王都の学院に通う書生、リィ ルイチェンが、学友のラン メイファに「心配
事がある」と相談を持ちかけられたのは、卒院試験の終わった次の日だった。
最終学年の学生達はの間には、昨日までの緊迫した空気と打って変わって、
ゆったりした時間が流れていた。少し春めいてきた空気のなかで、最上級生
にはもう講義はなく、学生たちは武術場で手合わせしたり、図書室で本を
読んだりと、のんびり過ごしていた。

──それにしても、あのメイファが心配事なんて珍しい。ルイチェンは、
そう思った。
彼女はこだわりのない性格で、『悩んでも仕方のないことは、悩まない。』
と言って、本当に思考から切り離してしまえる特技を持っていた。要は、
精神面が強いのだろう。十二で親元から離れて何年も異国で暮らしている
というのに、しかも自由は制限され、一時帰国さえほとんど許されないと
いうのに、涙はおろか、不安そうなそぶりさえ──少なくとも同期生の前では
──見せたことがなかった。
その「男らしい」と形容される種類の気質のために、また、何年も男ばかりの中で
育つうちに、言葉遣いも考え方も、女の子のそれより男のものに近くなっていた
ことも手伝って、ルイチェンは、メイファが同期の唯一の女生徒であるにも
かかわらず、心の中では『男友達』の括りの中に入れていた。
もっとも、そうしていなければ、彼女の友達になど、ならなかったかもしれないが。
とはいえ、その容姿は充分に美少女だ。抜けるような白い肌──ハリ国には、
色白美人が多いらしい──に、強い意志を宿した大きな瞳、すうっと通った鼻筋、
紅い花の花弁のような唇は、今はキッと引き結ばれている。

「で、何? 心配事って」
「もう、十四日にもなる」
「何が?」
メイファは僅かに言い淀んだ。
「……レンを見かけなくなってから」
「心配事って、『あの方』の事かよっっ!?」
ルイチェンはその名を聞いた途端、血相を変えて後ずさった。心の中で、危険を
告げる警鐘が激しく鳴っている。
その様子を見て、事情を知らないメイファは、少し憮然として言う。
「そんなに毛嫌いしなくても…。あいつだって、そんなに悪い奴じゃないんだぞ」
彼は脂汗を滲ませながら頭を横にふるふると振った。違う、『そんなに悪い奴
じゃない』のはメイファに対してだけだ──!! と叫びたかったが、それは一応
してはならないことになっている。
『あの方』──つまり、二十五人中二十二位の席次を持つ皇子、チェン シュン
レンは、ルイチェンたちの同期生のあいだでは恐怖と畏怖の対象だった。この、
どこか人の良い辺境国の姫を除いて。

  *   *   *

ルイチェンのように親が宮仕えの貴族の子であれば、学院に入る前から『あの方』
の奇人ぶりは聞き及んでいた。あらゆる権威にも権力にも価値を認めず、自由に
振舞う。それでいて、自身は皇族という身分のためにほとんどの者が手出し
できない。人を寄せ付けず、孤高を好む。
当然遠巻きにしたし、知らない者にはそれとなく耳打ちした。十二にもなれば
ほとんどの者が、『危うきに近寄らず』の価値を知っていた。
変人などとうっかり呼んで、聞かれでもしたら怖いので、皆単に『あの方』
と呼んだし、それで通じた。
しかし、入学したばかりの小さなメイファは、耳打ちする間もなく真っ直ぐに
講義室に入り、『あの方』の隣に座ってしまった。
あの頃から妙に正義感が強く、曲がったことが大嫌いな彼女は、耳打ちしても
関係なくそうしたのかもしれないが。
『あの方』がメイファに関心を持つのに、時間は掛からなかった。


ほどなく皇族の権力を背景にして、ルイチェン達の同期生に次の三ヶ条が
課せられることになる。
ひとつ、メイファに手を出してはならない。
ひとつ、メイファに手を出させてはならない。──何も知らない不心得者が
寄ってきたら、これを阻止すること。
ひとつ。メイファに余計なことを言ってはならない。──良い噂も、悪い噂も、
過去の噂も。煽りや焚きつけも無用。ともかくそっとしておくこと。

学院内では平等に扱われるとは言っても、それは同じように席を並べ、同じ
ように講義を受けるという程度の意味で、個人同士の問題には権力が絶大な
力を持つ。何しろ、シン国の貴族にとって、学院で学ぶということは、宮仕えを
希望するのと同義なのだから、権力に服従するのは自然なことだ。。
だから、席次が低いとはいえ歴とした皇族の言葉なら、拘束力は充分なはず
だった。

しかし、それだけでは終わらないのが、『あの方』なのだった。半年も経たぬ
うちに──それは『あの方』の態度が、『関心がある』から、明らかに『気が
ある』に変わった頃だったが──メイファを除く同期生全員若干十四名分の
何らかの弱みを、知らぬ間に握られていたのだった。
弱みといっても、大半が若さゆえの些細なものだった。校則違反やら、学院の
備品を破損した(しかも黙っていた)のやら、門限を破っていかがわしい場所に
行ったのやら。しかし、学院に通う者にとって、学院の下す評価は、それ
ひとつで将来を左右される可能性がある、絶対のものだった。誰でも、評価を
下げるようなことは、例えごく些細でも絶対にばれたくない。そういった、
学院生特有の心理をついた巧みな人の操り方だった。

それ以上に、彼らを恐怖させたのは、『何故ばれたのか分からない』ことだ。
誰にも見られていなかったし、誰にも言っていない。なのに、気がついたら
『あの方』に知られていた。そう告白したものは、少なくなかった。
そういえば、『あの方』の噂には、人の心を読む術を心得ている、という
ものもあった。
ともかく、得体が知れない、逆らわないほうが良い、出来れば関わりたく
ない、怖い。
それがルイチェン達の『あの方』に対する共通認識だった。

勿論、メイファのこともひとまとめにして遠巻きにしかけた。
しかし彼女は、『あの方』の遠巻きを全く意に介しなかったときと同様、
全く気にせず誰に対しても屈託なく近しく接した。
だいいちメイファは、裏表がなく明朗にして快活、居るだけでその場を明るく
する、不思議と人を惹きつける少女だった。それは小国ながらも王族の姫
としての資質かもしれないが、結局、長くメイファを避け続けた者は居なかった。

そしてルイチェンは、下級官吏の息子ながら、そんなメイファと妙に馬が
合った。特に、メイファが怒って『あの方』に怪我させそうなところを
止めて以来、急に親しくなった。友人としてのメイファは、気持ちの良い、
尊敬できる相手だった。


  *   *   *

ルイチェンは、せっかく『あの方』が卒院して顔を合わせなくて済むように
なったのでやっとほっとしていて、出来れば今更名前も聞きたくはない気分
だったが、友人のたっての頼みを無下に断るわけに行かず、とりあえず話を
合わす。
「でも、とっくに卒院したのに、『十四日も』見かけてないって・・・普通
じゃないのか」
「普通なら、二、三日に一度はその辺に出没してる。五日以上見かけなかった
ことは、今までない。
卒院試験の所為かと思ったが、試験終了日に現れなかったことも今までない」
「へ…へえ、二、三日に一度」
通いつめ過ぎだろ、とルイチェンは早速切り返しそうになった。全く、道理で
『あの方』の目撃情報が絶えないわけだ。
「それで?」
「…こんなに見かけないってことは、怪我か病気かと思って…。
でもあいつは皇子だから宮廷に住んでて、簡単には入れないし…。
その、ルイチェンの父君は、宮仕えだったろう? 何か、分からないかと」
「あのねメイファ。知ってるとは思うけど、宮仕えにも部署ってものが
あってね、シュンレン様は戸部──財政と地方行政担当で、僕の父上は
礼部──外交と教育・倫理担当。ぜんぜん違うの。
宮中の住居の管理は宮廷の女官の管轄だし。
…あ、メイファのほうがさ、ほら朝起こしに行ってたりしたじゃん、
試験の時とかさ。
また入れないの?」

「へ…部屋まで入ったような言い方をするなっ。起こしに行ってたん
じゃない、呼びに行ってただけだっ!
ああいうときは学院が通行証を発行してだな…、それを見せると待合に
案内されるから、待っていると、身支度を済ませたレンが連れてこられて、
逃げないよう学院まで連れてくるのがわたしの使命で」
「ああ。手を繋いで来てたりしてたもんなあ。」
「な…っ…、何だその誤った認識はっっ。
手など繋いでいないっ!!
あいつがあんまりふらふらして脱走しかねないから、手首を掴んで
連行していただけで!」
メイファが真っ赤になって反論する。

──鈍い。鈍すぎる。これ素で言ってるのか。
誰も寄らない、誰も寄せ付けない孤高の変人様が、学院でも数少ない女性徒と
一緒に登院する、それが傍から見てどう見えるのか。握っていたのが手
だったのか手首だったのかなんて、些細な違いだ。
照れたように怒ったように前を歩くメイファに手を引かれて、『あの方』
は悠然と周囲を睥睨していた。
自分にとって、この子は特別。この子にとって、自分は特別。
…とでも、言いたげに。
本当に『あの方』は、メイファに見せる表情とその他に見せる表情が、
違いすぎる。
『あの方』がご丁寧に弱みまで握って牽制していたのはメイファと同期の
十四人。その他の五つの学年はどうしていたのか知らないが、ああして
メイファが呼びに来なければならないように仕向けるのも、学院生達への
牽制の意味合いもあったに違いない。
まあそれも、ひどく大人気ないが。
「それはそれとして・・・安否確認が出来ればいいんだね。いま少し思い
ついたけど、メイファの名前出して聞いてみるよう、父上に頼んでみる。」


翌々日、ルイチェンは父親経由の返事を友人に告げた。
「──王都にいない?」
「そうらしいよ。行先不明、目的不明、いつ帰ってくるかも不明だけど。
仕事中、とは言ってたから、極秘の任なのだろうって」
「あのサボリ魔が極秘任務・・・意外だ。死んでは、いなかったのだな。」
メイファは本当に意外そうな顔をして呟く。
「あくまではっきりと聞いたわけじゃないけど、すぐには帰ってきそうに
ないような口振りだったとか」
「遠方か、あるいは長期か。すぐに帰ってこれるようなところならむしろ、
隠す必要性も薄いしな」

眉根を寄せて少し考え込むようにした友人の表情を見て、ついルイチェン
も謝りたくなってしまう。
「なんか──ごめんね、あんまり役に立てなくて」
「とんでもない! 助かったよ。ひとまず無事そうだと分かっただけでも、
安心した。」
慌ててメイファは目を上げる。そしておもむろにルイチェンのほうへ
まっすぐ向き直って曇りの無い眼で言った。
「有難う、ルイチェン。無理を言って、すまなかった。
この借りはいつか返す──と言いたいところだが、卒院してしまえば
『いつか』はありようもない。
どうやって、返せばいいだろうか?」

本当にメイファは真面目で義理堅い、とルイチェンは思った。男だったら
大成しそうな気がする。
というか、本人は結婚もせずに祖国で政治に関わる気らしいが。
本人曰く、結婚相手は女のほうから選ぶことも出来ないし、結婚すれば
夫に仕えざるを得なくなる。
好きなように生きるには未婚を通すのが一番だ、ということらしい。
確かに、宮廷の女官のように、仕事と収入があれば、未婚のまま働くことも
可能だ。メイファの祖国で、政治に関わる仕事をすることで、地位と収入が保証
されるならそれも可能かもしれない。
未婚を通せるかどうかは、状況によると思うが。

「だったらむしろ『いつか』を捨てないで居て欲しい、ってお願いしたいな。
縁があるときで良いよ、友達なんだから。大したことでもないし。」
『あの方』の『恋人』が安否を気遣っています、試験のときに呼びに
宮中まで来ていた娘です──と言って聞いてもらったこともちょっと
気が引ける。メイファが聞いたら真っ赤になって激怒しそうだ。
もっとも、『あの方』付きの侍中も、メイファのことを思い出したら
あっさり教えてくれたらしいから、あちらでもそう認識されているのだ。
内容は『お答えできません』ばかりだったが。
「そうか。友達は、卒院しても、離れてもいつまでも友達──嬉しい、
本当に嬉しいよ。ルイチェン。
レンとは──いま王都に居ないのだったら、これきりになるかも、
知れないけど。」

ルイチェンは、この気丈な友人が僅かに涙ぐむのを少しの驚きをもって
見ていた。
多分、卒院で感傷的になっているのだ。ハリ国は辺境で、馬を使っても
ひと月は掛かる。徒歩だとどのくらいだか知らないが、普通ならそんなに
遠くに行ってしまえば確かに二度と逢うことも無いだろう。
けれどルイチェンには、何となくこれきりという気はしなかったが。


  *   *   *

卒院試験が済んでしまえば、まもなく卒院式だ。
そこで成績が発表され、修了証書が手渡される。
そのあとは、少しの休みを挟み、新入生を迎えて次の年度が始まる
ことになる。

「──なあルイチェン、なんか朝から花もって来るやつが多いんだが、
何でわたしのとこばっかりなんだろう? なんで花なんだ?」
卒院式の日、メイファの座っている卓上は、花で埋もれていた。
切り花が主だが、花の枝や鉢物まで混じっている。持って帰るのが大変
そうだが、まあ従者が持つはずだから問題ないだろう、とルイチェンは思った。
今日は同じ学年の生徒はみんな正装だが、さすがに女性であるメイファ
の装いは、一層華やかだった。
立て襟に踝辺りまである長い丈の深紅の上衣、その左右の腿まである
切れ込みは金糸で縁取られていて、細身の身体をすらりと格好よく見せ
ていた。下衣も同じく深紅で、上衣には全体に彼女の名前の花、
梅花[メイファ]の咲き乱れる様が繊細な刺繍で表現されていた。
「去りゆくものへの餞(はなむけ)だよ。男が男に花を贈ってもつまらない
から、女の子のメイファのとこに集まるんだろ。花に罪はない、
貰っときなよ。」

──鈍い。卒院式に異性に花を贈ったら、『ずっとあなたを見てました』
って意味合いだろう。
しかしルイチェンは、この鈍い友人に説明するのもどうかと思い、適当に
誤魔化した。
『あの方』の課した『メイファに手を出させないこと』を厳密に実行する
なら、花を持ってくるのも止めさせなければならない。しかし既に、
『あの方』の王都不在は、知れ渡っている。
メイファ自身が、訊かれれば正直に答えていた所為だ。
『あの方』の牽制で萎縮していた奴等が、『あの方』不在のこの機会に、
最後くらいは、とこぞって花を持ってきているのだ。幸い、それ以上
何か言おうとか、何か求めようとか、『あの方』に知れたら大変そうな
ことまで望む無謀かつ根性のある奴は居ないようだが。
つまり、メイファはかなり、人気があったのだ。実は。

まず第一に、女である、ということ。ひとつの学年に十五人程度の学生が居り、
六つの学年があるこの学院全体に、女生徒は全部で五名しかいない。女という
だけで既に希少である。

第二に、美少女であること。
メイファは白い肌と、意志の強そうな大きな瞳が印象的な女の子で、他の
四人の女生徒──彼女達もシン国の貴族のお嬢様達だが──と比べても、
ごく公平に見て、かなりの美人だった。

第三に、気品があること。
小国とはいえ王族なのだから当然といえば当然だが、彼女の置かれた状況が、
彼女の高潔さを一層際立たせていた。
朝貢国や属国からの『留学生』と言えば、つまりは人質である。シン国は
従順な国には寛容だが、刃向かえば容赦はない。そして、母国とシン国で
いざこざが起これば真っ先に拘束され、最悪の場合首を落される可能性
さえあるのが『留学生』という存在だ。滅多にそんなことは起きないが、
過去に一度もなかったわけではない。
十そこそこの歳で親元から引き離されている不安感と、自由を制限され命を
担保に取られている焦燥感から、荒れる『留学生』は少なくなかった。
しかし、自分と同じ状況に置かれているのに泣き言ひとつ漏らしたことの
ない少女が、毅然として
『祖国のためになら、命を掛けるのが王族の務めだ』
と言い放つのを聞けば、大抵の奴は黙らざるを得なかった。

第四に、剣の腕が立つこと。
『女は武芸なんかやっちゃ駄目だ、しとやかにしてないと。』と言う奴らも、
メイファの剣技には目を奪われていることを知っている。
あくまでメイファは友達としてしか見ていないルイチェンも、彼女の技は
素直に美しいと思っていた。
そもそも、メイファは素質や身軽さだけで剣を振るっているわけではない。
彼女は基本的に努力の人なのだ。
学院では、女生徒は武術の代わりに琴や詩歌や裁縫などで単位を修めることも
出来る。メイファが頑としてそれを選ばなかったのは、卒院後は政治に関わろう
としているためらしい。
確かに男なら文官であろうと武術は必須だ。出来ない者は嘗められる。だから
こそ学院でも武術を学ぶのだ。
彼女の目標は、祖国とその民のために役立つ立派な人材になること・・・だそうだ。
そしてメイファは努力ではどうにもならない自分の限界もよくわきまえていた。
同じように鍛錬しても筋力は男のそれに及ばない。体力もそうだ。
だから彼女の鍛錬は、技と速さに特化した。
自分の体力が消耗する前に、相手の力をいなし、急所を素早く正確に衝く。彼女が
剣を振るうとき、その緊張感と気迫に満ちた、それでいて流れるような優雅な
動きに、見ている者は嘆息を漏らした。
『あの方』はほぼ必ず武術の授業はサボリなこともあって、メイファをうっとりと
眺めている下級生も多かった。

──ただし、当の本人だけは、何故かそれに気づいていなかったが。
メイファの目標は、あくまで未婚のまま祖国に尽くすことらしい。
『女が学問をしたり、武術を身に付けたりすれば、結婚相手が居なくなる』という
俗説をなぜか信じ込んでいて、周囲の視線にはまるっきり気づいていなかった。
あるいは、気づきたくなくて意識から締め出していたのかもしれないが。

まあ、一言で言うと、『鈍い』。
本当に、まだるっこしい。──ルイチェンは、そう思っていた。
『あの方』だって、学院の初等部から高等部に移った頃には、ほとんど口説いてる
ようなものだったじゃないか。あれが全部『からかい』か『嫌がらせ』で認識され
てるなんて、いくらなんでもメイファはどっかおかしいんじゃないか。
しかも、『おまえ』とか『あいつ』とか言う呼称が許されているのも、どう見ても
特別扱いじゃないか。
『あの方』も、あの方だ。信じられないほど鈍いメイファには、はっきり言って
しまえばいいのに。
まるで、『好きな娘に意地悪をして喜ぶ悪餓鬼』みたいな真似をして。子供かあんたは。
口止めやら何やらで脅迫めいた事されてるこっちの身にもなってくれ。
──そんなことを、幾度学友達とぼやきあったか。


  *   *   *

メイファは、成績証明書を受け取ってから、茫洋としていた。
学業首席、武術四位、総合二位。予想以上の結果だ。
もっと飛び上がって喜んでもいいくらいの。
確かに嬉しい。けれど、心が躍らない。
褒めて欲しい人が、そこに居ない。
──人と人とは、このようにして別れていくのか。
ハリ国は、王都からはるか西の辺境だ。一旦祖国に戻ってしまえば、二度と王都に
出てくることさえ無いかも知れない。
友人達とは、そのように思って接してきた。もうすぐ、最後なのだと。
だが、レンには、うまく伝えられなかった。いつでも、苛立ちが先に立った。
レンよりどうしようもなく子供で、浅はかな自分を、あの細い目が嗤っている
ような気がしていた。
本当は、あの目が何を見ているのか、知りたかった。
近づけば、必ずはぐらかされたし、拒絶され、遠ざけられたりもしたけれど。
あれほど、身分も才能も、およそ人として望みうる最高のものを持っているのに、
いつでも、自分の好きなように振舞っているはずのに、何故あんなにも、幸せそうに
していないのだろう。
なぜあんなにも『捨て続けて』生きるのだろう。
心の中にわだかまっていた問いを漸く言葉に出来たのに、今度答えてくれると言って
さえいたのに、なぜいま、この王都からいなくなってしまったのだろう。
それとも、これも、一種の拒絶なのだろうか。
何も言わないまま、消えてしまうことが。
メイファは必死にその考えを否定した。あれは仕事だと、ルイチェンも言っていた
ではないか。
けれどいま、レンが王都にいないという事実が、否応なく胸を刺した。
何日掛かる場所に行っているのか、いつまで掛かるのか、それさえも分からないけれど。
これもまた、自業自得なのだろう。
自分が王都にいる限り、いつでも逢えると思っていた。そんな保証などないのに。
『留学生』は行動が制限されているとは言っても、出来ることはあったはずだ。
ぎりぎりまで、自分の心とも、レンとも向き合うことを先延ばしにした。
相手は皇族で、安否を確認することすら、自分だけでは出来ないのに。
どんなときでも、明日には何が起こるか、わからないのに。


「メイファ、宴の席に移動しないの?」
ルイチェンがぼんやりするメイファに声を掛ける。彼も、基本的に面倒見がいいのだ。
卒院式に続いて敷地内で催される餞(はなむけ)の宴のために、ほとんどの生徒が
中庭に移動している。
「ん…」
「凄いじゃん学業首席。ほとんど今日の主役だよ? あっちでみんな待ってるよ。」
「なあルイチェン、『目立たず生きる』って、なんだろうな?」
メイファは茫洋としたまま学友に問う。
「はあ?」
「あれだけ悪目立ちしておきながら『目立たず生きる』が目標だなんて、何の冗談
だろうな、あいつは。」
「『芙蓉の君』の話か…。『あの方』の話題ならもっと前振りしてくれよ
…心の準備ってものがさ」

そのまま移動しようとしたルイチェンは、袖をぐっと掴まれて後ろに引っ張られた。
「『芙蓉の君』って何だ? なにか、知ってるのか」
見れば、さっきまでぼんやりとしていた学友は、眼をぎらりとさせてルイチェンを
睨んでいる。
「まさか今まで『芙蓉の君』の話を聞いたことがなかったなんて事は…。」
「聞いたことはない。本来なら卒院試験が終わった後に聞けるはずだったと思うが」
ルイチェンのほうは、失言に冷や汗を流しながら、なんとか逃れようとしていた。
「それならなおさら、御本人から聞かなければ…。ほら他の奴から聞いたら単なる
噂を聞いたことになっちゃうし」
メイファがもし普通の女達のように噂話に興じる性格だったとしたらそもそも口止め
自体が無意味だったかもしれないが、彼女は『噂は真実を映さない』とか言って
噂話を忌避していた。それが『あの方』に関する話題なら、特に。
「本人がいないから困っているのだっ! 今聞かなければ永遠に聞けないかも知れん」
それは無い。『あの方』は多分しつこいから…とルイチェンは思ったが、友人の気迫に
気圧された。
「いやその話は『あの方』以外はメイファにしちゃいけない約束で…」
「ルイチェン、君には無理ばかり言って済まないが──頼む」

メイファは迷わずそのまま膝を折り、手を附いて床に額をつける叩頭礼をした。
およそこの学院に学ぶことが出来る身分の者なら、シン国の皇帝以外には決して
しない、またしてはならない最上級の礼。それだけに、その威力は絶大。
この友人は、いざという時の思い切りはやたらといい。本当に、女にしておく
のは勿体無いくらいだ。
「ちょ…メイファ、分かったから顔上げて! 人に見られる! 服が、
髪が汚れる──!!」
対してルイチェンのほうは人が良く、正直者で、若干小心者でもあった。

卒院式の開放感も、あったかもしれない。何しろ、握られていた『弱み』も学院内
のことで、評価が決まってしまえば時効になるくらいの些細なことなのだから。
そのとき、『あの方』が宮中にいて、ルイチェンもまた宮仕えが決まっている
ことは何故か失念していたが。



        ───続く───

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最終更新:2010年04月24日 19:09