幼い頃から、人の顔色ばかりを気にしていた。
一番初めに気にしたのは、母の顔色かもしれなかった。
なにしろぼくが物心ついた頃にはすでに、母は病床に伏せりがちだったのだから。
本当に母は、いつ消えて無くなるかわからないような風情だったのだ。

ぼくの父は、この中華の国、シン国の皇帝だ。
母は、歌の上手い宮女だった…らしい。そこから妃となり、男の子を一人産んだ。
それがぼく、シュンレンだ。
僕にとって、母の歌とは、子守唄だった。病床においてもなお、優しく甘く響く、
母の調べ。
子供心にも、母は他の誰より美しく、優しかった。

皇帝陛下──父も、母を愛していたようだ。いわゆる、寵愛というやつ。
けれど、帝国の一番偉い人にもなると、それは単純にはいかないもののようだった。
皇帝陛下には、何人もの妃がいるのだ。誰か一人にかまけてしまうと、当然
おろそかになる妃もいるわけで。
さらに後宮というのは、広いとはいえそれらの妃がひとつところに集められていて、
女達は自由に外出を許されているわけでもなく、籠の鳥。
それぞれが、既に鬱屈しているのだ。やることといったら、寵を争うか、気晴らしに
下らない遊びに興じるか、気に入らない者をいびり倒すか、あるいは誰かを呪うか。
それくらいしか、やることがないのだ。

母が亡くなったのは、ぼくが五歳のとき。
病で弱った末に、臨終間際に父の臣下の邸(やしき)に移って、そこで最後を遂げた。
死と病は穢れとされていて、皇后以外の妃は、死病を患えば生家に戻されるのが慣例だ。
ただ、母は生家との折り合いが悪く、ほぼ絶縁状態。生家に戻る事はどうしても拒否した
ようだ。
その代わりの役目を引き受けたのが、カオ家だった。貴妃の生家が得る特権と引き換えに、
その後もカオ家はぼくの後見も引き継ぐ事になる。
あくまで表向きは、母は生家に戻った事になっていたけれど。

母は死ぬ間際、こうなったのは誰のせいでもない、誰のことも恨まないで…と言った。
本当に、そうだろうか?
母が後宮の貴妃たちから疎まれていることは、幼い頃のぼくでも肌で感じていた。
勝者には嫉妬を、敗者には嘲りを。
皇帝の寵愛を一身に受け、その後病を得て死に近づいてゆく母には、そのどちらもが
浴びせられた。
誰が毒を盛っていても、誰が呪っていても、おかしくはなかった。たとえそうでない
としても、弱ってゆく体で、暗く澱んだ感情の渦巻く後宮の中に居続けることが、母の
健康に何の害も及ぼさなかったとは、とうてい信じられなかった。
皇帝陛下その人も、母がここまで憎まれる原因を作ったともいえる。この後宮の中で、
もう少し上手く立ち回れなかったものか。


そんな中で、誰も恨まないで…という母に、幼いぼくは言いたかった。
かあさま、ぼくはまだ五歳なんだよ。聞き分けのいい振りをしているだけで、本当は、
わがままばかり言っていたい、子供なんだ。
言いたかったけれど、明らかに生命の輝きを失いつつある母には、何も言えなかった。
何も言えずに、ただ頷くしかなかった。
憎しみで心を一杯にした方が、悲しみに耐えるのもずっと楽なのに。
確かに、憎しみで心を真っ黒に染め上げた人たちというのは、綺麗でもないし、幸せ
そうでもない。しかし、それに気づいたからといって、心の中に開いてしまった大きな
空虚(うつろ)は、埋めようもなかったけれど。


母がいなくなってしまうと、ぼくは、澱んだ空気の後宮内で、独りぼっちになった。
私室は──六歳になれば、誰もがそうするしきたりなのだが──母の居室のそばの
房室(へや)から、内宮と呼ばれる、皇子、皇女の私室のある宮へと移った。もっとも
そこは、衣食住全てが後宮の管轄で、後宮の一部のようなものなのだが。
母の最期を看取ったカオ家がぼくの後見を務めることになったが、そのほかにも相談相手
として、母の親友だったというジンという姓の宮女のところへの出入りが許された。
折しも、後宮内の空気は、ひどく不穏だった。
皇后は子宝に恵まれず、たったひとりの皇子──当時の皇太子──は、虚弱だった。
病に伏せってばかりで、長くはないと噂される皇太子に代わって、最も有力視されて
いたのは、柳徳妃[リウ・トゥフェイ]の息子、クェンイン兄上だ。彼は年齢こそ一番上
ではないが、健康で、文武に優れていた。
ただ問題は、リウ徳妃が、権力志向の強い女性だった事だ。
彼女は降ってわいた好機に夢中になり、息子の競争相手を蹴落とす事に躍起になっていた。
元々権力の中枢は暗殺などの危険に晒されやすいが、この頃は外部の敵の仕業に見せ
かけた、内部の犯行が最も危険だった。毒殺でも、刺客でも。
だからぼくは、必然的に、強さを求めた。

  *   *   *

そんな中でも、僕はどうにか十二歳まで育つ事が出来た。
前皇太子の病没によって僕が七歳のときにクェンイン兄上が立太子してからは、後宮内も
ようやく落ち着きを取り戻した。
自分が『他人の表情を読む能力に長けている』ということに気づいたのもその頃だった
だろうか。
否、僕が普通にやっていることが誰でもできることではないということに、その頃やっと
気づいたのだ。だって、誰でも相手が笑っていれば嬉しいのだと、泣いていれば悲しいの
だと、判断しているだろう? 
ただ、人の心の動きはそれよりちょっと複雑なだけだ。
ほんのちょっとだけ気をつければ、悲しみにくれて泣いているのか、悲しんでるように
見せかけるために泣いているのか、あるいは他の感情がどのくらい混じっているのか、
すぐに分かる。
それは多分、人の顔色を窺う事を繰り返したが故の観察力に過ぎないのだろうけど。


「ジン・ツァイレン、いる?」
母の親友だったジンという女官は、その頃には高位の女官だけに与えられる
才人[ツァイレン]の位を得ていた。その位に敬意を表して、ジン・ツァイレン、あるいは
単にツァイレンと呼ぶようにしていた。
彼女は僕の生まれる前から後宮にいて、母と同じ尚儀、つまり外交用の楽曲や舞を行う
部署に属していた。
母のことも、母と父のことも、僕のことも一番よく知る人物で、当時の僕の相談相手
といえば彼女か、血の繋がらない後見役であるカオ家当主くらいなもので、僕は割と
頻繁にジン・ツァイレンのいる尚儀の房室に出入りしていた。
彼女は今でこそ後宮で才人[ツァイレン]という高位を得ているが、出身は貧しい農村で、
その人生はどこをとっても壮絶。頭も良く、辛辣で、常に貴族出身の者達とは一風
違った見方を示してくれる、申し分のない相談相手だった。
僕が訪ねると、ジン・ツァイレンは大抵なにがしかの楽器を弾いていて、後輩の女官達に
教えているときもあった。
一音一音大切に弾いて、気に入らない節は何度でも戻って、納得いくまでやり直す。
練習中を覗いて何が面白いのかと問われたこともあったが、華やかな表舞台を支える
地味な練習が見られるのは、ある意味特別な気がして、とても好きだった。
「おや、シュンレン様、いらっしゃいませ。」
ツァイレンは背が高く、少しやせぎすな女性だった。彼女は泣きぼくろのある切れ長の
目を細めて、女官らしい上品さで微笑んだ。

「貴族の子弟の通われる『学院』とやらに入院なさったようですが、その後いかがです?」
「うん、順調にさぼってる。」
「それは重畳。」
母は、権力争いに対しては『目立たず居るように』と言い残していた。それは今でも、
正しかったと思っている。後宮に長く居るジン・ツァイレンも、同じ意見だった。
皇位継承順は、さすがに皇太子だけは血筋が考慮されるが、それ以外では徹底した
実力主義で決められており、実質的な序列を示している。それは学問・武術・実務の
能力で決められているので、好成績さえ残さなければ簡単に順位を落としておく事が
出来る、ある意味便利でわかりやすい物差しだった。
その頃シン国の皇子は二十三名で、僕は二十一位だった。
後見のカオ家もけして上級貴族とは言えないし、母の出自も下級貴族だ。だが、母が
特別の寵愛を受けていたというだけで、僕は危険視され易かった。実際、十二までの
一対一の教育も、十二で学院に入ってからの講義も、さぼれるだけさぼっていたが、
そのことで皇帝である父上から何か言われた事はなく、特別扱いを感じさせた。

「さぼった間はどこへ?」
「カオ家の離れを一室空けて貰って、そこで過ごしてる。蔵書も一通り持ち込んであるし。」
「ほう…、秘密基地ですか、それはうらやましい。」
「秘密くらい持たなければ、息が詰まるよ。」
実際、カオ家にいる時間は、貴重な息抜きの時間だった。
自分を偽る必要もなく、自由に難書を読みふけった。
武術の基礎を習得したのもここだ。カオ家当主が、僕の求めに応じて、武術指南役を
配してくれたのだ。
通常の剣術の修練も当然行ったが、何よりもまず必要だったのは、子供の僕が、大人の
刺客に対して護身できる術──隠し武器、暗器だった。
もしものとき、一対一で勝つには、まだ僕は子供過ぎた。それでも、最初の一撃をかわし、
相手の意表をつく事が出来れば、あとは護衛の出番のはずだ。
シン国は強大な帝国で、内にも外にも、いくらでも敵は居た。後宮内部も勿論危なかったが、
外の方が安全という事もなく、皇子、皇女の誰かが命を狙われるのは日常茶飯事だった。
皇位継承順位が低ければ権力争いからは遠くなるが、護衛という点では後回しにされがちで、
僕はいつも、ツブテやら、毒針を仕込んだ小箱やらを持ち歩いていた。
当然、それは最後まで取っておくべき最終手段で、実際に使うような羽目に陥ったのは、
ほんの数回だったけれど。


「学院では、武術も教えて貰えるのでしょう?
素人の振りをして、皆に混ざっておけば宜しいのに。」
「嫌だよ! あんなぬるい奴ら。
多分、生まれてこのかた、生命の危機にさらされたことなんか、一度も無いんだよ。
隙だらけで、イライラする。あんな奴らに、手の内を見せる必要もないし。」
少し声を荒げた僕を、ツァイレンは面白げに眺めつつ、薄い唇を開いた。
「これは手厳しい。
進級のときは、どうなさるおつもりで?」
「本試験はさぼっておいて、人が少なくなってから追試を受けようと思ってる。
いい成績を取る必要はなくて、ギリギリで受かればいいしね。」
「シュンレン様は、用心深いこと…。」
ツァイレンは、どこか謎めいた笑みを浮かべながら、長い指で筝を爪弾いていた。


その後一年は、大事も無く、つつがなく過ごした。
残念な事に、非常に残念な事に、シン国の中でも特に優秀な貴族の子弟を選抜して
入れている筈の学院にも、僕が自分から、どうしても友人になりたいと思うような
人物は居なかった。
親にでも言われたのだろう、嫌そうな表情を浮かべて、友達顔をしてきた奴らは、
突き放した。
それ以来、自発的に僕に近づく奴は居なかった。
「シュンレン様は、少し人嫌いでいらっしゃるな。」
そんな僕を見て、ジン・ツァイレンはそう言った。
「違うよ。僕が人を嫌いなんじゃなくて、まわりが僕を嫌いなんだよ。」
十二にもなれば、もう判り始めていた。自分が人に好かれる性質ではないということを。
継承順位を低く保つために奇行を重ねているせいもあったが、面と向かえば、誰の目にも、
どこかしらおびえの色が浮かんでいるのが見て取れた。


「そういうところ、イェンに似ていますね。すこしだけ。」
「…母上に?」
ツァイレンは、母のことを、女官時代の通称の芙蓉の君でも、貴妃としての名、
紅昭儀[ホン・チャオイー]でもなく、いつもごく親しげに、イェン…と下の名前で呼んだ。
「母上は、人気者じゃなかったの」
「大層な人気でしたとも。彼女の唄にも、美しさにも魅かれる者たちは多かった。
けれど同時に、才あるものの悲哀も、嫌というほど知っている人でした。」
ツァイレンは少し遠い目をして語った。
「彼女は何をしても抜きん出ていた。わたくしは彼女ほど努力する人を見たことはないけれど、
彼女をよく知らない人々は、その唄も美しさも寵愛も、何の努力もなしに得たものとして妬んだ。
彼女の周りの者たちは、彼女を信奉するか、彼女を憎むかの両極に分かれましたね。」
それからおもむろににやりと笑って、
「まあでも、わたくしがイェンの信奉者の筆頭ですがね。わたくしほど、彼女を愛した者は居ない」
と、誇らしげに付け加えた。
「ああ、わたくしのイェン! 誰よりも美しくたおやかで、この上なく優しかった…。
あの…っ、あの男さえいなければ、わたし達は今も一緒に居られたのにッ!!」
女の園歴の長いこの女官は、時々ちょっと言動が怪しい。さらにノッて来たようで、個室
だからいいものの、この国で一番偉い人もあの男呼ばわりだ。
「でも、親友は居たんだね、ツァイレンのような。」
いつまでもその死を悼んで、息子の相談役まで引き受けてしまうほどの、情の濃い親友が。
「イェンは、誰にでも優しくしてくれる人でしたから。彼女の敵にさえも。
シュンレン様も、周りに優しくなさってみれば宜しい。その中から、友人になる方も
見つけられるでしょう。」
「…そうかな」
そうは思えなかった。
「僕はずっと、こんなな気がするよ…。
誰と居ても、どこに居ても、自分が異質で、受け入れられていないのが分かるんだ、
自分でも。
時々思うんだ、もし大人になっても、結婚しても、こんな風に受け入れられないまま
生きていくのなら、そんな人生に、意味はあるのかな…?」
「シュンレン様は幸い、お相手を選ぶ方の立場であらせられます。
貴方様を好きになってくれるお相手、貴方様が好きになれるお相手をお選びになり、
うんと優しくして差し上げれば宜しい。」
「いるかな、そんな都合の良い相手が。」
「居りますとも。シュンレン様は表情を殺して地味に見せておられるが、イェンの息子で
あられるので、お顔立ちもよろしい。
陰のある雰囲気も、ひねくれた性格も、それなりに女心をくすぐりましょう。
女官出身で宜しければ、お年頃になられた頃に、家柄の良い者を見繕って御紹介
いたしますよ。」
微妙に褒めてるんだかけなしてるんだか分からない、それがいつものツァイレンの褒め方だ。
けれど、この頃の僕は、いつも周囲との間に居心地の悪さを感じていて、誰かと濃密な
関係を築くことが想像できなかった。
そう、あの時までは。

  *   *   *

春になれば、貴族の子弟のための学院は、卒院生を送り出し、新しい生徒を迎える事になる。
昨年入ったばかりの僕は、人の入れ替わる慌しいこの時期は、初めてだった。
王都にも学院にも不慣れそうな新しい学院生達が、きょろきょろと辺りを見廻しながら
うろついている。彼らは不案内ながらも触れてはいけない相手の噂はしっかりと仕入れて
いるようで、僕のことはやはり遠巻きにして近寄ろうとはしなかった。
ただ、一人を除いては。

新しい学期が始まってすぐはさすがにさぼれなくて、大人しく出席していたある日のこと。
背が低くてやせっぽちの子が、講義で使う書物と、大きな硯箱を抱えてよたよたと歩いてきた。
僕の隣の席にそれを重そうにどさりと置いてから、高くてよく通る声で、
「ここ、空いてますか?」と聞いてきた。
僕の隣は大抵、空いている。頷き返すと、その子はぱあっと、こぼれるように笑った。
そのときやっと、僕はその子が女の子である事に気づいた。高等な教育機関であるこの
学院は、ほとんどが男子ばかりだ。女の子にわざわざ学問をさせようなどと考える貴族は
少ないようで、全体で百名近くにものぼる学院生の中でも、女生徒はほんの数名しか居ない。
その子は長い黒髪をきっちりと結い上げ、シン国ではあまり見かけない、体にぴったりした
立て襟の服を着ていた。
大きなくりっとした目で僕のほうをじっと見つめて、初対面である事を確認すると、その子は
おもむろに口を開いた。
「おはつに、おめもじ、つかまつります。
ハリ国よりまいりました、ラン家三女第六子、メイファと申します。以後、おみしりおきを。」
そういってその子はぺこりとお辞儀をする。
おそらく何度も繰り返したのだろう、たどたどしいなりに、はきはきとした自己紹介で、
シン国の公用語の発音もはっきりと出来ていた。

──なんだろう? この可愛い生き物は。

それが第一印象。
僕が十三歳、メイファが十二歳の春だった。




        ───続く───

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最終更新:2010年09月02日 14:13