(どうしたもんか)
マテューはまた髪を掻きあげていた。
あまり褒められた癖ではないが、小さいころからの習いでどうしても抜けない。
窓から差し込む夕刻の光が滑らかな金髪の上をすべり、微妙な翳りと光沢をつくりだしては散っていく。
膝の上に置いた本は彼の陰になっているため、宵闇さしせまるこの部屋では文字はほとんど読み取れない。
マテューはぼんやりと頁をくくった。
惰性のような動作であり、内容は頭に入っていない。
新しい頁の章題は「国文学における頭韻法の発生と変遷」とかろうじて読み取ることができた。
マテューはふと本を閉じ、彼らしくもない深いためいきをついた。

あの日の午後、彼はふたたび書記官らを広間に招きいれ、ミュリエルと共に双方の財産目録の確認と検討を地道におこない、
実質的に資産配分の契約書である婚約文書の草稿を筆頭書記官にまとめさせた。
あとはこれを宮廷に持ち帰り、しかるべき審議機関を経てから清書されるのを待つばかりである。
そのうえでふたりが署名しそれぞれの家の印章を押せば、第二王子の婚約は正式に発効し、
国内の貴族や諸外国の王室に向けて公告され、婚礼の招待状が各地に向けて発送されることになる。
先方からは礼法にのっとって祝辞が送られてくる。今度は答礼を発送する。

マテューにとっては考えただけで頭が痛くなるような煩雑な作業であるが、
王侯貴族と形式主義とは切っても切れないものであるからいたしかたない。
つまるところ、彼は今回の公爵家訪問の目的を無事に果たしたのであり、
もはや都に帰っても兄に迫害されない身分であった。
しかしマテューは帰らなかった。すでに来訪日からひとつきが経とうとしている。

「よろしければ、しばらくご逗留くださいませ」
あの日の午後、双方が署名を終えたとき、ミュリエルは少し恥じらいがちに、また遠慮がちにそういった。
「このような陋屋ですが。
―――もし我が館の蔵書に興味がおありでしたら」
喜んで、とマテューは言いたかったが、彼女の真意がどこにあるのか計りかねた。
いずれにしても結婚すれば―――今後の手続きを考えれば、おそらく一年以上先になるであろうが―――、
書庫は実質共有することになるのだ。
が、彼は誘いをありがたく受けた。
書記官と侍従たちには文書の草稿をもたせて先に都に帰らせ、リュゼ公爵邸には彼と御者、そして若干の護衛だけが残った。

初日の印象どおり、たしかにこの城の大部分はほとんど手入れもされていない廃室だが、
実際に暮らしてみると、寝室や書斎などの令嬢の生活空間および
二、三の客間を整えるだけの召使は足りていることが分かった。
そして彼らは、これほど落魄した公爵令嬢のもとにあえて残るだけあって、もれなく忠実な働きを示してくれた。
城下町で泥酔するたびそのへんの商店の庇の下で寝ることにも慣れてしまったマテューにしてみれば、
これは申し分ない歓待というべきであった。

ミュリエルがわざわざ言及するだけあって、公爵家の蔵書はすばらしい品揃えだった。
大陸中に誇るいにしえよりの血脈は伊達ではない。
これでも負債のかたとして貴重な写本や版本はたいがい売り払ったというのだから、
本来の書庫の威容はいかばかりであったかと、マテューは感心することしきりであった。

城に滞在するうち、ミュリエルの思うところは分かってきた。
彼女は別に、蔵書を単なる口実としたわけではない。
詩人であるマテューが文学好きなのは自明のことなので、約束どおりに彼を城内の書庫に案内し、毎日好きなだけ閲覧させている。
ただしミュリエルも常にかたわらにいて、別の本を読んでいた。

彼女も読書家である。ただし法学やら農学やら実務の本ばかり好んで読んでいる。
十三歳で父公爵を亡くして以来、家庭教師を雇う金を捻出することにも苦労してきたらしいとはいえ、
名家の常として幼少時から基礎教養を徹底的に叩き込まれているため、
独学でも専門書を読み込んだり、外国語の文献を読解したりすることはできるようだ。
マテューはそれに感心した。
けれど、読書というのはきわめて個人的な行為であるにもかかわらずあえて共にいたがるのは、
やはりそこに意味があるのだと、彼としても気づかざるを得なかった。

ふたりで終日書庫の長椅子に腰掛け、黙々と読書に没頭しているさなか、
マテューがふと顔を上げると、隣に座っているミュリエルがこちらを見ていることがある。
どうした、とマテューが訊く。
たいていはごく落ち着いた声で、なんでもありません、と返ってくる。
だが今日はこう言われた。

「あなたはどんな殿方なのだろう、と考えておりましたの」
「どんな殿方だと思う?」
「わたくしはかねてから、
詩人と呼ばれる方々はみな情熱がほとばしるままに人生を疾駆するものだとばかり思っておりましたが、
あなたはそうではないようです」
「うん、俺は燃焼するほうじゃない」
「いつも肩の力が抜けていらっしゃる」
「抜けすぎだとよくいわれる。とくに兄に」
「これまでどなたかに、情熱を傾けられたことは」

そういいかけて、マテューが返事を考える前に彼女はあわてたように立ち上がった。
ちょうど午後の日が傾きかけていたところで、その足元に落ちる影は少しだけ長くなっていた。
「―――今のことはお忘れください。
わたくし、居室におりますので、御用があったら従僕にお伝えください」
そのとき、彼女の顔は初めて赤くなっていた。

詩学の本を閉じてしまうとマテューは立ち上がった。
もとの棚に戻しにいこうと思ったが、夕焼けの匂いをわずかに漂わせる書庫のなかはすっかり暗くなっていたので、
彼はまず燭台に火を灯して携え、果てしなくつづくかに思われる書棚の列の間を静かに歩いていった。

ミュリエルが口にしたことは、ある意味、彼がずっと考えていたことでもあった。
マテューは彼女のことを好ましいと思っている。
そしてミュリエルもおそらく彼のことをそう思っている。
婚約が成立した男女にとって、これはたいへん望ましいことである。
だが、相手を想う温度には本質的なちがいがあることも、彼にはなんとなく分かっていた。

ミュリエルはよい娘だ。
一度見たら忘れがたい漆黒の瞳の美女を妃にもつ兄などにいわせると、
彼女の容姿は、おそらく「思ったより地味だな」といったあたりになるだろう。
世間の基準で見れば、ミュリエルはたしかに「美しい」というほどではなく、
「可憐」あたりが適切だということはマテューも分かっていた。
ただ、本物の美貌と違い、「可憐」とか「可愛い」という雰囲気はその人柄を知るにつれて増減の幅が出てくるものであるが、
品位と素直さに裏打ちされたミュリエルの可憐さは持続するたちのものであった。

たしかに短気なところもあるが、腹を立てるときにはまっとうな理由があり、
なおかつ、貴婦人特有の陰湿な裏表の使い分けはしない。
そして長い血脈とともに着実に受け継がれた教養があり、
どんな暮らしに身を置いても崩れない毅然とした物腰がある。
王族の配偶者としてまず言うべきことはない娘だった。
マテューのように気の多い男でも、日々接すれば接するほど彼女を大事に想う気持ちが募ってくる。

だがそれは、おそらく彼女が自分を想う気持ちとはちがうのだ、と彼は思う。
そして彼女が自分に期待している想いともちがう。
彼女は俺に恋をしている。が、俺はしていない。たぶんこれからもしない。
俺にはそういうことができない。
相手がミュリエルだからではなくて、おそらくどんな女であろうと、
ただひとりのことだけを終日想って考えて懊悩して歓喜して、などということはこの先も俺の身には起こりそうにない、と思う。

べつにそのように恋に没頭する人間を見下しているのではなく、生まれ持った性情として、ただ単にできないのだ。
あるいは能力の欠如とでもいうべきか。
詩作のような一生を打ち込む価値のある学問芸術はともかく、
生身の人間にのめりこむのは自由が奪われることだ。
それは自分の世界を狭め限定するような気がする。
自分でもそれを恐れる根拠はよく分からないが、マテューは本能的にそういう状況を避けてきた。
そして今に至る。

どうしたものか、と書棚の間で彼はまたぼんやりとする。
問題なのは、自分が嘘をつけないということだ。
己が節操のない軽薄才子であるという自覚はもっている。
だが、実人生でも、詩作でも、嘘をつかないという矜持だけは保ってきた。
だからミュリエルにも嘘をつきたくはない。
俺は君のことが好きだけど、恋はしていない。これからも誰にも恋はしないと思う。
でも今後、別の女性を近づけることはあるかもしれない。それは了承しておいてほしい。
そもそも婚礼を挙げるまで一年以上はかかるはずだし、その間王宮で独り寝を忍ぶなんていうのは全く現実的じゃない。
それは分かってほしい。

貴族社会の常識からいえば、これを告げるのは非常識でもなんでもなかった。
というより、王侯貴族の夫婦の間ではあまりに自明な常識であるため、あえて告知するほうがおかしいのである。
だがマテューにはためらいがあった。
ミュリエルは十三歳のときの父の死を境に実質世間から隔離されて生きてきたため、いまだ社交界に足を運んだこともない。
彼女自身は己を現実主義者と位置づけ、
人情の酷薄を知り尽くした身には甘美な詩文など必要ないのだ、というふうに振舞っているが、
ふとした瞬間に、危ういまでに純粋な表情を見せることがある。
その透明感と脆さは、無難に社交界デビューを果たし日々噂話に興じている温室育ちの令嬢たちの比ではない。
マテューの目にはそう映った。

だからこそ彼は恐れるのだ。
自分が正直であることは、彼女を取り返しがつかないほど損なってしまうのではないかと。

ようやく目当ての書棚を見つけ、彼は立ち止まった。
ろくに内容が頭に入らなかった専門書を上から二段目の棚に戻すと、踵を返して扉に向かう。
そろそろ従僕が晩餐を告げに来るころあいである。
右手の棚を横目に眺めながらその一列を通り抜けようとしたとき、マテューはふと立ち止まった。
ほかの書棚と同じようにその棚の前面も、古めかしくも美しい装丁の背表紙に満たされていた。
けれど最上段だけは空だった。
―――空だと思ったが、よく見ると薄い冊子が何冊か横たえられていた。

一番上のものをなんとなく手にとり、燭台を近づけて見ると、
これまで閲覧してきたほかの蔵書とはちがい、手で綴じられた帳簿のようなものだった。
子どもが綴り字を練習するときに使うたぐいのものだ。
表紙の隅に流麗な字でミュリエルと署名されている。
その横に記された日付からすると彼女が五歳のときだ。
男らしく力強い達筆である。父公爵が書いてやったものなのだろう。

開いてみると、子どもらしい金釘流でのたくるような文章が縦横無尽に躍っていた。
(あの娘がこんな字を書いていたとは)
苦笑しながら、マテューはぱらぱらとめくっていった。
一冊まるごと、ほとんど判読できない。
二冊目はどうかと思って手に取ったら、たしかに進歩があり、解読可能な域に達していた。
内容は日記のようでもあり、物語のようでもある。
誰かの子ども時代の雑記帳を読む機会などそうあるものではない。
興が沸いてきて、マテューは次々に冊子を手にとっていった。

五冊目になると、内容に変化が生じた。ミュリエル十三歳のころである。
これまでもたびたび散文の中に詩が混ざっていたが、この巻からは詩ばかりになった。
前半三分の二ほどは父を主題とするもので占められている。
ちょうどこのころ公爵が亡くなったんだな、とマテューは察した。

それからまた空想や日常を取り上げる詩に戻ってきた。
館の軒先から巣立っていった燕や、千切れ雲の形や、まだ見たことのない海やら、
そんな他愛もないことばかりであり、技術的にもきわめて稚拙である。
そもそも押韻形式を無視しているものが多い。

女の子というのは本当に純真なんだな、とマテューはつくづく感心する。
とくに十三歳当時の自分の脳内がどれだけ生々しい妄想で満たされていたかを思い出すと、その感慨はいっそう深くなる。
ただ、気づくことがあった。
どんな題材を取り上げても、彼女は結局、何かひとつのことを歌おうとしている。
去っていく燕に、千切れていく雲に、引いていく潮に、何かの想いを託そうとしている。

頁をめくった。
最後の薔薇が散ってしまった、とその詩は始まっていた。

おまえはふたたび咲くだろうか
父様もいない、庭師もいない、誰も踏み入らなくなった庭に
また咲くことがあるだろうか
来年もどうか息づいておくれ
次の年も、その次の年も変わらずに
いつか誰かのかたわらで
おまえを愛でる初夏が来るまでは
ただひとりのそのかたと、ただ一輪のおまえと
他には何も望むまい

「殿下、―――いえ、マテュー」
最後の行を読みかけて、マテューはいきなり現実に引き戻された。
冊子から目を上げると、燭台を捧げもったミュリエルが正面に立っていた。
今日は従僕に命じずに自分で晩餐に呼びに来たのかもしれない。
だが、ひどくこわばった表情を浮かべている。
燭台の明かりは暖色系だというのに、それでも分かるほど蒼白な顔だ。

「こ、これをごらんになっていたのですか」
「目に付いたもんだから」
「流し読み、ですわよね」
「おもしろかったよ。君も詩を書くとは知らなかっ」
言い終わらないうちにミュリエルはわあっと叫びださんばかりの勢いでこちらに飛び出してきて、
マテューの口をふさぎ、その手から冊子を奪った。

「ど、どうしたんだ」
「この件はお忘れください。決して口外してはなりません」
真っ赤な顔で息を切らしながら言う。
「口外って……いや、君がいやならもちろん言わないけど。
 でも誰でも詩ぐらい書くだろう。思春期はとくに。
 別に何も恥ずかしくはない」

「いいえ、わたくしは詩を書いたりいたしません。そういう人間ではないのです。
 わたくしは常に現実を見据えております。
そんな、―――そんな地に足の着かないことはしないんだから」
文字通り地団太を踏まんばかりにして、公爵令嬢は必死に抗弁を試みた。
ふだんの抑制された挙措も忘れたかのように、身振り手振りが異様に激しくなっている。
マテューは思わず微笑んだ。

「な、何がおかしいのです」
「可愛いもんだから」
ミュリエルは何かを言いかけて、そのまま固まった。
彼女の中で何かがいろいろせめぎあっている表情にも見える。

ふと彼は一歩踏み出した。ミュリエルは身をすくめた。
何かに怯えるような、一方で焦がれるようなその表情にマテューはとうとう耐えがたくなり、
燭台を傍らに置き、彼女の頬に手を当てた。
もう片方の手で腰を抱き寄せる。
マテュー、という消え入るような囁きが一瞬聞こえたような気がした。
だが空耳だったかもしれない。

彼の腕の中で、公爵令嬢は驚くほど従順だった。
何も知らない紅唇は最初はかたく閉ざされていたが、マテューの舌先で促されると一瞬驚愕し、
そしてためらいがちながらも彼を迎えいれた。
もちろん彼女の小さな舌は自分からは動かないが、物馴れた男の舌に絡めとられるたび、ごく素直に身を任せるようになった。

だが何よりマテューの情動を揺さぶったのは彼女の声だった。
吐息とも喘ぎともつかない切れ切れの声、甘えとも抵抗とも判じかねる無防備な声は、
その根底にある無垢さとあいまって、彼の心身を揺り動かした。
何より、都を出てからもう一月以上も女体に触れていないのだ。
我ながら奇跡的な忍耐だと思っていた。

自制心の限界値を考えると、そろそろやめておいたほうがいいかもしれない。
ゆっくり顔を離すと、ミュリエルは耳まで赤くしたままうつむき、けれど彼の腕の中から逃れようとはしなかった。
なんとなくすまないことをした気がして、マテューが何か言いかけようとしたそのとき、彼女はためらいがちに顔を上げた。
頬はまだ上気したままだが、心なしか心配そうな表情を浮かべている。

「マテュー」
「ごめん、急に」
「あの、なんと申し上げたらいいのか」
「つい、衝動的になってしまって」
「あなたはなんだか異状があるようですわ」
「我慢できなかった」
「我慢なさることはありませんわ。こんなにも腫れていらっしゃるなんて」
そういってミュリエルは彼の下腹部をそっとつかんだ。
今度はマテューが顔をこわばらせる番だった。

「おっしゃってくだされば、もっと早く近隣の町から医師をお呼びしましたのに」
「いや、ミュリエル、それは」
「こんなところがこんなに腫れ上がるだなんて、尋常ではありませんわ。
 きっとこの城の朽ちた欄干にでもおぶつかりになったのでしょう。
 まことに申し訳ないことを」
「いや、ぜんぜん大丈夫、痛くない。だから手を離し」
「今から医師を呼んでもこちらに着くのは深夜になってしまうわ。
 何か塗り薬で応急処置ができないかしら。
 拝見させてくださいませ」

そういってミュリエルは彼のベルトを外し、下衣と肌着の前を開け、その部位を丁重に取り出した。
ふだんのおっとりした物腰からは想像できない迅速な仕業だった。よほど彼を案じているのだろう。
燭台をかざして見つめる目も真剣そのものである。

「まあ、こんなに痛々しく腫れていらっしゃるなんて……!」
「いや、ここはね、えーと、こういうものなんだ、男の場合」
「そんな、とてもふつうとは思えませんわ」
「たしかに、通常はもっと縮んでる」
「色だって、赤黒くて血色が悪そうだわ。
 平気でいらっしゃるはずがありません」
「いや、これはもともとこういう器官なんだ」
「まあ、何に用いられるのでしょう」
心底不可解そうな顔でミュリエルは夫に尋ねた。

ああそうか、とマテューは腑に落ちた気がした。
大陸屈指の貴顕に生まれたこの娘は、ごく小さいころ母親と死別し、
十三で父親を亡くしてからは十分な教育係も雇えなかったために、
男というものに対する知識と心構えが、おそらくいまだ成人前の躾レベルで止まっているのだ。
だからこんな―――おそろしく無防備な、そして誘惑的なことを平然とおこなうことができる。

しかし用途を聞かれても困る。
「あー、なんていうかな」
マテューは考えあぐねた。
この一ヶ月、ただでさえ彼は我慢してきたのだ。
こんな状況に追い込まれて、一体どう耐え忍べというのか。

天は自分を裁くだろうか。
否。ミュリエルはすでに許嫁だ。俺の妃になることが決まっている。
ただ彼女の名誉を保つために、婚礼までは俺も極力死なないようにしよう。
再度の縁談が来たときに彼女が困ったことになるといけない。

「これはだね」
マテューは深く息を吸った。
「詩人の霊感の源なんだ」
「まあ!」
ミュリエルの顔に本物の驚愕が走った。
嘘は言ってないよな、とマテューは自分に言い聞かせた。
少なくとも恋愛詩に関してはほぼ真実だ。

「古来から、著名な詩人が男性ばかりなのはそういうわけでしたのね」
「うんまあ、識字率とか高等教育の普及率とかもあるけれども」
「まあ、これが・・・・・」
ミュリエルはこの世界に隠された七不思議のひとつでも見つけたような顔でじっとそれを眺めていた。

「でも、あの、恐れながら」
「ん?」
「色といい形状といい、あまり詩的ではない気がいたします」
「俺もかねてからそう思っていた」
「でもきっと、あなたがおっしゃったように、この世界の美は自分で見出してゆかねばならぬものですものね。
 そう思うと、なんだか―――なんとなく、可愛らしい気がしてきましたわ」
「いや、無理はしないでいい」
「いいえ、この先端の形とか、秋の森で見つける茸のようだわ。
 そうだわ、名前をつけましょう」

「な、名前?」
「ごめんなさい、ご不快でしたかしら。
 愛称をつけたらきっともっと愛らしく、慕わしいものに見えると思いましたの」
「いや、まあ、―――-君がつけたかったら別に―――っと」
愛玩犬か何かのように何気なく撫で回されて、マテューの息は思わず荒くなった。
ミュリエルは彼の手を握るのと同じ感覚でそれをつかみ、いろんな角度から遠慮なく眺めている。

「まあ、どんどん硬くなってきたわ。
 これが生き物だったら、とても丈夫で、猛々しいのね・・・・・・
 そうだわ、『竜の坊や』というのはどうかしら。
 小さいころ、絵本の中で見た竜の挿絵はみな首がこんなふうに長かったわ」

いつかかの聖獣が地上に降臨する日が来たら自分たち夫婦は真っ先に食い殺されるのではないか、
よくても王立裁判所で訴訟を起こされるのではないかとマテューは危惧したが、
彼女の笑顔があまりにうれしそうなので、無下に却下する気にはなれなかった。
「う、うん、竜ね、まあそれでもいい
―――いや、それがいいな。正しい名称だ」

マテューはこのとき初めて自分から動いた。
ミュリエルの手をとり、燭台を床に置かせる。
そして肩を抱き、灰色の瞳をのぞきこんだ。
「竜の本来の棲家はどこだか知ってる?」
「遠い天空の果て、もしくは人里離れた湖水のなかでしょうか」
「うん、そういうふうに伝えられてもいる。でも、本当は深い淵の底だ」
「そうなのですか」
「俺のも深い淵に帰りたがっている」
「まあ、どちらへ行かれますの?」
「どこへも行かなくていいんだ。君の中にあるから」
「まあ、わたくしの?・・・・・・だめですわ!」

胸元に伸びてきたマテューの手を、彼女は即座に払おうとした。
「何をなさいます」
「脱がせるんだ」
「いけませんわ」
「君だって俺を脱がせたじゃないか」
「それは必要があったからです。
女の素肌など見苦しいものにすぎません」
「どうして?」
「そのように教えられました」
「でも、美しいもの、そうでないものの境界線は本来ないはずだっていう考えに、君だって共感してくれただろう」
「それは、そうですが・・・・・・どうして、わたくしの裸などに執着なされますの」
非常に根源的な問いを提出されて、マテューは一瞬動きを止めざるを得なかった。

「見たことがないからだ。
 初めてのものはいつも心を震わせる。そうしたら新しい詩が書ける」
「まあ」
ミュリエルの顔は一気に赤く染まった。
いやはやまったく、とマテューは呆れつつも安心した。
この娘はふだん努めて詩歌全般を軽んじる態度を装いながら、
己が詩作の題材に選ばれたと知るや、傍目にも分かるほど体温が上昇する。

これまでの滞在期間中、彼女について二、三篇書き上げたことがあったが、
それらはいずれもマテューの内面から沸き起こったやむにやまれぬ衝動によるものというよりは、
(いつ書いてくださるのかしらわたくしのことをいつ書いてくださるのかしら)
というミュリエルの無言のオーラというか眼光というかそんなものに促されて書いた習作である。

そして書きあがると、わたくし別に興味などないのですけどせっかく下さったのですから、という澄ました顔で受け取り、自室に籠もったままかなり長いこと出てこない。
おそらく天寿を全うして死ぬまで隠れ文学少女なのだろう。

が、そんな先のことに思いを馳せている場合ではない。
ことは時宜を逃さずに運ばねばならないのである。
「というわけで、霊感を提供してくれないか」
「わ、わたくしなどでもよろしいのですか」
「君だからいいんだ」
「まあ、マテュー」

手放しで喜ぶまいと自分を律しているかのような、はにかむようなためらうような微笑が小さな顔に徐々に広がっていき、
初めて自分から彼を抱擁する。
それがあまりに長いので、マテューはやや焦り始めた。
(まいったな。こんなにずっと密着してると先走りそうだ)
そして柔らかい感触を心から惜しみつつも、いったん身体を離した。
「じゃあ、脱がせるから」
「・・・・・ええ・・・・・」

ミュリエルはこくんと小さくうなずいた。
感激していたのもつかのま、さすがにこの場に及ぶと表情は羞恥に満たされている。
紅潮した頬や目元を見ているとますます下半身の抑制が緩んできそうなので、
マテューはそっと目をそらした。
そして彼女の胸元を締める紐を上からゆっくりと解き、ワンピース状の室内着を肩からすべり落とし、上下の肌着に手をかけていく。

「あの、どうか」
「ん?」
「わたくしがあなたの前で肌を露わにいたしましたこと、決して口外なさらないでくださいませね。
婚礼ののちもですわ。
もし人に知られるようなことがあれば、わたくし、父母に顔向けできません」
むしろ結婚後も妻の裸を見ていないなどと周囲に知らせるほうがはるかに問題なのだが、マテューは重々しくうなずいた。
「約束する」

ミュリエルはまだどことなく悲壮な顔つきだったが、それでもほっとしたように息をついた。
そのようすがあまりにいじらしいので、肌着の止め具を外すマテューの手つきも思わず荒々しくなる。
最後の衣擦れと金具の音とともに、とうとうミュリエルは生まれたままの姿になった。
困窮した生活のため全体として痩せているが、肌は乳脂のようになめらかでしっとりとして、手入れのよさを感じさせた。
首筋から肩にかけてはやや骨ばっていながらも優美な曲線が描かれ、
どことなく緊張を伝える手足は小鹿のようにほっそりと伸びている。
乳房だけは標準的な大きさのためか、かえって人目をひくほど豊かに見えた。
明るい桃色の乳暈は完璧な円を描き、その頂点は外気に震えるように縮こまり、誰かの優しい庇護を求めているかのようだ。

「きれいだ」
うつむく許嫁の耳元でささやきながら、マテューはその柔らかい耳朶をそっと噛んだ。
熱い吐息をこぼしながら、ミュリエルが小さくつぶやく。
「冒頭は……」
「え?」
「一行目はどうなさいますの」
おずおずと顔を上げる彼女の瞳は夢見るように潤み、もはや文学少女として開き直ったかのようでもある。
「……そうだな。えーと」
「お急ぎにならなくてもよろしゅうございますわ」
彼としては急ぎたい心境であった。

「こういうのはどうだろう。
『深海の真珠に勝る白がいずこにあろう、と人は言う』」
「素敵……」
「『されど彼らは知らず、わが花嫁が地上の月にして、その肌は東洋の磁器の価値をなからしめることを』」
「まあ」

ミュリエルがますます可憐に赤くなるので、マテューの集中力はますますつづかなくなる。
我ながら粗製濫造の見本のような出来だな、と思いつつ、
かといって下半身のほうに気が散ってしまうのだからしょうがないじゃないか、と詩人としての自尊心をなだめようとする。
そして次の詩句を考えながら自分も服を脱いでしまうと、厚手の上着を床に敷き、ミュリエルをその上に横たわらせた。

ふたたび唇を重ねながら、彼の手は乳房を優しくまさぐりはじめる。
想像以上に柔らかく滑らかで、ごく力を抜いて揉みしだいても跡が残ってしまいそうだ。
やがて乳首が手のひらを突くのが分かる。
指先でなぞってみると、ミュリエルははっとして全身をこわばらせた。

その敏感さと初々しさにたまらなくなり、マテューは片方の乳首を指先でこすりあげつつ、
首筋から胸元にかけて唇を這わせ、やがてもう片方の乳首を優しく咥えた。
ミュリエルが大きく背中をそらす。
「あっ……はあぁっ!」

あられもない喘ぎのせいで彼の理性はますます歯止めが効かなくなり、
初めてだというのに感度のよすぎるふたつの丘をひたすらに嬲った。
舌先で乳首を転がされては唇で吸い上げられるたびに公爵令嬢はいとも素直に身をよじり、
マテューにしがみつく腕に力を込め、無意識に腰をくねらせた。
それだけに何か、得体の知れない巨大な快感に怯えているようでもある。

「あ、はぁっ……マテュー……これはなんだか、いけないことのような気がしますわ」
「『禁じられた果実ほど美味なるは世の常
 乙女の穹窿を覆う花弁ならばなおのこと』」
「そ、そうなのかしら……はあぁんっ!」
ひときわ大きな喘ぎとともに、ミュリエルは必死で脚を閉じようとした。
忍び込もうとしたマテューの指はもう少しというところでくじかれた。

「そ、そこは……本当に、いけませんわ」
「でもここなんだ」
「何がですの」
「竜の棲家というのは」
「まあ」
「迎え入れてもらえないと、帰る場所がなくなってしまう」
「まあ……」

悪いことをしてしまったわ、と言うかのようにミュリエルは王子のそれを手に取り、
慰めの意味をこめてか頭の部分をなでさすった。
「ちょっ、ミュリエル、そこは」
「拒んでごめんなさいね」
マテューに対してというよりはその部位に対して呼びかけながら、ミュリエルはおずおずと脚を開いた。
そして三十度くらい開いたところでその先端を自らの花園に押し当てようとする。

そこまで積極的な動作はマテューもまったく予期していなかった。
もはや先走りの汁をこらえられない。
「いや、つまり、君のほうも準備ができていないといけないんだ」
かろうじてそう語りかける。
「準備?準備というのは」
「竜が身を潜める淵は潤っていないといけない」
「潤う……?潤うにはどうすればよろしいのでしょう」
「つまりだな、―――ああそうだ」

ミュリエルがまだ己のものを握っていることに気がついて、彼はふと思いついた。
果たしてそんなことをしていいのだろうかというためらいはある。
けれど、彼女の濡れた上目遣いに触れたとたん、心は決まった。
「それを、その先端を、君のそこに押し当てて」
「えっ……こう、こうでしょうか」
「そうだね、もう少し上、そう、そのあたりだ。
 そのつぼみは竜の好物なんだ。もちろん食べはしない。鼻面を押し当てるだけで満足だ」

「で、でもマテュー、なんだかここ、ここ、と、とても、いけない気がいたしますわ」
「大丈夫、ゆっくりこすりつけてみるんだ。君が気持ちのいいように」
「そ、そんな……あっ、あぁんっ、ふぁ、はあぅ……あぁっ……」
「ほら、もうふくらんできた。君はすごく自分に素直で、上手だ」
「あっ、あっ、ありがとうございま……ああんっ」

なぜ自分が礼を述べているのかも分からないまま、快感の虜になった令嬢は無心にそれを秘芽にこすりつけ、
ついには自ら腰をくねらすまでになった。
(まずいな)
マテューは焦った。
こんな痴態をいつまでも見せつけられていたら、挿入前に俺は果ててしまう。

「ミュリエル」
「は、はい」
「君の淵はもう十分濡れたみたいだ。―――いいかな」
「はい……」
今度はマテューが自分から動く番だった。
先走り汁滴る先端をつぼみから離したとたん、ミュリエルが名残惜しそうなため息をつく。

(これでも処女なんだよな)
ふと自分の許嫁のことが空恐ろしくなりつつも、彼はゆっくり己の先端を柔らかい秘裂に押し当てた。
想像以上に濡れそぼっている。
ほんの少しだけ押し入ろうとすると、くちゅっという猥音が書庫の床の上に大きく響く。

「マ、マテュー、わたくし、なんだか、怖い」
突如として悦楽から目が覚めたかのように、ミュリエルはいっそう彼に強くしがみついてきた。
「すまない。痛いと思うけど、できるだけ力を抜いて」
「は、はい―――あっ!」
秀でた眉宇が苦痛にゆがむ。マテューは胸を突かれる思いがした。
自分としてはそろそろ限界にもかかわらず、これ以上進入するのがためらわれる。

「ミュリエル、大丈夫か」
「はい。―――あの、次の連を」
「え?」
「詩のつづきですわ。痛みが、まぎれるかも」
「そ、そうか。えーと。
 『路果てしなくも今ここに帰参す
  彼方より焦がれし君の淵は潤滑にして深遠
とわなる豊穣を約束するもの』」

ミュリエルの耳元でささやきながら、マテューはほんの少しずつ、奥へと進み始めた。
彼女の痛みも薄らいできたかと思ったそのとき、小さな叫び声が上がった。
「あっ、―――お待ちください」
「ごめん、痛かったか」
「いまの連、脚韻を忘れておいでです」
「新しい押韻形式なんだ。俺が提唱した」
「まあ。
でもあの、なんだか徐々に非定型詩に移行しておいでですわ」
「保守主義とは一線を画そうと思って」
「まあ、マテュー」

ミュリエルは彼の顔をじっと見つめた。
いつにもまして澄んだ灰色の瞳には尊敬と憧憬の色が宿っている。
さすがにどうにもいたたまれなくなり、マテューは動くほうに専念しはじめた。
ゆっくりと、ゆっくりと突き上げるたび、小さな紅唇から苦悶の声が漏れる。
彼もひどくつらかった。けれど、ここで退くこともできない。

「ほんとにすまない」
「どうして……?」
「君を痛い目に合わせてる」
「でも、幸せです」
呟きながら、ミュリエルは微笑んだ。
心の底から満たされている笑みだった。

「愛されているのですもの。わたくしの、ただひとりのかたに」
高みが近づいてきていた。
マテューはことばを探せないまま、うねるような情動に身を任せざるをえなかった。
絶頂の寸前に身を離そうとすると、ミュリエルが怯えたように驚くほど強い力でしがみついてきた。
振り払うことは許さないかのように、ただ切実にマテューの体温を求めている。
そして彼は、いまだ誰にも汚されたことのない淵の深奥で迸るように果てた。

「あの、うかがっても、よろしいでしょうか」
「ん?」
書庫の床にはまだ気だるさが漂っていた。
マテューはゆっくりと首だけを動かしてミュリエルのほうを見る。
腕の中に抱いている彼女の肩は本来の陶器のような白さをとりもどしていたが、
頬はまだ紅潮が抜けていなかった。

「竜は、棲家をいくつも持つものでしょうか」
質問の意図がよく分からずにミュリエルの瞳を見つめると、実に真摯な色を浮かべていた。
マテューの場合、年に三回くらいしかこういう目はしない。
「つまり、いくつもの深き淵を訪ね歩くものでしょうか」
ああ、とマテューは得心した。

「そういうのもいる」
「あなたの竜は?」
「俺?」
マテューは珍しくことばに詰まった。

こういう質問、そう、まさしくこの質問に対する回答―――正直な回答をかねてから用意していたはずなのだが、
なぜが喉を通ってくれない。
単にこの、初めて結ばれたあとの親密な空気を壊したくないからだろうか。

だが、一時の雰囲気に乗じた迎合など意味をもたない。
彼女を尊ぶというなら、まず正直でなくてはならない。
世の貴婦人はみな夫の蓄妾には慣れている。そして自身も積極的に愛人をつくる。
ミュリエルとて徐々に慣れてくれるはずだ。最初の嵐をこらえさえすればいいのだ。
だが何もいえなかった。

(―――ああ、そうだ)
マテューはいまさらながら思った。
俺は、この娘がいつか他の男に抱かれるという未来に耐えられないんだな、と思った。
肌を重ねた女に対してそんなことを思う日が来るとは、彼は考えてもみなかった。

ミュリエルが自分から顔を近づけてきた。初めてのことだ。
マテューは少しだけ視線をそらした。
「わたくしの父も、よそに二人ほど囲っている女性がおりました。
母に尋ねましたら、そんなことをわざわざ咎めるのは公爵夫人としての品位にかかわると叱られました。
ですから、たぶんわたくし、とても非常識なことを申し上げているのだと思いますが、
あの、―――わたくしひとりを、終の棲家にしてはいただけないでしょうか」

腕の中の華奢な生き物は、ほんのわずかに震えていた。
マテューの首筋を撫でる吐息が熱い。
彼はゆっくりと視線を上げた。
瞬間、揺れるように潤む瞳にとらえられる。
なかなか離してくれそうにない。
いや、こちらから離れたら、二度と捕まえられないかもしれない。

「―――ああ。そうなるよう、努力する」
何度か言いかけては押し黙った後、マテューはついにそう答えた。

これがどこまでも誇り高く潔癖な義姉のエレノールだったりしたら彼を張り飛ばした挙句実家に帰りかねないところだが、
ミュリエルはほっとしたように、しかしかすかな不安もにじませながら、おずおずと夫に微笑みかけた。
たったいまの長い沈黙は、マテューがこれまでの人生最高といえるほど真摯に誠実に考えた結果なのだと、
彼女にはたしかに伝わったのだ。

「よかった」
消え入るように小さな声でつぶやくと、マテューの鎖骨のあたりにそっと顔を押し付けてきた。
柔らかな頬はいまだ火照っているのが分かった。
かすかな吐息は体温に劣らぬほど熱かった。
滑らかな肩や背中に散らばる赤みがかった褐色の髪は、彼女が小さく呼吸をするたび、
それぞれの毛先までほのかな熱をいきわたらせるかのようにさやかに優しく揺れていた。

(まいったな)
マテューはこの城に来て以来何度目かのため息をついた。
(約束を履行せざるをえないじゃないか)

ふと書棚の尽きた先にある窓を見上げると、月が小さな枠の中に佇んでいた。
曇りがちな空だとはいえ、優雅にたなびく雲たちは今夜の女王に対しては足元に接吻してそのまま去っていくだけだった。
今夜は風が強いんだな、とマテューは思った。

燭台の灯火はすでにふたつとも消えていた。
この深い夜陰の中で、石膏像のようなミュリエルの肌を見つめることができるのは、
かの遥けき天体の恩寵なのだといまさらながら思い至った。
ゆっくりとまどろみに落ちながら、彼の脳裏はこのひとときをあの懐かしき情景、
光の中を舞う埃のすぐ隣に、人知れずしまいこもうとしていた。

 

「というわけで、できちゃったんですよ」
「そうか、できたのか。おまえにしては上首尾だ。
 ――――――ああ!?」
王太子は眼を見開いて次弟の顔を見た。
朝議においては常に理知的な弁舌で知られる彼は、廷臣たちがいる前では決してこんな声を上げたことがない。
できれば誰の前でも一生上げたくなかったところであろうが、
残念ながら、彼はこの後も何度かそのような失態を強いられることになる。
原因はもれなく弟妹たちの行動に帰せられる。

兄はものも言わずにただこちらを眺めている。
穴が開くほどというのはこういうことなんだろうな、とマテューは得心が行く気がした。
「説明しろ」
ようやくのことでアランはことばを発した。
独力では立っていられないかのように、壁に手を置いている。

「まあその、ついうっかり。人類の普遍的な過ちとでもいうのかな。
兄上もそんなことないですか?」
「黙れ。ルイーズは計画的に生まれたんだ。
 いや、そんな話じゃない。
 おまえ、自分のしでかしたことが分かってるのか」
「責任は取りますよ。明るい家庭を築きます」
「婚約者があたりまえのことをいうな。
 俺がいうのはだな、婚礼の日取りだ。
 ほかの公式行事をすべてさしおいてでも組みなおさねばならなくなるだろうが」

「そんな、悪いなあ。俺たちふたりのためだけに」
「わが王室の威信のためだ。
 聖職者にも廷臣にも、各国の大使にも、参道の平民たちにも示しがつかんだろうが。
 神の前で誓約をあげるそのときに新婦の腹が膨らんでなどいたら」
「生まれてから、という手も」
言いかけて、マテューは慌てて手近な柱の影に身を隠した。

振り上げた執務用の椅子をいまいましそうに下ろすと、
アランは顔も見たくないと言いたげに弟に背を向けて窓のほうを眺めた。
ふと深いためいきが漏れいで、静かな室内に低く響く。
それが何もかもに疲労しきった人間の呼吸であることは、背後のマテューにも感じ取ることができた。
彼はゆっくりと柱の影から出てきた。

「―――兄上、本当に申し訳なく思っています。
 式の日取り再調整や、公式文書の再発行や、大使への贈答品の手配などは俺が指揮を取って必ず全うします」
「当然だ」
短く言い捨てたまま、アランはこちらを向こうとしない。

王太子の執務室の窓は大きい。
ガラスにほどこされた葡萄蔓の紋様と彼自身の輪郭を滑りぬけるようにして、午前の光はとめどなく押し寄せ、
文書に占領された広い机をあまさず照らし出している。
退去したほうがいいのかな、とマテューが思ったそのとき、アランがぽつりと呟いた。

「まだ言ってなかったな」
「え?」
「おめでとう。健やかな子が授かるように祈ろう。
 公爵令嬢にも祝辞を伝えてくれ」
「兄上」
「それと、出産祝いだな。少し早くなるが、おまえたちの新居に贈り届けよう」

「兄上……なんと申し上げたらいいか」
「俺の心の広さに感涙しろ」
「ああ兄上、ご逝去のおりには、善政を称える追悼詩を十篇ほど書き上げます。
 後世に残るように全力で推敲します」
「今から不吉なことを言うな。いいからさがれ」

婚約から約二ヵ月後、ガルィア王国第七代国王の第二王子マテューと
第十五代傍系リュゼ公爵の長女ミュリエルの婚儀はつつがなくおこなわれた。
二年前の王太子夫妻の成婚時には及ばぬとはいえ、
前王朝の後裔との通婚ということもあり、盛大をきわめた式典だったと伝えられている。

王太子以外の諸王子の慣例として、第二王子は婚礼後妃を連れて自分の領地に移り住み、約七ヵ月後に第一子を授かった。
王室の公式記録によれば、侍医の署名入りで早産であるということが何度も強調されている。

また第二王子の家臣が遺した備忘録によると、第一子の出産に先立つこと数ヶ月、王太子より数々の祝賀品が贈られた。
それらを第二王子夫妻のもとに携えてきた三人の優秀な行政官は第二王子の補佐となることを命じられており、
以後は彼の領地にて勤めに励んだという。

王太子から三人に発せられた私信として、以下のような文言が同備忘録に転写されている。
「日が暮れるまでは断じて執務室から出さないこと。
 領主館の裏口は封鎖しておくように。
どうしても逃げ出すそぶりを見せたら奴の愛蔵詩文集を火にかけると脅迫しても可。
 一日一食でも人間は死なない」

 

(終)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 05:57