メイファの姿を認めた途端、えもいわれぬ気持ちで、胸が満たされる。
 ──ああやっぱり、本物はいいな。自分に都合のいい想像の中のメイファより、 
本物はずっと生き生きしてる。三日ぶりの実物に僕は、状況もわきまえずに 
見惚れてしまう。 
「メイファ。いつも寄り道は駄目だって言ってるのに、わざわざ寄ってくれたの?」
 メイファは、眉をキッと釣り上げ、上目遣いに向かい側に座った僕を睨んで 
見せた。いかにも、怒ってますよという表情だ。でもそこに、暗い怒りも侮蔑も 
嘲りも含まれていない事に、僕は安堵する。 
「違いますっ! 今日のわたしは、学院の遣いですっ!! 外出許可も通行証も、 
学院側が用意してくれましたっ!!」 
びしっ、と両手に朱印の押してある外出許可証と通行証を持って、高らかに言い放つ。 
「ひとつ! 休んだ間の分の課題を提出すること! 
ひとつ! 連絡が取れないと困るので、病欠以外で丸一日以上の欠席は控えること! 
ひとつ! 病でないのなら、明日あたりから出席すること! 以上!!」 
一気にそこまで言い切ってから、彼女はふぅ、と息をつく。 
「それで、こちらが課題と連絡事項です。」 
つっ、と卓上にあった封書をこちらに寄せてくる。 

「──それから、これはついでにわたしからの伝言ですが。」 
メイファが姿勢を正したのにつられて、こちらもつい、居住まいを正す。 
「喧嘩したあと、学院に来ないとは、何事ですかっ!!
 すぐに仲直りしておかないと、余計にこじれるでしょうがっ!!!」 
そう言って、柔らかそうな頬をぷっと膨らませた。 
うわあ、物凄く可愛い。あの頬を、ぷにっと押したい。 
──じゃなくて。 

「仲直り…?」 
それは、僕にとっては、物語の中にだけ、あるものだった。 
物語を読んでいて、仲直りできれば、その二人は親密な関係があったのだと、 
理解できる。それだけ。 
どうやっていいのかも、何と言えばいいのかも、分からない。 
僕とメイファの間にも、親密な関係があったのだろうか。いや多分、彼女は誰に 
対しても、差別なくそうふるまうのだろうけれど。
 「どうすれば、仲直りできる?」 
案の定、彼女は怪訝そうに眉を寄せた。 
「メイファ、僕は君が何かを知らないことで、馬鹿にしたことなんてなかったよね? 
君も僕に、知らない事は教えてくれるべきじゃないかな。」 
「むぅ…。本当に知らないと、おっしゃるのか…。 
高貴な身分というのは、存外に不便ですね…。 
じ、じゃあ、まず…。」 
「まず?」 
怒ってる顔も可愛いけど、戸惑っている顔も捨てがたい。僕はつい、卓上に身を 
乗り出すようにして彼女の挙動に注目する。自分の頬がつい緩んでしまうのも、 
止められない。 
「反省してください。」 
「した。」 

メイファはあまりにもあっさりと即答した僕を睨みつける。 
「本当かなあ…? じゃあ次に、反省に基づいて、謝ってください。」 
「ふむ…反省の気持ちを、伝えないといけないんだね? それは難しい。 
あんまり謝った事ないから、上手く出来なくても、怒らないでくれる?」
 皇族である限り、他人に謝らないといけない場面、というのは、極端に少ない。 
それでも、今まで読んだ物語の知識とかを総動員してでも、それらしい言葉を紡が 
なくてはならないようだ。 
僕は身を乗り出してメイファの片手を取った。僕の手より一回り小さくて、 
つくりの華奢な、細くてしなやかな手。その手にもう一方の手を載せて、 
やんわりと包み込む。 
「メイファ、いやな思いさせたね? もうしないから、僕ともう一度、友達に 
なってくれないかな。」 
「手は余計ッッ!!!」
 顔を赤らめたメイファに、凄い勢いで手を振り払われてしまう。 
うん、余計だろうな。ただ、触りたかっただけだから。 

そのまま彼女は、ぷいとそっぽを向いてぽつりと呟く。 
「貴方は…わたしのことを、疎んじておいでなのか…?
 わたしはただ、貴方の静寂を、乱すだけの存在なのか? 
友達になれて、嬉しいと思ったのは、私だけだったのか…?」
 三日前のことを言われているのだということは、すぐに分かった。 
胸の中に、熱いものがこみ上げる。
 ああ、メイファは『傷ついた』のだ。嫌な事をされたからではなく、『僕に』 
『嫌われた』と、思って。 
なんて僕って、性格悪いんだろう。そんなことが、こんなにも嬉しいなんて。 
そのまま羽交い絞めにして、めちゃくちゃに抱き締めてしまわないよう自制する 
のは、かなりの理性を必要とした。 
「疎ましいはずは、ないよ。君を嫌いになる奴なんか、居るはずもない。 
ただ僕はちょっと人付き合いが苦手で、どうしていいか分からなくなっただけなんだ。 
ねえ、君がいいというまで、どんな風にでも謝るから、僕とまだ、友達でいて欲しい。」 
目尻を指でついと拭う仕草をしてから、メイファはゆっくりと振り返った。 
口をツンと尖らせてはいるが、もう怒った顔はしていない。 

話が終われば、『仲直り』が終われば、もう帰ってしまうのだろうか。 
「ねえ、お詫びに、この内宮の庭を、案内してあげようか。 
普通ではなかなか入れない庭だし、せっかく来たんだから。 
君は自然の野山の方が好きだろうけど、ここにも、国土のあちこちから集めた 
珍しくて美しい草花があるよ。」
 「え…でも、外出許可はここに来る目的だけで取ってあるので、そう長居するわけには」 
そういいながらも、メイファの顔は、期待感で輝いていた。 
「大丈夫。『留学生』の外出先として、これほど安全なところはない。 
──ねえ、君達も、そう思うだろう?」 
僕はメイファの後ろに控えている二人の従者に話しかけた。事実、これほど安全な 
ところはない。他国からの人質を、この国が監視するという点においては。 
そして、彼らはシン国の朝廷に属する人間であり、皇族に逆らえるはずもない。
 黙って頷く従者達に、僕は重ねて言った。 
「僕の友人を、少し案内してあげるから、君達はここで待っていてくれるかな。 
その間のことは、僕が責任を持つよ。」 
当然、彼らは頷くしかない。 
新しい玩具で遊んでもらえるのを待つ仔猫のような表情で待っていたメイファに 
声をかけると、彼女は弾かれたように駆け寄ってきた。 
「──行こう。」 


そのときの情景は、やけに強く心に残っている。 
季節は初秋のあたりで、全てが夕暮れの茜色に染まっていた。小さな蜻蛉が 
飛び交う中、僕らは美しく手入れされた内宮の庭園を、歩をそろえて歩き始めた。 
庭園の植物達は、秋の花をつけるもの、果実を実らせるもの、早くも葉を 
色付かせるものが、思い思いの装いを見せていた。 
それぞれの植物が、どの地方で見られるのか、一般的か希少か、花はいつ咲くか、 
その名前の由来や似た植物との見分け方などを説明してあげながら、ゆっくりと 散策した。 

「すごいすごい!! レンは植物のこともすっごく詳しいのですね!」 
「すごいと言っても…この庭園に植えられている植物は全て目録があるし、 
綱目ごとの詳細な図誌も整備されているのだから、本を見れば全て書いてあるよ。 
葉っぱの縁の細かいギザギザの形までね。ここの庭師ですら知っている事ばかりだ。」 
そう、本を読めば、全て書いてあることだ。暇にあかせて読んだものを憶えているに 
過ぎない。 
今までその知識がいいとも悪いとも、役に立つとも思ったことはなかった。 
でも、メイファがこんな顔をして笑ってくれるなら、その知識はきっと凄くいいものだ。 

──楽しい。この娘と居ると、楽しい。 
誰かと一緒に居たいって、こういうことなのか。 
この娘が大人になっても、傍に居てくれたら。 
そうしたら、生きていることも、生まれてきたことも、逃れられない根源的な苦しみ 
なんかじゃなくて、もっと何かいいものに変わるかもしれない。 
「メイファ、そこ段差あるから、気をつけて。」 
変則的な石段の、段差がひときわ大きくなってるとこで、危なくないように手を 
取ってあげる。こういうときには、手に触れても「余計ッッ!!」とか怒られなくて 
すむので、役得だ。 
身体が小さめの彼女にしては大きいような段差も、軽々と飛んですとんと僕と同じ 
庭石に着地する。 
瞬間、寄り添って立っているような体勢になって、メイファの顔が近づく。 
歩き出そうとしない僕を、不思議そうな瞳できょとんと見上げて。 

──可愛いなあ。近くで見ると、さらに可愛い。 
さっきから言いたくて仕方のないことを、言うなら今じゃないだろうか。 
僕は軽く深呼吸して、口を開いた。 

「ねえメイファ、僕の、お嫁さんになってくれない?」
 彼女は一瞬、目を大きく見開き、それから目を伏せてうつむく。 
「結婚は成人してからになるだろうから、今は約束だけでいいんだ。 
お互いの国にとっても、決して悪い話じゃない──」
 僕はうっとりと、うつむいたメイファの唇が震えるのを見ていた。 
この柔らかそうな唇に、いま無理矢理にでもくちづけたら、どうなるだろう? 
いまなら、届く距離にある。 
と、不埒な事を考えていると、目の前の唇がキッと引き結ばれ、しゅっと風を切って 
平手が飛んできた。
 ぱしっ。 小気味良い音が響く。

 
──あれ??? 
な、何で?? 何か、失敗、した??? 
まさか平手が飛んでくるとは思っていなくて、思い切り喰らってしまう。 
顔を上げたメイファは、ふたたび眉が釣り上がり、目尻にうっすらと涙さえ溜めて、 
怒っていた。 
「反省してないッッ!!! 
そのようなからかいは、無礼でしょう!!!」 
からかい??? 
「王族の婚姻は、当人同士できめるものではありません! 
然るべき年齢になってから、然るべき手順を踏んで、
 シン国として正式に申し込むものです!! 
そうすれば、わたしではなく、お父様が判断なさいます!!」 
あ、うん、手順ね、手順…。 
「わたくしは、これにて、失礼します!!」 
そういってメイファはくるりと踵を返すと、みるみるうちに元来た道を駆け戻っていった。 
「ぐるりと一周していたのだから、先に進んだ方が、早いよ…?」 
という言葉をやっと呟いたときには、もう姿が見えなくなっていた。 

そのまま僕は、しばし呆然としていた。 
かなり真面目に結婚を申し込んだつもりだったのに、どうしてからかいと判断されて、
 怒られて、平手打ちまで喰らってしまったのだろう。
 「──シュンレン様、もう陽も落ちてまいりました。いつまでもそんなところに立って 
おられては、身体が冷えますよ。」 
後ろから声をかけるものがいる。優雅な抑揚の宮女らしい喋り方。ジン・ツァイレンだ。 
が、振り返ってその姿を見た途端、僅かに違和感を覚えた。 
いつも美しく優美に整えられている髷が、微妙に乱れている。簪も、僅かにずれている。 
全体的に、埃っぽいような…? 

「──いつから聞いていた? ツァイレン」 
彼女は全く悪びれずに答えた。 
「ばれましたか。そうですね…貴方様が姫君のお怒りを買っていることに気づかず、
 鼻の下を伸ばしているあたりでしょうかねえ。」 
やっぱり立ち聞きかっ!! ここは庭園だけに、身を隠す茂みは山ほどある。どうせいろんなものにまみれながら 
その辺に潜んでいて、ひとまず目に付く葉っぱだけは取り払ってから出てきたのだろう。 
簪はおそらくその際にどこかへ引っ掛けてずれたものと思われた。 
「そんなに都合の良いところだけ聞けるものかな? はじめからずっと聞いていたのでは?」 
僕の質問にも全く動揺を見せることなく彼女は軽やかに答えた。

「ふふ…ご想像にお任せいたします。
しかし、内宮の庭は、われらの領域。ここで隠し事など、出来ぬとお知りください。
それはそうと、あれが貴方様の御執心の姫君ですか。なんとも、愛らしい。」
ツァイレンは意味ありげに微笑った。
「なるほど、確かに、何かして差し上げたくなる風情ですな?
あの若さで、あの容姿…年頃になれば、さぞ美しくおなりでしょうに、貴方様の
お話によると、未婚のまま祖国に仕える事を夢見ておられるとは、なんと凛々しい。
わたくしも、色々と御教授申し上げたくなりますな。」
「何をだよっ?! 全然、洒落になってないから!! 手を出すのは、若い宮女だけに
してくれる?!」
「おや…、後宮の娘達のほうは、親元から離れて不安で泣いているところを、慰めて
あげているだけですよ? 一体、何を想像しておられるのやら…。
姫君には、色々と心構えなどを…。まさかわたくしが、他所の国からいらした
姫君に、狼藉など働くはずは、ございませんでしょう?
まあ、姫君ご自身は、大変わたし好みではありますがね。」
世間知らずの娘達を、どういう慰め方してるんだか。
「いいから、僕の好きな娘には触らないでおいてくれる?」
「ふっ…。振られたくせに。いい色になっておりますよ、貴方様の頬。」
簪が僅かにずれたままのこの女官は、それでも不敵な目をして痛いところをつく。
「ぐっ…、この程度の腫れ、明日には引く。」
それから、少し真面目な口調になって、奇妙な喩えを使った。

「シュンレン様、急ぎすぎて、蕾をお壊しになられませぬよう。」
「ツァイレン? それは、何の喩えだ?」
「幼い娘というのは、その身のうちに、蕾を抱いているようなものです。
その蕾がいつかほころんで、花開くときに大人の女として目覚めるのです。
貴方様は、大変に早熟でいらっしゃるのでお分かりでないでしょうが、姫君は、
まだ蕾なのですよ。
そして大変に聡くていらっしゃるから、蕾を固く閉じて、女である自分を
閉じ込めようとしていらっしゃる。
貴方様は、選ぶ立場でいらっしゃいますが、大抵の場合、姫君というのは、
選べないし、選んではならないのです。姫君も、もし先程頷かれたりすれば、
筋道を通さぬはしたない娘として、酷い謗りを受けましょうな。」
笑みの消えた顔で、彼女は続けた。

「貴方様の求婚も、からかい程度に思われたのは、むしろよかった。
蕾のままの娘にとって、艶事というのは恐怖であり、一方的にもたらされれば、
暴力でしかないのです。結婚前の浮いた噂ひとつだけで、人生を台無しにされる
事もありますしね。
姫君が未婚を夢見ておられるのも、女としての苦しみや痛み、不自由から
逃れたいという願望の顕れでしょうな。」
「メイファは、自分が女であることが、苦しみだと思っているのかな。」
僕は、嬉しかったのに。彼女が女の子で、僕と出会ってくれたことが、こんなにも。
「そのように感じる娘は多いですな。
女官になろうという娘も、半分くらいはそうです。
残り半分は、まあ、女であることを肯定的に捉えて、あわよくば貴妃に選ばれようと
目論む娘達ですがね。
それはそれで逞しくて宜しいのですが、年頃になって自分にその可能性が無いことを
悟ると、とっとと宿下がりして、嫁いでしまったり。」
「…ツァイレン、つまりは僕にどうしろと、言いたい?
それを言うために、簪も曲がったまま、わざわざいま、僕に声をかけたのだろう?」


ツァイレンの顔に、ふっといつもの微笑が戻った。
「シュンレン様は、話が早くてよろしい。
──待って、おあげなさい。」
「待つ?」
「女である事を苦しみとして、男との接点を絶つ様に後宮に入ってくる女官達も、
年頃になれば、何かと、少ない外界との接点の中で見初められてしまうものです。
そんなときと、女としての蕾が開く時期が重なることが、往々にしてあって、
そういう娘は後宮を辞して嫁いでしまいます。
だから毎年、補充せねばならぬのですよ。
ただし、蕾がみずから開こうとする前に、無理矢理開こうとすると、すべてが
駄目になってしまいます。男という存在そのものに不信を抱き、ふたたび咲く事は
無くなるかもしれない。
──わたくしの、ようにね。」
かつては貧しい農村の娘でありながら、後宮で才人[ツァイレン]の地位にまで
登りつめた彼女の人生は、どこをとっても壮絶だ。僕は彼女の人生経験と、
後宮で沢山の女官を取り仕切るための人を見る目には、絶大な信頼を置いている。

「ツァイレンは、女の子には優しくて、男には厳しいもんね?
僕の身のためにも、年上の女性の忠告は、聞いておいた方が良さそうだ。
メイファも、いつか女として花開いて、僕を見てくれるように、なるかな?」
「なりますとも。そのときには姫君は、さぞ美しくおなりでしょうな。
それまで、他の男に取られないよう、せいぜいお気をつけなされませ。
そして、うんと優しくしてあげれば宜しい。花が開くときに、自然と貴方様に
目が向くように。」
「気が長い話だね。」

「でも、貴方様のお父上も、ゆっくりとお待ちになりましたよ。」
「…父上が?」
意外な人物の名が急に出てきて驚く。後宮の女官というのは、それぞれに仕事が
割り振られているが、後宮という閉じた社会で皇帝とその身内に仕える存在だ。
皇帝さえ気に入れば、いつでも『お手つき』にできる。
まあ、全体からすれば滅多に無いことだから、ツァイレンの言うように男嫌いの
娘も多数志願してくるのだろうが。
それなのに、絶対者であるはずの皇帝陛下が、『待った』だなんて。
「当たり前です。権力をかさに着て、力づくでイェンを手に入れようとしたなら、
このわたくしが、刺し違えてでも阻止しておりますよ。
でも、あの方は、イェンの頑なな蕾が開くまで、お待ちになった。
イェンも、望んで、望まれて、幸せそうだった。あんなにも。
イェンを一番愛していたのはこのわたくしですが、貴方様の父君も、二番目くらい
だと認めて差し上げても宜しいと、思っているのですよ。」
微妙に褒めてるのかけなしているのか分からない、けれど多分、この女官に
とっては、最大限の賛辞。

「初耳…。」
そして女官から貴妃になった母上が、寵を受けるのを待っていた女ではなく、
おそらく男嫌いの方に入っていたらしいことも、初めて聞いた気がする。
「そうでしょうね。恋の話というのは、ある程度の歳になるまでは聞いても
分からないものですから、私もあえて申し上げたことはございませんでした。
では、こちらの話はいかがです? ──イェンは、貴方様の父上の事を、
畏れることなく『普通のおじさんだわ』と、話しておりました。もちろん、
貴妃になるずっと以前、ただの女官だったときから。
貴方様なら、いかがです? 貴方様がこの国の最も尊い方であったとして、三十も
年下の小娘に、刎刑さえも恐れず『普通のおじさん』だと、言い放たれたら。」
誰からも特別に扱われ、また特別であらねばならない立場で、『普通』だと
言ってくれる娘がいたら。


「…ぐっとくるね。人によっては、怒るのかもしれないけど。」
「そうですとも! あの方も、ぐっときておりましたとも! 最初っから!!
わたくしは、尊い御方にそんな口の利き方は止めて欲しいと、何度イェンに
懇願した事か!!
でもイェンは、聞き入れませんでした。あの方はいつも、ごく普通のことで
悩んでいるのだと…。それを普通だと、教えてあげる人がいないのは、きっとひどく、
寂しいことだからと。
イェンは誰にでも、優しかったのです!! 決して、あの方だけが特別というわけでは、
なかったのに…!」
「それでぐっときて、惚れられちゃったんだ、父上に。」
母が後宮の女官になったのは、確か他人より遅めの年齢で、十六の頃。僕を
産んだのが二十一だったはずだから、その間に色々とあったのかもしれない。
この暗くて澱んでいて、謀略に満ち溢れた後宮で、父と、それから母も、今まで
思っていたのより、暖かな関係を築いていたのかもしれなかった。
ならば僕も誰かと暖かい関係を築く事が、できるかもしれない。
辺りはすっかり日暮れて、天空は深い藍色を呈し、一番星が輝き始めていた。

「──それで、長い間女の園に居て、女のことを知り尽くしている貴女の意見では、
美しい花を愛でるためには、花が自ら開くのを待つのが最上、という訳だね、
ツァイレン?」
「左様で」
では、待ってみようじゃないか。あの小さなお姫様が、まだ固い蕾だというのなら、
仕方がない。いつか蕾が自然にほころんで、美しく咲くという、その時まで。

  *   *   *

翌日、僕とメイファは『仲直り』をした。
『仲直り』を知った事は、僕の人生において、大きな変化だった。
完璧である必要はなかったし、怒らせても、失望されても、もう心配は要らなかった。
メイファは基本的に、仲直りを受け入れないことはなかった。それは、誰に対しても。
僕のほうも、他でもないメイファなら、ご機嫌を取るのも、ひどく楽しかった。
あのきらきらしてよく動く瞳が何を見て、何に興味を覚えているのか観察するのが、
楽しくないはずもない。
仲直りがしたくて、わざと怒らせることさえあった。
それから、怒ってぷうっと膨れた頬をつついて、「真面目に聞けーっ!! ふざけるなっっ!!」
と、怒られたこともあった。
僕が悪いんじゃないんです。押しやすそうなところに、あんなほっぺがあるのが
悪いんです。

『仲直り』は、大抵は、彼女の抱えている問題を解決する手助けをしてあげたり、
彼女の友人の助けになってあげたりするだった。──彼女以外のために何かして
やるのも不本意だったが、メイファにとっては友人も充分に『大切なもの』
なのだから、仕方ない──
メイファは、服や宝飾品の類はあまり喜ばないので、贈り物は大抵、彼女が
そのとき気に入っている思想家の、貴重本とかになった。
おかげで卒院までには、彼女の部屋の書棚は随分充実してしまったようだ。彼女の
侍女から、メイファがその書棚のことを大変誇りにしていて、大切にしていると
聞いたときには、頬が緩むのを止められなかった。まあ、貴重本なのだから、
順当な扱いではあるのだけれど。

彼女が成人したら、必ず手に入れると決めていたから、待つのは思ったより
辛くはなかった。
自分が決めるものではない、国として申し入れるべし、という彼女の言葉を
言質として、彼女には内緒で婚約のための手続きも進めておいた。


そして、ごく当たり前のように、成長するに従ってメイファはみるみるうちに
美しくなっていった。
年頃の娘というのは、そういうものです、とツァイレンは言った。
その割に、まだツァイレンの言う蕾とやらは、固いままだった。小まめに口説いて
みても、「からかい無用ッッ!!」と、怒り出すのがおちだった。
そのへんも、そういうものです、とツァイレンは、泰然として言った。

みるみる間に美しくなってゆく娘、それも、強くて優しくて、まわりを自然と
明るくしてくれる女の子が男ばかりの中にいるのだから、年頃の男共が全て
大人しくしているはずもなかった。
異国の姫君が高嶺の花でも、皇族の僕が牽制していても、何とかメイファに
近づこうとする奴は後を絶たないので、目に余る奴から潰しておいた。
まあ大したことをしなくても、体に傷をつけなくとも、相手は大体貴族の
ぬるま湯育ちの坊ちゃんなのだから、すぐに僕のことは、逆らわない方が
いい相手だと認識してくれたようだ。

そういうわけで、学院内では比較的平和に過ごせていたから、少し油断していた
かもしれない。
護身の法でも基本的なそのことを、すっかり忘れていたのだ。
本当に手ごわい敵は、音もなく静かにやってくるという事を。 

 

 


        ───続く───

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最終更新:2010年09月02日 15:02