メイファは朝貢国から差し出された、人質の姫だった。
ほとんどの朝貢国は恭順の証として、王族の子を人質に差し出す事を義務付け
られていた。
万が一、戦ともなれば惨殺したその首を前線に掲げ、敵の戦意を削ぐためのもの
であるから、人質は王の血族の女子供、つまり戦に巻き込むにはむご過ぎると
相手国、及びその国民が判断するような、ごく弱い立場の者に限られた。まあ、
中華の国たるこの国の、底意地の悪さの垣間見える制度だ。
近年はひどく平和で、朝貢までしていながらわざわざ強大なシン国と事を
構えようとする国もなく、人質が命まで取られるほどの事態は起こっていないが、
小さな揉め事にも人質は有効だ。
それゆえ、『留学』という名目でシン国の王都に集められた各国の王族の子供達は、
外出は出来ても常にシン国側が居場所を把握できるようにしておかねばならなかったし、
はかりごとを防ぐために国から侍女や従者を伴う事も許されず、代わりにシン国側から
監視をかねた侍女と従者があてがわれた。また『身代わり』なしに一時帰国する事も
許されないし、全ての親書は、ごく私的な手紙まで検閲されていた。

  *   *   *

しかしメイファには、そういった暗い影は見当たらなかった。
「ここ、空いてますか。──良かったあ! 今日もシュンレン様のお隣の席を許される
なんて、光栄です!」
僕の隣は、いつでも空いている。
学年が違っても同じ講義はいくつもあって、そのたびに僕達は、隣の席に座った。
辺境国での教育では、学院の講義に必要な知識がいくつも抜け落ちていて、この
お姫様の知らない部分を補って説明してあげると、彼女は面白いくらいに吸収した。

説明と引き換えに僕は、メイファの祖国の話を聞いた。
彼女は随分と、お転婆だったみたいだ。
木から落ちたり、崖から落ちたり、沢に落ちたりは日常茶飯事、と聞いて、ハリ国
ではそもそも王族が気軽に出歩ける事に驚いた。かの国では王族は絶対的支配者
ではなく、頼りにされる調停者に過ぎないらしかった。
華美を好まず、清貧を愛し、民が飢える時には共に飢える。そのために、王都に
来たばかりのメイファは、同じ年頃のシン国の貴族の子に比べても、ひどく
痩せていた。
それでもその瞳はいきいきと輝いていて、彼女の育った国──神々が棲むと
信じられているという山々の麓の国──の暮らしの話を聞いているのは、ひどく
楽しい時間だった。

「そんなにのびのびと生きてきたのに、この王都に来て、監視…じゃなかった、
護衛にいつもついて廻られるのって、窮屈じゃない?」
「いいえ? シン国の従者も侍女も、本当によくしてくれます。
わたしがここにいることが、少しでも祖国の役に立つなら、嬉しいです!」
メイファには、陰湿な政治の駒として囚われても揺るがない、強さがあった。
祖国のために尽くそうという気概と矜持も。

それも、愛されて育ったがゆえか。
メイファは笑うときはいつでも、顔全体をほころばせて、とろける様に笑う。
その笑顔を見るだけで、彼女がどれだけ溢れるような愛情を注がれてきたか、
目に浮かぶようだ。
後宮では、こんな風に笑う娘は、滅多に見かけない。
おそらく彼女が今まで生きてきたのは、安心で、安全で、善意と愛情に溢れた
世界。世の中の暗さ、悪意、猜疑心のような、澱んだ黒いものは、きらきらと
したその瞳にはあまり映ることが出来ないようだった。だから、メイファの前では、
誰も彼もがいつもより少しいいものになったような気がしてしまう。
つま弾き者の僕と一緒に居ても、そんなメイファに悪意を向けられる者などは
居ないようだった。少なくともこの学院の中には。


──羨ましい。
ごく反射的に、そう思った。
僕はこのシン国の皇族として、ひどく恵まれた暮らしをしているはずだ。だから
安易に、立場が違う者のことを羨んではならないと、ジン・ツァイレンからいつも
言われていた。
それでも、そう思うのを止められなかった。
羨ましい。羨ましい。──ずるい。
どうして、こんなにも違うのだろう。愛されて、愛されて、誰からも好かれる
小さな姫。
僕と何と違うのだろう。幼い頃から暗がりの中に居た僕は、このまま薄闇の中に
居続けるしかないのか。
心の奥が、ちりちりと痛んだ。

「──ほほう、それで、生い立ちのあまりの違いに苛つくけれど、無視する事も、
嫌う事も出来ないと。
ベタですね。物凄く、ベタですね。
まさかシュンレン様が、ここまでベタで来るとは、思いもよりませんでした。」
休憩で熱い茶を啜りながら、ツァイレンはからかうように言った。
「ベタって、何が。」
話の見えない僕は、少し憮然として聞き返す。
「恋の、始まりがですよ。」
「こ…恋っ?!」
「何を今さら。進級してからというもの、その姫君の話しかしてないじゃ
ありませんか。」
「いきなり、何を言い出すんだ、ツァイレンっ?!」
そうは言うものの、声が異常に上擦っているのが、自分でもありありと分かった。
「いえ別に、いいんですけどね、いつ自覚しようと。
見ている分には、面白い事に変わりはないし。」
ツァイレンは、泣きぼくろのある眼を細めて微笑った。
「そんな…単にメイファは、誰からも好かれる娘で…。」
そう、あんなに可愛くて、明るくて、愛されてる娘は、誰からも好かれるはずだ。
誰からでも。僕で、なくとも。
思考は、そこだけを中心にくるくると廻った。

──メイファに手を出さないこと。
僕が彼女の同期生達を脅しつけるようになるまではそう長くはかからなかった。

「本当に、僕って、性格悪い…。」
メイファのように他人の長所や美点を見つけてやることは苦手で、他人の弱みを
握ったり、脅したりするのは得意。いつだって、他人の暗い部分、澱んだ心ばかりが
見えてしまう。
誰もが僕から、距離を置こうとするのも頷ける。
でも僕は、メイファのようには、育たなかった。あんな風に、安心と安全に守られて、
愛情に満たされた記憶なんて、無い。
僕はこのままで、何とか生きていくしかないのだろう。

それでもメイファのよく通る涼やかな声で、「レン…」と呼ばれるのは、悪くなかった。
親しい人からは、そう呼ばれている、と彼女に言ったのは、半分本当で、半分嘘。
僕の親しい人間なんか限られていて、ジン・ツァイレンやカオ家当主は臣下の身分
なので、親しげに読んだりしない。ほかの母の違う兄弟たちも、親しげに呼び交わす
仲の者は居らず、そうやって僕を呼んでいたのは、ただ母上だけだった。

  *   *   *

「レン…」
ひどく近くで、僕を呼ぶ声がする。あの辺境国から来た、小さな姫君の声だ。
彼女の声でそう呼ばれると、ひどく胸を締め付けられる感じがする。
「──メイファ。」
頭をめぐらせて彼女の姿を認めると、熱く沸騰するような感情がわき上がる。
震える指先で、彼女の柔らかな頬に触れると、彼女は恥ずかしげに目を伏せた。
桜色に染まる頬と、長い睫毛がひどく扇情的で、掌をその頬に沿わせて、もっと
よく見ようと顔を近づける。
「可愛い…。」
今はただ、そんな単純な褒め言葉しか出てこなかった。
瞳を僅かに上げたメイファと、近い距離で視線が絡み合う。いつも強い意志を宿す
その瞳は、今は少し潤んでいて、僕を誘うように瞬きしてまぶたを震わせる。
「メイファ…君が好き。」
僕はその瞳に吸い込まれそうになりながら、うっとりとして愛の言葉を囁く。
唇を彼女の頬に触れるか触れないかの軽さで幾度も落としながら、優しく華奢な
体を抱き寄せる。
メイファの身体は細くて軽くて、でも王都に来てからのこの半年のうちに、女らしい丸みも帯

び始めていた。
「レン…嬉しい。あなたの、思うままに…。」
その瞳に浮かぶのは、羞恥と期待と信頼の色。僕は眩暈がしそうなほどの幸福感に
満たされて、そのやわらかな唇に自分の唇を重ね──

──そして。

目が覚めた。

目覚めた僕を待っていたのは、いつもどおりの自分の寝台。、天蓋つきのそれは
一人には広すぎるほどで、四方に垂らされた薄布の隙間から朝日が射していた。
掻き抱いていた寝具を払いのけて起き上がると、僕は自嘲気味に呟く。
「最低…。」
先程まで胸を満たしていた幸福感は泡沫のように消え、代わりに砂を噛むような
空虚感が広がっていた。

その日はもう、学院に行く気力は無かった。
かといって、起こしに来た侍中に逆らう気力も無く、身支度を整えて外出する
…ように見せかけて宮中に戻り、ジン・ツァイレンの居室を訪ねた。
ツァイレンは、若い女官達を集めて、演奏の指導だか音合わせだかをやっている
最中だった。
「ツァイレン…、今日は一人で居るのは辛いんだ。ちょっとここに居させて
もらえないかな。」
「おや、シュンレン様。朝からサボリのときは『秘密基地』に行かれるのでは?
…でも、今日はいらっしゃると、思っておりましたよ。お待ちしておりました。」
ツァイレンが居並ぶ若い女官達に目配せすると、彼女達は楚々として楽器を片付け、
しずしずと房室を後にした。


僕は彼女の言葉尻に引っかかりを感じて、そこだけ繰り返す。
「…来ると、思っていた?」
「件(くだん)の姫君と、諍いを起こされたとか。」
ツァイレンはこともなげに答えた。
「な…っ…、何で知ってるんだよ! ほんの昨日のことなのに!」
「後宮の女官の情報網を、甘く見られないほうが宜しい。
われらは後宮からは滅多に出られませぬが、外のことを見聞きする手段は、
持っているのですよ。」
彼女は使っていた楽器の手入れを始めながら、悠然と微笑った。
「女官、侍女、下女、飯炊き女…どこにでも、使われる女というのは居るものです。
我らは弱い存在ゆえ、助け合っておるのです。」
後宮の女官の中でも屈指の権力を持つ才人[ツァイレン]であり、常に毒舌を
吐く彼女が弱い存在とは思えなかったが、彼女はときおりこういう物言いをする。
「ツァイレンの言う通り、メイファと喧嘩して──というより、僕が一方的に
嫌われるようなこと、したんだけど──そのことを考えると、顔を合わせづらくて。」
「ほう、ほう。あのお気に入りの姫君に、一方的に嫌われるようなことを。しかして
それは、いかなる理由で?」
ツァイレンは両の口角をくいと持ち上げて、目を輝かせた。明らかに面白がられて
いるが、こんなときに話し相手がいないよりましだ。
「──いつか嫌われるのが、怖かったから。」


いつから、あの小さな姫に、こんなにも捕われてしまったのだろう。
もしかすると、最初に会ったときからかもしれなかった。
逢うたびに、ひどく楽しくて、心が浮き立って。
こんな相手は初めてで、それを恋と勘違いしているのだと、自分に言い聞かせようと
したけれど。
どこに居ても、目で追って。
いつでも何をしているのか、気になって。
近づけば、触れたくて。
心に思い浮かべるその姿が、実際の年齢よりも艶めいたものになってゆくにつれ、
自分の心を認めざるを得なくなってきた。

女に触れるのは、はじめてではなかった。
母も居ない僕には、行動を細かく制限するものも居ない。
色街の方も、相手が子供でも、特殊な身分でも、いくらでも抜け道は用意していた。
だから、精通が始めればすぐに、そういう場所にも行ってみた。『愛』と呼ばれる
こともあるその行為に、なにがしかの期待をして。

結果は、惨憺たるものだった。
僕の会った遊び女の誰もが、『どこも見ていない』目をしていた。
覗き込むと、その中の大きなうつろに、飲み込まれそうだった。
互いにほとんど視線を合わせないまま、身体を重ねた。
あとでジン・ツァイレンに、たしなめられたものだ。
「そういう場所で、女の目を覗き込むものではありません。
遊び女というのは大抵、女の中でも最もひどい境遇に苛まれている者達
なのですから。」
それでも、そういう場所でもなければ、発散され得ない熱というのも、確かに自分の
中にはあって。
行った後には、ひどく暗澹とした気分になったものだった。

もし、あの女たちのかわりに、メイファとそういうことをしたらどんな気持ちだろう。
くるくると良く動く瞳で僕を見て、あの綺麗な声で僕の名を呼んで。
少し想像しただけでも、沸き立つような感じになる。


でも、現実のメイファは、ひどく純粋で、よこしまな想像を寄せ付けないほど、
清廉だった。これだけ周り中男ばかりでも、いや、それだからこそか、色恋には
全く興味がない様子で。
むしろ、未婚の男女の間での色恋など、害悪以外の何者でもないと、敵視していた。
そんなメイファの夢は、結婚せずに、祖国に帰って政治に携わること。
確かに、結婚して妻になるだけなら、こんなに厳しく学問を修める必要もない
だろうけど。
彼女がわくわくするようにそんな夢を語るとき、僕はいつもひどく疎外されている
ような気分に陥るのだった。

そして、前期の成績発表の日。
予想通り、メイファは上位の成績を取っていた。まあ、当然だ。
他人事ながらほくそ笑むのを止められない僕を、メイファが呆然とした眼で
見つめていた。
「何故…?」

あれ? 何が?
僕のほうの成績が?
というか、今まで知らなかった?
──ありえない。
僕が奇行癖の持ち主で、常に下位成績しか取らず、真面目とは無縁の性格だと
いうことを、知らない者は居ない。メイファと同じ、入ってすぐの学年でも。
確かにメイファに対しては僕の噂話をやたらと流さないように、とは同期の子達に
言っておいたが、漏れ聞こえてこないようなものでもない。
おそらくメイファは、みずから耳を閉ざしていた。
「噂は真実を映しません。だからわたしは、レンから直接聞いたことだけを信じます。」
メイファは、そうも言っていた。彼女の中では、誰しも長所は大きく、短所は
小さく映って少しいい奴になってしまう。
彼女の中の僕はいったいどんな人間になっているのだろう。そいつはきっと、心の中
までキレイ過ぎて、僕とは友達になれないような気がする。
本当の僕は、こんなにも、暗く、汚く、澱んでいるのに。

──本当の僕を、知られたら?
軽蔑されるだろうか。失望されるだろうか。もうあんなきらきらした視線を、貰えなく
なるだろうか。
そう考えると、もうどうしていいのか、分からなくなった。
どんな顔をして会えばいいのかも、何を喋っていいのかも、分からない。

そして。


「ほう…。それで、姫君の嫌いそうな、春画を贈られたか。
つまりはあなた様の汚い部分を見たらどうするか、という謎かけでもあったのですね?
──で、振られたと。」
「ツァイレンはさあ、ほんっと、人が弱ってるときも、容赦無いよね?!」
「それはまあ、あまりに、面白すぎますゆえ。
シュンレン様は、悩みは歳相応に少年らしいのに、春画などと。やることはオヤジで
ありますな。」
「うるさいなっ。どうせ僕は、薄汚いよ。」
「薄汚い部分は、最後まで隠しておくものでしょうに。全てを認めて欲しいとは、
理想主義とい申しますか、意外と潔癖症と申しますか。」
「うう…。隣に座る娘もいないのに学院に出て行くのなんかもう嫌だ…。」


「早めに謝っておかれたほうが、宜しいと思いますよ。」
「謝ったからって…。既に嫌われているし、わずか数年で、また遠くの国に帰って
しまうのに。」
「恋は盲目と申しますか…。シュンレン様はその辺の事情がお分かりにならぬ方では
ないのに。
それとも、恋した姫君の願いは何でも叶えてあげたいのですかね。
姫君は、おそらく祖国へはお帰りになれないと思いますよ。帰られても、
ほんの一時的なものになりましょうな。」
「どうして。あんなに純粋に、祖国のために尽くしたいと、願っているのに。」
「姫君の生き方というものは…御本人が、お決めになる事ではないのですよ。
大抵の、女と一緒でね。
祖国の為にというならなおさら、このシン国と縁を結ぶよすがになるか、
あるいは近隣国と、か。
姫君に嫌われたままですと、この宮廷内で、ご兄弟のどなたかに嫁がれた姫君と
将来も顔を合わせねばならず、気まずい思いをなさる事になるやも知れませぬよ。」
「政略結婚…って、何でそこで他の兄弟に嫁いでしまうことになっている? 
僕でもいいだろう?」
「ですから、嫌われたままですと、と申し上げております。」
「く…っ、もう少し、早く言ってくれれば…!」
「普通でしたらシュンレン様は、ご自身でお気づきになられておりますでしょう。
道理も見失うほど、その姫君に夢中になっておられるとは…。ふふ、面白い。」
ジン・ツァイレンは、心配しているのではなく面白がっているのだということを、
今更隠す気もないようだった。

たった十二歳で、人質としてひとりこの国に差し出されている、小さな姫君。
どんなにか不安だろうに、あまりに純粋に祖国に帰ってからの夢を語るので、
この国に無理矢理引き止めるのは、残酷に思えた。
でも──政略結婚なら、シン国にも、メイファの祖国、ハリ国にも利がある。
第一、二十一番目の皇子と、辺境国の姫君なら、釣り合うように思えた。相手が
十二歳という若さでも、婚約だけなら問題ない。
僕はすぐに、この考えに夢中になった。
一旦嫌われてしまったけれど、時間をかけて、何とかして。

ただ、怒らせたときのメイファの、傷ついたような泣きそうな顔を思い出すと、
どうやって関係を修復していいかわからず、足が動かなくなって、そのまま自室に
留まってしまう。なにしろ、自分から誰かとなにかの関係を持とうとしたことなど、
皆無なのだ。
そのままうだうだと、三日ほど学院をさぼって過ごした。

そうこうするうち、三日目の夕方、訪問客があった。
客人の名を聞くと僕は飛び起きて、着衣を整えて足早に応接の間に向かった。
そこには従者を二人、後ろに控えさせて、応接卓の椅子にメイファがちょこんと
座っていた。
放課後にここへ寄ったのだろう、いつもと同じに、立て襟のぴったりした服を着て、
髪をきっちりと結い上げて。
背筋をぴんと伸ばして、大きな瞳でまっすぐ前を見つめていた。






        ───続く───
 

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最終更新:2010年09月02日 14:16