「起きろ」
短いことばとともに重々しい衣擦れのような音が聞こえ、日光が顔の上に落ちてくるのを感じた。
今日は久しぶりにいい天気なんだな、と瞼を閉じたままマテューはぼんやり思った。
できればずっとぼんやりしていたかったが、彼が身動きしないままでいると、いきなり鼻を強くつままれた。
離してくれそうな気配はない。
しぶしぶながらマテューは目を開けた。
自分と同じ褐色の双眸が冷ややかにこちらを覗き込んでいる。

「ひろいらないれすか、はにふえ」
「何がひどいか。聞こえているなら起きろ」
まなざしと同じくらいの冷淡さでそう言い放つと、来訪者はようやく鼻を解放してくれた。
しかし痛みはなかなか引かず、マテューは鼻柱を恐る恐るさすった。
「あんまり強くつかまないでください、兄上。
 これが変形したらいろんなご婦人が悲しみます」
「鼻を力点におまえの全身を持ち上げようと試みなかっただけありがたいと思え」
そういうとアランは枕元に腰を下ろした。
珍しいな、とマテューは思った。

城下町で飲み歩いた次の日、二日酔いで昼まで眠りこけているところを兄に叩き起こされた経験は一度や二度ではないが、
それはたいてい緊急の用事があるときだけだった。
今日の兄は何かちがう。あわてている様子はない。
ただ枕元に腰掛けて黙りこみ、こちらが体勢を整えるのを待っている。
あるいは壁の一点を見つめながら何か適切なことばを探しているようにも見える。
いつものように寝台から蹴り落とさんばかりにしてこちらの身支度を促したりしないのはありがたいが、マテューはやや気になった。

(どうされたんだろう)
二日酔いの頭の中はどうしようもなく淀んでいる。
けれどマテューはなんとか己の気力を奮い起こしつつ、ゆっくりと上体を起こした。
こちらの姿を目の端でとらえると、兄はとうとう口を開いた。

「昨夜はどこへ行っていた」
平凡な質問なのでマテューは拍子抜けしてしまった。
どこだったかな、と寝癖のついた髪を掻きながらなんとか思い出そうとする。
「ええと、ええとですね………………………………………そうだ、『瑠璃の鳩』亭です」
「なぜ数時間前のことを思い出すのにそんなに苦労するんだおまえは」
「いろんな店に通ってるもんだから」
「酒場か?娼館か?」
「たいていの店はそのふたつを兼ねてますね」
「かねがね思っていたがおまえ金はどうしてるんだ。
 領地収入は現地に保管されているままだろう。
 管理人とろくに連絡をとってないせいで」
「飲み仲間のおかげでなんとかなってます」

「―――おまえというやつは、平民にたかっているのか」
平板だった兄の声音が急激に変わった。
「いや、おごってもらってるんです」
「なお悪いわ。王室の名誉をなんだと思っている」
寝台から引きずりおろされそうな剣幕になってきたので、
マテューは壁に向かってやや後ずさりしつつ、一応の補足を試みた。

「いや、身元は隠してますよ。ほんとです。大丈夫大丈夫。
それにですね、実際のところもちつもたれつなんです。
城下町に通い始めたころ、無銭飲食っていう概念と罪状を知らなくて捕まえられそうになったことがあっ
・・・・・・いや兄上痛いじゃないですか、最後まで聞いてくださいってば。
それでですね、一応楽器が弾けるっていったらじゃあ働いて返せっていうので、
それからは流しの芸人たちに混ざって飲み屋や広場の隅で弾いたり歌ったりなんかして、
あと道端で詩を書いては売ったりして、それで結構酒代になるんですよ。
素人玄人問わず女の子たちともなかよくなれるし」

ものを言う気力も尽きたような顔でアランは弟の襟首を離すと、また寝台に腰掛けた。
心なしか背中が丸まっているようだ。
「元気出してください、兄上」
「おまえが言うな。
大体おまえというやつは、才能の無駄遣いの典型だ。
 詩歌を披露するならなぜ宮中でやらんのだ。
宮廷専属の吟遊詩人たちとておまえの才能はみとめている。
王族に対する阿諛を割り引いたとしてもな」

「うーん・・・・・・宮中で詩作しても、なんかつまんないじゃないですか。
 貴婦人がたの反応ってみんな似たような感じで。
 『詩情に打たれるあまり気を失うかと思いましたわ』とか『あの一聯を反芻して昨夜は一睡もできませんでした』とか。
彼女たちは共通の教科書でも使ってるんじゃないのかな。『文学鑑賞の際の応答例』みたいなやつ」
「民間なら面白おかしいと?」
「駄作なら駄作って言ってくれるのがいいですね。
 どんな題材で歌っても、出来がよければ褒めて口ずさんでくれるし。
 そのへんに転がってる空き瓶のことを歌っても、蛙の卵のことを歌っても」
「―――それでだな」

兄はそろそろ話題を変えようとしている。やはりこれは前振りだったらしい。
「おまえは今現在、宮廷の貴婦人や令嬢たちとは接点がないな」
「ええ、あんまり」
「町娘のほうはどうだ。素人だろうが玄人だろうがちゃんと清算しているか」
「清算ってそんな。そもそも特定の関係が成立したことはないですよ」

これは本当だった。相手が未婚の娘だろうと人妻だろうと未亡人だろうと娼婦だろうと、
彼はふらっと知り合いになりふらっと訪れるといった交遊しかもったことがない。
この言動ちゃらんぽらんな青年には金がないということはどの女も知っているのだが、
彼が気の赴くままに弾き散らす即興のロマンスなどを聴いているうちに、
たいていの女は気づいたら自分から寝台に誘っているのだった。
マテューの側としては、相手にその気があれば楽しませてもらうが、
なければないで特に不服も覚えず、聴衆を得られたことに満足して帰っていく。
こういう執着のない男だからこそ、女は自分から積極的に動きたくなるのだともいえる。

「囲い者はいないだろうな」
「囲いたいって言ってくれるご婦人はいます」
さる大店の未亡人のことを思い出しながらマテューは言った。
端正な口元を引きつらせながら、それでもアランはなんとか罵声をこらえた。
「ならばいい。相手がいないことを確認しておきたかった。
 おまえの身辺が潔白かどうかをな」
「灰色ってとこですかね」
「白だと自分に言い聞かせろ」
そして少しだけ目を伏せて何か考えるような横顔になった。
ここからが本題だな、とマテューは思った。

「リュゼ公爵家から使いが来た」
どこの家だっけ、とマテューは思った。
だがそういう原初的な疑問を口にするとさらなる兄の怒りを呼びそうなので、ただうなずくだけにした。
「あそこにはずいぶん前から我が室との縁組を打診していたが、先日とうとう承諾の内意を伝えてきた。
今現在の当主は十六歳の娘だ。年恰好はちょうどおまえに釣り合う」
そこまで聞くと、マテューはようやくリュゼという家の素性に思い当たった。

ガルィア王室はこの大陸の中枢に位置する文化国家の統治者として、諸外国の王室公室からの縁談は引きも切らない名門である。
まして一般貴族の家にしてみれば、王族と通婚できるなど望外の光栄といってよく、
相当無理をしてでも持参金を積んで縁組を実現しようと試みる例が後を絶たない。
そんな王室からの申し出を断り続けてきた貴族といえば、この国には一家系しか考えられなかった。
前代の王朝の分家筋にあたる名門リュゼである。

数百年前の政権交代期にあたり、本家の人々はみな処刑か国外追放されてしまったが、
この家だけはガルィア国内で細々と命脈を保ってきた。
この大陸ではいわゆる系譜学や紋章学がさかんだが、リュゼ家はどの点から検証しても、
大陸屈指の古雅にして高貴な血筋を伝える一族であることは疑問の余地がない。
つまり純粋な家格からすれば、比較的新興の伯爵家を出自とするガルィア王室よりも数段高いのである。

そのような門地上の関係、そして自らが転覆させた前王朝の残党であるという事実を考慮して、
ガルィア王家はその創始者から現国王にいたるまで、絶えずかの名家との縁組を申し入れてきたが、
歴代の当主たちは古式ゆかしく礼をふまえつつも丁重に断り続けてきた。
彼らにしてみれば現王室など本家を滅ぼした仇敵にはちがいなく、
また、現実世界での力関係はさておいて家柄の違いを思い知らせてやることで代々矜持を保ってきたのだろう。

その孤高の公爵家が、今回とうとう王室との通婚を承諾したという。
この事実の重さは、さすがに第二王子の目を覚まさせるに十分だった。
「一体何があったんでしょうね。
 あの家との縁組は、爺様もひい爺様もその前のご先祖たちもみんな企てては失敗してきたじゃないですか。
やたら慇懃に断られて」

「先代のリュゼ公爵が三年前に亡くなったのは覚えているか。
 一族に男子はおらず、娘ひとりが残された。
 もともとあの家は分家ということで実際の所領は中堅貴族程度だったのだが、ここ数代、享楽的な当主がつづいてな。
領地はみるみるうちに債務のかたとして売却されていった。
公爵が亡くなった時点で遺産はかろうじて負債を上回っていたようだが、一年前、令嬢が十五歳になって成人する直前に、
それまで遺産を信託管理していた母方の親族が合法的に大半を横領したらしい。合法なのに横領というのも妙だが」

「ひどい話ですね」
「まあな」
アランはことばを切った。
配下に調査をさせてここまで明るみに出たとはいえ、
王室は下からの申し立てがない限り自ら貴族たちの相続問題に介入していくべきではない。
ましてそれが通婚を申し込んでいる相手の家庭内のことであれば、
ここで容喙などすれば「王室に有利なようにことを運んでいる」と国内の貴族たちに目されかねない。
それは避けたいところだった。

「その後、父公爵の代からの忠実な領地管理人がもろもろを差配することでなんとか令嬢の生活は回っていたようだが、
数ヶ月前亡くなったらしい。その後のなりゆきは、―――まあ分かるな」
ええ、と答える代わりにマテューは小さくうなずいた。
気が重いなあ、と肩の筋肉をほぐしながら思った。

つまりこの縁談は、相手方の苦境につけこんで成立したものであるということは疑いの余地がない。
ガルィアでは基本的に爵位相続は男子にしか認められていないが、女児だけが遺された場合、
結婚して息子をもうけるまでの間暫定的に当主として爵位を保有することはできる。
ただその場合彼女はあくまでも公爵令嬢であり、公爵家当主ではあっても新公爵ではない。

そしてガルィア王家にとって何より肝要なのは、王室の成員が彼女との間に男子をもうければ、
そのときからリュゼ公爵位は王室と同姓の者によって継承されるということである。
むろん相手方の内情を考えれば、爵位にともなう資産相続などほとんど期待できないのだが、
王室が欲しているのはとにかく実利よりも名分と門地であった。
それは初代国王以来の宿願ともいえ、兄および父王がこの機を逃さずになんとしても婚約を成立させたいという熱意は、
ろくに宮廷に出入りしていないマテューにも理解できた。

「たしかに公爵令嬢の身の上は不憫だ。不憫だが、―――急がねばならんのだ」
アランが静かに言いふくめるようにつぶやいた。
「今にも世をはかなんで出家しそうなんですか」
「公爵家の財政破綻ぶりはすでに広く知られている。
リュゼの血筋を渇望する者は国外にさえ少なくないのだ。
いまここにきて、とうとう当主がどうにも身動きできなくなったと知れば、
経済力にものをいわせて通婚を申し込む者があとを絶つまい。
いや、すでに現れているはずだ。
それが国内の有力貴族だけならまだいいが、外国の王室とでも結びついてみろ。ややこしいことになりかねない」
たしかに、前代の王朝の後裔と通婚したことを名目に他国の王がガルィアの領土割譲を要求し、
場合によっては軍事衝突さえ引き起こしかねないという筋書きは、マテューにも容易に思い描くことができた。

「避けられる紛争は避けねばならん。
 そして我々はリュゼの血脈をとりこみたい。
 ―――というわけでだ。
 おまえはかの公爵令嬢と婚約することになった。
身辺が清潔だと聞いて安心したぞ。
相手はなにしろ古式ゆかしい名門だ。潔癖さでも人後に落ちぬことだろう」
「清潔っていうか、ちょっと待ってくださいよ。
 早過ぎないですか」
「早過ぎない。俺など生後数ヶ月で婚約したんだ。
おまえはもう十八だろう。俺が結婚したのと同じ年だ」
「いや、でも、婚約かあ・・・・・・」

「安心しろ。正式に成約文書を交わす前に、あちらは面会を望んでいる。
 どんな女だか分からないままに婚礼を迎えるわけではない。俺よりはよほど恵まれていると思え。
 容姿についてはとくに話をきかんが、礼儀作法や教養の点から言えば、
たとえ貧窮の身であるとはいえ当代一流の婦人であることはまちがいあるまい」
「うー・・・・・・」

兄にしてみればそのような義妹をもつことは光栄かもしれないが、このときマテューの脳裏に浮かんだのは、
異常なまでに誇り高く格式ばった旧家の娘の姿であった。
そういう家の子女がもれなくそうであるように、背筋を傘の骨のようにぴんと伸ばして髪は保守的にきつく結い上げているのだ。
第二王子は首筋を掻きながら嘆息した。
「堅苦しそうだなあ・・・・・・」
「だからこそおまえに相応だというのだ。せいぜい生活態度を矯正してもらえ」

大体年恰好からいえばルネが婚約しても―――と口に出しかけてマテューは黙った。
すぐ下の弟王子ルネは現在十五歳であるが、謹厳実直で敬虔な人柄が宮廷でも高く評価されている。
その信仰心篤さは聖職者さえ瞠目させるものであり、将来的には僧籍に入ることを望んでいるのではないか、
という噂が一部では囁かれているが、本人はまだ言明したことはない。
ただ王室内において、当の婦人を除き誰の目にも明らかなのは、彼は長兄の妃をひそかに恋い慕っているという事実であった。
夫であるアラン自身が最初に気がついたのだが、かといってルネをきつく戒めようとするわけでもないので、
ほかの王族たちもみな「気づかないふり」に倣っているのだった。

兄にしてみれば、今回舞い込んだ公爵家との縁談こそある意味で三弟を平穏に遠ざけるのに絶好の機会であるわけだが、
それをあえてしないという選択をすでに取っているのだ、ということがマテューにもなんとなく分かった。
むろん弟と妃との密通を許すわけにはいかないが、かといって自分の一存で弟の恋慕を絶つのも忍びない、ということなのだろう。
生殺しにはちがいないが、それでもやはり、
恋焦がれる女性に祝福されながら別の女性の手をとって永遠の誓いを交わさなければならない、
という境遇へ実の弟を追い込むことにも踏み切れないのだ。

そしてアランはついに、取り立てて相手がいないらしいマテューに
―――王子たちの中で最も結婚生活に向いてなさそうだと周囲に目されている男だが―――
照準を固定し、父王に意見してそれが通ったというわけだ。

(こういうところが兄上らしいといえば兄上らしいが)
ほとんど表情らしい表情を浮かべていない彫刻のような横顔を見ながら、マテューはやれやれ、とため息をついた。
さきほどよりはやや軽やかな息だった。
(―――まあ、どうせいつかは避けられなくなることだしな)
結婚生活が退屈になってきたら随時側妾を置くか、また町に繰り出せばいいのだ。
妻が望めば愛人をもたせよう。そのほうが何かと煩わしくない。

彼の未来設計はこの国の上流階級男性としてはごく標準的なものであった。
それゆえ、結婚して二年もたつのに妾妃を置く気配のない兄の結婚生活はマテューからするとやや尋常ではない。
とくに結婚前の放蕩ぶりをわりと詳しく知っている身からするとその感はいっそう強まる。
(義姉上がそんなに厳しいのかねえ。あの国は信仰心篤いひとが多いというしな)
髪をまとめる紐を弄びながらそんなことをぼんやり考えていると、弟の心の動きを見越したか否か、アランが口を開いた。

「そういうわけだ。
 面会は十日後に予定されている。公爵家の居城だ。
都からだと馬車で三昼夜の距離だな。騎兵隊をつけてやる」
「あれ、宮中じゃないんですか」
「おまえが出向くんだ。これぐらいは相手方の体面を慮ってやらねばなるまい。
面会といってもたいしたことではない。
顔を合わせて挨拶したら、主に互いの財産目録を書記に読み上げさせて確認するだけだ。
問題がなければそれがそのまま婚約文書の草稿になる。
くれぐれも旅程中は飲むなよ」
あい、と恭しくうなずきながらも、
この兄はそもそも自分を信用するどころか絶対厳しい監視役をつけて送り出すにちがいない、とマテューはすでに確信していた。

陰気な城だな、というのが最初の印象だった。
数百年の時を経てそびえる重厚な外壁の色も暗ければ、左方をめぐるように流れる小川もひどく濁っている。
重々しい音ともに開けられた門をくぐれば、内庭自体は広々としているものの、
もはや庭師を置くことさえままならないのか、草木は地上に伸び放題である。
主翼の城壁は古城らしく優雅に蔦を這わせているというよりも、蔦に包まれ侵食されているといったほうが正しい。
正直、人間が生活しているという気配が感じられない空間ではあったが、
これはこれでそれなりに味わいがあるな、と単なる来訪者のマテューは呑気に思った。
この幽独とした城を主題に一篇書けそうな気がする。

「お嬢様はこちらでございます」
面積だけはやたら広い城内をひたすら歩き続けて、案内役の男は大きな両開きの扉の前でようやく立ち止まった。
本来なら、たとえ上流貴族でも王族の来訪とあれば城外まで出迎えに出るのが習いであるが、
今回はその義務を免除する、とアランが前もって公爵家に伝達したらしい。
長兄はたしかに気位が高すぎるほど高い男だが、そのぶん他者の矜持を保つことに対しての気配りは行き届いているといえた。

しかしそれはそれとして、王族を出迎えに出て主人のもとまで導く役といえば大任であり、
ふつうなら家臣団でもっとも見目よく風格ある青年が選ばれるはずだが、
この案内役はやや足元のおぼつかない白髪の老人であった。
加うるに、これまで通過してきた人気のない廊下や家具のない部屋、剥がれかけた内装、
ろくに使われずに埃をかぶっている燭台の様子などを見る限り、
この城には家臣団どころか必要最低限の召使さえそろっているか疑わしい、と結論付けざるをえなかった。

ゆっくりと扉が開かれた。よほど長い間修繕していないのか、これほど耳障りな音を立てる扉も珍しかった。
大貴族の応接間だけあって、さすがになかは広々としていた。
これまで見てきた空漠な部屋の数々とはちがって、由緒ありげな調度がそこここに配置されている。
重厚な煉瓦づくりの暖炉が奥に据えられ、左右の壁には絹張りのゆったりした寝椅子が据え付けられている。
これだけの面積にもかかわらず、床には厚手の絨毯がくまなく敷き詰められ、天井は大聖堂を思わせるほど高いようだ。
ようだ、というのは室内の広さに対して照明が圧倒的に乏しいからである。
これだけはほかの部屋と変わりがなかった。

城内の配置上、この一室は屋外に面していないらしく、
窓らしい窓といえば高い天井の一角に設けられた小さな採光窓だけだった。
しかしこれはあまり実用的ではなく、本来この部屋は、
四方の壁面に据えられた無数の燭台を贅沢に灯すことを想定して設計されたものなのだろう。
往時、公爵家が繁栄のさなかにあった頃には、
光の渦があふれんばかりのこの場所であまたの紳士淑女が酒香に包まれながら歓談を交わしていたことだろう。
しかしいまはその影も形もない。
この部屋で光源と呼べるものはただ、中央の卓上に揺れる小さな火と、その下で鈍く光る銀製の燭台、
そしてその奥に腰掛ける人影―――公爵令嬢のつつましい首飾りのみであった。

小柄なんだな、とマテューは思った。しかしそれ以上のことは何も見えなかった。
侍従や書記官たちを従えて中に入ると、令嬢のようすは次第に明らかになってきた。
髪は赤みがかった褐色で、瞳は灰色らしい。それ以上のことはなんとも形容しようがなかった。
あえて形容しようとすれば、「陰鬱」というほかないからだ。もはや顔立ちの美醜以前の暗さだった。
ただし、椅子から立ち上がって下衣の端を少し上げ、優雅に頭を下げる仕草、
そして王子の接吻を受けるため手を差し出す作法は宮廷侍従の目から見ても完璧といえた。

侍従たちを背後に、書記官たちを左右に侍立させて着席すると、マテューは口をひらこうとしたが、しばらく固まった。
これほど沈み込んでいる婚約者候補を前にして、一体どんなふうに快活な挨拶を交わせばよいのだろう。
「―――はじめまして。第二王子のマテューです」
令嬢はつつましく目を伏せて挨拶に応えた。

「たいそう広壮で歴史の重みを感じさせるお住まいですね。
築三百年ほどとうかがいましたが」
公爵家の由緒正しい血統に花をもたせようとしてそう言ったのだが、令嬢の表情はさして変わらなかった。
発せられた声も顔と同じくらい暗く沈んでいる。
「ご来訪いただいたというのに、設備が行き届かぬことばかりで、ご不自由をおかけしております」

「いや、そういう意味では・・・・・・
えーと、この地方に来るのは初めてなんだけど、いいところですね。
 耕地は広いし、農民たちの身なりは悪くないし、この近辺の農村は裕福で治安もよさそうだ」
「ええ、―――いまはわたくしどもの領地ではございませんが」
「そ、そうでしたね。まあでも、温暖でいいところですよね。
 初夏になれば、きっと都より薔薇の咲くのが早いでしょう」
「ええ、
―――ですが、詩人であられる殿下の霊感を掻き立てるには、我が城の荒れ果てた庭園ではあまりに不足かと」

皮肉でも卑下でもない、ただただ消え入るような声だった。
どうしたもんか、とマテューは困ってしまった。
いつものくせで髪を掻きあげたいところだが、今日はしっかり櫛を入れられ後ろで堅く縛られているのでできそうにない。
慣れない礼装のせいで肩が凝ってしょうがないが、まさか椅子に背を投げ出して肩をぶんぶん回すわけにもいかない。

(あー・・・・・・早く済ませたいな・・・・・・)
ちらっと右手の書記官のほうを見ると、準備はできております、という顔でうなずいてくれた。
本題に入るか、とマテューは気持ちを固めた。
「そろそろ、双方の財産目録の確認と契約書の点検に入りましょうか。えーと、」

マテューの口元は言いかけたまま固まった。
呼びかけるべき令嬢の名前が出てこない。
出発前にむろん兄から教えられているはずだが、リュゼの令嬢という印象だけが先にたって、ろくに記憶に残っていない。
往路の馬車のなかで、侍従たちが
「王族がたのご成婚におかれましては、お二方のイニシャルを組み合わせた意匠の家具をご寝所にしつらえる慣わしですから、
殿下の場合はMとMですな」
と話していたのは覚えている。
だからこの娘のイニシャルもMなのだ。マルグリット?マドレーヌ?マリアンヌ?
(あーもう、仕方ない)
自分自身に呆れつつ、マテューはいちばん無難な策をとった。
「えーと、リュゼ公爵令嬢、では」

その瞬間、向かい合って座る娘の目に初めて生気らしきものが宿った。
公爵令嬢という称号に対する異議ではない。
王子が自分の名前を失念していたことに―――あるいはそもそも自分に対して関心がなかったことに、
今はっきりと気がついたのだ。
ほんの一瞬、時間が硬直したかのようだった。

「―――その必要はありませんわ」
「え?」
「改めて確認させていただく必要などありません。
わたくしがもちあわせているものはここに記載されているもので全部です。
そのままお納めください」
令嬢の語気はいつのまにか別人のように強くなっている。

「いえ、ちょっと待っ」
「どうかお持ちになってください。
 わたくしにはもう保持したいものなどありません。
 すべてお持ちになってください。
どうか、―――何もかもお持ちください!
 リュゼの姓も公爵位も紋章も遺産もこの城も、将来あなたとわたくしのあいだに生まれる男児も、
何もかもお手元にお引取りになればよろしいのです!
 でもそのかわり、その後はどうかわたくしを放って置いてくださいませ・・・・・・!!」

見開かれた灰色の瞳には、最後に残った気力を糧に小さな炎が宿っていた。
けれど奔流のように始まった叫びとはうらはらに、その語尾はゆっくりと地中に呑み込まれていくかのようだった。
嗚咽をこらえているのだ、とマテューにも分かった。

(ああ、こんなにも、―――――心細かったのか)
そして、父公爵が亡くなって以来、彼女という個人がどういう人間であるかということに関心を示す人間も、
向かい合って慰めようとする人間も、
彼女の周囲にただひとりとして現れなかったのだ、ということにようやく気がついた。
群がってきたのはただ、資産を狙う親族を除けば、その光輝ある姓を渇望し彼女の足元を見て求婚する他家の貴人ばかりであり、
第二王子との対面がその仕上げとなったのだ。

細い肩を小刻みに震わせながら、公爵令嬢はしばらく唇をかみしめていたが、
やがて両手で顔を覆い、堰を切ったように泣き出した。
王子に向かって絶叫するなどというこのうえない非礼を犯してしまった以上、
もはやどれほど取り乱しても同じだと思っているのだろう。
マテューは黙って書記官と侍従たちに目配せした。
あまりの事態に硬直し立ち尽くしていた彼らは、ようやくのことで顔を見合わせると、無言で退室していった。

マテューは立ち上がり、机の向かい側に歩いていった。
公爵令嬢の椅子に近づくと、かすかだが花の香りがした。
宮廷の貴婦人たちが年中つけているような極上の薔薇の香水ではない。
野の花の香りだな、と王子は思った。
そして彼女の足元に跪いた。

「・・・・・・お立ちください、殿下」
嗚咽を止めることはできないながらも、公爵令嬢は手で顔を覆ったまま、マテューに小さな声で呼びかけた。
彼はそのままでいた。
「あなたのお名前を失念してしまいました。まことに申し訳ありません。
 ですが、再度ご芳名をうかがう栄に浴することは叶いましょうか」
公爵令嬢は少しだけ手を下ろし、真っ赤な瞳で彼を見下ろした。
(なんだ、生気をとりもどせば、大きくてきれいな目をしてるじゃないか)
思わず微笑みかけそうになったが、なんとかまじめな顔をたもつことに成功した。
ふだんやり慣れていないのでこれも一苦労である。

「―――ミュリエルと申します」
小さな手が首の辺りまで下がった。
唇はわずかに動いただけだが、それでもさきほどよりは血の気が通っているように見えた。
小さいが実に上品な形をした唇だった。
「美しい名だ」
「―――どなたにでもそうおっしゃってるんでしょう」
「ご明察です」
公爵令嬢の口元がほんの少しゆるんだ。
マテューも初めて表情を崩し、彼女に自然に微笑みかけた。
ここで怒鳴りつけられたらどうしようかと思っていたところだ。

「では、ミュリエルとお呼びしていいですか。僕のことはマテューと」
「いえ殿下、そんな非礼なまねは」
「いいんです、僕と婚約する気があろうとなかろうと、そう呼んでください。
 僕っていうのもなんかわざとらしいな、我ながら」
王子の口調が急に砕けてきたことに、ミュリエルは戸惑いを隠せないようだった。
本当に育ちがいいんだな、とマテューは自分のことも棚に上げて
―――彼の場合、棚に上げる根拠もないではないが―――思った。

「もうひとつ、謝らないといけないことがある。
契約云々を言い出す前に、あなたともっと話をするべきだった。
いや、そもそもここへ来る前にあなたに手紙を書くべきだった。
あなたのことを知る努力をするべきだった。
それを怠っていたのが申し訳ない」
「―――いいえ、そんな」
ミュリエルの声はあいかわらず小さかったが、徐々に生きた人間らしい温度を取り戻してきていた。
「わたくしのほうとて、殿下のために何もしてさしあげることができませんでした。
 ―――何より先ほどは、せっかく話しかけていただいたのにあんな、あんなつまらない応答をしてしまって。
 どうかお許しください」

「君の世界にはもう、執着すべきほどのものはない?」
問いかけともつぶやきともつかない唐突なことばに、ミュリエルは驚いたように目を上げて王子を見た。
その褐色の瞳はあいかわらず柔らかい光を帯びていたが、少しだけ、こちらを深くのぞきこんだかのようだった。

「すべての美しいものは去ってしまった?」
「―――分かりません。
 いいえ、去ってしまうという前に、きっと最初から何もなかったのですわ。
 この世は美しいもので満たされていると教えられ、
 それを幼いころから信じ込んでいたのがいけなかったのでしょう。
 十三で父を亡くすまで、貧しいのは今と同じだったけれど、
 それでもやはり守られていて、何も見ずに済ませて来られたのだと今では思います」

「人の悪意を?」
「悪意というか、欲望でしょうか」
「君には欲望の持ち合わせはないの?」
ミュリエルはわずかに灰色の瞳を見開いた。
澄んだ色だ、とマテューはいまさらながら感心した。
「あると、思います。
こんなことを申し上げるのはお恥ずかしいのですが、―――新しい綺麗な服を着たいし、
そのドレスを着て舞踏会に行き、たくさんの人からほめられたりすることを、よく夢に見ます。
でも、そのために人を傷つけたり、自分の尊厳を損なうことはしたくありません」
「そうだね。君はそんなことはしないと思う」

「―――あなたは?」
今度はマテューが瞬きする番だった。
「あなたは、欲望がありますか?」
やれやれ、と王子は思った。
一体この娘はどれだけ箱入りなのだ。

「生々しいのがたくさん」
「どのように生々しいのですか?」
嫁入り前の娘にそのへんの詳細を語るのは法に触れるような気がして、マテューは少し黙った。
「まあ、いろいろあるんだ、男には。
 話し始めると日が暮れてしまう」

「わたくしはかまいません。どうか、お話ください。
 ―――あなたのことを、知りたいのです」
最後のほうは消え入りそうな声だったが、表情はむしろ生気を増し、頬はかすかに火照って血色がよくなってきた。
(弱ったな)
可愛いじゃないか、と心中でつぶやきながら、マテューは頭を掻きそうになった。

「あなたの欲望とは、どんなものなのですか?」
ようやく嗚咽の収まった声が、本来の清澄さをとりもどして可憐に響いた。
「少なくとも、君を傷つけようとは思わない」
「ええ、それは分かります」
「大事な部分を挙げると、そうだな、美しいものを見たいという欲望だ。
 君にもそれはあるだろう」
「ええ」
「そしてそれを表現したいという欲望」
「―――ええ」

「そのためならほかのことをすべてあきらめてもいい。
 人間って本来そういうものじゃないか?」
ミュリエルは唇を開きかけたがふたたび目を伏せて、結局何もいわなかった。
「どうした?」
「―――でも、それでは満たされませんわ」
「何が?」
「屋敷も、衣装箪笥も、―――お腹も」
公爵令嬢の声はふたたび消え入るように小さくなった。
一瞬後、広大な部屋に王子の弾けるような明るい笑い声が響いた。
さきほどの怒りがミュリエルの胸に突如としてよみがえってきた。

「殿下にはお分かりにならないのです!
着古した礼服の修繕に苦労なさったこともなければ、ひもじい思いなどなさったこともないのでしょう!
 わたくしのような生活を送ってみれば、世に名高い殿下の詩才も何の足しにもならないことがすぐにお分かりになりますわ!
 華やかな調度に囲まれ美しい庭園を維持できるだけの財力があってこそ、詩情というものが初めて生まれるのではありませんか。
詩才というものを涵養できるのではありませんか。
 そう、そのとおりだわ。殿下も貧窮の何たるかを一日くらいお試しあればよろしいのです。
国庫を食いつぶさないうちに。こののらくら次男坊!
そのほうが民生の向上にも役立ちますわ!」

「いや、悪かった、悪かった」
笑顔で詫びながら、マテューは立ち上がった。
ミュリエルの細い肩に手を置くと、憤りに染まっているはずの華奢な身体が初々しくすくむ。
同じ怒号を浴びせられたとはいえ、彼はもはやさきほどのような重苦しさを感じてはいなかった。
この腕の中の小柄な娘、紅唇を噛みしめこぶしを振り上げんばかりの公爵令嬢のことが身近な人間に思えてきた。
隔てのない感情をぶつけられたことが何とはなしにうれしかった。

「そうだな、たしかにそうだ。衣食足りてこそ人は学芸に打ち込むことができるんだ。
独善的なことを言ってすまなかった」
「その通りですわ」
本気でとげとげしい声だ。顔も思い切りそらしたままである。
マテューはなぜか、この怒りっぽい娘のことが着実に気になってきた。
ふだん他者に恋着しない彼にして珍しく、たしかに俺たちは分かりあう必要があるな、とそんな気分になった。

「君は詩を書かないの?」
「か、―――書きませんわ。そんな浮ついた慰みごとで糊口はしのげませんもの」
「言うねえ」
「それにこの城にいる限りは、何も謳いあげるものなどありません」
「そう?」
「そうですわ。庭園も城内もごらんになったでしょう」

マテューはふと公爵令嬢の肩から手を下ろした。
広すぎる空間にふたたび沈黙が下りる。
やがて彼は椅子から離れ、部屋の一隅に向かってゆっくりと歩き出した。
「君はさきほども、この城の庭園は霊感をかき立てない、と言っていたけど」
歩きながら静かに話し続ける。
「霊感をかき立てるもの、詩を書きたいと思わせるもの―――美しいものは、
何も綺麗に手入れが行き届いた薔薇園ばかりじゃないはずだ。たとえば」

マテューは立ち止まった。彼の足元には陽だまりがあった。いまは正午近くなのだろう。
真上に空けられた小さな採光窓によって、部屋のその一角だけが照らし出されている。
「この光の筋が見える?」
「ええ」
「俺は昔からこれがすごく好きだった。
これを見るためだけに、小さいころは何度も暗い書庫や物置部屋に忍び込んだりした。
 そして、この中に舞う光の粒が、世界で一番美しいものだと思っていた」

「―――でも、それは」
「そうだ、埃だ。それを教えられたときは悲しかった。
埃であることが悲しかったんじゃなくて、埃は美しくないものだ、と教えられたのが悲しかった。
 だから詩を書くようになったのかな。うん、たぶんそうだ」
ほとんどひとりごとのように、マテューは光の筋を眺めながらつぶやいた。

「自分が美しいと思っているもののことをみんなに知ってもらいたくて、みんなと共有したくて、なんとなく書き始めたんだな。
 世の中の詩人の多くがきっとそうであるように。
それから過去の詩聖と呼ばれる人々の作品を大量に読み漁った。
誰か俺と同じことを感じている人間がいないかと思ったんだ。
でもいなかった。まあ古典詩っていうのはどうしても題材が限られてくるからな。
そんなわけでしょうがないから、自分ひとりで光の筋と埃についての詩を何首も書いた。

そのうち世の中にはほかにも美しいものがいろいろあることに気がついて、
いろいろ書いてるうちにそのうちいくつかは宮廷の吟遊詩人たちにもほめられるようになった。
どうもそのころから俺は有名になったみたいだけど、宮廷で流行る詩歌っていうのはなんだか合わないんだな。
古典詩とさほど変わらない。
『美しいもの』『そうでないもの』の分類がすでに確立されていて、
まるで目に付くものにかたっぱしから詩情を感じていてはいかんといわれてるみたいだ。
それでなんとなく城下町に足を運んで、飲んだり歌ったり書いたりしていたら、
平民の感性はけっこうなんでも受け入れてくれるもんだから、
下町通いがやめられなくなってきた」

「お噂は本当だったのですね」
ミュリエルは目を丸くしていった。
「うん、どんな噂か知らないけど、まあそうなんだ」
「―――でも、美しいものはさまざまだといっても、この城に、わたくしが持参できるもののなかに、どれほどありましょうか」
また声が弱々しくなった。

「俺が言いたかったのはつまり、美しいものは最初からあるんじゃない。
見出すんだ」
相変わらず光の筋をぼんやりと眺めながら、マテューはつぶやくように答えた。
「あと、俺は君のことを美しいと思っている」
沈黙が降りた。
なんとなく振り向くと、公爵令嬢は耳まで赤くなっていた。
「わ、わたくしのような者でも、―――詩人の霊感の助けとなりえましょうか」
「もちろん。
笑ってくれるともっといい」

ミュリエルはとうとう首まで赤くなった。
そして小さくつぶやいた。
「そのように、こころがけます」
(まいったな)
マテューはまた髪を掻きたくなった。
(本当に可愛いじゃないか)


(続)

 

 

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最終更新:2008年12月27日 05:56