とうとう大好きな親友がフォレストから帰ってきた。
二か月ぶりの再会だ。
後宮の客間にて、二人はかたく抱きしめ合った。

『お帰りなさい。マリアンヌ。あなたがいなくて、とても寂しかったわ』
『私もよ。またあなたに会えてとても嬉しいわ』

本当に寂しいと思っていたのかしら、とセシリアは考える。
避暑地から届く手紙には、いつも友人の名前がずらりと並び、
毎日が楽しいことの連続のように書かれていた。

まあ、いいわ、とセシリアは邪心を打ち消す。
大事なのは、マリアンヌが帰って来たこと、ここにいることだ。
気を取り直して、長椅子の上に置いてあった桃色の鞠を拾い上げた。

『あら、鞠投げするつもり?』
そんなの子供っぽいわ、とマリアンヌは気取って首を振った。
『……そうかしら?』
セシリアは手中の鞠を見下ろす。
親友の言葉を聞いた途端、
あんなに鮮やかだった桃色のそれは、急に色褪せてやぼったく見えた。

『そうよ。私たちは立派な淑女なのだから、
 いつまでも幼子みたいに振る舞っていられないわ』

十を数えたばかりの王女の発言に、
そばに控えていた女官たちはこっそりと肩を震わせ、笑いをこらえていたのだが、
セシリアは口をぽかんと開けて、マリアンヌの一言一言に耳を傾けた。
八歳の少女にとって、年上の親友が語る言葉は未知の世界だった。
それは、父親がいつも読んでいる難しそうな本のページや、
母親が夜会の準備をしているときに開く宝石箱の中にひそんでいるような
知りたくて近づきたくて、でもひるんでしまう世界だった。

『ねえ、そう思うでしょう、セシリア』
『セシリア?』
聞き慣れない呼び方に、セシリアはすぐさま反応する。
マリアンヌはいつも「リア」と呼んでくれた。
ときどきは「私のかわいいリア」と。

『ええ、これからはあなたのことをそう呼ぶわ。
 だって、それがあなたの正式名なのだから』
そう言われて、
何だか一人前の大人になったような気分がして、
自分の名前の響きが特別に感じられて、
セシリアは無意識に背筋をしゃんとのばした。

『さあ、セシリア。こちらにいらして。
 あなたに見せたいお土産がたくさんあるの』

まあ、いいわ。とセシリアは頷いた。鞠遊びはまたいつでもできるもの。
鞠を客間の椅子の上に再び乗せると、セシリアは
はりきってマリアンヌのあとを付いていった。

置き去りにされた桃色の鞠は、女官の一人に拾い上げられた。
そして、他の玩具と共に、後宮の一室にしまわれることになったのだが、
玩具で遊ぶよりも、他のことに興味を持ち出したセシリアが、
その鞠を取りに来ることはついになかった。 

     ***

大きな鏡の中に、夜会服を纏った少女が映っていた。
深みのある緑色のドレスは、胸元から裾にかけて金糸で薔薇が縫い込まれ、
金色の髪と見事な調和を成している。
アクセントには、耳元でちらちらと光る紅玉の首飾り。

どんなに豪奢なドレスを持っている令嬢でも、感嘆のため息を漏らすようなドレスだった。
少なくとも、着付けを担当したトルテは、いくら何でもこのドレスに文句を言うまいと考えた。
ところが、鏡の中の少女は渋面をつくり、首を振った。

「似合ってないわ」
「まあ、そんなことありません!」
トルテは思わず言い返し、いったい彼女に何があったんだろうと、その顔を覗き込んだ。

すでに彼女は二枚も夜会服を変えているからにして――どれもとても似合っていたのに!――
虫の居所が悪いのは明らかだ。そして、それはとても珍しいことだった。

セシリア=フィールドは素直で聞きわけの良い、
不謹慎な言い方をすれば、とても扱いやすい主人だった。
夜会のための支度だって、いつもなら半時もかからずに終わってしまう。
「あなたが見立てた衣装と装身具に間違いないわ」と言うのがセシリアの弁であり、
自分のセンスに信頼が置かれていることは、トルテの誇りだった。
それなのに、今回に限ってセシリアはどのドレスにも満足を示さず、夜会の準備は遅々として進まない。

「セシリア様、もしかしたら疲れていらっしゃるのでしょうか?」

何しろ今夜の夜会は、正規の予定に組み込まれておらず、突発的に開催が決まったものなのだ。
それでなくても、記念祭はすでに四日目に突入し、
セシリアたち王侯貴族は連日連夜、寝る暇も惜しんで騒ぎ明かしている。

「……いいえ。そういうわけではないの」
セシリアは鏡の中をじっと見つめながら、そう返答した。
夜会服を見ているというよりは、自分の顔を睨んでいるように見えた。

「ただ、この衣装が気に入らないだけ。だって色が地味だから顔が陰気っぽく見えるんですもの」
「そうでしょうか」 トルテは戸惑いながらも、自分の本心を伝えようと決心した。
「でも、私はセシリア様にとてもお似合いだと思います。とても大人びて、理知的に見えます」
いつものセシリアだったら、その褒め言葉を素直に喜ぶに違いなかった。
「でもね、トルテ」
それなのに、今日の彼女はふてくされたような表情を浮かべたままだった。
「私は大人になんかなりたくないのよ」

まあ確かに、とトルテは考えた。
公爵令嬢という立場に身分を置くこの人ならば、
大人になる必要なんかないだろうし、またそれが許されるのだろう。 

トルテが音を上げそうになったとき、
タイミングよく衣裳部屋の扉が開かれて、救世主が訪れた。
「あら、セシリアだったのね」
「―――お母様」
セシリアは振り返り、抑揚のない声で呟いた。

「こんなところで何をしているの?」
フィールド公爵夫人は、積み上げられたドレスの山や散らばっている装身具に目を留めて、
不思議そうに首を傾げた。
着るもののことに無頓着なセシリアが
衣裳部屋に長時間籠るのは珍しいことなのだ。

「夜会の支度をしておりました」
トルテは膝を折り、セシリアの母親であり、この屋敷の女主人でもある女性に頭を垂れた。
「あら、どこの夜会?」
公爵夫人がたいして興味もなさそうに尋ねると、
やはりセシリアも気乗りしなさそうに答えた。
「王宮よ。マリアンヌが企画した夜会なの。
 若い人たちだけの集まりなんですって。
 でも―――」
そこでセシリアは言葉を切って、目を輝かせた。
「もちろん、お母様たちが反対なら、出席しないわ」
「あら、どうして反対なんかするの? 若い人たちの集まりなんて、結構なことじゃない。
 マリアンヌ王女が主催する会だったら、礼節のあるものに違いないでしょうし」
真偽のほどはともかく第四王女の信頼は絶大だ。
王族の娘が間違った行為をするはずがない、と元王女である公爵夫人は信じていた。

「礼節のある会になるかは疑わしいわ。なにしろ男の人もたくさん招かれているのよ
 最近の若い殿方ときたら……」
ねえ、わかるでしょう、と言いたげにセシリアは言葉を濁した。
公爵夫人は、機械的に頷き返しながら、
「なおさら結構なことじゃない。あなたは男の人に対して堅いところがあるから、
 もう少し柔軟にお喋りができるように練習した方がいいわ」 

セシリアは目を伏せて、しばらく経ってから口を開いた。
「お父様とは、正反対のことをおっしゃるのね」
「あの人が言いそうなことは見当がつくわ」
公爵夫人は愉快そうに目を細めた。
「おおかた箱入りの深窓の令嬢を仕立て上げたいんでしょう。
 でもね、王家の娘は、誰をも受け入れて、
 誰からも愛される存在にならなくてはいけないのよ」
その次に続く言葉は、想像するのは容易だった。公爵夫人の口癖だったからだ。
「マリアンヌ王女のようにね。あなたの身近にお手本がいて本当によかったわ」

「……私は」
さらに言い募ろうとして、公爵令嬢はたくさんの言葉を飲み込んだ。
何を言いたかったのかわからない。
俯いているので、どんな表情をしているのかもわからない。
でもトルテにはよくわかっていた。
彼女は抵抗するかわりに、「受け入れ」たのだ。
「王家の娘」は愛されるために、何もかもを受け入れなくてはならないから。 

再び顔を上げた、セシリアはいつもの彼女だった。
無垢で無邪気で、適度に我儘な公爵令嬢。

「私は、このドレスが気に入らないの」
セシリアはかわいらしく顔をふくらました。
「同世代の令嬢たちは、みな家名の威信をかけて、素晴らしい装いで王宮を訪れるのよ。
 それなのに公爵家の令嬢だけが、地味な装いをしていたら、さぞや目立つことでしょうね」
「あり得ないわ!」
途端に、公爵夫人は顔をしかめた。
娘が他の少女たちよりも劣る可能性があるなんて、考えたくもなかったのだろう。

「そういえば、確かに地味なドレスばかりね。まるで喪服じゃない。
 どうして、もっと明るいドレスを注文しなかったの?」
「お父様のご意向なのよ。どうしてだがわからないけれど、
 必要以上に華美な色は控えるべきだと主張されたの」
やけにセシリアは挑戦的に言ってのけた。

「あら、あら。あの人ったらやることが極端なのだから」
驚いたように、公爵夫人は口元に手を当てたが、次の決断はあっという間だった。
「まだ時間があるでしょう。すぐにケネスを呼ぶわ」
それは、リヴァー随一の仕立て屋名前だった。

「まあ、お母様。今から採寸をするっていうの?」
「まさか、そこまでの時間はないわ。でも、私の娘時代のドレスがいくらでもあるわ。
 それを当世風に仕立て直す時間くらいはあるでしょう」
「すごいわ!」
セシリアが母親に抱きつくと、彼女は目を丸くした。
「まあ、少しは落ち着きなさい。あなたはもう十六なのよ」
お小言には耳を貸さずに、セシリアは母親の頬にキスを贈った。
「とても素敵。お母様は魔法使いみたいね」
「大げさな子ね」公爵夫人は満更でもなさそうに、笑顔を作った。
「それで、何色のドレスがいいのかしら?」

少しの間セシリアは考え込むように瞳を閉じ、目を開けると厳かに宣言した。
「桃色よ」
それは、普段のセシリアが纏わない色の服だった。

「わかったわ、さっそく見繕ってきましょう」
公爵夫人はトルテの方を振り向いた。
「一緒に来てちょうだい」
はい、と返事をしながら、トルテはやれやれと思った。
どうにか夜会の準備は進みそうだ。

公爵夫人のあとに続いて部屋を出る直前、トルテはちらりと背後に視線を向けた。
深緑色のドレスを纏ったままのセシリアは自分の侍女ににっこりと笑いかけた。
あの服だってとても素敵じゃないか、とトルテは思う。
確かに、地味な色合いかもしれないが、喪服のようだなんて言い過ぎだ。
最高級の布地と最新流行のラインを取り入れて、
公爵令嬢ただ一人のために縫い上げられた衣装。
どれほどのお金と時間がかかっていることか!

しかし、セシリアと公爵夫人が、その事実を気づくことは永遠にないのだ。 

「あんなことではしゃぐなんて、まったくあの子も子供っぽくって困ったものね。
 もう十六になったというのに」
長い廊下を歩きながら、公爵夫人は嘆息する。
しかし、いかにも愛しそうに「あの子」と呼ぶことにトルテは気づいていた。
「やっぱり、ああいうところは、リヴァーの気質を受け継いでいるのかしらね」
公爵夫人に言わせると、陽気でお祭り好きなリヴァーの国民は、
あまりにも自分の気持ちを率直に表現し過ぎるらしい。
一方、自分の気持ちを奥ゆかしくも胸のうちに秘めるのがノイスでは美徳されていた。

同じくノイスの出身であるトルテは機械的に頷きながら、
これだけは言っておこうと口を開いた。

「“あんなこと”でありません。
 セシリア様は新しいドレスが着れることが嬉しいんではなくて、
 奥方様のドレスを着れることが嬉しいんですわ」

娘を厳しく躾けたいがため、ともすれば母娘のあいだには、情にあふれた交流が乏しい。
そのため、時たま公爵夫人が見せる優しさをセシリアは有頂天になって享受するのだ。

「セシリア様は、奥方様が大好きですから」
「あら」
そこで公爵夫人は照れたように微笑んだ。
「あなたはとても思いやり深いのね。
 やっぱり、あなたを侍女に選んで正解だったわ」
「まあ、そんなこと!」
思いがけない賛辞に、トルテは目を伏せた。
「わたしは、ノイスのことを教えることくらいしかできませんのに」

そう。公爵夫人は娘の教育のために、ノイスの習俗に通じている侍女を探していた。
だから、トルテが選ばれたのだ。
そのわかりやすい役割の方がトルテにとっては気が楽だった。 

「もちろんあなたを決めたときは、ノイス出身であることが、決め手になったけれど」
そこで公爵夫人は“長持の部屋”の扉を開けて中へ入った。
「それでなくてもあなたはセシリアによく仕えていてくれるわ」

通称、“長持の部屋”には、公爵夫人がノイスから嫁いで来たときの嫁入り道具が納められている。
細工の細かい家具や調度品。たくさんの長持の中にはあふれるばかりの衣装と装身具。

故郷の懐かしい品々に囲まれて、トルテの胸にはふいに熱いものが込み上げてきた。
かつてはトルテの生家もこのような家具を所有していたのだ。
トルテ自身も最新流行のドレスで着飾り、「お嬢様」とかしずかれていた。
それなのに現在のトルテは別の少女の衣装の支度をし、その少女に仕えているのだから、
運命とは本当に皮肉なものだ。
もし、あのときに歯車が狂わなかったら―――――。

「ねえ、トルテ。セシリアのことなのだけれど」
「は、はい」
トルテは我に返って、公爵夫人に向きなおった。
「もしかしたら、あの子には好ましいと思っている殿方がいるんじゃないかしら?」
「は?」
「だから、自分のことを綺麗に見せたようとして
 あんなにも身なりのことにこだわっているのかもしれないわ」
「はあ」
その話題があまりにも寝耳に水だったため、トルテは目を瞬かせた。

しかし、それは説得力のある推察なのかもしれない。
セシリアは、日中のほとんどを王宮で過ごしているのだし、
あの社交的なマリアンヌ姫と仲がいいのだから、
その気になれば、異性と知り合う機会はごまんとあるはずだ。

「あなたは、何かセシリアから聞いていない?」
「いいえ、そのようなお話は伺っていませんわ」
トルテは慎重に言葉を紡ぎながら、
最近のセシリアの様子を思い浮かべてみる。
しかし、実際のところ記念祭が始まった直後は、“別のこと”が気にかかり、
トルテの注意力は散漫になっていた。
もし、セシリアの心中に何か異変が生まれていたとしても、
うわの空でいた自分がその兆候を見逃していた可能性は大いに有り得るのだ。

「でも私の目から見ますと……何と申しますか……セシリア様は
 あまり異性を意識していないというか、関心がないように思われます」
自己保身は抜きにしても、それはトルテの正直な感想だった。
「そうよね」
トルテの言葉に納得したのか、公爵夫人は安堵したようにため息をもらした。
「確かにセシリアは成人したというのに、まだ本当に子どもっぽいわ」
先ほどまでは、娘の幼さに不満そうだったのに、
今や彼女はそれに安堵しているように見え、トルテは首を傾げた。
そのときの彼女にとって、公爵夫人の心中なんて到底知り得なかったのだ。 

 

鏡の中に、深紅のドレスを纏った少女が映っていた。
彼女の表情は、万華鏡のようにくるくると変わり、まるで期待と不安の綱引きをしているようだった。
それも片想いの相手との対面を控えている乙女ならば無理からぬことだっただろう。
ごく一般の深窓令嬢と同じく、コートニーは男性心理に長けるとは言い難かったが、
年若い男性が、女性の内面よりは外見の方に惹かれやすいということはよく理解していた。

第一印象こそが全てを決めるのだ。
だからこそ、コートニーは鏡の前に立ち尽くし、自分の魅力の発見することに余念がなかった。

いくら周囲からちやほやされようとも、自分が絶世の美女でないことはわかっている。
でも、この鮮やかな色のドレスを着ている自分はなかなか素敵だわと、コートニーは自画自賛した。
コンプレックスの一つである、暗い褐色の髪も、深紅のドレスと合わせると悪くない。

けれども、リヴァーの宮廷で見た令嬢たちの優美な装いを思い出し、ため息がこぼれた。
この国の最新流行と比べると、自分のドレスは野暮ったく見えるのではないだろうか。
なにしろ第三王子ともなれば、美しく着飾った貴婦人なんてそれこそ見慣れているだろう。
そう考えただけで、コートニーの心は絶望の底に押しやられた。

マリアンヌみたい美しくなれたら、どんな殿方の前だって気おくれする必要ないのに。
そう思いながら、コートニーは鏡越しに、背後を確認した。
第四王女は長椅子にゆったりともたれかかり、招待客のリストを見ている。
切れ長の目。長いまつげ。すっと通った鼻筋。薔薇色の口元。そして、何よりも強い自信にあふれた表情。

美しいマリアンヌが自分の味方でいてくれる。それは随分心強いことだった。
おまけに、彼女はエルドの姉で、だからこそ彼に干渉することに何のためらいもないのだ。 

 

夜会が始まる前の、控え室で待っている一時が、マリアンヌは好きだった。
もちろん、夜会そのものも最高にわくわくする時間だが、
“これから何が始まるかもしれない”という期待を募らせる瞬間はたまらなく心地よい。

マリアンヌは招待客の名前が書かれている紙の束を確認しながら、くすりと笑みをこぼした。
今回の夜会で結び付けたいと考えている男女は実に数十組にも及ぶ。
果たして何組の恋人が成立するか、不謹慎ながら、エリオット=ベイリアルと賭けまでしているのだ。
さあて、どうなることやら。

「コートニー。夜会の前に、何か軽いものでも召し上がる?」
マリアンヌは浮き浮きしながら、鏡の前にいるコートニーに呼びかけた。
「ありがとう、でも結構よ。胸がおしつぶされそうなの」
フォレスト王国の王女は神経質に髪の毛を撫でつけ、鏡の前を離れようとしなかった。
先ほどからずっとこの調子だ。二言目には、
「エルド様は、私のことをどう思うかしら?」
と呟き、自分を少しでも魅力的に見せることに余念がない。

そこまで熱く弟に想いを寄せているのね。
今更ながら、マリアンヌはすっかり感服させられていた。
そもそも、この夜会の発端は、コートニー王女の一目惚れが原因だった。
それなのに、他の紳士淑女たちの色恋沙汰に心を砕くあまり、マリアンヌはそのことをすっかり忘れかけていた。
自分に関わる全ての人を幸せにしたいと願う彼女の博愛精神は、
誠に結構なことなのだが、実のところ、欲張りすぎて手に追えなくなるのが難点だった。

もちろん友人と弟の仲がうまくいってくれたらとても嬉しいわ、とマリアンヌは考える。
しかし、コートニーに思いつく限りの誘惑の方法を教え、
最終的にはエルドを酔いつぶすという手荒い計画まで企んでいるにも関わらず、
この二人の関係がどのように転ぶか、マリアンヌは何の確信を持てなかった。
その点に関して言えば、エリオットの方が、ずっとはっきりしていた。

『僕はあの二人は上手くいかないと思うな』
そう言って、エリオットは二人の名前を、不成立の項目の下に書いた。
『エルド様は、目の前に美味しそうな果実があっても、手を伸ばそうとはしない性格だよ』
『あら、それは手を伸ばす勇気もない臆病者ということかしら?』
『ううん。そうではなくて』そこでエリオットは、意味ありげに笑った。
『何だかんだと理屈をこねて、痩せ我慢するのが好きな性質なんだよ』
自信満々に羽ペンに振り回すエリオットの弁は、なかなかに説得力が感じられ、
マリアンヌは自分が劣勢にいるのではないかという懸念に襲われた。

それというのも、相手がエルドだというのがいけないのよね。
マリアンヌは紙の束を扇のように振りながら考えた。
彼女にとって、弟の印象は、数年前から立ち止まったままだ。
彼より大きな本に顔をうずめ、床に届かない足をぶらぶらさせて椅子に座っている、こまっしゃくれたおチビさん。
たまにマリアンヌが話しかけようとすると、いかにも迷惑そうに口答えするのだが、
その様は、まるで子猫が自分を虎だと思い込んで威嚇しているような、
一種の微笑ましさがあり、なかなか可愛くもあったのだ。 

「コートニーったら、そんなに鏡にへばりついていてもしょうがないでしょう。あなたは十分に美しいわ」
痺れをきらして、声をかけると、コートニーはマリアンヌの方を向いた。

「ああ、どうしましょう。私はエルド様の前で、どんな風にふるまったらいいの?
 あの方は、どんな女の子が好きなのかしら」
「そうねえ」
弟について考えてみるが、彼の好みのタイプなんて、マリアンヌには想像もつかなかった。
エリオットの冗談めいた報告によれば、女性に興味があるかどうかも怪しいくらいなのだ。

「でもね、実際のところ、あいつだってわかっていないと思うわ。
 これだけは、覚えておいて。エルドは女の子という存在に慣れていないの。
 もう少し愛想が良かったら、女友達くらいできたかもしれないのにね。
 だから、最初はあなたに素っ気ない態度を取るかもしれないわ。
 でもあなたに興味がないわけではなくて、どうふるまったらいいかわからないだけなのよ」

おそらくね、とマリアンヌは心の中で付け加えた。
本音を言えば、弟のことなんて、何一つわかりはしなかった。
しかし、明るくにこやかな少女に魅かれない殿方なんているだろうか。
その子が可愛いらしい容姿をしているなら尚更だ。

「だから、その分、あなたの方が何枚も上手なのよ。
 あなたはその愛らしい魅力で、すんなりと相手の懐に入っていけるんですもの」
「そうかしら」
コートニーは頬を薔薇色に染め、満足そうに口角を上げた。
「ね? そんなふうに初々しく可憐なあなたならば、エルドも気にせずにはいわれないわ。
 だから自信を持ってちょうだい」
「そうね、ありがとう」
素直なコートニーは安堵のため息をついた。
「私ったら、お礼を言うばかり。
 あなたには、並大抵の感謝では足りないというのね」
「あら、そんなの。気になさることないわ」

「あなたの恋に私も協力できたらいいのに」
それは無邪気な乙女らしい、真心のこもった言葉であった。
「まあ」と呟いて、マリアンヌは瞬きを繰り返した。
ある意味で新鮮な提案であった。
リヴァーの令嬢たちであったなら、第四王女にそんな大胆なこと持ちかけられなかっただろう。
ありとあらゆる殿方の心を手中におさめている―――少なくともそういう定評のある―――社交界の女王の相談役に名乗りを上げるなんて!
「そうね―――何かあったら相談させてもらうわ」
にっこり笑いながら、そんな日が訪れないことをマリアンヌはわかっていた。
恋愛とは一種の能力であり、できる者とできない者がいる。
そして、残念ながら自分は後者に属するのだ。おそらく、たぶん。

『―――あなたは』
ふっと誰かの低い声が耳元で響いた。
『あなたの心を絡め取った誰かを本当は忘れたくないのでしょう?』

マリアンヌの頭の中で、ほんの一瞬、熱い火花が音を立てたような気がした。
でも、それは煌めいてあっという間にどこかに消えてしまった。
だから、マリアンヌは気付かない振りをして、再び招待客のリストに目を落とした。 

「ごきげよう。遅くなってごめんなさい」
控え室の扉が開かれ、軽やかな声が舞い込んだ。
顔を上げてみると、そこには桃色のドレスを纏った金髪の令嬢が微笑んでいた。

「マリアンヌ? どうしたの?」

一瞬のあいだ、彼女を凝視し、マリアンヌはどこか懐かしい感覚にとらわれた。
ただその記憶は、あまりにも遠くてもう完全に取り戻すことはかなわなかったのだが。

「セシリアなの?」
ふと当たり前の言葉が口をつく。もちろん彼女は、間違いなくセシリア=フィールドだ。
マリアンヌの従妹で、気心の知れた親友。
この控え室に侍女の申告もなしに入れるのは、彼女ぐらいなものだろう。

「ええ、私よ」
問われた彼女は不思議そうに頷いて、マリアンヌたちに近づいた。
歩くたびに、彼女のドレスの布地はふわりと揺れ、柔らかな衣ずれの音が聞こえてきそうだった。
それは目が覚めるような桃色で、その花びらのような布地にこぼれる金色の髪は、蜂蜜のように淡く輝いていた。

「まあ、とても美しいわ。
 あなたは桃色が似合うのね」
ため息と共にマリアンヌが賛辞の言葉を述べると、セシリアは照れたように自分の衣装を見下ろした。
「本当かしら?」
「ええ、私がお世辞なんかで褒めないわ。ちょっと回って見せてよ」
マリアンヌが頼むと、セシリアは白い歯をのぞかせて笑い、くるりと一周ターンした。
花びらのようなドレスの裾は、軽やかに円を描き、その中心にいるセシリアは、
使い尽くされた言葉であるが、まるで花の精のように優美だった。

まあ素敵、とマリアンヌは歓声を上げた。
「セシリア。今夜はきっと何人もの殿方に声をかけられると思うわよ」
どうして気付かなかったんだろう。
弟が年頃なら、従妹だって同い年なのだから、
彼女にだって華やいだ話があってもおかしくない。
いいや、むしろ自分が提供してやるべきなのだ。

「あら光栄だわ」
セシリアがにっこりする。
マリアンヌの言うことなんて、爪の先ほども信じてないようだった。
「大丈夫。私がそばにいて、あなたに似合いの殿方を見極めてみせるわ」
「まあ、でも、そんな……」
セシリアは戸惑ったように目を瞬かせる。
「そのショールはないほうがいいじゃないかしら。肩を出した方が魅力的だわ。
 いいえ。待って。やっぱりショールはしていた方がいいわ。
 殿方と会話の途中で何ともなしに肩から滑らせて、ちらりとうなじを見せつけるのよ」
セシリアは、戸惑っているようだったが、マリアンヌに注目されて嬉しそうに微笑んだ。 

「マリアンヌ!」
コートニーが焦ったように、二人に近づいた。
「あなたは、私のそばにいてくれるはずでしょう」
真紅の令嬢は、少々不安そうに、マリアンヌの腕を取る。
「あら、もちろん。あなたにエルドを紹介するまではね。でも、どのみち、
 あなたたちを二人きりにさせるから――――」
「そうでしょう? まだ、そのお話が済んでいないわ。私は、エルド様とどんな事を喋ったらいいのかしら」

「ああ、そうね。エルドと何について話せばいいのかしら」
マリアンヌは助け船を求めるように、ちらりとセシリアの様子を伺った。
「どう思う、セシィ?」
「エルドが興味を示す話題ですって? そんなの見当もつかないわ。
 私が話しかけても、いつも面倒そうな返事しかしないんですもの」
「そうなのよね」
そこでセシリアとマリアンヌは目を合わせくすりと笑った。
共通の体験を持つ者同士だけができる目配せというやつだった。

「そうね。エルドの好きなことと言えば、読書か乗馬よ。
 その辺りのことを振ってみれば、少しは話が弾むのではないかしら」
ふうん、とコートニーは呟いた。
「やっぱり、あなたって、ずいぶんと、エルド様のことをご存知なのね」
あからさまに、うらやましそうな視線に、セシリアは目を丸くする。

「たった、これくらいのことで、ずいぶん知っている範疇に入るのかしら?」
おそらくセシリアは純粋に驚いただけで、他意はなかった。
しかし、コートニーの眉がぴくりと吊り上がる。
マリアンヌはすぐに察知した。

「ほら。セシリアは幼い頃から、私たち姉弟と共にいるから、
 好むと好まざるとお互いのことを知ってしまうのよね」
ことさら明るい声を出して、マリアンヌは場の空気を取り繕うとした。
「ええ、そうなのよ」と、セシリアは大真面目に頷いた。
「それにエルドとは友人同士ですもの」

友人ですって? その発言にマリアンヌは耳を疑った。
エルドとセシリアのあいだに友達という関係を当てはめるのは奇妙な気がする。
自分の記憶の中にある二人は顔を合わせば、言い争いをしているか、
あるいはお互いの存在など見えないように無視し合っているかのどちらかでしかなかった。

「……まあ、そうなの」
そう呟いたコートニーはどこか不満そうな色が残っていた。
「ねえ。コートニー。実践演習でもやろうじゃないの」
どことなく気まずい雰囲気を払拭させるために、
マリアンヌは卓上の杯を手に取って、コートニーに近づいた。
心の片隅では、何か不吉な予兆を感じていた。 

「私が、エルドの役を演じるわ」
マリアンヌはコートニーの前に立って、杯をおしつけた。
「私があなたをエルドに紹介したとするでしょう。
 さあ、あなたはどんな風に振る舞うの?」

「まあ、どうしましょう」
あたかも片恋の相手が目の前にいるかのように、コートニーはもじもじと顔を赤らめた。
セシリアは黙って、二人の様子を見守っている。

「簡単よ。まずは相手に杯を勧めればいいじゃない」
マリアンヌが助言すると、コートニーはこくりと頷いて、
優雅な仕草で、目の前のマリアンヌに杯を差し出した。
「エルド様、お飲み物は如何ですか?」

そうそう、そんな感じよ、と目で合図しながら、
マリアンヌは差し出された杯を受け取ろうとした。
そのときセシリアが小さいくしゃみをした。
その微かな音に、一瞬だけ気が削がれたのは、完全にマリアンヌの落ち度だった。
だがその一方で、いつもとは違う様子のセシリアの挙動に気を配っていたという言い訳もあったのだ。
ともかく、マリアンヌは杯を取り落としてしまい、中に入っていた水は、勢いよく床にこぼれて広がった。

「いやだわ、私のドレスが!」
コートニーが悲鳴を上げる。飛び散った水滴は、彼女の真紅のドレスにまだらに染みをつくっていた。
「まあ、コートニー。ごめんなさい」
慌てながら、マリアンヌは床に転がった杯を拾い上げた。自分のドレスはほとんど濡れていなかったため、余計に焦る。
「ごめんなさい。私がはしたない真似をしたばかりに」
セシリアが自分のショールをさっと脱いで、コートニーのドレスの水滴を拭おうとする。
「まあ、セシリア。今、人を呼ぶからあなたがそんなことをしなくていいのよ」
そう言って、マリアンヌが呼び鈴を鳴らすと、直ちに女官が飛んできて、床の後始末を始めた。

「ああ、マリアンヌ。どうしたらいいの」
コートニーは肩を震わせ、今にも泣き出しそうだった。
「落ち着いて。そんなに濡れていないじゃない」
マリアンヌは必死で慰めると、女官もにこりと笑い、「すぐに乾きますよ」と付け加えた。
「でも、『こぼれた水は、元には戻らない』というでしょう? これは不吉なことの前兆のような気がするわ」
「まあ、そんなのただの気のせいよ」
「いいえ。これじゃあ全てが台無しだったわ」
そう呟いたコートニーの瞳から、一粒の涙が上品にこぼれた。
彼女の気持ちがわからないでもなかった。
たださえ特別な夜の前。気が高ぶり神経質になっていたのだろう。
完璧なドレスに完璧な自分。万全な精神状態で臨みたいのだろう。

「それでは着物を替えたらいいわ。私の衣装を貸しましょう」
そう言って、マリアンヌは立ち上がった。
実際的で行動派の彼女にしてみれば、いつまでもメソメソしているのは性に合わない。
いっそのこと新しい衣装と共に、新しい気分で夜会を迎えた方がいいだろう。

「……あら、本当に?」
目を潤ませていた、コートニーは嬉しそうに顔を上げた。
そして、さらりと、本当に何でもないことのように、次の言葉を継いだ。
「ねえ、じゃあ、私はセシリアのドレスを貸してほしいわ」 

「え?」
名指しされたセシリアは、呆然としたように目を瞬かせ、マリアンヌも耳を疑った。
どうして、そんなにむちゃくちゃなことを言い出したのだろう。
マリアンヌが自分のたくさんの手持ちの中から服を貸すのと、
セシリアが今着ている服を貸すのとでは、まったく意味が違うではないか。
第一、セシリアのドレスを彼女に似合うと褒めたばかりだというのに。

「ねえ、どうしかしら」
コートニーはセシリアをじっと見つめて言った。
「一晩だけでいいのよ。私に貸してくれないかしら。
 その素晴らしいドレスを着れば、何だか上手く行くような気がするのよ」
コートニーが如才なく畳みかける。
「まあ、私は……」
セシリアは困り果てたように、マリアンヌの方を見た。

「そうね。セシィ。私からもお願いするわ」
しかし、マリアンヌはコートニーに反論できる立場にはいなかったのだ。
コートニーの提案は、あまりにも自己中心的なような気がしたが、
そもそも彼女の気分を台無しにしたのは、マリアンヌの不注意なのだ。
むしろセシリアの寛大さに甘えることで事態が解決するなら、マリアンヌとしては大助かりだ。
「もし、あなたがよかったら……」
マリアンヌが懇願すると、セシリアの縋るような瞳は惑うように揺らいだ。

自分さえ後押しすれば、聞きわけの良い彼女は了承してくれるに違いない。
マリアンヌには絶対の自信があった。

「いやよ」
それは、とても小さい声だった。
最初は聞き間違いだと思った。そう信じたかった。
しかし、次の言葉ははっきりと耳に届いた。
「どうして、私がそこまでしなくてはならないの」 

マリアンヌは言葉を失った。驚いて何も考えられなかった。
その口から拒絶の言葉が飛び出るなんて、
その眼差しに敵意が含まれることなんて、
マリアンヌは想像すらしたことがなかったのだ。
セシリア=フィールドはマリアンヌの親友であり、妹のような存在でもあり、そして可愛いお人形だった。
自分の言葉にいつも頷いてくれる、自分の世界を決して崩さない、可愛いらしいお人形。

「あら、そう。あなたの気持ちはようくわかったわ」
呆然として二の句が継げないマリアンヌのかわりに口を開いたのは、コートニーだった。
「私は薄々感じていたのよ。あなたは、私たちに協力してくれる気なんかなかったんだわ。最初から」
そう言って、セシリアを睨みつける。先ほどまで、涙で濡れていた瞳はあっという間に乾いていた。
「だいたい、どこか見下されているような気がしたのよ。
 私とマリアンヌが話していても、会話に入ってこないで、ただ聞いているだけだったんですもの」

「そんな、私は……ただ」
セシリアは口ごもった。
今度は彼女の方が泣き出しそうだった。

泣いてちょうだい。マリアンヌは心の底から願った。
寄る辺のない、迷い子のようにわんわんと泣いてくれたら、
自分は彼女を慰め、正しい道を示すことができるだろう。

「あなたからしてみれば、私の真剣な想いなんて、さぞかしくだらなかったことでしょうね」
セシリアは泣き出すかわりに、コートニーを真っ直ぐに見つめた。
「く、くだらないなんて思ったことないわ」
どもりながら、それでもセシリアははっきりとした口調で言った。
「ただ、どこか滑稽だな、と思っただけよ。
 あんな騙し討ちみたいな作戦をしたって上手くいくはずないじゃない。
 あなたはすっかりマリアンヌの口車に乗せられているんだわ」

「まあ聞いた?」コートニーが鬼の首でも取ったかのように、マリアンヌの方を向いた。
「あなたが私のために色々と考えてくれたというのに」
マリアンヌはどういう表情を繕っていいのかわからなくなった。
この場面だって、どこか滑稽だ。
先ほどまで、子羊のように無垢で穏やかだと思っていた二人の少女が罵り合い、
二人を御していたマリアンヌは事態を収拾できる自信がまったくない。

「ちっとも知らなかったわ」
とりあえず、マリアンヌはセシリアに言葉を投げかける。何か言わなくてはならないような気がしたのだ。
「あなたがそんなこと考えていたなんて―――」
そこでマリアンヌは言葉を切った。

セシリアの茶色の瞳は、こちらを真っ直ぐに見つめている。
何の感情も含まれていない、その視線が怖かった。
今まで彼女を怖いと思ったことは一度もなかったのに。
やがて、その視線はマリアンヌの頭上に移り、セシリアは眩しそうに目を細めた。

「あなただって、私に大事なことを―――本当の気持ちを話してくれないじゃない。
 あなたはいつも自分の心を誰の手も届かないところに隠してしまうんだわ」

マリアンヌは瞬きを繰り返した。
再び、頭の中で、熱い火花が音を立てたような気がした。
でも、前と同じようにそれは煌めいてあっという間にどこかに消えてしまった。 

「……何のことをおっしゃっているの?」
マリアンヌが問いかけても、セシリアは俯き、それっきり何も言わなかった。

「ねえ、マリアンヌ。もう時間がないわ。夜会が始まるわよ」
出し抜けに、コートニーがマリアンヌの腕を取り、かわいらしい声で囁いた。
いつの間にか、もとの子羊のように愛らしい少女に戻ったようだった。

「……ええ。参りましょう」
マリアンヌは頷いて立ち上がった。
もう招待客は揃っているだろう。
マリアンヌが指揮をとらなくては夜会が始まらない。
そう、今夜はまだ何も始まっていないのだ。
ああ、それなのに。どこで歯車が狂ったのだろう。どこでボタンをかけ違えたのだろう。
少し前まで、とてもわくわくしていたのに。

マリアンヌは、石造りの暖炉の上にかけてある、鏡の中を覗き込み、
その中にいる、切れ長な瞳の美しい少女に笑いかけてみた。
笑みと共に、銀のティアラがきらりと輝いた。

大丈夫だ。自分の笑顔は揺るがない。それが例え、作りものだとしても。
いつの間にか偽りは、真実に変わり、嘘をついていたことさえも忘れてしまうだろう。

セシリアの横を通り過ぎたとき、ほんの束の間、両者の視線は交錯した。
彼女の表情は、マリアンヌの記憶にさあっと焼きついた。
頬は興奮で赤く染まり、瞳は一粒の星が宿ったように爛々と輝いている。
それは親友が初めて自分に見せた反抗的な表情で、同時に、はっとするほどの美しさを秘めていた。
どうして今まで彼女の魅力に気付かなかったのだろう。
マリアンヌは後悔と共に、控え室を後にした。 

 

第四王女の堂々たる開会宣言に耳を傾けながら、エリオット=ベイリアルは大きな欠伸を漏らしていた。
何しろ睡眠時間が圧倒的に足りていない。
記念祭が始まってからのここ数日、王宮内外の主要な行事にはもれなく参加し、
マリアンヌが苦笑するところの乱痴気騒ぎを繰り返しているのだから。
ベイリアル家の陽気な次男坊はどこに行っても持て囃された。

もっとも今回の夜会では、
会場にいる令嬢たちにむやみやたらに愛想を振り撒いたりしてはいけない、とマリアンヌ姫から厳重注意を受けていた。
『だってね、あなたに言葉巧みに話しかけられると、
 女の子の大半は、ぼうっとのぼせあがってしまうのよ』
マリアンヌは両手を組み合わせると、恋に惑う乙女の演技を披露してみせた。
そのあとで、茶目っ気たっぷりにぺろりと舌を出す。

『ね? それでは、この夜会の趣旨に反してしまうわ』
『そうだね』とエリオットは淡々と受け止めた。
『さすがに一息いれたかったところだよ』
暗に、自分の男性的魅力を認められたと思えば、悪い気はしない。
しかし、その一方で、マリアンヌ姫は、
自分に「ぼうっとのぼせあがる」類の女の子ではないという事実を、痛いほど噛み締めることとなった。

というわけで。
楽師が情感あふれる音色を奏で、最初はぎこちない雰囲気だった男女が徐々に打ち解け始めた頃、
エリオット=ベイリアルはそっと会場を抜け出していた。
目的地もなく、ただ漠然と睡眠時間が確保できる場所を求めて、階段のステップに足をかける。
上の階の個室で、今夜は何組の男女が愛を囁き合うのだろうか、とエリオットは考え、
同時に、一夜限りの恋人たちの未来を呪った。
と、そのとき、桃色の何かがちらりと目に入り、エリオットはおやと立ち止まった。 

「何しているの?」
そう声をかけると、階段の踊り場に立ち、高欄から身を乗り出していた少女は、ぴくりと肩を揺らした。
「……エリオット」
ゆっくりと振り向いた金髪の少女の顔は蒼白で、すっかり憔悴しきっているように見えた。
セシリア=フィールド。公爵家の一人娘で、マリアンヌ姫のお気に入りの取り巻きだ。

「夜会はとっくに始まっているよ」
そう言って、セシリアの隣に並び立つと、そこからは会場の大広間が一望できることに気がついた。
この場は暗いため、あちらからは自分たちは見えないだろう。

「私は……出席しないことに決めたの」
再びうつむいたセシリアは、蚊のなくような声で答えた。
奇妙なことだ、とエリオットは訝かしむ。夜会に出席しないと言う割には、いやに着飾っている。
ただ確かに、セシリア=フィールドは、この手の、少しばかり無礼講な夜会に出席するような令嬢には見えなかった。
「じゃあ、どうして広間を見下ろしていたの?」
更なる質問を重ねてみると、長い沈黙のあとで、セシリアはぽつりと呟いた。
「―――海」
「え?」
「あそこは、まるで薄暗い海の底みたいね。人々は魚のように泳いでいるんだわ」

まるで詩の朗読を聴かされているような気分だった。
エリオットは仄かな灯りの大広間に視線を落とし、それからセシリアの横顔を見直した。
考えてみれば、こんな風に彼女と一対一で話し合うなんて珍しい。
エリオットにとってセシリアは、いつもマリアンヌの背中に隠れている深窓の令嬢でしかなかった。

「それで、セシリア。君は薄暗い海の底を泳いでみたいと思わないの?」
エリオットが冗談っぽく問いかけると、彼女は首を振ってうなだれた。
「だって私は……泳ぎ方がわからないんですもの。あの中にいたら息が続かなくて溺れてしまうわ」
エリオットはどう切り返したらいいかわからず、しばらくのあいだ黙っていた。

セシリアの意図するところは全くつかめなかったが、彼女が何かに傷ついているのは確かであり、
そして傷心の乙女を慰めるのは――さらにそこに付け込むのは――まさしくエリオットの得意分野であった。
会場にいる令嬢を誘惑してはならないと通告されたが、その他の場所にいる令嬢を誘惑するなとは言われていないはずだ。
「何があったの? 僕でよかったら話を聞くけれど」
とびきり優しい声でセシリアに微笑みかけると、彼女は探るような目つきで見返してきた。

警戒心はたっぷりだ。
それでもエリオットは、彼女が自分に打ち明けるだろうと確信していた。
彼女の瞳は、誰かに――本当に誰でも構わないから――自分の胸の内を聞いて欲しくてたまらないと語っていた。 

全体的にセシリア=フィールドの話は回りくどかったし、
明らかに何かをごまかしている部分もあったのだが、
枝葉を取り除き、簡潔に要約するなら、以下の通りだった。

・フォレスト王国のコートニー王女と言い争いをした。
・マリアンヌともすっかり険悪な雰囲気になってしまった。
・その結果、とても落ち込んでいる。

正直なところ、予想以上に他愛無い悩みだったのでエリオットは拍子抜けしていた。
おまけに、諍いの直接の原因が、夜会服の取り合いだと知ると、思わず吹き出しそうになってしまった。
しかしまあ、いかにも年頃の少女が抱えやすい、つまらない悩みとはいえ、当人にとっては深刻なのだろう。
この場合のエリオットの役目は、セシリアを無難な言葉で励まし、株を上げることに違いかった。

「こんな気持ちになるくらいなら、素直にこのドレスを貸してあげたらよかったんだわ。
セシリアは何十回目になるかわからないため息をついて、ドレスを軽くつまんだ。
「確かに、私にとっては数ある夜会の中の一つに過ぎないけれど、
 コートニーにとっては特別なかけがえのない夜になるはずだったのだから」

「そういえば、そもそもこの夜会は、コートニー様のために開かれたものだもんね」
エリオットは、話の矛先を変えることができそうだったので、すかさず口を開いた。
セシリアは意外そうにエリオットの顔を伺う。
「あなたは、どこまで事情をご存知なの?」
「事情も何もないだろう? コートニー様がエルド様に一目惚れして、
 彼に会ってみたいと熱望したことから、この夜会は成り立ったんだから」
その返答に、セシリアは肩透かしを食らったように、エリオットをまじまじと見た。

「それじゃあ」セシリアは目を伏せた。
「何も私たち三人だけの秘密ではなかったということね」
あまりにも彼女が悲しそうな様子なので、エリオットは頭をかいた。
「でも、おそらく僕以外は誰も知らないと思うよ。
 マリアンヌ様が僕に話したのだって、その……男性側の意見が必要だったからだと思うし」

「ええ、そうでしょうね」
セシリアは嫌味ったらしく頷いた。
「エルドに"女遊び"の楽しさを教えるためには、
経験豊富なあなたの助言がどうしても必要だったんでしょうね」
今度は、エリオットが目を見開いて、まじまじとセシリアを見る番だった。
「なあんだ。君だって事情をよく知っているんじゃないか」
エリオットが抗議の声をあげると、セシリアは笑顔を作った。
少なくとも、できそこないの笑顔らしいものを作った。 

「情けないくらい、何にも知らないの」
「え?」
「白状するとね、私はマリアンヌたちの話の大部分に付いていけなかったのよ。
 でも二人の仲間に入りたかったから、頑張って話を合わせていたの」
「仲間はずれが嫌だったということ?」
「当たり前でしょう」
開き直ったように肩をすくめるセシリア。
エリオットはまたもや吹き出してしまいそうになった。
「では、君は三人で仲良くお喋りができればよかっただけで、
本音のところは、コートニー様の恋路なんてどうでもよかったんだ」
「それは……」
セシリアは、罪悪感にかられたように口をつぐんだ。図星をつかれたのだろう。
「もし、君がコートニー様の恋の成就を真剣に応援していたならば、
少なくとも、彼女とのあいだに、諍いは起こらなかったかもしれないね」
そこまで言ってしまってから、エリオットは口を押さえた。

しまった、優しい言葉で慰めるはずだったのに、
どうしてこの少女を落ち込ませるようなことを言ってしまうのだろう。
エリオットは注意深くセシリアの顔を観察した。その瞳から涙が零れ落ちたら、どうしようかと懸念したのだ。

けれども面食らったことに、セシリアは子供っぽく頬をふくらましただけだった。
「まったく不公平だわ」そう言って、わざとらしくため息をつく。
「どうして誰も私の応援はしてくれないのかしら」
「君の応援だって?」
「だってね。コートニーがエルドとお近づきになりたがっていたように、
 私だってコートニーと仲良くなりたかったのよ」
「はあ?」
エリオットはセシリアの意図がつかめずに、数秒間、頭をひねった。
「だって、まさか、君もコートニー様に片想いしているというのかい?」
「似たようなものじゃない」
セシリアは、大真面目で頷いた。
「だって、これは完全に一方通行の想いですもの」
「でも、君の場合はつまり、その、友人として、だろう?」
一応、確認してみると、セシリアはしっかりと頷いて肯定した。
「わからないわ。どうして、こうも恋情ばかりが特別のことのように扱われて、
友情は軽んじられるのかしら?」
セシリアの瞳はどこまでも曇りがなく真剣だった。

とうとうエリオットは我慢の限界を感じ、大きな声で笑い出してしまった。
セシリア=フィールドが、こんなに面白い娘だったなんて思いもよらなかった!

あまりにも大きな声で笑うエリオットを、セシリアは憮然とした表情でにらみつけた。
「……どこか面白いところがあったのかしら?」
「ごめん、ごめん」
エリオットは苦労して、笑いを抑えた。
「だってさ、君の中では、友情と恋愛は同等ということなのかい?」
セシリアは何回も瞬きを繰り返した。
「……わからないわ」
もちろん、わからないだろう。この令嬢はまだ恋を知らないのだから。 

エリオットとセシリアが話に夢中になっているとき、こちらにやって来る誰かの足音が聞こえた。
おそらく今夜の即席カップル第一弾だろう。
ここで鉢合わせしたら、エリオットとセシリアも恋人同士だと勘違いされる可能性がある。

「ねえ、セシリア。場所を変えないか」
そう言って、目の前の少女に手を差し出す。
しかし、彼女はその手をあっさり無視して、階段のステップに足をかけた。
「私はこのまま裏の出口から帰るわ。あなたは夜会を楽しんでちょうだい」
女性からつれない態度を取られた経験の少ないエリオットは、一瞬だけぽかんとした。

「では途中まで送っていくよ。君はすっかり弱っているみたいだしね」
懲りずにそう提案すると、セシリアはぴしゃりと撥ねつけた。
「私にまで紳士ぶらなくて結構よ。もちろん、マリアンヌには何も言わないであげるから、心配しないでちょうだい」
「マリアンヌ様? どういう意味だい?」
思いかけずに飛び出した名前に、エリオットはどきりとした。

「だから、マリアンヌに義理立てして、無理して私なんかに親切にしなくたっていいって意味よ」
「無理してだって? かよわき乙女が打ちひしがれているのに、
 放っておくなんて無情なことができると思うのかい」
「そんな御託を並べても無駄よ。
 自分自身の価値くらい十分承知しているわ」
「君自身の価値だって?」
「ええ、そうよ」

セシリアは振り向いて、エリオットを見据えた。
のぼった階段の分だけ、彼女の背丈は高くなり、ちょうどエリオットと同じ目線に立っていた。

「私はいつもマリアンヌのおまけよ。
 マリアンヌがいなかったら、世の殿方は、私なんかに目もくれないでしょうね」 

「なるほど」と、エリオットは呟いて、ますます興味を持って、セシリアを眺めた。
「なかなか罪つくりな蕾だね。
 そうやって、何にも知らないふりをして、男の気を引いているんだから」
エリオットはセシリアに向かって、片目をつぶってみせた
「どういう意味かしら。
 気を引くなんて、そんなことしてないわ」
いかにも汚らわしいと言った風情で、セシリアは首をふった。
「じゃあ、どうして、そんなに着飾っているの? 
 男たちの目に留まりたいからじゃないの?」
セシリアは瞳を丸くする。それから自身が身につけているドレスを見下ろした。

「そうやって、君は、悩ましい胸元や、むきだしのうなじを見せつけて、
 憐れな男どもを誘っているんだ。
 なのに、君は何も知りませんという風に無邪気な顔で澄まして、心の中で舌を出している」

今夜の自分はおかしい、とエリオットは思った。
どうしてこんなにも攻撃的なのだろう、世間知らずの令嬢相手に。

「もうたくさんよ!」顔を真っ赤にさせながら、セシリアは叫んだ。
「やっぱりマリアンヌに言いつけてやるから
 あなたがどれほど下劣で無作法かをね」

セシリア=フィールドはどこまでも子どもっぽかった。
それに比べるとエリオットにはいくらかの余裕があった。

「では、その前に、まずマリアンヌ様と仲直りしないとね」
エリオットは気障ったらしい微笑みを張り付けた。
そこでセシリアは、はっとしたように押し黙る。
大切な親友と諍いがあったことを思い出し、
一瞬のあいだに、彼女の瞳からエリオットに対する怒りは消え失せたことが見て取れた。 

「マリアンヌは……」セシリアは自分自身に問いかけるように呟いた。
「私を許してくれるのかしら」
ああ、やっぱり、とエリオットは思った。この子は、こんなにも自分に自信がないのだ。
「君こそどうなのさ」
エリオットは尋ねた。むしゃくしゃした気分は、おさまりそうにもない。
「私?」
「君は、マリアンヌ様を許せるの?」

セシリアはわけがわからないというように瞬きをした。
返答など聞かなくとも、セシリアの表情を見れば、すぐに把握できる。
許すとか許さないとか。そういう次元の問題ではないのだ。
それは例えば、どうしてか弱き花々があの輝かしい太陽の光を拒んで生きることができようか、ということなのだ。

ほんの瞬きするくらいの短いとき、両者のあいだには何か共感めいた強い意志のやりとりが行われた。
流されるままに、エリオットは、セシリアの口元にゆっくりと近づいた。
彼にしてみれば、ちょっとした挨拶だ。それ以上の段階に進む気はない。
ただ一瞬の感傷を彼女と分かち合いたかっただけだ。
けれども彼女に触れる前に、セシリアはさっと身を翻した。

「エリオット、あなたは……」
か細い声に、エリオットは面を上げ、再びセシリアの表情を確認した。
先ほどのように、怒りにらんらんと燃えた茶色の瞳とかち合うかと思っていたのに、
あるいは考えることを放棄したうつろな瞳でもよかったのに、
その瞳は今までと違う色をまとっていた。

「あなたも一方通行なのね」

そう言い残すと、セシリアはそのまま一目散に階段を駆け上がった。
エリオットは消え去る後ろ姿をぼんやりと見つめながら、セシリアの言葉の意味を考えた。

意識的なのか無意識なのか、それは強烈な捨て台詞だった。
罵倒されるよりも侮蔑されるよりも、ずっと。
出し抜けに、遠くの方から、誰かの笑い声が響き、エリオットは大広間を見下ろした。
セシリアが深い海の底だと形容した場所を。 


     ***

鞠が弾んだ。石造りのベンチの方向へ。
そこには、栗色の髪の少年が座っていた。
エルドだ。
こんな庭の隅っこで何をしているのだろう。
彼の靴に、鞠が当たり、
少年は弾かれたように顔を上げた。
両者はものも言わず、ただ見つめ合った。

彼とはいつも喧嘩ばかりしている。
この前は、身長のことで言い争ったっけ。
エルドよりも自分の背丈はほんの少し高い。
それを自慢したらエルドが食って掛ったのだ。
「そんなもの、すぐに追い越してやる」
確かそう息巻いていた。
でも、そんな日が本当にくるのかしら、
とセシリアは挑戦的に考えた。

そのことを蒸し返そうとして、口を開きかけ、やっぱり止めた。
どうしてなのか水色の瞳が潤んでいるように見えたのだ。
セシリアは彼の足元に転がっている鞠を拾い上げ、
それからエルドにぎこちなく笑いかけた。

「ねえ。ロビンに会いにいかない?」
     
     *** 

まったくなんて夜なのだろう。
セシリアは出口を求めて足早に廊下を歩いていた。
壁に等間隔で点されている蝋燭の火が床を照らし出し、彼女の背後に長い影を落とした。

今夜、起こった出来事が頭から離れず、ぐちゃぐちゃに絡まって、セシリアを苦しめた。
挑戦的なコートニーの嘲笑。
いやらしいエリオットの意地悪な言葉。
そして、大好きなマリアンヌの驚愕した顔!
さっさと自邸に戻り、柔らかい寝台の上で何もかもを忘れて寝てしまいたかった。

そのとき、どこからともなく足音が響いて、セシリアはびくりと震えあがった。
エリオットだろうか。それとも、他の誰かだろうか。どちらにしろ誰にも会いたくない。
曲がり角に人影が映るのを確認し、セシリアは手近な部屋にさっと逃げ込んだ。
まるで障害物を避けながら出口を探す迷路の中へ放り込まれたようだ。

セシリアが扉の内側で聞き耳を立てていると、廊下からは甲高い笑い声と、それに相槌を打つ低い声が聞こえた。
今ごろは、エルドとコートニーも楽しんでいるのかしら。
セシリアはぼんやりとそう思った。けれども、物思いに浸る暇はなかった。
すぐに廊下から新たな足音が聞こえたからだ。
本能的に、セシリアはこの部屋に誰かが入ってくるのを悟り、ねずみのように長椅子の下にもぐりこんだ。
令嬢らしくない行為だということは承知していのだが。

やがて扉が開き、セシリアの視界には男女二組の靴が見えた。
どうにも具合の悪いことに、二人組は、長椅子に近づいて来る。

「お加減は大丈夫ですか」
「ええ、ありがとう。大丈夫よ、エルド様。飲み過ぎたみたいね」
―――エルドですって? 
セシリアは冷や汗が流れるのを感じた。
じゃあ、女性の方は、コートニーに違いないわ。
なんという場に居合わせてしまったのだろう! 

「滞在している部屋に戻ったほうがいいと思いますけどね」
エルドの声はいかにも怜悧に響いたが、セシリアには彼が戸惑っているのがよくわかった。
「ええ、でもエルド様。座ったら、だいぶ酔いが覚めましたわ」
コートニーの声は普段よりも甘ったるくふわふわしている。
本当に酔っているのかもしれないわ、とセシリアは不思議に思った。
計画では、エルドを酔いつぶすはずだというのに、一方で、エルドの声は酔っているようには聞こえなかったからだ。

「ねえ、エルド様。こちらに座ってちょうだい」
ぽんぽんと長椅子の座面を叩く音がする。
エルドはぐずぐずと拒んでいたが、コートニーは強引に自分の隣に座らせた。
どちらにしろ、彼女がお酒を飲んだのは正解だったのかもしれないわ、とセシリアは感じた。
昼間の引っ込み思案な彼女では、考えられないほど大胆なふるまいだ。

「ふふ、夢みたいだわ。エルド様が隣にいるなんて」
コートニーのうわずった声が聞こえる。
これでは、ほぼ恋の告白をしたのも同然ではないだろうか。
エルドは「はあ」と呟いただけだった。なんとまあ無粋なやつなのだろう。

「マリアンヌに感謝しなくては、私たちを引き逢わせてくれて。私、マリアンヌに頼んだのよ」
「……マリアンヌが?」
エルドは考え込むように言った。
「ええ、私とエルド様がお近づきになれるように、色々と計画を練ってくれたのよ」
まあ、コートニーったら。自ら手の内をばらすなんて!
セシリアは心の底から驚愕した。

「……へえ、なるほどね。
 でも姉上のことだから、上品な計画というわけではないんだろうな」
エルドは事情が呑み込めたと言いたげに、質問する。
「ええ、それは、まあ。こんなこと恥ずかしくて言えないわ。
 あなたを酔いつぶして、既成事実を作るつもりだったなんて」

言っているわよ、コートニー! 長椅子の下でセシリアは頭を抱え込んだ。
これでは、マリアンヌの計画が水の泡だ。
彼女は果たしてどのくらい飲んだのだろうか? 

エルドは、一瞬絶句したようだった。
「―――で、俺はこれから誘惑されるのか?」
「いいえ。そんな回りくどいことするよりも、
 素直に想いを伝える方が簡単でしょう?」
おそらくコートニーはエルドを上目遣いで見つめているに違いない。
こんなに可愛らしい告白をされたら、世間一般の男性はひとたまりもないだろう。
けれども残念ながら、エルドは世間一般の男性の範疇には属さないようだった。

「俺は身体だけの関係の方が簡単だと思うけど」
ちゃかすようなエルドの言葉に、コートニーは夢の世界を漂うような声で答える。
「身体だけの関係なんて空虚だわ。私はあなたと本当の恋がしたいの」
「本当の恋」
と、エルドが面くらったように繰り返す。
本当の恋、とセシリアも心の中で呟く。

もしかしたら先ほどのセシリアの主張はコートニーに届いたのかもしれない。
騙すのではなく、相手にまっすぐな愛を捧げ、
相手にも同じようにまっさらな気持ちを返して欲しいと思ったのかもしれない。
結局のところ、コートニーも純粋な恋に憧れる乙女なのだ。

けれども、真摯な愛の告白に対し、エルドはくすりと笑った。
それはいかにも彼らしい乾いた笑いだった。
「まず君が、身体を捧げてくれるなら、考えるかもしれないけれどね」
挑発するような言葉だ。
コートニーの息を呑む声が聞こえた。
「……それなら、それでも構わないわ」
その声はほんの少し震えていた。
いかにもひっこみがつかずに勢いで言ってしまったという感じだ。

「冗談だ」
慌ててエルドは打ち消した。
その声音は明らかに、女性にそこまで言わせてしまったことを後悔していた。
「俺は君と、そんな関係になるつもりはないよ」 

一瞬のあいだ、沈黙が降りる。
「私とは、恋愛したくないのかしら?」
それは、穏やかだったが、一歩も引き下がろうとしない強さを秘めていた。
そして自分が拒絶されるはずはないだろうという自信にも満ちていた。
「俺は―――」
エルドの声は不自然なくらい感情がこもっておらず、先ほどまでとは別人のようだった。
「恋愛なんて、この世でいちばん愚かしいまやかしだと思うよ」
「……まやかしですって」
戸惑うようなコートニーの声に、エルドの声がかぶさる。
「俺は恋なんて信じない。だから君と『本当の恋』をするなんて無理だ」

セシリアはぎゅっと拳を握りしめた。
もう駄目よ、コートニー。
これ以上、言葉を尽くしても無駄。
エルドには絶対に絶対に届かない。

「でも、それは……」けれどもなおもコートニーは食い下がった。
「あなたが恋をしたことがないからよ」
「あるいは、そうかもしれないけど」エルドはそこで立ちあがった。

「その相手は君じゃない」

セシリアは目を瞑った。おしまいだ。
今、この瞬間、乙女の夢は粉々に打ち砕かれたのだ。

「――――私は帰ったほうがよさそうね」
しばらく経ってから、コートニーは立ち上がった。
「送ってくださらなくて結構よ」
コートニーがどういう表情をしているのかわからない。
けれども、その引き際は見事だった。

あっという間に、彼女のかかとの高い靴は視界から消えた。
扉が閉まると同時に、エルドは脱力したように、長椅子に再び座り込んだ。

セシリアもようやく気が緩み、
エルドもさっさと出て行ってくれないかしら、と思った。
今さらながら折り曲げた手足が痛くなってきたのだ。
おまけに長椅子の下はほこりっぽくて鼻がむずかゆくなっている。
しかしいくら待っても、エルドは動く気配さえも見せない。

とうとう我慢できずに、セシリアは小さなくしゃみを漏らした。
もちろんエルドは弾かれたように長椅子の下を覗き込み、
手足を折り曲げ縮こまっていたセシリアとしっかり目が合ったのだった。 

「無実だわ。冤罪だわ。不可抗力っていうものよ。
 だって、あなたとコートニーが入ってくるなんて、どうして私に想像できて」
ドレスについた埃を落としながら、セシリアは必死で弁明を試みた。

エルドはうんざりしたようにセシリアを見ながら、
「汚いところに隠れるのが好きらしいな」
と呟いた。
「なによ、その言い方。だってそれは」
再び弁明しようとしたセシリアだったが、ため息をついて口をつぐんだ。
今さら、言い訳したところで、どうにもならない。

やがて、エルドがぽつりと呟いた。
「お前も来ていたんだな」
セシリアは首を傾げ「どこに?」と尋ねようとしたが、
マリアンヌが企画した夜会のことを指しているのだと思い当たる。
「……ええ、まあ。そう、なの」
実際のところ出席できなかったのだが、わざわざ訂正する必要はないだろう。
こんなに、めかしこんだのも全て無駄だったというわけだ。

「楽しかったか?」
そう問いかけられて、セシリアは当たりさわりない言葉を紡ごうとした。
しかし、エルドが口を開くほうが早かった。
「面白がっていたんだろう」
「え?」
「マリアンヌと一緒になって、俺をからかって」
「楽しくなんかなかったわよ!」
慌てて、セシリアは言い返す。それは、本当に本当だ。
マリアンヌが計画を考え出したときからずっと、ずっと落ち着かない気持ちを抱えていた。
「私は……」
のどの奥から言い訳の言葉が押し寄せてくる。
しかし、結局のところ何も言うことができなかった。

「わかってるよ」
エルドがセシリアの言葉を遮った。
「どうせ、マリアンヌが全部考え出したことだろう。
わかってるんだ。リアがマリアンヌに逆らえるはずないもんな」

何もわかってないくせに! セシリアは心の中で叫び、エルドを睨みつけた。
今日、セシリアはマリアンヌに逆らったのだ。
長いあいだ、積み上げてきた彼女への信頼を崩してしまったのだ。
その原因はエルドにあるといっても過言ではないのに。

けれども、エルドはセシリアの恨みのこもった視線など物ともせずに、
大窓を開けると、猫の額ほどのバルコニーへ一歩進んだ。
「ここから抜け出そう」 

いくら何でも無茶だとセシリアは反対したのだが、エルドはまったく意に介さなかった。
「おれは廊下に戻って、正規のルートから帰るのはごめんだよ。誰に出くわすか、わかったものじゃないからな」
おそらくエルドがいちばん怖がっているのは、マリアンヌだろう。
セシリアも、できればエリオットやマリアンヌとは顔を合わせたくなかった。
「でも、ドレスが汚れないかしら?」
おずおずと自分もパルコニーから外に出ることを伝えると、
エルドは、セシリアのすっかり埃っぽくなっているドレスを見下ろし、「今さらだろ」と冷たく言い放った。
先ほどのエリオットの言葉を思い出し、
なんとなくセシリアは胸元を隠した。もちろん、エルドがそんなところ見ていないのはわかっていたのだが。

バルコニーを支える柱は、彫刻が施されて、でこぼこしている。
エルドはその凹凸に足をひっかけ、するすると地上へ降りて行った。
セシリアはその様子を感心しながら見守った。
多少、危なっかしいところもあったが、立派に降りることができたのだ。

負けていられないわ、とセシリアも柵を乗り越え、柱に飛び移ろうとした。
その瞬間、かくんと足首が揺れ、その反動でずるっと滑り落ちた。
セシリアは無我夢中で柱にしがみついた。

「リア、要領はわかっただろ? 降りて来いよ」
気づけば、柱の半分くらいのセシリアは位置にいた。
じょうごのような形に広がった柱の出っ張りのおかげで何とか足場を確保できている。

「……動けないわ」
両足は震え、心臓の鼓動が全身を駆け巡る。
「リア! 早く帰りたくないのか? もうちょっとだよ」
「帰りたいわ、でも、怖いんですもの!」

情けない声をあげる公爵令嬢に、エルドはやれやれとため息をついた。
「じゃあ、そのまま飛び降りろ」
「なんですって? 私に命を絶てとおっしゃるの?」
「ばか、違うよ」
そこでエルドは両手を大きく広げた。
「受け止めてやるから」
「……本当?」
セシリアは疑い深げにエルドの細腕を観察した。
「いくらなんでも殺人犯になるのはまっぴらだよ」
「私のスカートの中のぞかない?」
「さっさと言う通りにしないと」
エルドは苛々したように叫んだ。
「俺は一人で帰るからな。お前はそこで夜を明かしたらどうだ」
「わかったわよ!」
情け容赦のないエルドに観念し、セシリアは目を瞑ると、大きく息を吸い込んだ。

桃色のスカートがふわりと広がった。

 

セシリアとエルドは芝生に重なり合って倒れた。
まったくなんて夜なのだろう。
ふわりとした飛翔の感覚とずっしりと重い着地の衝撃を一度に味わい、
セシリアの頭はくらくらしていた。

「……エルド、生きている?」
「ああ、なんとか」
エルドは絞り出すような声で言い、セシリアの背中に腕を回した。
「ちゃんと受け止めだろう」
「そうね、まさか支えきれなくて、倒れるとは思わなかったけど」
憎まれ口を叩くと、エルドは「仕方ないだろ」とふてくされる。

何だかたまらない気持ちが込み上げて、
セシリアはエルドの身体にぎゅっとしがみついた。
彼のにおいも、身体のくぼみもすっかり覚えてしまった。
そして、それはとても心地よかった。
でも、そのことは永遠に秘密にしておこう。
しばらくのあいだ、セシリアはエルドの胸の鼓動を感じていた。

「鞠みたいだな」
エルドがぽつりと呟いた。
「え?」
「昔、お前は桃色の鞠を持っていただろう」
「……よく覚えているのね」
「覚えているよ。お前とマリアンヌは、よく鞠で遊んでいたもんな。
 ただ鞠を取って、相手に投げるだけの繰り返し。
 よくもまあ、飽きもしないで」

セシリアはゆっくりと目を閉じる。
今の彼女にとっては、一点の曇りもなかった幸福な思い出を持ち出されることほど辛いことはなかった。
毎日、毎日、日が暮れるまでマリアンヌと共にいた日々。
彼女は、必ず、セシリアの投げる鞠を受け止めてくれたし、
セシリアが取りやすいように優しく投げ返してくれた。
それは安心で安全で、そして無駄な時間だったのかもしれない。
あの頃は、マリアンヌと自分が離れるときが来るなんて想像もしていなかった。 

「鞠みたいだ」
エルドは面白そうに繰り返し、ぽんぽんとセシリアの背中を叩く。
「あちこちいろんなところに、跳ねて転がっていく。どこに行くのか見当もつかない」
「なあに、それ。私は、鞠なんかじゃないわ」
セシリアは足をばたつかせ、形ばかりの抗議をしたが、
その一方で、エルドの言う通りじゃない、という感情が渦巻いていた。

いつのまにか、マリアンヌの手の中でくるくると躍らせられている鞠になっていた。
彼女の意見に絶対に逆らわない人形になっていた。
マリアンヌに嫌われたくなかった。いつでも一番の親友でいたかった。
もう自分たちの関係を繋ぎ止めるものは、子供時代に共有した思い出しか残されていないとわかっていても。
でも、マリアンヌが放り投げた鞠を受け取らなかったのは、他でもない自分自身なのだ。

「……私は玩具なんかじゃない」
―――本当は、マリアンヌの計画に参加なんてしたくなかった。
「ちゃんと感情があるのよ」
―――本当は、コートニーの恋なんて応援したくなかった。
「私は……」

「わかってるよ」
エルドはセシリアの頭をそっと撫でて、囁いた。
本当にわかっているのか怪しいものだわ、と思いながらも、
その簡潔な一言はゆっくりとセシリアの心の中に沈んでいった。 

 

 

鞠が弾んだ。
足元に転がりこんで来た桃色のそれに、
ベンチに座っていたエルドは驚いて顔を上げた。

「エルド!」
向こうの方からセシリア=フィールドが息を切らして駆け寄ってくる。
それは、どこか既視感を覚える光景だった。

「こんなところに隠れていたのね」
セシリアはエルドの持っている本を見ながら、咎めるように言った。
記念祭は六日目を迎え、とっくに中だるみの気配を見せていた。
エルドとしては、穏やかな日常に早く戻りたくてたまらなかった。

「何の用だ?」
どうせまた碌でもないことなんだろうと、付け加えると、
セシリアは顔をしかめて抗弁した。

「違うわ。一緒に後宮へ行きましょうと誘いに来たのよ」
「後宮へ?」
エルドは首を傾げる。
「そうなの。ロビンが鞠を庭に忘れて行ってしまったから、
 届けてあげようと思って」

この鞠は今では弟のものだったのかと思いつつ、エルドは鞠を拾い上げた。

「なんで俺まで行く必要があるんだ?」
憮然として、質問を投げかけると、セシリアはにんまりと笑った。

「ロビンと私と、三人で遊ぶためよ」
「だから、なんで俺が……」
エルドの不満げな声を、セシリアはすぐに遮った。
「だって、あなたは鞠遊びなんてしたことないでしょう」
「そうかもしれないけど」
だがそれはエルドとしてはどうでもいいことだった。
「私に言わせてみれば、
 あなたはもうちょっと無駄なことをしてみるべきなのよ」

自信満々に言い切る公爵令嬢に
エルドは、そっとため息をついた。
「……おせっかい」

その言葉は確かにセシリアの耳に届いていたはずなのだが、
彼女は言い返すこともなく、澄ました顔を作って両手を開いた。
その動作の意味をエルドは瞬時に理解した。

もし、もっと幼い頃に、セシリアと遊んでいたなら、とふと思う。
くだらない喧嘩なんかしないで、つまらない意地の張り合いなんかしないで、
もっと彼女と仲良くしていたならば、現在の二人の関係はどうなっていたのだろう?
もちろん、そんな仮定はそれこそ無駄というものなのだが。

馬鹿らしい考えを振り切るために、エルドはセシリアに向かって鞠を投げた。
言葉にできない想いを伝えるように。
戻らない時間を埋めるように。
桃色の鞠は大きな弧を描き、セシリアの手の中におさまった。 

 

これは余談になるのだが。

記念祭六日目。茶話会を終えて後宮に戻ると、
ロビンは、にこにこしながら刺繍をしているメドウィばあやに出くわした。
第四王子を認めると、彼女は待っていたとばかりに来客の存在を告げた。
「誰?」
かすかな期待を込めて、問いかけると、
「セシリア様とエルド様です。
 珍しい組み合わせですよね」
「僕が頼んだんだよ。セシリアに」
ロビンは平静を装い応接室へ進んだが、内心では飛び上がって小躍りしたい気分だった。

「なるほど」 ばあやはそれでわかったと言いたげに頷いた。
「あの二人は変わりませんね。相変わらず、口喧嘩ばかりしていますよ」
ばあやのため息を聞き流し、ロビンは軽やかな足取りで応接室へ足を踏み入れた。
ところがセシリアとエルドの姿は見当たらず、
そのかわりのようにビロード張りの椅子の上に桃色の鞠が鎮座していた。

ロビンは拍子抜けして、鞠を手に取り、ぐるりと広い四方を見回す。
すると奥の部屋から、かすかな声が漏れてきた。

扉の隙間からそっと中を覗いてみると、
果たして、そこには、王家の子供たちに代々受け継がれてきた玩具に囲まれ、絨毯の上に座っている二人の姿があった。
セシリアが夢中になって積木を積み上げている横で、エルドはいかにも面白くなさそうに、あぐらをかいていた。
やがて、エルドが何事かを口にすると、セシリアは怒ったように、彼をにらみつけ、何事かをまくしたてた。
お決まりの口喧嘩というわけだ。
ロビンは二人に声をかけることも忘れて、懐かしいその光景を見守った。
物心ついたときから当然のように見受けられた二人の舌戦は、
おかしなことに、幼い少年の心をいつも落ち着かせるのだった。 

けれども、その次に目撃した光景は見慣れないものだった。
まくしたてるセシリアに苛々したように反論していたエルドは、
やがて彼女の肩をぐいと引き寄せた。――――そして、二人の唇は重なったのだ。

ロビンは思わず鞠を落とした。柔らかい絨毯の上で、鞠は音を立てずに跳ねる。

何が起こったのか全くわからなかったが、それはひどく自然な光景に見えた。
やがて二人の顔が離れると、セシリアはにこりと笑った。もう怒ってはいないようだった。
エルドの方は相変わらず無表情だったが、先ほどまでの刺々しい感じは消えていた。
仲直りしたんだ、とロビンにわかったのはそれだけだった。

「あらロビンじゃない」
出し抜けに声をかけられて、ロビンは直立不動した。
「ふふ。私は約束を守ったでしょう?
 ちゃんとエルドを連れて来たわ」
セシリアはすくっと立ち上がると、自慢げにロビンのもとに歩み寄った。
あとからエルドも付いて来る。どことなく気まずそうにしているのは気のせいだろうか。

「しかも、ずいぶん早かったでしょう」
「ええと」
とにかく疑問を解消させようと、ロビンは口を開いた。
「二人は結婚するの?」
それは、八歳の少年が精一杯頭を捻って、出した結論だった。
彼が妙齢の男女の接吻を見たのは、婚礼式のときだけだったからだ。

エルドは眉間に皺を寄せた。
一方、セシリアは瞳を丸くさせると、面白いことを聞いたという風に笑い声を立てた。
「まあ、いやだ。結婚というのは、婚約している恋人同士がするものなのよ」
そう言いながら、彼女はロビンの足元で転がっている鞠を拾い上げると、大事そうに胸元に抱え込む。
その様子はまるでロビンよりも幼い少女のようだった。

「だから、私とエルドは結婚しないのよ。だって私たちは」
そこで、セシリアは思わせぶりに言葉を切り、夏の空のように爽やかな笑みを漏らした。
「友達なんですもの」
まるで、恋人よりも尊い関係だと言うように。
もちろん第四王子には、公爵令嬢がどれほど友情に重きを置いているかわかるはずもなかった。

「ふうん」
いまいち納得がいかないロビンは、兄の顔を見上げたが、
彼は片手で顔を覆い隠し、あまり品の良くない言葉を呟いていた。
どうやら彼からの説明は期待できそうにもない。

正反対の二人の様子を観察しながら、ロビンは、
変わった“お友達”を抱え込んでしまった兄に対して、少しばかり同情したのだった。


(終)

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最終更新:2010年08月05日 17:31