1.
 そこは、少女には見慣れない世界だった。右を見ても左を見ても、見える物は広大な草原。後ろ
には少女がこれまで通ってきた道、前にはこれから少年が行く道。空も大地も、全てが夕日に赤く
染められ、オレンジのペンキをぶちまけられたかのようだった。
 ――少女は見慣れない世界に来てしまった。
 いつもなら心が躍る道の景色も、今は彼女の不安を煽る。
 涙が止まらなかった。最後だから、もう二度と会えないから、だから、せめて最後くらいは笑顔で。
そう思えば思うほど、「最後」「2度と会えない」と言う言葉が胸に強くのしかかってきて、心の奥から
涙を引き摺り出してくる。
「姫さま、泣かないでくださいよぅ」
 すっかり困った顔をした少年が、寂しそうに言う。まだ7つになったばかりのその少年の顔には、7
歳の少年が知るには早すぎる、諦観の念が浮かんでいた。
 ごめん、なさい。少女がやっと喉の奥から絞り出せたのは、謝罪の言葉だった。
 ごめんなさい。繰り返し、呟く。
 一ヶ月前までの彼は、隣国である騎士の国バイフロストの第二王子であり、将来を嘱望された
優秀な騎士の卵であり、そして――そして、魔法王国パフリシアの第一王女である自分の、許嫁、
だった、少年。
 だが今の彼は、親に捨てられ、国を追われ、全てを失ってしまった――奪われてしまった。
 奪ったのは他でもない、自分自分の軽率な行動が、幼い彼から地位も、将来も。全てを奪って
しまったのだ。
 自分より年下の、背丈も低い許嫁。それは友人というよりはまるで弟のような存在だった。そんな
弟に、お姉さんっぽいところを見せたかった。凄い、と尊敬の目で見て欲しかった。だから一月前
の祭りの日、彼を連れてこっそり城を抜け出した。2人だけの、ちょっとした大冒険だった。
 だがその結果は悲惨なものだった。混雑する雑踏に紛れて離ればなれになってしまい、ぐずって
いるところを悪漢に攫われた。男達はまだ成人もしていない少女の服を剥ぎ、乱暴をしようとした間
一髪のところではぐれたはずの少年が護衛を連れてきて事なきを得た。
 問題はその事件の後である。何を思ったか少年の父であるバイフロストの国王は、少年を勘当、
国外へ追放すると言い出したのである。子供のしたことだから、どちらかと言えば非は娘にあるか
らと少女の父親であるパフリシア女王やバイフロストの側近達も進言したものの、騎士見習いが
守るべき主を危険にさらすなどあってはならぬとバイフロスト国王は頑として譲らず、少年は全てを
失うこととなった。
「僕は、大丈夫です」
 泣き止む様子のない少女に、少年は胸を張って言った。少女は顔を上げ、少年の顔を見た。
涙で曇った先にある少年の顔は凛々しく、強い意志を感じさせる物だった。
「僕は強くなります。強い騎士になって、きっと戻ってきます」
 だから大丈夫です、と。力強く、断言して見せた。
 根拠も何もない、子供の夢想に過ぎない言葉だ、と少女は思った。そう思った、
「……うん、待ってる」
 ――ハズなのに。どうして彼の言葉は、こんなに強く、信じることが出来るのだろう。
 気付けば涙は止まっていた。純白のドレスが皺になるのも気にせず、目尻にたまった涙を袖で拭
った。
 そうだ、彼は帰ってくると言った。帰ってこれると信じている。ならば、世界中の全ての人が彼の言
葉を笑おうとも、せめて自分だけは、彼の許嫁である自分だけは、最後まで彼を信じていよう。
「待ってるから、ずっとずっと待ってるから」
「はい、必ず迎えに来ます」

 ――そして2人は、指切りを交わした。どちらが言い出したわけでも、どちらが先に指を差しだした
わけでもない。どちらともなく、ごく自然な流れだった。
 こうして2人は約束を交わし、別々の道を歩き始めた。この時、10年後に2人がこの約束を果た
すことを予見できたのはきっと、この2人だけだっただろう。

2.
「ティア、ちょっと来て頂戴」
 隣室から掛けられた主からのお呼びに、またか、と侍女のミーティアは隣の部屋に聞こえないよ
う小さく嘆息を漏らした。
「ティア、聞いているの?」
 隣室から聞こえてくる妙に不安げな声に、はいはい今行きます、とおざなりな返事をして、ノックも
せずに部屋に入った。質素ながらに高級感あふれ独特の存在感を放つ調度と、その存在感す
ら霧散させてしまう広い部屋。白で統一された清潔感のある部屋には柔らかい陽の光が射し込
み、見る者から現実感を奪う。


 そんな幻想的な世界の中心に、彼女はいた。
 腰まで伸ばした蜂蜜色の金髪が、絵画のように風にそよいでいる。部屋同様、持ち主の心情を
表すように余計な装飾のないシンプルな白いドレスは、シンプルであるが故に素材の持つ素晴ら
しさ、同性すら魅了する抜群のプロポーションを浮き彫りにする。彼女を実年齢より幼く見せる大き
くクリクリした碧眼は、普段は強い意志を宿しているのだが、今は不安に揺れている。
「はい、は一回でよろしい」
 ぷぅ、と愛らしく頬を膨らませてみせるその少女の名はラティフィア・パフリシア。ミーティアの主人
であり、魔法大国パフリシアの第一王女である。
 ミーティアは苦笑しつつ、申し訳ありませんと頭を下げた。ラティフィアとは彼女が生まれた時から
の付き合いであり、ラティフィアもミーティアを姉のように慕っている。
「ね、何かおかしいところはないかしら。ちゃんとドレス着れてる?」
 ラティフィアは怒った表情を一転させ、不安な表情でミーティアに問い掛けた。
「ええ、大丈夫。お綺麗ですよ、姫様」
 呆れつつも、型通りの返事をした。
「本当に? 背中、変な風になってない? 鏡で見ても……」
「失礼ですが姫様、つい先ほども全く同じ事を仰っていましたよ」
「もう30分も前のことじゃない。その30分の間に乱れていたらどうするの」
「……姫様、ドレスを着たまま運動でもしたんですか?」
「……してない、けど、でも」
 もごもごと歯切れの悪い返事をするラティフィアを見つめていたミーティアは、はぁ、とラティフィアに
も聞こえるように大きく溜息を吐き、ラティフィアをそっと抱き寄せた。ミーティアより頭一つ分小さいラ
ティフィアはミーティアの胸に顔を埋めた。
「ラティ、少し落ち着いて。普段の貴女ならもっと堂々として、座って挨拶の言葉でも考えているわよ」
 勇気づけるようにそう囁くと、腕に込める力を強くする。
「――堂々となんて、とてもできそうにないわ」
 しばしの沈黙の後、ラティフィアがようやく絞り出したのは、ミーティアもほとんど聞いたことがないよ
うな、弱気な言葉だった。
「今日、アッシュは帰ってくるのよね」
 ミーティアから離れたラティフィアはまるで自分を抱くように腕を組み、俯く。それは10年ぶりに幼馴
染みに会う事への緊張、あるいは恐怖にも似た何かから来る震えを抑え付けているようで。
「姫様……」
 いつもなら不安一つ感じさせず、むしろ見る者の不安を吹き飛ばすように頼もしいその後ろ姿は、
今はまるで見る影がない。それは今年20になるパフリシア王女も、まだ20歳の乙女ラティフィア・
パフリシアであるということを強く感じさせた。
 ミーティアはどう声を掛けるべきか少し思案した後、
「ええ、帰ってきます」
 突き放すように。
「10年前、貴女が起こした不祥事が原因で追放されたバイフロストの王子、アッシュ・バイフロスト
は、本日パフリシアに凱旋します。
 ――次元魔王ヘルガルデスを倒した、“勇者”として」
 凛々しくあって欲しくて、淡々と事実を告げると、ラティフィアの口元がきつく引き締まった。
「幼馴染みが10年振りに、しかも“勇者”として帰ってくるんです。ラティ、貴女がそんな弱気になっ
てどうするのですか。貴女はパフリシアの王女として」
「分かっているわ」
 ミーティアの言葉を遮るように、ラティフィアが呟いた。ミーティアに背を向け、開け放った窓に歩
み寄った。
「そんなこと、分かっているわ……」
 窓に手を掛け、消え入りそうな声で呟いた。
 ミーティアはそんな主の姿を見て、苦笑しつつ溜息を吐いた。

 ――ラティフィア・パフリシア。
 魔法王国パフリシアの第一王女にして時期王位継承者。長い蜂蜜色の髪は琥珀の如く、曇
り無き白き肌は絹の如し。凛とした碧い瞳はサファイアを思わせ、その美貌は三国に並ぶ者はな
いと謳われている。
 魔法王国の第一王女に相応しいだけの膨大な魔力と、それを自在に使いこなせる程に魔術
に対する造詣も深い。
 どんな時でも柔和な笑みを崩さず、気品あふれる佇まいは貴族から庶民に至るまで、男女問
わず人気が高い。
 ――もっとも、想い人の到着を待つ今の彼女は、王女としての仮面が少々取れかけているよう
ではあるが。


3.
「というわけで、パフリシアは後回しにして先にバイフロストに向かおうと思――」
「却下だボケ」
「腑抜け」
 人差し指をピンと立てて、自分の思いついた名案を仲間に自信満々に話していた赤髪の青年
は、その言葉を言い切る前にその自分的名案を却下され、ぐっ、と一瞬口ごもった。が、その程度
で引き下がるようなヤワな精神では魔王など倒せるはずもない。ファイト、俺!と自分を必死に勇
気づけ、もう一度最初からその“名案”の説明を始める。
「だからさ、先に父上の墓参りを――」
「黙れタマナシ」
「死ね」
 今度は説明すらさせてもらえず、赤髪の青年――アッシュは今度こそがっくりと頭を垂れた。
 がたん、がたんと馬車が揺れる。
「姫様に会うのが怖くて逃げ腰になっているのが見え見えなんだよ。もっとシャンとしやがれ」
 とは、ポニーテールの女騎士・アシュレーの言。
「そもそも俺たちはパフリシアに行く分の食糧しか持っていないぜ。バイフロストに行くには5日は絶
食しなきゃならんし、全力でお断りだ」
 とは、足を組んで手持ちの針をメンテナンスしている針術士、トオリの言。
「…………諦めろ」
 とは、馬車を操縦している大柄な魔法使い、キルトの言。
 そして共に戦ったハズの戦友達から好き勝手言われ、馬車内に倒れ込む赤髪の青年――ア
ッシュ・バイフロスト。
 彼らこそ、500年ぶりに出現した大災害“魔王”を倒した勇者のパーティーである。
 の、だが。
「よ、よし、じゃあこうしよう。俺は実はパフリシアの国境を越えると死んでしまう恐怖の奇病にかかっ
ていて……」
「…………つい先ほどパフリシアの国境を越えたが」
「…………………」
 思いついた端に全てのアイデアが潰されてしまい、アッシュは軽くへこんだ。
「ったく、諦めが悪いな」
 トオリが苦笑する横で、アシュレーが心配そうにアッシュの肩をたたいた。
「よぉ大将、もう少しシャンとしてくれよ。アンタは魔王を倒した“勇者”なんだぜ。もう追放された王子
なんかじゃない。胸を張って、姫様に会えば良いんだよ」
「アシュレー……」
「そうそう。だいたい女なんて王女だろうが娼婦だろうがかわんねぇって。身も心も裸にひんむいて組
み敷いちまえば、後はほっといても尻尾振るっての。とりあえず一発ヤれって。な?」
「……最低だな」
「な?じゃねぇだろタコ! トオリてめぇ、人が折角良いこと言ったのにふいにしやがって!」
「あ、おいアシュレー! トオリも暴れるな」
 ばたんばたんと馬車が大きく揺らいだ。
「…………パフリシア城、見えてきた」
 キルトの声は、騒がしい馬車の中には届かなかった。

 ――アッシュ・バイフロスト。
 騎士の国バイフロストの第2王子として生まれ、7歳の時に起こした不祥事が切っ掛けとなり国
を追われた、捨てられた王子。そしてこの世界を平行世界と融合させようと目論んだ魔王ヘルガ
ルデスを倒し、伝説にその名を刻んだ“勇者”。
 燃えるような紅い髪が印象的な優男と言った風情であるが、その瞳に宿る炎の紅が彼の意志
の強さを象徴している。
 ――のだが、幼い頃より色恋とは縁遠い世界に生きてきた彼にとって、十年来の想い人との再
会は嬉しくもあり、同時にとってもとっっても、ハードルが高い物だった。


4.
 静かだった街道を過ぎ、騒がしい城下町を抜け、パフリシア城の門をくぐる。城下町を通る時に
勇者のパーティーであることがバレて歓声を受けながら城へと向かうこととなったが、既に5カ国で
同様の待遇を受けていたメンバーは動じず、アシュレーとトオリは笑顔で手を振ったりもしていた。が、
アッシュは難しい顔をして俯き、目を瞑ってぶつぶつと呪文のような何かを呟いていた。アシュレーも
トオリも、いつもならアッシュの奇行をからかうところだが、これ以上ごねられても面倒だと好きにさせ
ていた。
 パフリシア城の城門を通ってほどなくして馬車が止まる。
「着いたのか?」
「…………お出迎えだ」
 トオリの問い掛けに、キルトは手短に答えた。
 その答えを聞いて一番に反応したのは他でもない、今まで俯いていたアッシュだった。アッシュは
ばっと顔を上げると
「よし、行くぞみんな!」
 と、勢いよく立ち上がった。
「もう良いのか?」
「十分ウジウジして、心の準備は出来た。あとは、征くだけだ」
「それでこそだぜ、大将」
 いつもの調子に戻ったアッシュを見て、アシュレーは満足そうに笑った。
 アッシュは馬車から降りて出迎えに来たという迎えの顔を見て驚き、すぐに顔を綻ばせた。
 迎えに来たという2人――実年齢より若く見える若々しい肌と、未だ白髪のない頭髪をした壮
年の夫婦こそ、アッシュの叔父叔母に当たり、現在パフリシアを治めているパフリシア女王とその
夫に他ならない。
 アッシュは逸る気持ちを賢明に抑えながら、幸せそうに微笑む二人の前まで進み、その足元に
跪いた。
「――アッシュ・バイフロスト、魔王討伐を終え、お恥ずかしながら帰って参りました」
 言いたいことは沢山あったはずなのに、色々な考えが喉元でつまり、出てきたのはそんなお決ま
りの文句だけだった。
 気付けば他の仲間もアッシュより少し後ろで跪いていた。
「……顔を上げなさい、アッシュ」
 パフリシア王女の声がして顔を上げると、彼女もまたしゃがんで、自分の目線に合わせてくれて
いた。それはまだ、自分が幼い頃に彼女が自分の目線に合わせてくれていたのと同じで――
「大きくなったわね」
 目尻に涙を溜ながら、彼女はアッシュを強く抱きしめた。
「お帰りなさい、アッシュ。長い、旅路だったわね」
「叔母上」
 困ったように笑って、叔父に視線を向けると、叔父も本当に嬉しそうに笑った。
「お帰り」
 10年振りに会った叔父叔母は、10年前より少し皺が増えてはいたけれど、10年前と変わらぬそ
の笑顔に、アッシュはようやく帰ってきたんだと痛感し、
「ただいま」
 “勇者”としてではなく“家族”として、その帰郷を告げた。
「皆様も大業お疲れ様でした。ささやかではありますが歓迎のご用意もしております。さぁ、城へどう
ぞ」
 後ろで温かい目でアッシュを見守っていた仲間にパフリシア女王が声を掛けると、皆一様に頭
を下げた。


5.
「……エスパーの練習ですか?」
 突然は以後から声を掛けられたラティフィアは、ビクッと肩を跳ねさせて振り返り、
「驚かさないで頂戴、ティア」
 その声の主がミーティアであることを知ると、ほっと安堵の息を吐いた。
「いえ、アッシュ様の客室のドアノブをじっと見つめていらしたので、魔術だけでなくエスパーにまで
手を伸ばしたのかと」
「……そんなワケないじゃない」
 皮肉たっぷりに毒づくミーティアに、ラティフィアは苦虫をかみつぶしたような顔になる。が、ミーティ
アはそんなラティの表情に気付かぬふりをして、
「まさかアッシュ様が扉に何か細工を? そういうことでしたらおまかせ下さい」
 反論の隙を与えぬ早業でドアノブに手を掛け、扉を押す。
「ちょっ、まだ心の準備が……ッ!」
 ラティの制止も聞かず、ミーティアはドアを開けた。
「……ま、アッシュ様は現在トオリ様の部屋にいらっしゃるんですけどね」
 誰もいない客室とミーティアの呟きに、ラティはずっこけそうになる。
 ラティは体勢を立て直すとコホンと咳払いをして、必死にいつもの表情を取り繕う。
「謀ったわね、ティア」
「いえ、姫様が珍しくテンパっていらっしゃるようでしたので、気を紛らわせられたら、と」
 ミーティアは肩を竦めると、しれっとそんなことを言ってのける。
「あら、それはありがとう。おかげで寿命が大分縮まったわ」
「姫様、目が笑ってません。いつもの姫様でしたら非の打ち所がないくらい完璧な笑顔で、もっと
気の利いた憎まれ口をたたきますよ」
 「いつもの姫様」を出されると、ラティは途端に何も言えなくなる。ぐっ、と言葉につまったラティを見
たミーティアは、ふぅ、と呆れたように溜息を吐いた。
「分かりました」
「え?」
「アッシュ様とお話ししたいんですよね? 私の方からそれとなく……」
「だ、ダメよそんなの!」
 ミーティアが提案を全て言い終わる前に、ラティフィアはそう遮った。
「私がアッシュと話がしたいんだから、私から出向くのが礼儀という物でしょう!?」
「まぁ、そうかもしれませんが」
 恋愛に駆け引きはつきものですよ、という言葉が喉元まで出かかったが、呑み込んだ。長くラティ
に使えているミーティアだからこそ、彼女が決して折れないであろう事を知っている。
「アッシュはトオリ様の部屋にいるのですね?」
 ミーティアの返事を聞くよりも先にラティはずんずんと歩き始め、角を曲がって見えなくなってしまう。
ミーティアがやれやれと苦笑すると、
「あれ? ひょっとしてティア姉さん?」
 ――後ろから、懐かしい声がした。主とのすれ違う間の悪さを呪う気持ち半分、彼が自分のこ
とを覚えていてくれたことを喜ぶ気持ち半分で振り返ると、そこには予想通りの赤髪が。
「お久しぶりです、アッシュ様。10年振りですね」
「やっぱり姉さんだ。いやだなぁ、様だなんて。昔みたいに呼び捨てで良いのに」
「流石にそういうわけには」
 ミーティアが苦笑すると、アッシュも子供のように屈託無く笑った。その笑顔があまりにも昔と変わ
らない物だから、ミーティアもなんだか安心して、自然と笑顔になっていた。
 ミーティアにとっても、アッシュは幼馴染みに当たる。意識していなかったがやはり、10年ぶりに合
うことに少なからず緊張していたようだ。
 が。
「そういえば、こんなところで何してたの?」
「いえ、ちょっと迷える子羊のお尻を蹴飛ばしたのですが……」
「?」
 ここまですれ違いが続くと、何だか呪われているんじゃないかと勘ぐりたくなってしまう。
 ――2人が話せるのは明後日になるんじゃないかしら。
 アッシュと談笑しながらふと、そんな嫌な予感がした。


6.
「はぁ」
 今日だけで、この1時間だけで、一体何回溜息を吐けばいいのだろう。ラティフィアはそんなこと
を考えながら、もう一度、大きく溜息を吐いた。
 広間から聞こえてくる軽やかな音楽と楽しそうな談笑が痛い。夜も更けてきた午後9時半。パフ
リシア城では勇者一行の凱旋を祝うパーティーの真っ最中である。国中から貴族や著名人が魔
王を倒したという勇者の勇姿を一目見ようと集まったのである。勇者一行、それぞれがその冒険
譚を求められ話をしているが、アッシュはその一行の中心人物である。パーティー開会と同時に挨
拶をさせられ、それが終われば途端にあちらこちらに引っ張りだこである。やれ人語を解する蛇との
邂逅だの、やれ機械の国での活躍だのという話を何度もさせられていた。
 ラティフィアとてパフリシアの王女である。来賓の貴族達に挨拶して回り、言い寄ってくる御曹司
を笑顔で躱すといういつもの“お仕事”をこなしている内、アッシュを中心とした輪はどんどん大きく
なってゆき、もはやゆっくり話を聞けるような状況ではなくなっており、結局パーティーでも一言もアッ
シュと話をすることが出来なかった。
「はぁ」
 そう、パーティーでも、である。アッシュがパフリシアに帰ってきてからというもの、色々と努力はして
いるものの、一言も言葉を交わせずにいる。その事実を改めて認識した瞬間、これまで必死に我
慢していた緊張から来る疲れがどっと押し寄せてきて、パーティーを抜けて自室に戻り、こうして窓
際でぐったりしているのである。
「……臆病者……」
 ぽつりと、自身を呪う言葉をはいた。
 ――自分は、臆病者だ。アッシュと話す機会を伺いながらも、すれ違いが続いていることに安
堵している。パーティーでだって、本来なら主催者の側にいる、他の客人達よりも一歩アドバンテ
ージを持っている、もっと堂々と話しかけられる立場にいるのに、“王女の務め”という言葉に逃げ
た。
 昼間ティアに言った言葉もそうだ。『自分が話したいんだから、自分から話しかけるのが礼儀』? 
大層立派な言い分である。だがその実、『気を遣われるのが恥ずかしい』とか、『話しかけられる
のが怖かった』といった気持ちが強かった。
 開け放たれた窓から、冷たい風が吹き込んだ。
「怖いなぁ……」
 肩肘張り続けてきたラティの、心の底からの本音だった。
 アッシュは10年間で変わった。自分より低かった背丈も、今では自分よりずっと高い。女の子み
たいに細かった身体も、いつも気弱そうに弱々しい光を放っていた瞳も、今はもう無い。
 自分も、変わってしまっただろう。あの頃のように無邪気でも、お転婆でもない。良い意味でも悪
い意味でも賢しくなった――素直では、なくなってしまった。
 怖い。凄く怖い。彼に話しかけるのが怖い。彼に話しかけられるのが怖い。変わってしまった彼
に話しかけるのが怖い。変わってしまった彼に話しかけられるのが怖い。変わってしまった彼に今の
自分を失望されてしまうのが怖い。変わってしまった彼に今の自分が失望してしまうのが怖い。
「……怖い、のになぁ……」
 怖い。どうしようもなく、怖い。それなのに、このまま終わることなど絶対に出来ないと思っている
自分が居た。
 ――そうだ、このままじゃ終われない。10年越しの恋だ。こんなことでめげる訳にはいかない。そ
れに、約束したのだ。

『強い騎士になって、きっと戻って来ます』
『うん、待ってる』

 彼は帰ってきた。約束通り、世界一の騎士――勇者として。
 そして自分も、約束を守ってずっと待ち続けてきた。脇目も振らず、彼だけを待っていた。
 だから。
 窓の外、月を見上げる。満ちた月と欠けた月、二つの月の淡い光で城の庭先を照らしている。
「……!」
 その庭の中心に、ラティフィアと同じように空に浮かぶ二つの月を見上げる彼がいた。碧く輝く月
に照らされてなおその存在感を強く示す赤髪。見間違うはずがない。
 ――時は満ちた。ラティもアッシュも、この約束を果たすために、果たすためだけに生きてきたの
だ。
 だから。
「アッシュ!」
 窓から身を乗り出し、10年間恋い焦がれ続けた相手の名を呼んだ。


7.
「はぁ」
 今日だけで、一体何回溜息を吐いたか分からない。数えてみようか、と言う考えが少し頭を過ぎ
ったが、数えたところで憂鬱が増すだけなのは目に見えている。
「はぁ」
 何を馬鹿な現実逃避をしているんだ、と頭を振り、10年前と変わらぬ城を歩きながら、また溜息
を吐いた。
 ――結局、パーティーでもラティフィア姫と話をすることが出来なかった。開会早々、パーティー
の代表として話をして、その後も来賓諸貴侯を相手に旅の話をさせられた。こうして一国に腰を据
えて社交だ芸術だ政だに従事していると、どうしても刺激が少なくなるようで、アッシュの語る冒険
譚は大変好評であった。
 本音を言えば、何よりも真っ先にラティフィア姫のところに行きたかったのだか、叔母であるパフリ
シア女王が招待した客人達を無下に扱うことも出来ず、結局2時間拘束され、延々と旅の話を
することになった。
 そして2時間後、話に一段落付いたところでようやくラティフィアのところに向かったのだが、当の
姫様は既お休みになられた後。自分の間の悪さを呪いつつ、雉を撃ちに行くとごまかしてパーティ
ーを抜け出し、今に至る、というわけである。
「……姫様、綺麗になってたなぁ」
 10年振りに会った幼馴染みは、とても美しく成長していた。
 長いブロンドの髪、白く透き通る肌、くりくりと大きな眼、その真ん中で碧く輝く瞳。幼い頃のパー
ツの印象をそのままに大きくしたような彼女は、小さい頃の愛らしさに加えて、王女としての気品をま
とい、色々な貴族を相手に優雅に対応していた。
「……はぁ」
 溜息も出る。それに引き替え自分はどうだろう。生まれこそバイフロストという由緒正しき家系では
あるものの、野に下ってからというもの、気品だの何だのと言うものから離れた生活を送っていた身
だ。最低限、恥をかかないようにマナーに気をつけることに一杯一杯になっていた自分に、もはや
王族としての風格などあろうはずもない。
 城も、叔父も、叔母も、ミーティアも変わっていなかった。だからきっと姫様も、と考えていた自分
が浅はかだった。10代の成長の速さを計算するなど、まだ17になったばかりの自分に出来るはず
がなかったのだ。
 不釣り合いかもしれない。変わってしまったかもしれない。それでもアッシュは、ラティと会って話が
したかった。
 だが。
「いくらなんでも、お休み中にお邪魔するわけにはいかないしなぁ」
 となると、機会は明日以降と言うことになるが。
「もしかしてパフリシアにいる間に会えなかったりして」
 冗談めかして言ってみるが、今日の擦れ違いっぷりを考えると割と本気で笑えない。
 当てのない散策を続けていると、昔懐かしい中庭に出た。中央に小さな噴水のある庭で、かつ
てパフリシアに遊びに来た時は、よくここでラティフィアと遊んだものである。
 大分頭も煮詰まっているし、少し夜風に当たって頭を冷やそうと庭に足を踏み入れる。青白い月
の光が照らす噴水はとても美しく、一枚の絵画のように幻想的な光景だった。
 背の高い建物の間、紺碧の空に浮かぶ二つの月を見上げる。蒼く輝く“満ちた月”を、淡い光
を放つ“欠けた月”が抱いているその様は、10年前と何ら変わらない。
「変わってしまうものもあれば、変わらないものもある、か」
 柔らかい月の光に励まされ、アッシュにようやく笑顔が戻って来て――

「アッシュ!」

 10年間想い続けた女性の声に、アッシュは振り返った。

8.
 その声はさえた月夜に、鈴、と響いた。弾かれたように振り返ると、中庭に面した2階の一室の
窓から、身を乗り出すラティフィアの姿があった。
 ――思考が凍結した。今日はもう会えないと高をくくっていたアッシュにとって、この出来事は不
意打ちだった。
 月の魔力、とでも言うのだろうか。淡い月明かりに照らされて微笑むラティフィアは何だか儚くて、
幻想的で――とても、美しかった。
「良い月夜ですね」
 呆、と見惚れるアッシュに、ラティフィアは優しく微笑んだまま、謡うように話しかけ、2つの月を見
上げた。
「……えぇ、全くです」
 我に返ったアッシュは、ラティの言葉に相づちを打ち、同じように月を見上げた。
 静かで、穏やかな時が流れた。広間では主役不在のままにパーティーが続いてるようで、時折
笑い声が聞こえてくる。
「外の世界で見える月は、ここから見える月と違いますか?」
 月を見上げながら、ラティが聞いた。
「月は、場所によって顔を変えますから」
 月を見上げながら、アッシュが答えた。
「こうして背の高い建物の間、狭い空に閉じ込められた月と、遮蔽物のない草原にぽっかりと浮
かぶ月。森の中、木々の合間から顔をのぞかせる月と、食事の後、宿に帰る途中、街中で見え
る月。全てが同じ物だなんて考えられないくらい、月には色々な顔があります」
 船の上で見た空と海との境界が曖昧な世界に浮かぶ月は、海面に映った月と相俟って、とて
も不気味でした、とアッシュが笑うと、ラティもにこりと笑った。
「貴方は色々な世界を見てきたのですね」
「……もうお休みになられたとお聞きしましたが」
 羨ましそうに目を細めるラティフィア姫を見上げながら疑問を口にすると、ラティは微笑んだまま困
ったように眉根を寄せて、
「ええ、ちょっと疲れてしまって」
「それは。お邪魔してしまいましたか?」
「私から声を掛けたのですよ」
 邪魔なわけないじゃないですか、とラティが笑うと、そういえば、とアッシュも笑った。
 そしてまた、沈黙。だがそれは決して重苦しいものではない。空気こそ冷たいものの、心が温まる
ような、緩やかに時間が流れる世界だった。
「姫さ……」
 アッシュが声を掛けようとした瞬間、ラティがくちゅんとくしゃみをした。
「大丈夫ですか?」
「ぇ、えぇ。ちょっと夜風に当たりすぎたかしら」
「今日はもうお休み下さい。風邪を引いてしまいます」
 本当はもっと話をしていたかった。まだ何も言えていないのだ。大切なことも、伝えたいことも。
 だけど、だからといってそんな理由で彼女に病気になって欲しくなかった。ずっと笑顔でいて欲し
い。10年間、そのためだけに戦ってきたのだから。
 ラティはええ、そうするわ、というと
「それじゃあ早く上がってきて。私の部屋の場所は覚えていますよね?」
 そう言ってまた、微笑んだ。
「姫様、お戯れは……」
「良いでしょう? 結局パーティーでも貴方の話を聞けなかったんだし、冒険の話を聞かせてくださ
い」
「ですが」
「それじゃあ、お待ちしていますわ」
 それだけ言うと、アッシュの言い分を聞くこともなく窓を締めて部屋の奥に戻ってしまう。
 そんなラティフィアの身勝手さに呆れつつも、アッシュは込み上げてくる笑みを抑えることが出来な
かった。
 懐かしい感覚だった。昔から彼女はこうしたいと言いだしたら頑として譲らなかった。城を抜け出
そうと言ったことだって一度や二度じゃないのだ。そんな彼女に引っ張られ、引き摺られて、沢山
苦労もした。だけど、それが嫌だとは微塵ほども思わなかったのはきっと、彼女は決して人を悲しま
せるようなことをしなかったし、何より自分が彼女の笑顔が大好きだったからだろう。
 アッシュはラティの部屋に向かうために、城の中に戻って行った。


9.
 窓を閉めたラティは、そのまま部屋の奥に戻――たように見せかけて、実際はその場にへなへな
と座り込んでいた。
 私はきちんと、「いつも通りの自分」でいられただろうか、とそんな疑問が頭に浮かんできたが、す
ぐに消えた。
 そんなことを考えている暇はない。慌てて姿見の前に立つと、着衣の乱れがないことだけを確認
した。化粧を直している時間は無い。そうだ、誰かに紅茶でも淹れさせた方が良いのかしら、等と
考えている内に、部屋の戸がノックされた。
「どうぞ」
 ラティが返事をすると扉が開き、待ち焦がれていた相手が姿を現した。近づかずともはっきりと分
かる紅い瞳は、遠くから見ただけでは分からない優しい光が宿っており、ラティは胸が高鳴るのを
感じた。
「失礼します」
 アッシュは一礼して部屋に入ってくると、ゆっくりとラティフィアに歩み寄ってきた。
「長旅お疲れ様でした。パーティーはお気に召しませんでしたか?」
 彼が近付く度に高鳴る鼓動を隠すように戯けて言ってみる。きちんと表情は作れているだろうか、
声は上擦っていないだろうか。
 そんなラティフィアの不安をよそに、アッシュは困ったように笑った。
「いえ、素晴らしい歓迎で大変感激致しました。ですが、流石に2時間も話しっぱなしだと疲れてし
まいまして」
「あら、それではこのような場所にお呼びしてはご迷惑だったかしら?」
「まさか」
 会話が途切れ、沈黙が降りた。月明かり以外の光源のない部屋は2人の視界から、お互い
の姿以外の物を奪っていた。
 話したいことが沢山あった。言いたいことも、聞きたいことも、数え切れないぐらいある。沢山あり
すぎるからこそ、何から話せばいいか分からない。
 お互い相手の顔を見つめるだけの時間。重くはないが、張り詰めた空気。
「よく、帰ってきてくれましたね」
 そんな空気に耐えきれなくなったラティフィアはアッシュから目をそらし、窓際へと歩きながら言った。
「貴方にとってこの国は、、良い思い出ばかりではないでしょうに」
 自分は、一体何を言っているのだろう。アッシュの顔が、見れなかった。窓辺に立ち、再び月を
見る。
「……この国には、貴方から全てを奪った女がいるのに」
 違う。言いたかったのは、伝えたかったのは、こんな言葉じゃない。もっとシンプル、もっと簡単な4
文字を、言ってあげたいだけなのに。
 再度、静寂。黙ったままその場に立ち尽くしていたアッシュも、窓際に歩み寄り、ラティの横に立っ
て月を見上げた。
「約束、したんです」
 ラティははっと隣に立つアッシュを見た。
「きっと帰ってくるからって。強い騎士になって迎えに行くからって」
 アッシュの横顔は凛々しく、強い意志を感じさせる物だった。
「――俺にとってのこの10年間は、この約束を果たすためだけにありました」
 アッシュが振り返った。ルビーのような紅い瞳でラティを捉えると、

「ただいま」

 かつて指切りをした右手の小指を立てて、優しく微笑んだ。
「――あ」
 息が出来ない。頭の中が白く染まり、ラティから正常な思考を奪う。
「あぁ」
 口から嗚咽が漏れた。いけない、と口を塞いだ手に、温かい水滴の感触があった。
 ――彼は覚えていてくれた。10年も前に躱した幼い約束を、忘れずにいてくれた。その約束を果たすために、帰ってきてくれた。
 堪えても溢れてくる涙を止めることが出来なかった。泣いてる場合じゃないのに。彼に言わなきゃいけないことがあるのに。
 ぽろぽろと涙を流すラティを、アッシュは優しく抱き寄せた。
「ただいま、帰りました、姫さま」
 ――もう、限界だった。
 ラティはアッシュの腕の中、アッシュにしがみついて泣いた。おかえりなさい、怖かった、寂しかった
と、まるで年端もいかぬ童のように慟哭した。そんなラティを、アッシュは何も言わず、もう二度と離
れてしまわぬよう強く抱き締めた。
 ――10年前に止まってしまった2人の時間が、ようやく動き出した瞬間だった。

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最終更新:2009年07月07日 03:26