とある昼下がり、セシリアは、長いこと掛かりきりだった刺繍の作品を
ようやく完成させて上機嫌だった。
それは、白いリボンに白い絹糸で複雑な花模様をかがったもので、母親の祖国であるノイス王国の伝統的な嫁入り道具の一つだった。
とはいっても、まだセシリアには結婚する予定はない。

「まあ、素晴らしい。初めてとは思えない出来映えでしてよ」
侍女のトルテは、リボンを手に取り、花模様をなぞりながら、感嘆のため息をもらした。
「ええ、ありがとう。これで少しはお母様のがお気に召すといいのだけど」
手放しで褒められて、セシリアはにっこりと笑った。

実は、刺繍のような集中力のいる作業は大の苦手だった。
だいたい、このリヴァー王国では、刺繍をたしなむ良家の娘は数少ない。
しかし、母にノイスでは王女の当然のたしなみだと強要されれば、努力するしかなかった。

セシリアはフィールド公爵の一人娘だ。
公爵は、もともとは先々代の王の息子で、まぎれもない王子であったが、何かと火種になりやすい王位継承問題を避けるため、結婚を機に爵位を賜わり、王都に邸宅を構えていた。
一方、セシリアの母親は寒冷な北方地方のノイス王国の第三王女だった。
両親とも、王家の血を引いていることに並々ならぬ誇りを持っていたので、双方の王家における慣習や儀礼に基づき、セシリアに教育を施していた。
おかげでセシリアの苦労は二倍であった。

「今から宮殿に行くわ。マリアンヌにこれを見せると約束していたのよ」
セシリアは裁縫道具を片付けると、うきうきと立ち上がった。
マリアンヌとは現王ユーリ二世の娘で、つまりは正真正銘の王女だ。
二つ上の彼女は、セシリアとはまるで姉妹のように仲がよかった。
「セシリアさま。その前に、公爵様と奥方様に報告しなくては、だめですわよ」
「わかったわ。では馬車の用意だけお願いね」

セシリアはあまり気乗りしなかったが、仕方なく父親の書斎へ向かった。
きちんと閉じられていない扉から、そっと部屋を覗いてみると、父の姿は見えなかった。
奥の間にいるのかもしれない、と思いセシリアは中に入り込んだ。
壁にかかっている鏡を見ながら、セシリアは手にしていたリボンで手早く髪を飾った。
長いリボンをうまく束ねるのは少々時間が必要だった。

「ああ、そうだな。それがいちばんいい」
奥の間からお父様の声がする。誰と話しているのだろう。
セシリアは鏡の中の自分を見つめ、いろんな髪型をためしてみながらも、耳をすました。
「あと一年は待ってもらったら、セシリアには立派な教育がかけられますわ。
嫁入り道具だって、王家の娘に恥じない仕度ができます」
お母様だ。何を言っているのかしら。
自分のことが話題になっているのに、気がついてセシリアは奥の間の扉ににじりよった。
そして、信じられない話を耳にしたのだった。


気がついたらセシリアは、王城の図書室にいた。
父母との面会も忘れて、書斎からふらふらと戻ったあと、トルテが用意してくれた馬車に乗り、都の中心である王宮の門をくぐりぬけたのである。
三日と開けずにマリアンヌのもとへ訪れているため、御者と門番は顔なじみであり、セシリアが采配を振るわなくとも、まるで流れ作業のようにスムーズにたどり着けた。
とはいっても、いつものようにマリアンヌのいる秋の宮を訪ねる気にはなれず、セシリアは西の宮の図書室へと逃げ込んだ。
西の宮は王族とその近しい家臣以外は立ち入り禁止区域の離宮であった。
おまけに図書室は別に、大きな図書館があるため、いつも人気がなかった。
 
たくさんある椅子の一つに座り、まず、先ほどの両親の会話を整理しようと考えた。
私はどうやら一年後に嫁がなくてはならないらしい。
お父様とお母様の話していたことが真実ならば。

『とにかく、セシリアにはまだ言うな。あれは結婚について何も考えていないようだからな。抵抗されてはかなわない』
『そうね。何しろ、二十九歳も年が離れているなんて、あの子が驚いてしまうわ』
『おまけに、ノイスは遠いからな』
『あら、何のためにノイス王家のしきたりを学ばせたと思っているのですか。あの子には、ノイスの王家の方が伸び伸びできるような気がするわ』
『まあ、まあ、とにかく。相手の素晴らしさがわかれば、セシリアも納得するだろう』
『まずは、ゆっくり外枠から埋めてきましょう。すぐにリヴァーへ手紙を送ります』

自分が知らないところで勝手に自分の人生が決められていくことに、セシリアは恐怖を感じた。
両親がリヴァーだけではなくノイス王家の教育に力を注いでいたのは、単に誇りだけではない深い意味があったのだ。
それでもセシリアは、あそこで両親の前にとび出してわめきたてなくよかったと思った。
彼らはまだセシリアが彼らの計画を知っているとは知らないのだ。
その間に、どうにか打開策を考えなくてはいけない。

「リア?」
誰かの声がした。自分の考えに耽っていたセシリアはゆっくりと顔を上げる。
そこには冷たい目をした少年が立っていた。

「エルド……」
セシリアは彼をまじまじと眺めた。
「珍しいな、リア。何をしているんだよ。」

セシリアは気が動転して、何も答えられなかった。
いつもなら、けんか腰で「リアって呼ばないでちょうだい」と叫んでいただろう。
彼がセシリアのことをリアと呼ぶのは、幼少の頃、自分の名前も満足言えなかったセシリアが自分のことをリアと呼んでいたのを真似したせいだ。
すでに大きくなり、「私」という呼称を使うようになったセシリアにとっては、あまり使って欲しくない幼名だった。
しかし、何度注意しても、エルドはそれを正してくれなかった。
そのうちリアは気づいた。彼は、セシリアが嫌がっているのを承知で、わざと正さないことを。
 
エルドは現王の第三王子で、マリアンヌの弟だった。セシリアとは同い年だ。
マリアンヌとは親友といっていいほどの仲なのに比べ、彼とはどうにも馬が合わなかった。
彼の下にも、まだ幼い弟や妹はいたが、甘やかされて育ったエルドは完全に末っ子気質で傲慢に見える。

とにかく今日はエルドと言い争う気にはなれない。
セシリアは彼を軽くにらむと、奥の本棚の列へと足を向けた。
無視された形になったエルドは、追いかけようともしない。
ちらりと彼の方を振り返ると、窓際に寄せてある書き物机に座り、分厚い本を広げていた。
いつものような口げんかに発展しそうもないのでセシリアはホッとした。無視は有効な手段だ。
 
悟られないように、エルドの後姿を観察した。
栗色のやわらかそうな髪とまっすぐに伸びた背中だけで、怜悧で堂々とした気品が伺える。
悔しいが、彼が周囲に愛され甘やかされる理由もわかるような気がした。
 
同じ年齢で、従姉弟でありながら、彼と自分の落差に絶望したくなる。
普段は王女と同等の扱いを得ることもあるが、しょせん自分は公爵の娘だ。
しかも女であるから政略結婚の道具になるしかないのだ。
エルドは、第三王子なのだから政略結婚などせずに、自分の結婚したい相手と結婚できるだろう。
暗い考えにとりつかれたセシリアは、そのまま部屋を去ろうとした。


そのときだった。
カチャリと窓が開く音がしたあと、小さなうめき声が聞こえた。
セシリアはその場に固まった。
開け放たれた窓から白い布で覆面した男が侵入してきて、あっという間に窓際にいたエルドに掴みかかった。
本に夢中だったらしい彼は完全に無防備で、抵抗する間もなく口をふさがれた。
どちらにしろ男の体格を考えるとエルドに勝ち目はなかった。
エルドは男の腕の中ですぐに動かなくなった。
 
エルド!
 
ようやく我に返ったセシリアは、自分が大変な局面の目撃者になっていることに気がついた。
誰か警備の者を呼ばなくては。しかし、あの男に気づかれずにこの部屋を出ることは不可能だろう。
 
次の瞬間の行動は、深窓の令嬢とは思えないほど素早かった。
セシリアは髪に結ばれていたリボンを外し、男の背後ににじりよった。
男は膝をつき、ぐったりしたエルドの懐を探り、何かを探しているようだった。
セシリアは両手でピンと張ったリボンを男の首に回し、思いっきり力を入れて引っ張った。
はずだったのだが。
セシリアは男に腕をつかまれた。

「きゃっ」
男の手を振り切り、助けを求めようとセシリアは扉へと走りかけた。
しかし、男はすぐにセシリアを羽交い絞めにした。
耳元から背筋が凍りつくほど冷たい声がした。
「お前は誰だ」
セシリアは怖くて言葉も出せなかった。
男はそんなセシリアを乱暴に床におしつけた。
毛の絨毯がしかれたとはいえ、セシリアの背中は痛みで悲鳴を上げた。
男は自身の膝を使い、セシリアの足首をおさえつけた。

「―――こんなものでな」 
男は自分の肩にまとわりついていたリボンを外し、セシリアの鼻先にぶらさげた。
何週間もかけた苦心の作が、はためくのをセシリアは呆然と眺めた。
「こんなもので俺を殺せると思ったのか?」 
覆面の隙間からセシリアを見下ろす目は深く暗い沼のようだった。
やがてセシリアは、両腕を頭の上で組まされ、手首をリボンできつく縛られた。

ただ震えていることしかできなかった。
頭の中で、トルテから聞いた奴隷商人の話が去来した。
高貴な血筋を持つ子女を誘拐し、奴隷市で売り飛ばす極悪人の話だ。
そのときは、遠い異国の出来事で、自分には関係ないと思っていたのに。
 
セシリアが自分の想像によって益々恐怖の底に陥る中、男の荒くてごつごつした手は、セシリアの首筋を触れた。
「ひゃっ」
何度も首の間を通る感触に悪寒がした。
セシリアが抵抗を示しても、男の手は容赦なく何度もセシリア首筋を撫で回した。
何のつもりだろう。こみあげる不快感にセシリアは息を呑んだ。
 
しかし、男がセシリアの背中に手を回し、服の紐を解き放そうとしたとき、ようやく何をされているのか理解した。
この男は私を犯そうとしているのだ。
「嫌!」
セシリアは今度こそ抵抗しようと、激しくもがいたが男はすぐにねじふせた。
まるで歯が立たない。くくっと野卑な笑い声が、耳に届いた。
口元が隠れていても、にやにやと笑っているのが手に取るようにわかる。
まどろっこしくなったのか、男は、
セシリアの服を胸のあたりから腿にかけ、思い切り引き裂いた。

「ああ、やめっ、んん」
叫びだしたセシリアの口を男は左手でおさえた。
男の右手はセシリアの素肌にさらされた乳房を執拗に揉み始めた。
セシリアは具体的な性知識を持っていなかったが、少なくとも男の行為が乱暴で性急で、自分のことなどこれっぽっちも考えていないのは理解できた。
男の手は次第に下半身の方へと下りていき、腿へと伸びていく、ひたすら恐ろしくて、セシリアは天井に描かれている模様を一心に見つめた。
直面したくない現実に、意識がどんどんと遠のいていった。

ああ、こんな男の慰め者になるくらいだったら、このまま舌を噛み切って、死んだほうがいい。 
そう逡巡しかけたとき、うめき声とともに男の体がセシリアの上に覆いかぶさった。
覆面の顔がセシリアの肩に触れ、男の体重がセシリアにのしかかる。
目を閉じて、身構えたセシリアだったが、男の動きは止まったままだ。
不思議に思い、目を開けると、見慣れた顔が飛び込んできた。

「馬鹿なのはこの男の方なのだ。俺の存在を忘れているのだから」
「―――エルド」

セシリアは、ようやく息をついた。
「あなた―――気絶したわけじゃなかったのね」
「振りをしていただけだ。俺がそんなに簡単にやられるわけないだろ」
「どうして、もっと―――」
もっと早く助けてくれなかったのよ、と言おうしてセシリアは黙った。
男が完全に油断するまで、待っていたのだろう。文句を言える筋合いではない。
「はやく、この男をどかしてちょうだい!」
エルドはうなずき、自分より大きな男を持ち上げた。
セシリアは、もう一秒でもその恐ろしい男を視界に留めたくなくて、天井を穴の空くほど見つめた。
しかし、エルドの行動が気にかかり、横にちらりと視線を向けた。

エルドは窓にかかっていたカーテンを引き裂き、ロープ代わりにして男の手や足を縛っていた。
「―――どうやって気絶させたの?」
「この文鎮だよ」
エルドは、書き物机の上に置いてある、猫の形を模した石を示した。
「早く縛ってちょうだい。また目を覚まして暴れだしたら、大変だわ。ものすごい怪力だったのよ。エルドなんか、あっという間にやっつけられてしまうわよ」
「そのうるさい口を閉じていろよ」
エルドは、セシリアをにらみつけたが、すぐに気まずそうに顔をそらした。
どうしたのかしら、と思ったセシリアだが、自分のあられもない格好に思い当たる。
肌着もろとも、引き裂かれ、乳房だけでなく腿も露わになっているのだ。
途端に首筋が熱くなるのを感じた。


気絶したままの男を厳重に縛り上げると、エルドは横たわったままのセシリアに近寄り、残りの布を彼女の身体にかけた。
「今、警備の者を呼んでくる」
「そんなことしないで!」
セシリアは必死で起き上がろうとした。
しかし、両手の自由がきかずに、まるで幼児のように脚を動かすことしかできない。
腰や背中にもどうしても力が入らなかった。
「こんな格好を、誰かに見せるなんて耐えられないわ」
エルドは、ふうとため息をついた。
「まったくプライドだけは高いんだから」
 
プライドが高い? それ以前の問題ではないか。
セシリアが言い返そうとする前に、エルドはセシリアの腰を掴み、一気に引き起こした。
その勢いでカーテンはセシリアの膝に落ち、白い乳房は再びむき出しになった。
慌てて布で身体を隠そうとするが、両手首は縛られているので思い通りにならなかった。
エルドはその光景を眉一つ動かさず眺めたあとで、カーテンを使い、ケープのようにセシリアの身体を覆った。
それから、突然セシリアを抱き上げた。

「エルド、あなたの腕が折れてしまうわよ」
セシリアは驚いてエルドにしがみついた。しかし慌てて付け加えた。
「もちろん私が重いという意味でなくてよ。ただあなたの腕はあまりにも細いんだし―――」
「しばらく黙っていろ」
エルドは苛々したように呟くと、幾度かセシリアを抱えなおす。
彼の手が、自分の背中と膝の裏側に触れているのはとても居心地が悪かった。
所在無く、脚をもぞもぞと動かすと、ふくらはぎから足首にかけて、白い液体が緩やかに流れた。

「何かしら?」
セシリアは無心にエルドの耳元で呟くと、彼は一瞬、躊躇ったあとで返答した。
「……精液だ」 
セシリアはぴたりと口をつぐんだ。
自分が襲われそうになったのはわかっている。
しかし、今ようやくその生々しい現実感が降りてきた。
あのままだったら、私は、今頃―――。

いちばん奥の本棚の後ろに、エルドは彼女を下ろすと、
「そこで大人しく待っていろ。すぐ戻ってくるから」とだけ告げ、部屋を後にした。
セシリアはぼんやりと本の背表紙を見つめた。


しばらくすると、数人のせわしない足音が図書室に向かってきた。
身をこわばらせて耳をすますと、エルドの導く声と、興奮に満ちた衛兵たちの声だった。
「この男だ。早く連れて行け」 
「はい」
「殿下、本当にお怪我はございませんでしたか」
「ああ、大丈夫だ。気絶したふりをして、相手を油断させたのが成功だった」
「さすが、殿下。素晴らしい」
「このような悪漢をみすみす侵入させてしまったことをお許しください。先週から、中央会議が始まり、離宮の警備が手薄になっていて―――」
「いいから、さっさと連れていけ。それに、こいつの仲間が窓から逃げたままなのだ。早く追わないと、非常に危険だ。また誰かを襲うかもわからない」
「なんと!」
「殿下、悪党はどちらの方に」
「え、ああ。いや方角は見ていなかった。しかし、とにかくすぐに追え!!この宮の警備隊全員で捕まえるんだ。現場検証も、事情聴取も、その後だ」
「はっ!」
やがて、あわただしい足音は廊下へと消えて行った。
 
「リア! 今のうちだ。あの男も連れていかれた」
 背後から、エルドが近づいてくる。
「……仲間なんかいなかったわ」
「方便に決まっているだろう。ああ言えば、警備の目をかいくぐれる。―――リア?」
 セシリアの顔を覗き込んだエルドは、言葉を続けるのを止めた。
 彼女の瞳が濡れていたからだ。
「マリアンヌのところへ行くか?」
 そう尋ねるエルドの声は困惑していて、彼をこんなに困らせるころができたのは快挙だ、とセシリアは心の片隅で思った。
「嫌よ。独りになりたい。こんな汚らわしい姿を、マリアンヌにも―――誰にも見せたくないわ」
堪えようとしても、後から後から涙が溢れてくる。
そんなセシリアをエルドは心底困ったように見つめていたが、やがて彼女の背中に腕を回した。
「リア、時間がないんだ」
彼女を持ち上げると、エルドは図書室の外へ出て、長い廊下を突き進んだ。


エルドの現在の部屋は、西の宮の隣に位置する、春の宮にあった。
控えの間をくぐり抜けると、豪奢な長椅子や洒落た応接家具が置かれているのが目に入る。
「あなたの部屋に来るのは初めてね」
それまで泣きじゃくっていたセシリアは、エルドの腕の中でかすれた声を出した。
幾分、落ち着いた様子のセシリアに安堵したのかエルドはいつになく優しい声で答えた。
「そうだな。昔はマリアンヌらと徒党を組んで、俺の部屋に押しかけてきていたのに」
セシリアは微かに笑った。
それは、まだエルドが成人の儀を終える前、後宮にいた頃の話だ。
あの日々は、すでに遠い過去だ。
「また、あの頃に戻れたならいいのに……」
セシリアが弱々しく呟くと、
エルドは馬鹿馬鹿しいといわんばかりに思い切り顔をしかめた。
彼は、応接室を横切ると、その奥にある寝室に向かった。
「風呂にでも入ればいいんだ」
寝室の右手の扉を開けると、そこは浴室だった。
第三王子ただ一人のための場所としては、とてつもなく広い。
「好きに使え」
御影石の台にセシリアを丁寧に下ろすと、エルドは蛇口をひねり、浴槽に水を溜めた。

「エルド!」
そのまま去ろうとする彼に、セシリアは慌てて声をかけた。
振り向く彼の目の前に、縛れらた両腕を差し出す。
「これを、ほどいてくれなくては、何もできないわ」
「ああ、そうだった」
エルドは明らかに面倒そうに、彼女のもとに跪きリボンに手をかけた。

「固いな。ナイフか何かで切ったほうが早いかもしれないぞ」
「いけないわ! やっとの思いで、仕上げた刺繍なのに、無駄するなんて耐えられないわ」
「へぇ、これはお前が作ったのか。てっきり、ノイス国の品かと思っていた」
「あら、少し、当たっているわ」
セシリアは驚いて瞳を瞬かせた。
「これはノイスの国の刺繍なのよ。正確には、ノイス王家に伝わる歴史ある模様で、王家の娘ならば、誰でもこれを覚えなくてはいけないのよ」

「王家の娘か―――」
エルドは意味ありげに呟いた。
それは、まるで公爵の娘であるセシリアを揶揄しているように聞こえ、
セシリアはむっとした。
「私だって、好きで覚えているわけではなくてよ。ただ、お母様が、これは王女のたしなみであり、伝統的なよ―――」

伝統的な嫁入り道具だと言いかけて、セシリアは先ほど聞いた両親の企みを思い出した。
あれから、随分長い時が過ぎたような気がする。
急に無言になったセシリアに気づかずに、エルドが喜びの声をあげた。

「ほら! やっと、取れたぞ」
白いリボンはエルドの手をすり抜け、セシリアの膝に落ちた。
「それでは、お姫様、ごゆっくり」
エルドは立ち上がり、今度こそ浴室を後にした。
自由になった両手を伸ばしながら、
セシリアはまだどこかが縛られているような気がしてならなかった。

 

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最終更新:2010年08月08日 21:51