空が青く澄み渡った日は、乗馬の日と決めていた。
この日も、エルドは、愛馬レディ・シャルロッテにまたがり、
王領内の乗馬コースをさっそうと駆けていた。
父王からは外出するときは必ず従者を付けろと口うるさく言われているのだが、
エルドは誰かに付き回されるのを好まなかった。
この前、襲われたときのことを考えれば、確かに一人で出歩くのが危険なのはわかっている。
それでも馬に乗っているときだけは、思うがまま、無敵だった。

だいたい最近では、家臣を手放しでは信用できなくなっていた。
鋭い監視の目は、父王が用意したお目付け役なのか、
それとも、何かと文句の多い宰相にしっぽを振る犬なのか。
確信こそなかったが、あの色情魔―――図書室に忍びこんできた大男―――も、
ごく近しい者による刺客に違いないという予感があった。
あの男自身は、窃盗の前科を持った、単なるならず者であることが判明していたが、
「裏で誰かが手を回している可能性がある」と警備隊隊長は報告を寄こしてきたのだ。
そうでなかったら、あんなにもちゃちな犯罪を繰り返してばかりいた男が、
大胆にも王城に忍び込もうとするはずがない、と。

『しかし愚かな男でしたね。色欲に惑わされるなんて』
警備隊隊長は、その屈強な身体に似合わない、涼やかな声で言った。
『あの男はもとから姦淫に耽り、
 売春宿などでも、たびたび問題を起こしていたそうです。
 でも、まあ、そのときの相手は女性だったんですけどね』

捕らえられたとき、下半身を露出させ、見苦しいものをむき出しにしていた男のせいで、
仕方なく、エルドは、彼が自分に対して性的興奮を示したと説明するほかなかったのだ。
それだけでも遣りきれないのに、腹立たしいことには、事件を取り扱った者たちは、
その説明で簡単に納得してしまったのだ。
傍にいた副隊長に、「まあエルド様ならね」と含み笑いをされたときは、
いっそ真相を明かしてやりたい衝動をやっとの思いで抑えたこんだ。
最近では、身長も伸び、筋肉もだいぶ付いて、がっしりしてきたと思っていたのに。
それでも母親似のこの容姿は、ある種の男性たちにはとても魅惑的なのだという。

エルドが副隊長たちとの会話を思い返していると、
レディ・シャルロッテがすすりないて、急に歩を緩めた。
エルドはハッとして手綱を引いたが、野うさぎが横切っただけだった。

いつのまにか、乗馬コースをはずれて、ずいぶん遠くの方まで来てしまった。
迷わない内に、戻ろうとは考えたのだが、
以前に来たことがある道のような気がして、歩は止められなかった。
春から初夏にかけて、いちばん木々が青々しく美しい時期である。
道は森の奥まで続いていた。

やっぱり、そうだ、昔この道を辿ったことがある。
あのときは幼くて、まだ馬に乗ることもできなかった。
この季節にしか咲かないウィグノリアの花を探していたのだ。

ウィグノリアは、この地方にだけ生息する可憐な野生の花で、希少価値が非常に高いものだった。
その花が見つかるかどうかは、ウィグノリアの妖精のご機嫌しだいだと伝えられている。
伝説によると、ウィグノリアの花の精は、長い髪の妖女で、いつもこちらに、背を向けている。
振り返らせるためには、彼女の真の名を言い当てなくてはならない。
真の名を呼べば、彼女は振り返り、
自身の分身であるウィグノリアが密かに咲き乱れる場所へと導いてくれるというのだ。

エルドは幼くとも、その伝説を信じることはなかったのだが、
ウィグノリアが見つかりにくい花であることは痛感した。
あのときは、確かどこまで森の奥を踏み入っても見つからず、足が痛くなって諦めたのだった。

いつの間にか、太陽が隠れ、森に陰りが訪れていた。
そろそろ戻ろうと考えたとき、視界に何かが留まり、エルドは目を凝らした。
―――誰かいる。

大きな石の上に腰を据え、長い髪を垂らし、白い麻を纏った背中が見えた。
木々が落とす陰をたたえた褐色の髪と白い裾は、気まぐれなそよ風に揺れている。
エルドは一瞬、彼らしくないことを考えていた。
ウィグノリアの精が舞い降りたのだ、と。
エルドは瞬きを繰り返したが、妖精は消えることはなかった。
しかし、そのとき雲間から再び太陽が覗き、枝の隙間から漏れこむ陽の光が、
髪の上を滑り落ち、白金に輝かせた。
彼女を見つめていたエルドは、思わず叫んでいた。

「―――セシリア!」

彼女はゆっくりと振り向くと、驚いたように彼を見上げた。
石の上に座っていたのは、
白いドレスを身につけた公爵令嬢セシリア=フィールドだったのだ。

内心では仰天していたが、エルドはできるだけ平静に振舞おうと決め、鞍から降りた。
そばへ近づくとセシリアは不思議そうに首をかしげていた。

「ごきげんよう、エルド。
 どうして、ここにいらっしゃるの?」
「レディ・シャルロッテに乗っていたら、ここまで来てしまったんだ。
 ―――最初は、乗馬コースにいたんだが」
「まあ、こんなところまで。ここは我が家の領地よ」
「そうだったのか。ここらへんに来たことがあったような気がしたんだが」
「あら、来たことあるかもしれなくてよ。
 ここは、私とその友達たちが、よく遊んでいた場所ですもの」
そう言いながら手にしていた刺繍の道具を片付け、セシリアは勢いよく立ち上がった。
「こちらに、いらして」
セシリアは、白く長い裾をたなびかせ、さらに森の奥へ進んでいった。
エルドは、レディ・シャルロッテを木につなぎ、不服そうな愛馬をなだめてから、彼女の後を追った。

ユキヤナギの茂みを分け入ると、球状の空間が広がっていた。
頭上では、木々が伸びやかに天を仰ぎながら手をつなぎ、垂れ下がる緑葉のカーテンが外界を遮断している。
そこは天然のあずま屋だった。
柔らかな濃い緑のコケの絨毯に座ると、セシリアは満足そうに言った。

「ここが、昔、私の秘密基地だったのよ。
 毎日のように、いろんな子たちを連れて、遊んでいたわ。
 何か覚えていない?」
エルドは、深く考えずに、首を振った。
小さい頃から、セシリアたちと遊んだことはほとんどないはずだ。
どうしてなのか、彼女とは、寄ると触ると、口喧嘩ばかりしていた。
その関係は、現在でも変わっていない。―――二週間前のあの日までは。

エルドは、緊張しながらセシリアの隣に座った。
実は、彼女にどうしても尋ねたいことがあったのだ。
―――しかし、どう切り出したら、いいものか。
しばらく逡巡していたエルドだったが、
セシリアに婉曲の美徳は通じないだろうと判断し、結局はストレートに聞くことにした。

「―――リア。お前、……あれから月経はあったのか?」
「え、どうして?」
セシリアが戸惑った顔をしても、エルドはひるまなかった。
「つまり、妊娠していないかを確認しているんだ
 妊娠したら、月経は来なくなるから」

「まあ、そうだったの」
セシリアの間の抜けた声に、さすがにエルドは苛々してきた。
「どうして、そういう基本的なことを知らないんだ?
 確かマリアンヌと一緒に、婦人医学の授業を受けていたんだろう」
「だって―――マリアンヌがつまらないから、と言ってさぼってばかりいたのだもの。
 彼女のせいにするわけではないけど」
「それがお前の中途半端な知識の原因といわけか」
知らずに、知らずにため息が出た。
しかし、エルドに劣らず、セシリアも憂鬱そうだった。
「もし、妊娠して―――未婚の母になっていたら、私の婚約も解消になるかしら……」

「軽々しく、そんなこと言うな」
つい声が険しくなると、セシリアはしゅんとなり、うつむいた。
「ごめんなさい」
素直に謝られると、調子が狂う。
実際のところ、あれはエルドの方にこそ非があったのだ。
避けることはできたはずなのに、あの煮えたぎるような欲望をどうしても抑えることができずに、
セシリアの中に精を放ったのは自分なのだ。

「とにかく、リア。お前は正しい知識を積んでくれ。
 無知は己の身を滅ぼすぞ」

そう、自分の母親のように―――。
彼女は、何も知らずに、何も知ろうとしなかった。
最期まで泣き濡れた顔しか覚えていない。
エルドは、私生児であり、三歳になるまで、母親の生家で暮らしていたが、
彼女が病気で亡くなった年、父に王の子だと認知され、後宮で暮らすこととなった。
生母がリヴァー王国経済復興の立役者として名高いイースキン=ラルフの娘だったこともあり、
エルドはすぐに第三王子の地位を得ることができたのだが、
口さがない者たちが、「誰の子だかもわからないのに」と噂し合っていることは知っていた。

ぼんやりと過去を思い出すエルドになど気づきもせず、
セシリアは、さっきと打って変わり、急に明るい声を出した。
「そうね、一つ学んだわ。妊娠中は、月の花嫁になれないのね」
「月の花嫁?」
また奇妙なことを言い出すな、とエルドが思っていると、セシリアが物知り顔で答えた。
「お母様の国では、月経のことをそう呼ぶんですって」
「へえ、俺も一つ学んだよ。
 これから役に立つことはないだろうがな」
エルドは、気の抜けた声で言った。

セシリアは身を乗り出して、エルドに微笑みかけた。
「さっきの質問だけど。安心してちょうだい。私、今、ちょうど月の花嫁なの。」
セシリアの肩から、ゆるやかに流れた金髪は木漏れ日を受けてきらきらと輝いた。
何かがひらめき、エルドは記憶の糸を引き当てた。

「リア、今、思い出した。
 俺はこの場所に来たことがあるよ」
「あら、やっぱり、そうでしょう」
そうだ、ウィグノリアの花を探しに来ていたエルドは、迷いこみ、セシリアたちと出会ったのだ。
久しぶりに会った同年代の友人が嬉しかったのを覚えている。
「確か、リアとブリューム姉妹がいたな」
「ふふ、何して遊んだのかしらね」
エルドはよく覚えていた。
彼は、秘密基地へ招き入れられ、和やかに茶会の真似事が開かれたのだ。
主人役のセシリアは、ふちの欠けた陶器のティーカップへ、架空の紅茶を注ぎ、身を乗り出して、
客であるエルドに「どうぞ」と差し出した。
あのときも、セシリアの肩で、けぶるような金髪が揺らめいていた。
エルドは思わず、その髪に触れたのだ。「綺麗だね」と呟きながら。
褒められて、にっこり笑おうとしたセシリアの顔はすぐに引きつった。
エルドが、金の毛を一本、むりやり引き抜いたせいで。
途端に、セシリアは憎々しげにエルドをにらみつけた。
あのとき、自分とセシリアの関係が決まったのかもしれない。

目の前にある、セシリアの髪を一房つかむと、セシリアはハッとした表情を作った。
「私も、思い出したわ。エルドは私の髪を引っ張ったでしょう」
「そうだったっけ?」
わざと、とぼけると、セシリアはより一層、身を乗り出した。
「忘れてしまったの? とても痛い思いをしたのに!」
自分の顔を覗き込む十六歳のセシリアは、あのときのまま無垢で無邪気だった。
それは裏を返せば、無知で無力ということなのだが。
エルドはセシリアの頭を引き寄せると、思わずその口元にキスを落とした。
それは、ほとんど本能といってもよかった。
セシリアはぴくりと小さく身を震わせたが、すぐに目を閉じ、素直にエルドを受け入れた。

『―――愚かな男でしたね。色欲に惑わされるなんて』
隊長の声が木霊する。
あの色情魔と自分にどれだけの差があるというのだろう。
止めろ、という警告が頭の片隅で鳴り響いていた。
それなのに、セシリアの唇は柔らかく濡れていて、まるで麻薬のようなのだ。
息が続かなくなり、ようやく唇が離すと、茶色い瞳が見返して来た。

「……どうして、抵抗しないんだ」
自分のことは棚に上げ、エルドは苦々しげに問うと、セシリアは口に手を当てて笑った。
「だって気持ちよかったんですもの。
 口付けは好きよ。
 性行為よりも、ずっと素敵だと思うわ」
あまりにも屈託のないセシリアに、エルドは眩暈がする思いだったが、彼女はそこで顔を伏せた。
「でも、あなた、またごまかしたでしょう」
セシリアの声は鋭く低くなった。
「え?」
「いつもいつも、都合が悪くなると、ごまかすのだから。
 騙されてばかりでは遣りきれないわ」
「リア?」
セシリアは突然、エルドの膝の間に押し入り、そのままエルドの胸に顔を埋めた。
「―――どういうつもりだ。リア?」
訳がわからず、彼女の肩に手を置いた。

「とても痛かったのに、
 きっと、あなたは何もかもすぐに忘れてしまうのよ
 だから今、どうしても、あなたに仕返ししなくてはならないわ」
「は? 執念深い奴だな。
 何年前の話をしているんだよ―――リア!」
エルドに抱きかかえられながら、彼女の手はエルドの股間に手を伸ばし、触れていた。
「二週間前の話をしているのよ」
彼女がひどく真面目な顔でそう言った。

エルドはたじろいだ。脳裏に、あの石鹸の香りと身体の熱がよみがえってくる。

「―――だが、あれはお前が、自分から言い出したことだろう。
 後悔したとしても、自業自得だ」
努めて、平静を装い、冷酷無比な言葉を紡ぎ出そうとするが、
長年エルドと丁々発止の議論を積み重ねてきたセシリアは物ともしなかった。
「あら、後悔なんかしていないわ。ただ、どうしてもあなたを辱めたいだけよ」
「………」
何を持ってセシリアが自分を辱めるつもりでいるのか、いまいち理解できなかったが、
いやに冷めた気分になったエルドはセシリアの行為を見守った。

「あら、駄目ね。少しも反応しないわ」
何度も執拗にエルドの股間を弄っていたセシリアだったが、がっかりしたようにため息をつく。
「―――リア」
エルドもため息をついた。
「忠告したはずだ、基本的に俺はお前が策略を張り巡らしていると、気力が失せるんだよ」
それは厳密には嘘だった。
先ほどのキスの余韻もあってか、セシリアが気づかないだけで、エルドの下腹部は固くなりつつあった。
「まあ、じゃあ、どうしたらいいのかしら、教えてくださらない?」
「だから、なんで俺がこんなことしなくてはならないんだ」
エルドはようやくこの退っ引きならぬ状況を察知し、セシリアを引き剥がそうとするが、
彼女は強固にしがみついた。
「だって―――」
数秒間、沈黙したのちに、セシリアはお得意の屁理屈を披露した。
「だって結局、私は処女ではなくなったのかもしれないけれど、
 十分な性知識があるとは言えないわ。
 だから、もっと正しい知識を積む必要があると思うの。
 あなたが言ったのよ、無知は己の身を滅ぼすって」

「……なるほどな」
相も変わらずセシリアの論理には凄まじい破壊力がある、とエルドは思った。
しかし、もうすでに手遅れだ。セシリアの手の下で、自分のものは熱を持ち始めていた。
さすがに悔しくなってくる。いつもいつもセシリアのめちゃくちゃな術中に嵌ってしまうのだから。
「わかった。教えてやるよ」
エルドは開き直り、自身の腰紐を解き始めた。

「エルド……、あの、別に脱がなくても、よろしくてよ」
セシリアが遠慮がちだが、明らかな抗議の声を上げた。
「脱がないで、どうしろというんだよ」
苛々しながら、エルドはセシリアの右手を掴み、自分の股間にあてがい握らせた。
「あ……」
「いいか、目をそらさずに、よく見ておけ」
自分が変態のような言動をしていることに気づき、エルドは何だか情けなくなってきたが、
セシリアの手を、自分のそれで包みこんだ。
それから、彼女の手を使い、裏側の付け根から先端をゆっくりと滑らせた。
自然に熱い息がもれ、高揚していく。
セシリアが握っているという事実にエルドは信じられないくらい興奮を募らせていた。
「―――苦しいの?」
顔を切なげに、ゆがめたエルドに、セシリアは恐る恐るといった感じで尋ねる。
「……ああ、そうだよ」
「エルドは、嘘つきね。本当は気持ちいいんでしょう」
セシリアが不服そうに、口を尖らせたが、手を離さそうとはしなかった。
次第に己の欲望を高めることのみに、
身体中が支配されていき、エルドは機械的にセシリアの手を動かし続けた。

やがて、セシリアが握っている先端から透明な液体が出て来ると、
そろそろ達してしまいそうだと感じた。
「……リア、横に行け」
なおもセシリアの手を動かし続けながら、彼女を正面から右端へと移動させる。
セシリアは不思議そうな顔をしながらも、逆らわなかった。
それから腹部が熱くなり、あっという間に、絶頂は訪れた。
「まあ」
セシリアが、呆然としたように、緑の地にほとばしる白い液体を見つめていた。

「―――今のが射精だよ。ここから精液が出たんだ」
しばし恍惚に酔いしれたあと、エルドは解説を入れた。
何故、自分が講義をしなくてはならないのか、わからなかったが、もうセシリアに文句は言われたくない。
彼女は目を見開き、大人しく聞いていた。

自分のものをしまうと、とてつもなく恥ずかしさと憤りがこみあげてきた。
「全く、何が仕返しだったんだよ」
ついつい憎まれ口を叩くと、セシリアが「おかしいわね」と首をひねった。
「あの部位が、あなたの弱点だと思ったんですもの。
 でも……違ったようね。
 またエルドに快感を与えてしまうなんて、自分が馬鹿みたいだわ」
まあ、確かに弱点かもしれないな、とエルドは脱力しながら考える。
「―――しかし、俺は十分辱められたよ」
エルドの言葉に、「あら、本当に?」とすこぶる満足そうな笑顔が返ってきた。
そんなセシリアにむかむかしながらも、密かに安堵している自分がいた。
結局、どんな事態が巻き起ころうとも、
自分とセシリアの関係は、変わらなくてもいいのかもしれない。

「……リアの馬鹿」
密かにもらしたエルドの呟きを、セシリアは耳さとく聞きつけた。
「何よ、リアって呼ばないでちょうだい。
 だいたいね、エルドが髪を引っ張ったときも、本当に痛かったのよ」
「また、その話か」
「それなのに、エルドったら悪びれず『母上のためだ』って主張するものだから―――」

「―――母上のため?」
「そうよ。『母上の墓前に置きたいのだから、仕方ないだろう』って。
 そうしたら、キャロルもルイーゼもあなたをかばって、私の立つ瀬がなかったわ。
 全くあなたって、昔から偉そうだったんだから」

エルドは、覚えていない事実に戸惑いを隠せなかった。
「母上の墓前に……何で髪の毛を?」
「さあ? お花の代わりだって、言っていたような気がするけれど―――」

そのとき、エルドは再び亡き母の記憶を拾い上げた。
ウィグノリアの花を愛していた母。
色とりどりの絹糸に囲まれ、刺繍を好んだ母。
彼女の人生は辛く悲しく、最期はあまりにも呆気なかったかもしれない
しかし、好きなものに囲まれていたときの彼女は本当に幸せそうだった。
だからエルドは彼女の墓前に好きなものを捧げたかったのだ。

「……そうだったのか」
記憶はまるで重ね箱だ。
開いても、開いても、想像もしていなかった色合いの小さな箱が飛び出てくる。
どうして、いつの間に、母を悲劇のヒロインに仕立て上げていたのだろう。
あの頃のエルドにとって、母はまだ記憶の中のおぼろげな肖像ではなく、ただ愛しい母だった。

黙り込んでしまった彼を尻目に、セシリアは急に神妙な面持ちになり、言葉を続けた。
「私はあなたのお母様にお会いしたことはないけれど、
 ユーリ陛下によると、あなたに生き写しで、とても美しい方らしいわね」
「父上が?」
「マリアンヌと一緒に、よくそういうお話を伺うわ。
 小さい頃のあなたは本当にかわいかった―――とかね
 ほとんど息子の自慢話ばかりよ。
 全くあなたって本当に愛されていたのね」
セシリアは懸命に言葉を紡いだあとで、大げさに顔をしかめてみせた。

彼女はエルドの亡き母の名が、セシリア=アン=ラルフだということを知っているのだろうか?
薄幸で短い生涯を終えた女性と、彼女の名前が同じだという事実を。

それでも、セシリアはそんなこと気にも留めないような気がした。
それに彼女が、母のような道を辿ることはないだろう。
彼女は知ることを恐れないし、自分の運命にただ翻弄されるばかりの無力な少女ではないのだから。

 

森の奥には初夏の花々が満ち、そこにいつまでも変わらず在る緑の苑は、
ときに涼しげな陰をつくり、ときに記憶の葉を落とし、悩める者たちにしばしの憩いをもたらすのだった。

 

 

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最終更新:2009年05月15日 15:46