薄明かりの中に、淡く浮かび上がる寝顔を見詰めていた。
僕の隣で規則正しい寝息を立てる可愛い女の子、メイリン。

──このまま、朝が来なければいいのに。

何度そう思ったか分からない。
このまま、何もかもを眠らせた、静かな時がいつまでも続けばいいのに。
メイリンが僕の隣にいて、僕だけがメイリンの隣にいて。
囲われた狭い世界の中で、二人だけで生きられたらいいのに。
メイリンの艶のある黒髪をそっと撫でる。絹糸よりも滑らかな髪が、うねるように緩く
編まれていて、その流れにそっと指を沿わせるように撫でる。彼女を起こしたりしないように。

メイリンが、好きだ。
一度自覚してしまえば、その感情はひどく僕の内側を焦がした。
僕らの『クニ』を滅ぼした国の偉い人の娘で、すっごいお姫様で、僕とは生まれも育ちも
まるっきり違う女の子。

でも、優しくしてくれた。
僕の失った故郷の話を、興味深げに聞いてくれた。とても楽しそうに、目をきらきらさせて。
僕の一族のことも、僕の家族のことさえ、気遣っていてくれた。
そして、たくさんのことを教えてくれた。この巨大な国のこと、その周りの国のこと、学問の
こと、交易のこと、武芸のこと、そして、花のこと。
あのひとときを、楽しい──と思ってしまうのは、罪なことだろうか?
僕が話して、メイリンが話して、メイリンが笑って。
いつまでも、いつまでも、そうしていたいと願ってしまう──それは、罪だろうか。故郷の神々と、
同郷の人々に対する。
それでも、知らぬ間に夜は更けて。
その闇の先に、必ず、新しい朝は来てしまうのだった。


     *     *     *

「──メイリンの、護衛?」
「そうだ、おまえもそろそろ、もう少し役立つ仕事をしろ。護衛は二人一組で付くからな。一人が
役立たずでも、何とかなる。」
僕がその話を聞いたのは、夕刻の稽古の時だった。冬も大分深まっていて、日が暮れると、身体を
激しく動かしていてもかなり寒い。それでもユイウ様は帰ってきてからの稽古を欠かしたりはしなかった。
庭に明かりを点して、身を切るような寒さの中、剣を合わせる。どんなに寒くても、相手の動きに
全神経を使い、鋭く飛んでくる一撃を交わしてなんとか防いでいるだけで、終わる頃には全身から
汗が噴き出している。特にユイウ様の剣は鋭くて重くて、守りから攻めに入る動きが滑らかで隙が
なく、一瞬たりとも気の抜けない相手だった。
全身の関節が笑い、喉がひりひりするほどに息を乱している僕とは違って、歩けるようになると同時に
体術を仕込まれ、物心が付くと同時に剣を取ったというユイウ様は、少し汗をかくだけでほとんど
息を乱さない。
刑部でも師範格と対等にやりあう位の腕だと言う話も──勿論メイリンから聞いたのだが──頷ける。
そして最後には次の日の日中にやっておくべき『宿題』、つまり基礎鍛錬が課されて終わる。
メイリンの護衛を務めるという任務も、その『宿題』の一つとして課された。
この邸の護衛を務める人達にも、たまに鍛錬をみて貰ったりしてそれなりに馴染んでいる。そのうち
一人と組んで、明後日の帰りから輪番でメイリンの護衛を務めるという話だ。
「まあ、なにかあっても身を盾にするくらいしか出来ないだろうけどな。むしろメイリンのために、
その身を犠牲にして死ね。」
言うこともやることもキツくて容赦のない人だけれど、ユイウ様には──もう一人の兄、スゥフォン様
にも、僕の能力も、努力も、可能性も、冷徹に観察されているのを感じる。そのユイウ様が、二人の護衛の
うちの補佐役とはいえ、大切な妹であるメイリンの護衛を任せてくれるのは、なんだか認められたみたいで
誇らしかった。

だからその日は単純に喜んで、期待と不安の入り混じった気持ちで胸を膨らませていた。新たな任務が、
僕とメイリンの関係を決定的に壊してしまうなんて、思いもせずに。

     *     *     *

この邸において、『信用される』ということは、意外と重い意味を持っていた。長くここで暮らすほど、
ひしひしとそれを感じる。
この邸の主は皇族であり、奥方自身も政府の高官であるため、入ってくる使用人の身元は非常に厳しく
審査される。逆恨みしたり、何かに利用しようとして強引な手段に出る輩が少なくないらしいのだ。
僕の『クニ』はシン国と戦を交えた小国であり、その点では『信用できない』に限りなく近いわけだが、
その上でメイリンの護衛を任されるというのは、僕がこの邸に入ってからの努力の積み重ねの結果だと、
僕と組んで護衛にあたる古参の護衛士は褒めてくれた。
彼はこの邸に入ってから長く、メイリンのことも小さいときから護っているのだという。
彼に限らず、この邸の使用人たちは皆、誇りを持ってこの邸に仕えていた。かなりの忠誠心を要求される
代わりに、他の貴族の邸に比べて、きめ細かく厚待遇らしいのだ。
僕も、それは感じる。いつもいい扱いを受けているし──メイリンの兄上達の悪口雑言は別として──
メイリンは僕を馬鹿にした態度なんて取ったことはなかった。特に、たまにメイリンの房室で夕食を
一緒に摂ることがあったりすると、メイリンはやたらと僕にいっぱい食べさせようとする。僕らの
『クニ』が長い間飢饉にさいなまれていたせいで、僕はシン国の同年代の青年達と比べても小柄なのだそうだ。

「ユゥはまだ、これから大きくなる。」
そういってメイリンは、自分の分のおかずからもひょいひょいと僕の皿に移してくる。
もちろん、主人格であるメイリンと僕とでは皿に乗っている内容も質も量も初めから差があるのだが。
「有難う。……だけどまさか、自分の嫌いなものを僕にくれてるんじゃないよね?」
そう訊くとメイリンは真っ赤になって反論する。
「ばかな。私は好き嫌いなどせぬ。現に、いま与えているものも、どちらかと言うと好物ばかりだ。」
確かに……というか、ここで出されるものは、どれもこれも美味しいと思う。使用人の食事にさえ、
毎日のように肉か魚の主菜が付き、随分豪華だ。
「じゃあ、姫様が食べればいいのに。姫様だって、成長期なんだし。」
「むぅ……。女子(おなご)はなにかと、大変なのだ。迂闊に好物ばかり食してしまうと、変なとこに贅肉が…」
「別に、ついてないと思うけど。」
僕はメイリンを見た。ほっそりとした顔つき、肩も首も細くて余分な肉などどこにも見当たらない。
「だから苦労しておるのだっ!! 太ったら、すぐに見られてしまうではないか!! ……おまえに。」
「細いし、もっとふっくらしてもいいくらいだと思うけど。」
メイリンは両手のひらをぺとり、と自分の胸にあてて横目でちらと僕を見た。

「……ユゥはもしかして、『ほーまんな美女』とかが好きなのか?」
「『ほーまん』? ああ、豊満? 太ってるってこと?」
「人によっては、ああいうのが『色香がある』とか言うらしいが。」
僕はぴんと来なかった。僕らの一族にはあんまり太った人はいなかったし、こちらに来てからも、
市場を見るための『宿題』として買出しを手伝ったりはしているけど、外でもこの邸でも、メイリンより
綺麗な女の人には会ったことがない。
「それとも実は、ユゥには郷里(さと)の方で密かに言い交わした娘でも、おったかの? 許嫁は、
居なかったと聞いておるが。」
「いないけど、なんで?」
確かに僕の周りにも、親に許嫁を決めてもらう前に自力で約束を取り付けてくるような奴も居るには居た。
でも僕は、それほど器用ではない。
「…なんだかわたしに、つれないではないか。ユゥは、どういう女が好みなのだ?」
「どういう、って……」
容姿は、メイリンほど綺麗な娘は居ないと思う。胸だって、メイリンくらいあれば充分だと思うし、
体型だって凄く綺麗だ。何よりメイリンには緊張感を持って鍛えている人特有のしなやかさがあると
思うんだ。勿論いまのメイリンよりもっと肉付きが良くなってもぜんぜん構わないし、遠慮せず
もっと食べていいと思う。
メイリンがメイリンがメイリンがメイリンが。


好み、と訊かれてメイリンのことしか思い浮かばない自分に戸惑う。昔はもっと色々…でも、昔のこと
なんて、もう思い出せない。
『ご主人様に対するお世辞』として、ここでメイリンを褒めておくのが普通だと思うけれど、何しろ本当に
本気でメイリンのことしか考えられないので、恥ずかしくて何も言えなくなる。ここでさらっとメイリンを
褒めていい気持ちにさせられるくらい器用なら、それこそ自力で許嫁くらい見つけてこれたかもしれないのだ。
「別に、僕の好みなんて、どうでもいいでしょう……。」
そう言うのがやっとだった。

「じゃあ姫様は、どういう女の人が美人だと思うの。」
憮然として拗ねるメイリンに、逆に質問してみると、途端に胸を張って得意そうに応える。
「ふむ。それは当然、母上様だな。わたしにとって、都で一番の美姫と言えば、母上様だ。」
これはいい質問だったみたいだ。メイリンは滔々と続ける。
「美しくて聡明でお強くて……自分に厳しく、他人には優しい。そして何より、父上様に愛されておる。
母上様はいつもわたしの理想であり、目標でもある。」
両親のことを話すメイリンはいつも誇らしげで、メイリンがそんなにも褒める『母上様』にも、一度くらいは
会ってみたいと思った。──勿論、一刀両断されるのでなければだけど。
それからメイリンは、『母上様』がいかに美しくて素晴らしいかを語り、僕の目論見どおり、さっきの話題は
どこかへ行ってしまった。


     *     *     *

夕刻になってから、メイリンがいつも通る道を辿り、古参の護衛士と共に初めてメイリンを迎えに出る。
この時間に外に出たことはなかったが、大通りはいろんな人でごった返していた。沢山の人、多様な装い、
西や東の遠方から来た様々な荷物。王都であるこの街が、いかに大きく豊かであるか、いかに遠方からの
商人を集める吸引力があるかを物語る。
雑踏の中で、僕はもう一人の護衛士に尋ねた。
「こんなに人が居て、護衛には差し障りないんですか?」
人が居た方がかえって安全なこともある、と低い声で彼は言った。

メイリンの通う『学院』を見るのも初めてだった。そこは堅牢な壁で囲まれた広い建物で、入り口は全て
自前の護衛士が詰めており、ちょっとした宮殿にも見えた。
通行証を見せて中に入ると、よく手入れされた庭園の中に回廊で結ばれた広い建物が続いており、そこに
通う学院生らしき人たちがゆったりとあちこちで迎えを待っていた。
そこでのメイリンを見た気持ちを、どう言えばいいだろう。
きちんと正装したメイリンは、邸でも見ていたけれど、やっぱり外の壮麗な建物の前で見ると、より
映えて見えた。
彼女は建物を取り囲む回廊の階(きざはし)に腰掛けて、楽しそうに笑っていた。

僕の、知らない男と、一緒に。

──『あいつはいずれふさわしい家格の男の元に嫁ぐのだから。』──
ユイウ様にそう言われても、僕はそのときまで何も分かっていなかった。
メイリンに、ふさわしい男。高い教養と、上品な物腰、優雅な振る舞い。僕とは生まれる前から圧倒的に
差のついている、この中華の国の連綿たる伝統と文化を受け継いだ男。その体に流れるのは、この国を
支配する、貴族の血。
メイリンの隣に居たのは、正にそういう男だった。見るからに上質な衣を纏って、二人の周りの空気さえも
違って見える。
それに比べて、僕が着ているのは奴僕の青衣で。彼我のあまりの違いに声も出ない。
そして感じたのは──目の前が真っ赤に染まるような──嫉妬心。


嫉妬というのは、僕ら桂花の民にとって、忌むべき感情だった。
森の恵みは万人に与えられ、多く取りすぎた者は少ない者に分け与える。体の丈夫な者は、弱い者を
助けてやる。壮健な者は、老いた者を助ける。その助け合いの中で、妬みや嫉みなどの感情は邪魔に
なるだけだ。
病になる者が健康な者を羨んでもどうなるものでもなく、皆それぞれの天命を受け入れて謙虚に生きた。
シン国に来てからも、僕は自分の出自や境遇を恥じたことはなかった。
僕はいろいろなものを失ったけれど、一番大事な故郷の人達すら裏切ったけれど、それもまた、僕に
与えられた天命で、逆らっても仕方ない。与えられたものの中で精一杯に努力してこそ、道は拓ける。

なのに、そのとき僕が感じた感情は、紛れもなく嫉妬だった。羨ましい、妬ましい、あれが欲しい。
彼にあり、僕にないものが。
財力が。家柄が。その血が。メイリンの横に居るために必要な、すべての要素が。
そのとき分かった。僕は今まで、心に蓋をして生きてきたのだ。暗い欲望も、人の持ち物を妬む心も、
こんなにも僕の心の中に──噴き出すほどに、あるじゃないか。


メイリンは、僕の姿を見つけるとぱっと明るい顔になり、手を振った。
でも僕は、いまの顔を見られたくなかった。
身の丈に合わぬ、過ぎた欲望、自らの境遇を僻む気持ち、そして何より、他人の持ち物を妬む心。
黒々とした心を抱える僕はいま、どんな顔をしているのだろうか。
「ユゥっ! 今日の帰りから、ユゥの番なんだね。一緒に帰ろっ!!」
「……当然です。一緒に帰るために、迎えに来たんですから。」
僕は少し俯いて、メイリンの方を直視しないようにしながらぼそぼそと答えた。それでもメイリンは
明るく上機嫌そうに振舞う。その明るさも、いまは少し突き刺さるようだった。
「ねえユゥ、手、つないで。」
「駄目です、なるべく手は開けておかないと。」
僕は下っ端としてメイリンの荷物を持ってあげる。そして教えられたとおりに答える。
メイリンはぷっとふくれた。
「けち。せっかくの初日なのに。」
「姫様、彼は任務中です。あまり煩わされませぬよう。」
もう一人の護衛士がやんわりと嗜める。彼は随分と古参で、メイリンも言うことを訊かざるを
得ないようだ。
「つまんないのっ。」
メイリンはそう言い放つと、ぽてぽてと僕の前を歩き始めた。僕のほうを見ないでくれるのは、
いまだけは助かる。
いろんなことを考えすぎて、頭がずきずきするほどだ。
綺麗な、綺麗なメイリン。
いまの僕には、メイリンを視界に入れることすらおこがましい気がする。そして、メイリンを見る
ほどに、心が暗く澱んでいくのが判る。

こんな感情、知りたくもなかった。


     *     *     *

邸へ帰ってすぐに、「頭痛と吐き気がする、伝染(うつ)してしまってはいけない」と称して使用人部屋の
僕に与えられた寝台に入ってうずくまった。この邸に連れてこられてからいままで、調子を崩したことは
なかったけど、むしろその所為で皆あっさりと信じてくれた。
頭は本当にずきずきと痛んだ。目をつぶると、脳裏に次々と光景が浮かんだ。
花に囲まれた、知らない邸に立つメイリン。そのそばには、知らない男が立っている。多分、今日学院で
見た男に似ている。微笑むメイリン。男もきっと笑って……
そして、抱き合う。
メイリンがいつか彼女に見合う貴族の家に嫁ぐとしても、それは彼女にとっては嫌々従わねばならない
義務のようなもので、僕と一緒に居るときのような輝く笑顔は見せないのだろうと、なぜか勝手に思っていた。
でもきっと──ユイウ様の言うとおり──メイリンは誰にだって優しい。
メイリンに笑いかけられて、優しくされたら、どんな男だって一発で恋に落ちてしまうだろう。
メイリンは幸せになる。きっとどんなところに行っても、幸せになれる女の子だと思う。

僕が、そこにいなくても。


怒りなのか憤りなのか哀しみなのか悔しさなのかわからない感情が、体の中で息も出来ないくらい暴れていた。
僕は訳のわからない気持ちに突き動かされてしまわないよう。左手の爪を右手の甲に、血が滲むほどに
食い込ませて、じっと耐えていた。
こんな風に考えるのはおかしいと、理性では分かっていた。
僕はただ、メイリンに拾われた奴隷なのに。
自分が何か、メイリンに対して権利を持っているように感じてしまうなんて。
本来なら、嫉妬する権利も、怒る権利もありはしない。
それでも、奴隷の身でも、哀しいほどに、心は自由なのだった。
自由に欲望を持ち、願望を持ち、将来が拓けることを夢見る。一方で、怒り、妬み、憤り、嫉妬する。
僕は自分の感情を息苦しく持て余しながら、むしろこの息苦しさのままにこの命が尽きてしまえばいいのに、
とさえ思っていた。
メイリンを、あの綺麗な身体を、こぼれるような笑みを、夜毎に抱き合ったあのあたたかさを──永遠に
失うとしたら、そのあとどうやって生きていったらいいのかわからない。
僕を支え続けた故郷への道のりのこともそのときは頭の中から消えうせて、ただメイリンのことだけで
一杯になってしまっている。

そして──夢うつつに狭い寝台に転がるうちに、何度も血濡れになった自分の姿を瞼の裏に見た。
足元には血だまりと、倒れている男。上質で仕立ての良い服を纏った、貴族の男。
更にもう一人、さらりとした絹の襦裙、複雑に編み上げられた髪、細い体。その身体が、力なく血だまりに
倒れている。
────メイリンだ。
そのたびに、声にならない悲鳴を上げて目を開く。
決してそんなことはしたくないはずなのに、手の届かないメイリンを永遠に自分のものにしたいと願った
なら……いつか、そうするのかもしれない。あの、いつもくるくると表情を変える、生命力に溢れた女の子を、
僕のこの手で。
でも、そんなことは間違ってる。そんなことでは手に入らない。

だけど、他の誰にも渡さないことは出来る。

相反する感情に引き裂かれながら、何度目かに冷たい汗をかいて飛び起きたとき、すっかり夜は更けていた。
いつもなら、メイリンと二人で居る時間だ。

メイリンに会いたい。
今すぐ会いたい。おかしなことを考えてしまうのも、メイリンがいないせいだ。今日はほんのちょっとしか、
メイリンを見ていない。

我知らず、使用人部屋を飛び出し、駆け出していた。
廊下を歩く使用人達も、控えている衛士達も、僕がメイリンの房室へ向かうのを特に咎め立てする気配は
なかった。

メイリンでさえ、そうだった。
僕が扉の前で訪問を告げると、弾んだ声で自ら扉を開けてくれた。
「ユゥっ?! もういいの? お見舞いに行ったけど、伝染ったらいけないって、入れてもらえなかったの。」
メイリンはいつだって優しい。それに可愛くて、扇情的でさえある。まだ水気を含んだ髪がしっとりと
つややかで、夜の薄明かりの中でメイリンに匂いたつような色気を添えている。
その姿を視界に捉えただけで、僕を支配していた息苦しさがすっと引いて行くのが分かる。

メイリンが、好きだ。心から。
だからこそ、物言わぬ従者として、心のない奴隷として、傍にいるのはもう限界だ。

僕は手を伸ばしてメイリンの首に触れた。
なんて細さなんだろう。鍛えがたい、人の急所の一つ。
脈部を正しく締めれば、数秒で昏倒する。気道を塞げば、死に至る。
なのにメイリンは、少し人を信用しすぎだと思うんだ。僕の指がその首の細さを測るように喉元にさえ
伸びているのに、彼女は不思議そうな目で僕を見ているだけ。
とくり、とくり、と僕の指に規則的な脈動が伝わる。メイリンの命の音だ。
そして僕は少し安心する。
まだ僕は、これを止めたいとは思わない。いまは、まだ。いつまでも感じていたいとさえ思う。


でも、それは叶わない。

だから、メイリンと一緒に居るのは、もう終わりにするべきだ。


すとんと、心が定まった。後から思うと、なぜそのときに、それが唯一の正解だと思ったのか、上手く
説明できない。
ただ、そういう欲望はずっと僕の心の奥に隠れていて、その行為は確かに僕の願望だった、と思う。
初めの夜に、斬首に値すると書面で宣言されたその行為。

「君のことが嫌いだ、メイリン。」
僕が嫌いなのは、僕だ。だから君も、僕を嫌いになってしまえばいい。
彼女は少し息を詰めるようにして、僕の目を見る。
「身分と権力があれば、なんでも思い通りになると思っているの? 人の心でさえも。
僕は、もう君の遊びに付き合うのはうんざりだ。」
言ってから、気付く。僕がどれだけ自ら従っていたのかを。
随分戸惑ったし、振り回されることもあったけど、いつだってメイリンは良い主人で、僕はメイリンの
傍で彼女に従って、幸せだった。

「大っ嫌いだ。」
ひどい言葉を吐くのは、簡単だ。簡単すぎて笑いそうになるくらい。
思っているのと、反対を言えばいい。
「初めからずっと、そう思っていた。僕たちの『クニ』を滅ぼした側の人間のくせに。」
そうか、僕は初めからメイリンが好きだったんだ。ずっと、好きだったんだ。
そして、いまも大好きだ。

僕はじり、とメイリンに詰め寄った。メイリンは哀しげに眉を寄せ、いまにも泣きそうだ。
「優しげな猫なで声を出して、僕らの誇りさえ、根こそぎ奪うつもりか。」
誇りを、差し出したのは僕のほうだ。そしていつの間にか、故郷へ帰ることよりもメイリンと
一緒にいることのほうが心の中で大きくなっていた。

「だからこれは────罰。」
震えるメイリンを抱きかかえるようにして寝台へと運び、なるべく乱暴に放り出すと、その上にのしかかり、
組み伏せた。
「ユゥ? 何を……」
「高貴なお姫様には、いい罰になるだろうね。……下賎の血を、孕むがいい」

必ず僕は罰を受けるだろう。娘を溺愛するという父親が、こんなことをする僕を許すとは思わない。
だけど、ただ、メイリンに僕の傷痕を残したかったのかもしれない。
はじめてを捧げあって、肌を触れ合って、未熟な性への好奇心を共有した。
その大切な時間が、メイリンの従うべき貴族のしきたりの前に塵芥になるのなら、もっと強く、もっと深く、
僕のことを刻みたかった。
そして、誰かに裁かれるなら、メイリンに裁いて欲しかった。
「や…っ、痛い……! こわいよ、ユゥ……!!」
細い腕、華奢で柔らかなメイリンの身体。
男の身体は、こんな風にも女の身体を傷つけてしまえる。
あのメイリンと会った最初の夜、彼女の安全のために、僕に手枷は正しく必要だった。
僕は『クニ』を失った哀れな子供で、メイリンは僕の『クニ』を滅ぼした国のお姫様で。
それでも、時間を遡れたとしても、このちょっと危なっかしくて魅力的なお姫様に、僕はどうしようもなく
心を奪われてしまうのだろう。

「やめ……っ、んん…っ!!」
声を上げれば、すぐに誰かが飛んできて、外側からでも、閂がかかっていても扉をこじ開けるだろう。
僕はほどいた夜着の帯を丸めてメイリンの口に捻じ込んだ。鈴を鳴らすような素敵な声が、くぐもった
悲鳴に変わる。自力で口の異物を外せないよう、両手も拘束して天蓋の柱に括りつけた。
僕の目の前で自由を奪われ、しどけない姿を晒すメイリンは、ひどく魅惑的だった。
このまま無理矢理にでも、どこか遠くへ攫ってしまったら、どうなるだろう?
メイリンだけの力では出られないような深い森に入って、誰にも知られず、ふたりきりで。
獣を狩り、鳥を射て、森の恵みを受けてふたりで暮らす──


僕はかぶりを振った。僕がこの王都に来ても、故郷をどれだけ大切に思っていたかを考えれば、
メイリンの家族も、育った家も、メイリンが従わねばならない規範でさえも、メイリンを育んだ全てから
切り離してしまうのがどんなに酷いことか分かる。
だから、許して。最後に一度だけ傷つけてしまうことを。
いいや、許さないで、憎んで。一生憎み続けて。
初めから居なかったように、忘れ去られるよりずっといい。
忘れないで、僕を。
そして、君の手で裁いて。

僕は出来るだけ感情を殺してメイリンを乱暴に、酷薄に扱った。メイリンが心置きなく僕を憎めるように。
僕はそのとき確かにメイリンを抱いたけれど、いつものように彼女を気持ちよくしてあげる甘い時間では
なかった。
それは、暴力だった。
誰かが異常に気付く前に終えなければならなくて、あまり時間はなくて。
怯えたメイリンはいつものようには濡れず、充分に準備が整わないまま繋がらなければならなかった。
「んっ、んんっ!!」
拘束されたまま僕に貫かれる瞬間、メイリンは身体を捩ってくぐもった悲鳴を上げる。その声にすら、
ゾクゾクとした
仄暗い悦びを感じていた。
僕を痛みと怒りと、嫌悪と憎しみと共に心に刻んでくれればいい。
そしてその憎しみを、ずっと忘れずにいてくれたらいい。

あまり濡れていないメイリンのなかはひどく擦れて、僕も長くは続けられなかった。
──これが、最後なのに。
そう思っても、いずれ終わりのときは来る。僕は湧き上がってきた快感をとうとう押さえきれなくなり、
初めてメイリンの内部に放った。
初めての体内への射精は、ことのほか大きな快感を生んだ。精を放っている間にも、内部の肉襞が波打つ
ように動き、残滓までを吸い尽くすようだった。最後まで受け入れさせた、という実感が、体のすみずみまで
染み渡った。
それは、ひとりよがりの快感だったかもしれないけど。

生涯で最後になるかもしれない余韻をゆっくりと味わってから、メイリンの手首を縛った帯をほどいて
あげる。手が自由になると、メイリンは口に詰められていた帯を自分で取った。

メイリンは、ひどく泣いていた。

メイリンに痛みを与えること、憎まれることを望んでいたはずなのに、その涙は僕の深いところを
突き動かしそうになる。いますぐに彼女の足元にひれ伏して謝り、手を尽くしてその痛みを和らげて
あげたかった。
でも、もうそんなことは出来ないし、許されない。
メイリンを、暴力で陵辱した。泣いているのにも構わず、苦痛を与えた。
あとは、その報いを受けるだけだ。

「ユゥの、ばかっ……。」
メイリンは流れる涙を拭いもせず、夜着の襟をきつく合わせた。
「わたしはまだ妊娠など、許されておらぬのに。たとえ孕んだとしても、堕ろすことになってしまうのに。」
メイリンはその辺に掛けてあった上着を掴むと、ぱたぱたと足音を残して走り去った。
おそらく、だれかしら呼んでくるつもりなのだろう。



「堕胎、か。そうだよな……。」
これで全て失うのだ。と僕は思った。
無理矢理陵辱したのも、斬首と引き換えにしてでも、彼女の中に自分のかけらを残したかった、という
気持ちがあったんだろう。
僕が死んでしまうとしても、メイリンの元に──或いは他のどこかで養育されるとしても──僕の一部が
残り続けるとしたら、死んでも悔いはないと思った。
でも、そんな風に上手くいくはずもない。
僕は故郷で裏切り者になり、心の中ですら、故郷を捨ててメイリンで一杯にしてしまった。
そして幼い恋情と破局の予感に耐え切れず、自らそれを壊した。
運良く子供を孕んでいても、堕胎で無に帰される。
あとに残るのは、痛みの記憶と憎しみだけ。
それでも、いつかこの手でメイリン自身を壊してしまうより、僕が全てを失う方が、ずっといい。

「寒い…な。」
僕は膝を抱えて、寝台の端に寄りかかり『誰か』が来るのを待った。
王都の冬は、桂花山よりは幾分かましだが、それでも厳しい。
居室の中でさえ、朝方には手洗い桶の水が凍りつくほどだ。
布団にくるまっていたような薄着で、既に火の気の絶えた房室で、長い間じっとしているのは命取りだと
いうことも知っていた。でも動く気にはなれなかった。
「忘れられた、かな……。」
『誰か』はなかなか来なかった。忘れられることが一番恐かった。何もかも失って、更に忘れ去られること。
行為のあとの熱を失って急速に冷えてゆく手足は、僕の心のようだった。絶望に凍てついて、冷たくなってゆく。
もう何もかも、終わりにしたい。
そう、呼吸をすることさえも。

怖くはなかった。
死ねば、桂花の民は誰もが、山に還る──僕らはそう信じていた。
山の神々は、許す神だ。どんな罪人も、穢れも、その深い懐に取り込んで浄化してくれる。
僕も、少し遠回りしたけれど、魂だけになれば、山の神はきっと許して、受け入れてくれるだろう。
ただ、生まれる前の場所に、還るだけだ。

すぐに、眠気がやってきた。山育ちの僕は、その眠気が危険であることは分かっていた。
薄れる意識の中で、ぼんやりと、もしメイリンと僕の立場が逆だったら良かったのになあ、などと考えていた。
僕らの『クニ』は負けてなくて、戦に参加したメイリンは、僕の小隊に捕らえられてしまうとか。
そうしたら、誰にも触らせず、誰にも見せずに、僕だけのものにしてしまうのに。
僕の手に入るものなら、何でもあげる。笑顔を見せてくれるまで、うんと優しくしてあげるんだ。
そして僕の子を産ませて、妻にする。メイリンの産む子どもは、どんなにか可愛いだろう──

そんなことは、ありえないけど。

僕は静かな気持ちで、目を閉じた。
意識は、じきに心地良い闇に取り込まれた。




     ────続く────

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最終更新:2012年02月25日 19:18