勝気な中華姫に萌えたくて書いてみました。
国名はベタにシン国ですが、秦でも新でも晋でも清でもない架空の国。



ここはシン国の王都。
肌を刺すような夕刻の冷気の中、一人の少女が、二人の従者を伴って石畳の大通りを
足早に通り過ぎていた。陽は既に翳り、行商人の姿もまばらで、通りにいるのは
ほとんどが家路を急ぐ者達だった。
「──メイファ。」
ふと呼び止められて、足を止める。その声は、大通りに面した茶館の方から聞こえて
きた。深い藍色の袍(ほう)を纏った青年が、茶館の軒下に出してある卓についている。
シン国の袍は袖口も裾もゆったりと幅広で、袖口と襟、裾は飾り織りの布で彩られて
いた。茶館のほうは、夜には酒を出すのだろう、奥からは明かりが洩れている。

「またおまえか。レン。」
メイファはその青年を、強い意志を宿した瞳で睨みつける。レンと呼ばれた青年の
ほうは、優雅な微笑を浮かべて、強い視線を受け流した。
「一緒に、お茶でもどう?」
彼は上品な仕草で彼女を招いた。卓上にはメイファの分の茶器も律儀に用意してある。
もっとも、それが使われたためしはないのだが。
シュンレンはその高貴な身分にふさわしい、整った顔立ちをしていたが、全体的には
整いすぎてむしろ特徴がない、という印象を受ける青年だった。目は切れ長といえば
聞こえはいいが、いましているように微笑を浮かべるとひどく細く、彼の表情を
分かりにくくしている。少し癖のある髪は結い上げられておらず、房のついた紐を
使って肩の辺りでゆるく束ねられていた。

「いつも言っているが、わたし達は予定にない寄り道は禁じられている。
本来なら、こうした立ち話もすべきではない。
それに、こっちは卒院の試験で忙しいんだ、おまえになど構っていられるものか。」
言い捨てるような口調で話す少女を、愉しげに眺めながら彼は言葉を継いだ。
「メイファは、真面目だなあ。規則なんて、破るためにあるのに。」
少女は形の良い眉をキッと吊り上げて反駁した。

「規則は、守るためにあるに決まっているだろう?!
それよりその髪は何だ。官職についているのに結いもしないのか。だらしのない。
仕事が終わるには少し早い時間だが・・・まさか、またサボりではあるまいな?」
そう言うメイファのほうは艶やかな黒髪をきっちりと隙なく編み上げていた。
外套にも、その下から覗く紅色の立て襟の服にも糊が効いていて、彼女の几帳面な
性格を現していた。
彼女が着ているのは北方の民がよく着る服で、上衣は立て襟で踝の付近まで届く
くらいに長く、両脇に切れ込みが入って脚捌きがよくしてある。下衣は
脚衣(ズボン)型で、袖周りも脚周りも細く仕立てられていて、寒さに耐えられる
ようになっていた。
シン国では、貴人の服は布を贅沢に使ってゆったりと仕立てられるのが常で、
この服はどちらかと言うと貧相に見える、と言われたが、メイファの故郷も
この旗袍と呼ばれる服を取り入れていたし、何より動きやすさが気に入って
いたので、メイファはシン国風のゆったりとした袍を着る気にはならなかった。

「またサボり、というより大体いつもサボり。
近頃は出勤したらあんまりみんなが驚くもので、行きにくくて。
こうして街ゆく人を観察してるのも、結構楽しいし。」
彼の言葉を聞くと、メイファはそのまなじりを更にキリキリと釣り上げ、紅く可憐な
唇をわななかせた。
「馬鹿者────ッッ!!
この給料泥棒! 罷免できないからって調子に乗るな! 働けっ!!!
何故その能力を人のために使おうとしない!?
観察されてるのはおまえだっ!この変人!!」」
彼女のそのよく通る声はかなりの迫力だったが、叱責された方の青年は愉しげな微笑を
崩さずに聞いていた。
「メイファは、いつも世のため人のため、だもんね?
二十二番目の皇子の心配までしてくれるなんて、優しいなあ。」


二十二番目、というのはシン国皇位継承権であり、実質は皇子間の席次である。
シン国は徹底した実力主義で、皇帝の皇子達は武術・学問・実務の能力で序列化
されており、18歳で学院を卒院すると、その順位に応じて役職が割り振られた。
メイファがレンと呼んでいる青年は名をシュンレンといい、皇族であるチェン家の
一員である。
しかし現在の皇帝の皇子達は二十五人で、レンより順位の低い者のうち二人は年端も
行かぬ童であり、残る一人は病弱で、病床から離れられぬ皇子であった。つまり彼の
順位は事実上ほぼ末席、という扱いなのだ。
「誰が、心配なぞ、しているっ!!
苛ついているのだ、おまえの態度にっ!!
人に真面目だなあ、とか言ってる場合じゃないだろ!?  おまえが、真面目にやれっ!」
末席扱いといえど皇族であるレンにこういう言葉遣いをしている少女、メイファは、
ハリ国の姫で、シン国の王都にある学院に『留学』してきた娘であった。

  *   *   *

ハリ国は、山岳地帯の小国で、大国であるシン国に朝貢している国々のひとつ。
従って、『留学』というのは建前上のことで、実際は万が一のときのために差し出されて
いる『人質』という立場であった。
ただし、シン国は、従順な朝貢国に対しては非常に寛容で、『留学』してきている各国の
王族の子供達は、従者という名の監視役を付ければ比較的自由に王都内を見て廻ることが
出来たし、同じ学院に通うシン国の皇族や上級貴族の子供達とも、少なくとも学院内では
平等に扱われた。
朝貢国からの『留学生』は、一方で従順さの担保として命を縛られながらも、一方で
学問に関しては故郷の国とは比べ物にならないほどの自由を保障された、複雑な立場の
学生達だった。

十二歳で学院の初等部に入学すべく山奥から出てきたメイファにとって、当時はシン国の
全てが新鮮な驚きだった。豊富な物資、見たこともない多様な人種の人々、高い技術と
財力を示す圧倒的な建築物の数々。
──北に北狄、東に東夷、南に南蛮、西に西戎。この大地にあまたの民と国あれど、その
ただ中に大輪の華の如く君臨する国家あり。これを中華といふ。──
つまり周りは全部蛮族で、中央の中華の国だけが抜きん出ている、と言う論理である。
この論を書物で読んだとき、どちらかといえば蛮族の方に入れられるハリ国のメイファ
としては、何と傲慢な物言いをするものだろうと驚いたが、これほどの圧倒的な差を
見せ付けられては納得するほかない。いくたび国号が変わろうと、いくたび皇帝の
姓が変わろうと、悠久の歴史を持ち、他の追随を許さぬほどの高い文化と技術力を
持つ華のような国、それが中華の国。そしていまはこのシン国が、『中華の国』なのだ。

メイファにあてがわれた『学寮』も、元は誰かの邸宅だったらしき立派なもので、学院に
通う女子はそこに数部屋づつ自分の部屋を用意され、身の回りの世話をする侍女や食事の
世話をする料理人、護衛のための従者もすべてシン国からあてがわれた。
逆に言うと、『留学生』は、祖国から一人の侍女も伴うことを許されておらず、シン国の
用意した侍女と従者は脱走や策謀を防ぐための監視役も兼ねていた。
それも特定の人物と仲良くなりすぎないよう時折入れ替えられたが、元来人懐こく、こだわり
のないメイファにとってはさほどの苦痛ではなかった。侍女が入れ替わると、全てのことは
メイファがあらためて指示しなければならないため、最低限のことは自分ですることを
憶えた。
全ての外出には従者を伴うことが義務付けられ、ごく近いとはいえ学院への行き帰りも
例外ではなかったが、学院内に限っては一人で行動することが許されていた。
なかでも一番驚いたのは、学院のあり方そのものだった。
小国で、大国であるシン国に朝貢して守ってもらう立場の国が、人質として送り込んだ
小さな姫。それが自分だった。国を出るときには、母が涙で見送ってくれた。メイファ
自身も、どんな過酷な扱いでも覚悟していた。


──まさか、学問を学ぶ学生は平等、などと言われるとは思っていなかった。高貴な国
であるシン国の、上級貴族はおろか、皇族の方々とまでお話できるとは。
圧倒的な経験の量と、皇族とのつながり。メイファはすぐに、ハリ国が『留学生』を
出した経験が浅いために、人選を誤ったのだと気づいた。
ここに来るのは、王位を継ぐ人間や、それを補佐する人間、ともかく将来国家の中枢を
担う人物が選ばれるべきだった。事実、姫を送り出した朝貢国はその年はハリ国のみ
だった。
万が一失っても国政に影響しない末姫がここに来るのは、ひどく勿体無いことだと
思った。もちろん、それはメイファにとっては、この上もない幸運であったのだが。
彼女は、少女らしい真っ直ぐさで、ともかくすべてに励もうと思った。
この『幸運』に報い、いつか自分がハリ国に貢献できる人物になろうと。

それからもうひとつ、メイファを狂喜させたのは、学院では武術の指導も行われる
ことだった。
祖国では年頃になればはしたない、と忌避される剣術も、学院内では男に混じって
思う存分打ち合うことが出来た。
メイファは幼い頃からこっそり男の子に混じって稽古をしていたし、山国育ちで足腰が
強く、身体が軽かったので、シン国や他国の王子達に混じっても、そこそこの勝負に
持ち込むことが出来た。

そんな頃にメイファは、レンと出遭った。
全体の学生数が少ない『学院』では、隣の学年と一緒に講義を受けることが多い。
最初のうちは、偶然隣の席に座ることが多いひとつ上の上級生、という認識だった。
メイファは気づいていなかった。その頃すでにレンの『変人』ぶりは知れ渡っており、
学生達は彼を遠巻きにして席を取っていただけなのだ。入学したばかりの『留学生』
たちですら廻りの様子を見てそれに合わせた。

メイファだけは、それまでの学問がほとんど1対1で行われて集団生活の経験がなかった
せいなのか、それとも元来の性質なのか、その「遠巻き」の様子を「席が空いている」
としか見ていなかった。
自然に、この『知り合い』の隣に席を取ることが多くなっていた。
彼女は、レンの様子を見ていて、学院の講義ははじめから最後まで同じ集中力で聞く
必要がないのだ、ということをはじめて知った。彼は講義中は大抵余所見をしているか、
関係のない書付をしていたが、そんな彼がふと顔を上げて講義を聴いているときは、
講師がなにか教本に書いていない重要なことや、新しい解釈、鋭い考察などを述べて
いるときだった。
メイファは教本はあらかじめ充分に予習して、彼が顔を上げているときの講義内容
だけは欠かさず書き付けるようにした。それでもメイファにとっては、講師たちの
どんな些細な雑談でさえ胸躍らせる不思議な話であることには変わりがなかったが。

またハリ国とシン国の教養の程度には当然差があり、メイファは『留学』前にも熱心
で優秀な生徒ではあったが、講義中にはしばしば全く分からない言葉が出てきた。
そんなとき、隣のレンに訊いてみると、即座に鮮やかで簡潔な説明が帰ってきた。
彼女は、彼の怜悧さは学院の中でも群を抜いている、と感じていた。さすがに、
十三歳でも大国の皇族は凄い。そんなレンと、気軽に言葉を交わせるほど親しく
なれたことが、心の底から誇らしかった。


ところが、である。
学期末に行われる試験結果を見て、メイファは愕然とした。
何故かほぼ全ての科目で、レンは下位に位置していたのである。次々に未知の
単語にぶつかっては隣のレンに教えを請うていたメイファが比較的上位なの
にも関わらず。
「何故…?」
と問うても、いつもの細い目で微笑うだけだった。


そのうち、あることに気づいた。
それぞれの科目はあまりにも理解が低ければ進級できない仕組みになっていたが、
レンは器用に全ての科目でギリギリの点数で通っていた。
いくつかの科目は、本試験をあえて受けず、こっそり追試を受けたりもしている
らしかった。
わざとか…と、メイファは思った。
何故かは知らないが、レンはあえて、下位にいるらしい。
その上、最初の学期では分からなかったが、彼は講義もかなり欠席していた。
欠席しているあいだに、いかがわしいところに出入りしているとか、危ない
ことをしているとか、学院では皆が好きなように噂した。

彼の同級生には、あいつは努力しようとしないから・・・という者もいたが、
決してそういうわけではない。メイファが隣で見た限りでは、既に幅広い
知識と深い洞察力を持っているのだ。
高い身分と、高い能力を持ちながら、それを塵芥のように捨て続ける人、
それが十二歳でメイファが出遭った、レンという少年だった。
レンは、高い身分を持ちながら、あらゆる権威にも権力にも価値を
見出していないかのように振舞った。


それだけなら、メイファのレンに対する印象は、不思議だが能力は高い
ひとつ上の先輩、というほどのものだった。
だがレンは、人間関係もまた、捨て続けているようなところがあった。
レンが初等1年だったその前の年には、親しくなりかけた級友に、「御礼」
と称して、雨蛙がみっちり詰まった小箱やら、青虫がごっそりはいった
紙袋やらを贈ったのだとか。
実害はさほどでもないが、生理的嫌悪感を喚起するそのやり口に、それ以降
レンに積極的に関わるものはいなくなったらしい。
メイファは、山国育ちで、虫の類は得意だった。
雨蛙も、青虫も可愛い。毒のある虫だって、扱いにさえ注意すれば無害な
ただの虫だ──
そう思って、過去の話を聞いていたにもかかわらず、油断した。
あとで嫌と言うほど思い知ることになるのだが、レンは、少なくとも十三歳の
時には既に、人に嫌がらせをするときにその人の得意なものを使ったりする
ような愚は不思議と決して犯さない、そんな少年だった。

それは、ごく、突然のことだった。
講義の前、いつものようにレンの隣の席に座ったメイファに、丸めて紐で
括られた紙束が差し出された。
「贈り物」──そう、彼の唇が動いた。
何の疑いもなく、即座にメイファは、それを開いた。どんな素晴らしいものが
出てくるのかと、期待で胸をどきどきさせながら。

「それ」が何であるのか、理解するのに多少、間が空いた。ある意味、今でも
「理解している」とは言い難いが、もう何であるかは知っている。
そこには、裸で絡み合う男女が描かれていた。御丁寧に極彩色の──いわゆる、
「下品」な──色遣いで彩られた、春画と呼ばれる類のものであった。しかも、
一枚だけではなく、何枚も、いろんな格好のものがあった。
「それ」が何であるか分かってくるにつれ、メイファの細い眉はみるみる
釣りあがり、指先は怒りに震えた。
「こ・・・この破廉恥男ッッ!! 変態!!!! わたしを、愚弄するな───ッッッ!!!」
教室中の窓が震えるような声で、メイファは叫んだ。


貞節を美徳とするハリ国の姫にとって──シン国も同じようなものではあるが
──性的な当てこすりは最大限の侮辱に当たる。まだ十二歳のメイファは当然、
こういった侮辱には命を賭してでも決然とした態度を示さねばならない、と
教え込まれていた。
それ以上に彼女が幼い頃から胸に抱いていた野望──未婚のまま、祖国で父王の、
あるいは兄君が跡を継がれれば兄君の、政(まつりごと)の補佐として仕えること
──のために、よりいっそう性的なものから遠くあらねばならなかった。
またメイファは国では末っ子として兄弟には大切にされ、このような無礼を
受けたことはまだ一度もありはしなかった。相手はシン国の皇族とはいえ、
一度は心を許しかけた相手であるがゆえに、理性は消し飛んで怒りだけが倍増した。
級友が止めに入ってくれなければ、物差しで彼を打ち据えていただろう。
学院内のこととはいえ、喧嘩でシン国の皇族に怪我でもさせてしまってはさすがに
まずいことになっただろうから、あとでその級友に感謝した。

メイファは所持品を置いたまま教室を飛び出し、学院内の庭園の片隅で、怒りと
恥辱の涙を流した。
そしてそのとき、初めて大好きな講義をさぼった。
そういえば、落ち着いてからよく思い返してみると、レンはメイファに「あれ」を
手渡すところから、怒鳴られて物差しで打たれそうになるまで全く同じ微笑を
浮かべていて、動揺したところはひとつもなかった。ハリ国の習慣もメイファの
性格も野望も、充分に踏まえたうえで、彼女が烈火のごとく怒ることを完全に
見越してやったに違いなかった。
「あの、細目め……・!!」
それ以来、メイファは、レンの細目の微笑を見るたび、やたらと苛つくようになった。
自分は、レンに比べて、何もかも未熟で、幼い。それを、嗤われているような気がした。


とはいえ、他の学生達も更に一歩引いてしまったので、依然としてレンと最も
親しいのはメイファだった。
講師たちからしても、講義にはほぼ皆勤で、放課後は剣術の稽古か図書室で貴重本の
書写をしているメイファは、便利な伝言役だった。講義にいつ来るか分からない
レンへの伝言があるときは、メイファに伝えておけば何故かすぐ伝わった。
来そうにない補講や追試に引っ張り出す役目さえ、メイファに振られることが
あった。──メイファにはひどく不本意なことだったが。
レンの「からかい」は、親しくしている以上時折あったが、メイファのほうも
傷の残りかねない武器でなく、痣の残りかねない拳でなく、平手打ちで返すくらいの
分別はついていた。
そうやって二人は、彼が十八で先に卒院するまでの五年間を共に過ごした。


   *   *   *

そして、メイファも卒院試験を間近に控え、まもなく卒院して故郷に帰ることになる。
「もういい。試験は六日後に迫っているんだ。いつまでも立ち話をしている場合ではない。」
「メイファは成績いいんだから、そんなに必死にならなくても大丈夫なのに。」
「わたしは凡人だから、必死に頑張ってやっといい成績が取れるんだ。
──おまえと、違って。」
メイファは苦々しげにそう言うとくるりと踵を返そうとした──が、ふと思い出した
ように、その脚を止める。
「レン、おまえに一度聞いてみたいと思っていたが」
「メイファが僕に重要な話ー? 愛の告白ならいつでも歓迎だけど」
「黙れ」
彼女はぴしゃりと言った。こうした性的なほのめかしもまた、彼女にとっては「嫌がらせ」
以外の何者でもない。
「おまえは、そうして──自分の能力を、隠して、捨てて──どんな風に、生きたいんだ? 
何を、望んでいる?」
「ふうむ。メイファの質問は大仰だねえ。」
レンは少し考える様な仕草をして手の中の茶器を弄ぶ。
「祖国と民のために尽くすのが大好きなメイファには分かり辛いことかもしれないけど、
僕は、目立たずに生きたいだけだよ。」
「目立たず…?」
思い切り目立ってるじゃないかっっ!! ──と切り返しそうになるが、ぐっと堪える。
「話すと多分、長くなるから。本当に聞きたいなら、そうだな、卒院試験が終わって
からでも、ゆっくり話してあげるよ。
もう随分、暗くなってきた。風も冷たいし。風邪を引かないうちに帰ったほうが良いね。」
「言われずとも帰る。さっきからそう言っている。
──おまえもな。」
「え? 何?」
「おまえも、風邪を引かないうちに、帰れと、言ったんだっ!」
言うなり彼女は、踵を返して、今度は迷わず宿舎への道を歩みだした。背筋を
ぴんと伸ばして、足早に、風を切って歩いてゆく。二人の従者が、後を追った。
その後姿を見ながら、レンは決して聞こえないように、小声で呟いた。
「メイファは、優しいな。優しくて、素直で。──好きだよ、そんなところ。」


   *   *   *

瀟洒なたたずまいの『学寮』に戻ったメイファを、彼女付きの侍女が出迎えた。
外出着から部屋着に着替え、部屋に運ばれた夕食を摂る。
余裕のある時期なら、同じ『宿舎』に居る令嬢たちと呼んだり呼ばれたりと
いうこともあるのだが、今は卒院する者だけでなく全員が期末試験で忙しく、
それどころではなかった。

現在、この『学寮』で暮らしている令嬢たちはメイファも含めて五人。メイファ
以外は全て、地方から勉学のために王都に出て来た貴族の娘達であった。
彼女達は全て生家からなじみの侍女を連れて来ていたし、従者も居るには居るが
必ず引き連れて歩く義務はなく、寄り道だって前もって申請する必要なしに、
好きなように歩き回ることが出来る。
しかしメイファは、その違いはつとめて意識しないようにした。
誰でも、その立場に応じて義務と制約に縛られている。自分は、小国ながらも
王族の一員でるがゆえに、『留学生』としてここでその責務を全うしている
に過ぎない。

立場は違うといっても基本的に素直で人懐こく、レン以外には礼儀正しい
メイファは、ここでも割と好かれていた。特に年下の面倒見が良いので、
下級生達からなどはかなり慕われていた。

夕食が終わると、勉強があるからとメイファは侍女達を全て下がらせた。
何しろ、卒院試験まであと六日なのだ。
けれど、やっと一人になった彼女は大きな溜息をついて卓上に突っ伏した。
ぽつり、と小さな声で独り言を呟く。
「せっかく逢えても…いつも何かと喧嘩腰になってしまうな…。
王都に居られるのも、あとわずかなのにな…」
──もうすぐ、ここで六年間過ごした成果を試される。
それが終われば、自分と入れ替わりに従兄弟の少年が祖国から来て、
自分はここを離れねばならない。
かつてはれをそひどく待ち望んでいた筈なのに、いまはただ、淋しい。
メイファは揺れる心を振り切るように、教本を開いた。




        ───続く───

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最終更新:2010年08月22日 08:33