは月明かりのなかにしばし静止していた。
本来の秀麗な眉目に加え、瞬きすらしない凍りついた表情は名工の手になる彫刻を思わせるほどだったが、
その顔色は月光のためにいっそう蒼白となり、もはや死者の領域に踏み込んだかのようだった。

夜の静謐を切り裂くように、喘ぎがひときわ高くなった。
それにいざなわれるようにして彼はとうとう前に踏み込み、機械的な手つきで掛け布団を取り払った。
「何をしている」

乾ききった声を発したところで、アランは目を丸くした。
踏み込まれた側はいっそう目を丸くしていた。
一瞬の静寂と硬直ののち、憤怒の声を上げたのはエレノールのほうだった。
「あなたこそ何をなさるのです!なんと無作法な!!」
言いながら彼女は慌てて夫に背を向け、乱れた黒髪を直しつつ手早く寝衣の前を掻きあわせていた。
アランは念のために広い寝台全体を見渡したが、ほかの人影は見当たらなかった。

ただし枕元に、シーツとは光沢の異なる何かが放り出されていた。
手にとって見れば、彼自身が愛用している絹の寝衣だった。
袖や裾のあたりが心なしか湿っているようだ。
「お戻りになるなら、わたくしを起こしてでも事前にお知らせくださればよろしかったのです。
こんな、盗人のように忍んでいらっしゃるなんて」
終始難詰するような口調を装いながらも、その実エレノールの語気には勢いがなかった。
そのわけはアランにも歴然としていた。
妻としてうしろめたいのだ。
ただし、彼が予期していたのとは違う理由で。

「なにゆえこのような挙に及ばれました」
「それはだな」
アランは自分の優位を感じとりつつも、間男かと思ってわれを忘れたのだ、とは言いたくなかった。
それはいわば男の沽券にかかわる話だ。
「なにやら胸騒ぎがしたから、そなたの身に大事無いかと思って」
「わたくしが姦通を犯したとでも?」
女というのはなぜこうも勘が鋭いのか。アランはまた苦い顔になった。
「それでかように前後の見境をなくされましたの?」
「見境はあった。少しばかり前方に勢いがあまっただけだ」

「あなたは常々わたくしを嫉妬深いとおっしゃるけれど、ご自分のことも省みられるべきですわ」
「俺はいいんだ」
「何がですの」
「俺にはたいていのことが許される」
「………」
正直どこから突っ込めばいいか分からず、エレノールは一瞬黙りこんだ。
そのあとで彼の口調がふいに変わった。

「だがまあ、たしかに無作法だった。すまぬことをした」
珍しく自分の非をみとめるようすだったが、その殊勝ぶりに彼女はむしろ違和感と不信感をおぼえざるをえなかった。
そしてそれを裏付けるかのように、夫はおもむろに靴を脱ぐと寝台に上がり、
逃げ場のなくなった小鹿を追い詰めるかのように、壁際で身を硬くする彼女の背後に迫ってきたのだった。
「だが、そなた自身のふるまいは礼法にかなっていたというのか。
 空閨を守る妻として」

ふいに夫の唇が首筋を這い、長い指が胸元に差し込まれた。
エレノールは驚いて振り払おうとするが、すでに十分すぎるほど熱くなっていた肉体のほうは彼女の意思に従わなかった。
「アラン、何を……い、いやっ」
「乳首をこんなにも硬くしていたのか。ますます敏感になったようだ。
自分で自分を可愛がるのはよほど具合がいいのだろうな。欲するままに撫で上げればいいのだから」
「ち、ちがいます!何ということをおっしゃるの。
急に布団の外に出て寒くなっただけですわ」
「肌がこんなに火照っているのはどういうわけだ?」
「そ、それは、つまり……あ、あんっ、だめっ」

アランの手が唐突に彼女の下腹部に動き、急いで合わせられたばかりの裾を掻き分けて花園に至った。
エレノールは息を熱くしながらその手を払おうとするが、もちろん応ずるはずがない。
「肌着もつけていないうえに、ここはこんなに潤っている。
指を一本出し挿れするだけで音がたつな。俺が可愛がるときより濡らしているようだ」
最後のことばは純粋な嬲りというよりも不服が混じっていたが、エレノールには同じことだった。
あごを引き寄せて目を覗き込んでこようとする夫の手から逃れ、顔をうつむけることしかできない。

「ちがい……ちがい、ます。それは、たまたま……あぁ、はあぁっ!」
「強情はよくないが、嘘はもっとよくないな。
もっと奥までかきまぜてやろうか。それとも襞をなぶってほしいか」
付け根まで入り込んだ中指が、半年前に子を産んだばかりながら緊密に締まった花芯のなかで荒々しく円を描いた。
無情なほど大きな蜜音が寝台の上にひびきわたる。
一方で親指は、すでにふくらんでいる薔薇色のつぼみにとりかかり、触れるか触れないかの愛撫を繰り返していた。

「い、いや、いやぁ……っ、嘘だなんて……」
「信心深いそなたがあえて虚偽の罪を犯そうとするのは不思議なものだな。
 すでに自涜の禁を犯しているのだから、これ以上罪を重ねることはあるまいに」
「そ、そんな罪深い営みなど、わたくし、決して……あぁっ……耽っては、おりません……っ」
「嘘は罪を上塗りするばかりだぞ。いいかげん正直になったらどうだ。このつぼみのように」
「やぁんっ!そこは、だめ、だめなの……っ!い、弄らないで……っ」
「身体のほうはこれほど正直なのに、どうしてそなたは糊塗したがるのだろうな。
 矜持というのは厄介なものだ」
「あ、あなたに言われたくは……あぁんっ」
とうとうつぼみをすっかり剥かれてしまい、エレノールの腰は傍目に分かるほど浮き始めた。

快楽の前に肉体を屈しながらもなおひとすじの精神力にすがってそれを否定しようとする妻の姿はあまりにいじらしく、
(いっそこのままいかせてやろうか)
と彼は慈悲心を出しかけたが、いや、それではつまらん、と思い直した。
(夫を欺こうとした罪は、相応に罰するべきだ)

今にも絶頂に赴かんとする寸前にふとアランの指がとまり、エレノールは放心したように頭を上げた。
彼の指使いによってつぼみに与えられた悦楽は雷電のように全身をかけめぐり、
今にも彼女を自失の状態へ追い込もうとしていたところだったのだ。
「アラン……?」
小さく問いたずねるその声の奥に、彼はごくかすかだが非難を感じ取る。
それを指摘すればたちどころに否定するだろうが、けれどもたしかに存在するのだ。
(相変わらず、妙なところで正直な女だ)
内心苦笑しながら、アランは黙ってエレノールの華奢な身体を抱え上げ、そのまま寝台の下に降りた。

「アラン、何を……?」
ぼんやりと問いかける妻には答えずに、彼は鏡台のほうへ歩いていった。
もちろん王太子妃の身だしなみのためには独立した化粧室が存在するが、
夫妻の寝室の隅に据えられた鏡もなかなか見事なものだった。
丈は床から三メートルほどで、オリーブの葉と鳩文様をかたどった黄金の額縁に収められている。
鏡台の脇の壁に突き出ている燭台に火を灯そうかと彼は一瞬立ち止まったが、
遠くの空が明るみ始めていることを知ってやはりやめた。
じきに部屋の暗闇は青い闇となり、やがて白くなるだろう。
そしてエレノールが強情を張れば張るほど朝日のなかで鏡像は明確になり、彼女の羞恥をいっそう深めてやれるだろう。

アランは鏡台の前の椅子に腰掛け、妻を膝の上に座らせて鏡に向かい合わせた。
「あの、これは……」
不安に駆られて夫のほうを振り向こうとしたとき、エレノールは自分の襟に手がかけられ乳房がむき出しにされるのを感じた。
「何をなさるの!」
「自分が今どんな状態にあるのか、分からせてやろうと思っただけだ。前を見ろ」
「見ません。放してください」
「そんなに可愛がってほしいのか」
ふたたび彼の指先で円を描くように乳首を撫でさすられ、
絶頂間近から引き戻されたばかりのエレノールの身体は過敏といえるほど激しく反応した。
指が一巡するたびに、びくっ、びくっと上体が大きくそれる。

「だめ、いやぁっ!」
「いやなら聞くがいい。鏡を見るんだ」
あまりの屈辱に唇を強く噛み締めながら、エレノールはとうとう前を見据えた。
室内はまだ黎明以上に薄暗いとはいえ、彼女自身の涙ぐんだ漆黒の瞳と小ぶりな乳房、
そして触らずとも硬いと分かる上向きの乳首をたしかめるには十分な明るさだった。
「どんな気分だ?」
「は、恥ずかしいだけですわ。早く服を」
「胸をむき出しにされたことが恥ずかしいのか。それとも乳首がこれほど歴然と硬くなっているからか」
「知りません!わたくし、そんな」
「まあいい。どちらかというとここからが本題だ」
「え?―――いやっ!」

エレノールは反射的に両脚を閉じようとしたが、力及ばず、屈強な両腕によってしっかりと開かれてしまった。
そして無造作に寝衣の裾を払いのけられる。
「見えるか」
「な、何を」
「決まっているだろう。そなたのいちばん恥ずかしいところだ。
 今はどうなっている。申してみよ」
「あなたというかたは、よくもそんな、ひとを嬲りものに」
「分かっていないな。これは俺の善意だ」
「善意ですって?」
たとえこういう状況下でなくても彼の口から発せられるにはあまりに異質な単語である。
エレノールは思わず訊き返した。

「つまりだ、伴侶の前で嘘を重ねたそなたに真実を直視させ、悔い改める機会を与えてやろうとしている」
「―――アラン、あなたは」
よくもそんなに傲然とした物言いができるものですね、と抗議する前に、エレノールはまたも身を反らさなければならなくなった。
「あっ、あ、あ、……あぁっ、いや……っ」
いつのまにか夫は帯を解いて肌着の下から自分のものをとりだしており、彼女の花園の入り口に先端をあてがったのだった。
そして蜜で照り光る花びらをよりわけて、少しずつだが奥へ進もうとしている。

(やはり、いい)
一ヶ月ぶりに味わう妻の花芯のやわらかさと温もりと潤いに圧倒され、アランはもはや身も世も忘れて一突きに貫きたくなった。
だがそれでは意味がないのだ。
自制心を最大値まで動員しながら、彼は無理に呼吸を静めつつ、エレノールの赤く染まった耳元にささやきかけた。

「己がすんなりと咥えこんでいるようすが見えるか」
「み、見えません、何も」
「うつむくんじゃない。目を閉じるな」
ささやきつづけながら、アランはゆっくりと動き始めた。
花園の奥へと前進するたびにあふれんばかりの蜜が彼自身にまとわりついてはあられもない音をたて、
よく締まった肉襞は吸い付くように行く手を阻もうとする。
正直に言ってこれ以上本能を抑制したら気が狂いそうだったが、
山のように高い自尊心と対になっている鋼の自制心でもってなんとか衝動をのりこえることができた。

鏡を見れば、エレノールは黒い瞳を閉じたまま、唇をきつく噛んで喘ぎをこらえている。
何ひとつ意に従おうとしてはいないが、屈服はもうすぐだ、というのが彼には分かっていたのでひとまず見逃してやる。
その代わり、今度は勢いをつけて花芯を突き始めた。
エレノールははっとしたように目を開けるがまた慌てて閉じ、新たな呵責に耐えようとする。
けれど今度はいちばん感じる一点を集中して攻められているため、喘ぎはもはやこらえようもなくなる。

「許して、許して……っ」
涙声になりながら懇願するも、その実は今度こそ達することができるという悦びに四肢が震えている。
彼女が思わず知らず腰を浮かせかけた瞬間、アランは動きを止めた。
「あっ……、アラン……」
どうしてですの、とは訊けないのでエレノールはうつむいている。
しかし一度高ぶった吐息はそう簡単には静まろうとしなかった。
頬はすっかり紅潮している。
もういい頃だな、とアランは腹を決めた。

「そろそろ夜が明ける。この辺りにしておいたほうがいいかもな」
「え……?アラン、それは……」
「すぐに明るくなる」
「で、でも……」
「なんだ。惜しいか」
「そ、そんなことは」
「抜くぞ」
「だ、だめっ」
エレノールは反射的に両脚を閉じて彼を放すまいとした。
締め付けがひときわきつくなりアランは息を吐いた。
一瞬後、彼女は自分のしたことに気がついて首まで赤くなり、彼は小さく笑った。
愛しさがどうしようもなく募っていく。

「ようやく正直になってきたな。重畳だ」
「しょ、正直だなんて」
「つづきがほしいのだろう?」
エレノールはうつむいたままだったが、しばらくの静止ののち、ついに小さくうなずいた。
「いい子だ」
アランは妻の細い首筋に接吻した。
もはや全身が性感帯と化しているかのように、エレノールは肩を震わせた。

「だが、その前に清算をしておかねばな。
 先ほどは自慰をしていたとみとめるか?」
今度偽ったら本当にやめるぞ、という言外の脅しがそこには含まれていた。
もはやこれは取引ですらない。
わたくしはこのかたの意のままになるしかないのだ、と彼女ははっきり悟った。
だがそれは単なる玩弄ではないことも彼女は知っていた。
(このかたは、こうするほかご存じないのだもの)
やや呆れるような腹立たしいような思いを抱えながらも、エレノールはそれを受け入れるしかなかった。
少女時代にはちゃんと乙女らしい夢をもっていた身からすれば
このような苛虐を愛情の吐露と呼ぶのはあんまりな気がしたが、
それ以外に呼びようがないのも彼女にとっては事実であった。

 ためらいがちながらも、エレノールはとうとう唇を開いた。
「―――はい。自慰に、耽っておりました」
「何を思って?」
淡々としながらも愉しげな夫の声がエレノールの羞恥と憤慨を煽り立てる。
けれど、枕元に投げ出した証拠をすでに握られてしまっているので、抗弁らしきことはできなかった。
「―――あなたの、ことを」
「どんなふうに?」
「どんなふうにとは、その、―――ふつうにですわ」
「正常位だけか。それだと、太腿はあまり濡れない気がするがな」
「―――そ、その、つまり、―――ときおりは、あなたがお好みになるやりかたを」
彼女の声はもはや消え入りそうなほどか細かったが、アランは手を緩めるつもりはなかった。

「後ろから責められるのを想像していたのか?
寝台の上に肘と膝をついて腰を高く宙に突き出し、両脚の間に手を伸ばしていたのか。
 そんな牝犬のような姿態で自分の恥部を弄り、音がたつほど蜜をあふれさせ、太腿を伝わらせて膝まで汚したのだろう?
翌朝侍女にシーツを取り替えられるのが恐ろしくはなかったか」
「わ、わたくし、そんな」
「それとも、俺の上にまたがるところを想像したりしたのか。
 さしずめ脚を大きく開いて枕の上にでも乗り、指でかき混ぜるだけでは満足できず、何度も腰をこすりつけたりしたのか」
「そんな、―――そんなことは」
「素直になったがよい」

はぁっ、とエレノールはひときわ切なげな息をもらした。
少しだけ深いところまで突き上げられたのだ。
正直になりさえすればこれ以上のものを与えてやる、といわんばかりの動きだった。
彼女の理性と自尊心は、とうとう肉体の疼きの前に屈服した。
「―――はい。おおせの、とおりです。
じ、自分を慰めるとき、四つ這いになって後ろから愛していただいたり、
あなたの上になって腰を動かしご奉仕したりすることを、思い浮かべておりました」
「そなたは仮にも一国の王女で、いまや母親で、のちのちは国母となる身だろう?
 そんな浅ましい所業に身をゆだねて恥ずかしくないのか」
「も、もちろん、―――お恥ずかしゅうございます」
「だがやめられなかったのだな。それも毎晩。そうだろう」
「―――はい」
「生来の、淫乱だからだな」
エレノールの身体がひくっと震えた。
最も恐れ、かつ密かに待ち望んでいたことばを聞かされたかのような、そんな反応だった。

「―――はい、わたくしは、淫乱です。―――淫婦です」
全身を焼きこがす羞恥と悔悟のために、彼女の声はすでに吐息も同然になっている。
鏡の中に見える黒い瞳はすっかり濡れて夜の湖面のように煌いている。
その表情に見入れば見入るほど、妻への愛しさがどうしようもなく高ぶってくる。
そろそろ限界だな、とアランは思ったが、ここからの締めくくりが肝心だった。
あくまで衝動に流されないように、余裕を見せつけるかのように彼女の耳朶を優しく噛んでやると、
小さな紅唇からは仔猫のように素直な喜びが漏らされた。

「アラン……」
「折檻だ」
「え……?」
「正直に告白したのは褒めてやるが、仮にも王太子妃が淫乱などであっては困る。
業の深さをしっかり自覚してもらわねばな。鏡をよく見ておくんだ」
「え、そ、そんな……はあぁっ!」
エレノールは大きく身を反り返した。
とうとう彼が前進を再開したのだ。
けれど、彼女にはしたない悲鳴を上げさせたのはそのためだけではなかった。

「見えるか。俺とそなたがつながっている部分は、いまどうなっている」
「あ、あなたの、ものが、根元まで」
「どこに?」
「わ、わたくしの、恥ずかしいところに、根元まで、入って」
「そなた自身が咥えこんでいる、だろう。自分から欲しがっているのだから」
「―――く、咥えこんで、おります……あっ、い、いやぁっ」
「ほら、出入りするところもちゃんと見ておけ」
「いや、いやぁぁっ」
「襞がひくひくしているのが分かるか。つぼみまでこんなに充血させて」
「いっ、いや!そんな、いやらしい……っ」
「卑猥なのはそなたの身体だろう。
ここは嫌がるどころかうれしそうに呑み込んでいるぞ、そうだな?」
「い、いやぁっ……あ、あぁっ、……はあぁんっ
……は、はい……欲して、おります……」

「ところでこの、水音のようなものは、これはなんの音だ」
「……これ、は、わたくしの、蜜の、音です……」
「どうしてこんなに滴っているんだ?」
「……感じて、いるからです……」
「こんなふうに、鏡で接合部を見せ付けられながら感じているのか。
 自分のなかに出たり入ったりするのを見ながら。
よもや市井の娼婦でもこれほど無恥ではあるまいに」
「……どうか、どうか、お許しください……あぁっ、はぁんっ
 だめっ、そんな、奥まで……わたくし、もう……
……どうか、許して……心から恥じております……」
「恥じているなら、なおのこと折檻が必要だろう。甘んじて受け入れよ。
 鏡から目をそらすなよ」
「い、いやっ、許して……あ、あぁっ!いやぁっ!!」

本格的に始まった律動に、エレノールの身体は激しく揺れた。
もはや自分で自分を支えることもできなくなったその細腰をしっかりつかみながら、
アランは吸い付くような花園のなかを激しく突き続けた。
妻の肩越しに鏡を見れば、彼女はなかば意識を手放しながらも言われたとおりに接合部を見つめているようだ。
瑞々しい果実のように照り光る蜜まみれの花園を赤黒い牡が容赦なく出入りする、
そのあまりに卑猥で獣的な眺めをこの信心深く清らかな妻に強要しているのだと思うと、
彼の加虐嗜好は倒錯的なほどに満たされ、絶頂にのぼりつめるのにもはや時間はかかるまいと思われた。

「そろそろだ。中に出すぞ。
 これで少しは、淫蕩な疼きも鎮まるだろう」
「……は、はい……出して、ください……淫らな、わたくしのなかに……
 あなたのものを、たくさん、溢れさせて……あ、あぁっ……ああああぁんっ」
もはや身も世もなく叫び続ける妻を後ろから抱きしめながら、アランはできるだけ射精を遅らせようと努力していた。
が、その努力もついには潰えた。
熱く濁った白い欲望を無抵抗な花園の奥へ心ゆくまで注ぎ込んでしまうと、
彼は妻を抱いたままがくりと背もたれに身を預けた。


※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※


「そういえば、香を焚いていたのだったな」
寝台脇の窓辺に置かれた鉢に目をやりながら、アランはぼんやりとつぶやいた。
心地よく疲労した身体に体温の抜けた冷ややかなシーツは心地よかった。
朝日はすでに蜘蛛の糸のように差し込み始め、これまで室内を支配していた青い薄闇は片隅に追いやられようとしていた。
「没薬か」
「好んで、つけていらっしゃるから」
傍らに横たわるエレノールが恥ずかしそうにつぶやいた。

つまりこれも、彼女にとっては彼の寝衣と同じ意味合いをもっているということなのだ。
彼の香り、彼の存在を明確に呼び起こすもの、彼の体温をすぐそこに思い出させるもの。
アランは窓辺のほうを眺めたまま黙っていた。
てっきり勝ち誇ったように鼻で笑われるかと思っていたので
―――だからこそ彼の自負心を満足させてやるのはいちいち腹立たしいのだが―――、エレノールは意外だった。

「そうだな。好きな香りだ」
ようやく口を開いてつぶやくと、アランはまた仰向けになって天井を見上げ、無造作に妻の肩を抱きよせた。
エレノールは安心したように身をゆだね、彼のたくましい胸元に頬を寄せて目を閉じた。
めったに乱れることのない心臓の音。懐かしい規則的な音だった。
彼だけの鼓動、彼だけの体温、彼だけの香り。
これだけそろえば、久方の情熱に燃焼しきった肉体を安らかな眠りにいざなうには十分というべきだった。

「俺の、好きな香りか」
妻がまどろみに落ちてゆくのを見守りながら、アランはまたつぶやいた。
忘れてしまったのだろうか、と思った。
最初は彼女が用いていたのだ。
結婚して半年後、すなわち約二年前、ようやく事実上の夫婦になってみて彼は妃の愛用の品を徐々に知るようになった。
一国の王女の身であれば、嫁入りとともに携えてきた化粧品や香料の種類も膨大だったが、
エレノールがとくに好んで用いていたのは白檀であった。
いかにも南海貿易がさかんな国の貴婦人らしかった。

ただし自分の髪に香油として塗りこめるそれとは別に、彼女はときおり、自室に香を焚いていた。
それが没薬だった。
この国で入手できないこともないが、あまり馴染みのない香料である。
礼拝堂のようなことをするものだ、とアランは思ったが、たしかに心地よい香りではあった。

好きなのか、とある日なんとなく訊いてみたとき、エレノールは一瞬目を見開き、かすかに目を伏せて、ええ、と言った。
「心が落ち着きますの。
 ほんのりと甘くて、香ばしい深みがあって、―――晩春の宵のような」

そうか、とアランは思った。
そして自分でも取り寄せてみた。
この大陸の貴人は男女問わず日常的に香料を愛好するものであるから、彼がそれを用いるようになったのは何も不自然なことではなかった。
洗練された趣味において名高い王太子がご愛用召されているというので、一時期宮中でも流行をみせたほどである。
エレノールは当初少し戸惑っていたが、次第に彼がそれを身につけることに慣れはじめた。
今日は焚き染めてらっしゃいませんのね、などと言うようになった。
そして「彼の」香りだと思うようになった。

彼女自身に由来する香りでないのだとしたら、彼女のなかでは誰の香りだったのだろう。
誰を偲ぶための香りだったのだろう。
香りによって記憶が塗り替えられたのか。
それとも忘れたふりをしているだけなのか。
それは「彼」を偲ぶよすがではないと、エレノールは誓えるだろうか。
突然問いただしたい気持ちに駆られた。
だが隣に息づく聖女のような寝顔を眺めると、とてもできそうになかった。

(やれやれ)
アランはゆっくりと目を閉じた。
(俺はなんと寛大であることか)
指先でまさぐるエレノールの髪はしなやかで優しかった。
毛先までもがしっとりと密に絡みついてくる。
眠りに安らぐ今でさえ、彼の愛撫をひたむきに求めているかのようだった。
朝日はもはや寝台全体に射しかかっていたが、とくに気になる熱さでもない。
彼は妻の裸の肩を抱いたまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。

 

(終)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 05:59