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ここでは内池急行や内池自治府が自治を獲得するまでの歴史を前身9社別にご紹介します。
(内池急行の歴史があまりに長くなったのでページを内池急行から分離しました)

内池の歴史

こちらに分離しました。

歴史

内池急行は前身の9社(内池電気鉄道・横江鉄道・山下湯谷鉄道・湯笹野電鉄・折戸鉄道・加石鉄道・平家原電気軌道・三峠電軌・加倉電気軌道港南線)が1960年6月1日に合併してできた会社である。

9社時代

内池電気鉄道

内池電気鉄道(内電)は現在の内池本線本港~内急高島間と三峠線高森~佐井寺間にあたる。
1903年4月1日 内池電燈(1930年湯谷水電・内池川電気と合併し内池電力に)と国前共立銀行(現内池銀行)と市民の出資で設立。
前州宇久家14代当主宇久政重の鉄道奨励政策により開通した鉄道のひとつでこの関係から宇久家と密接な関係にあった国前共立銀行をメインバンクとした。
1904年3月12日 古くより天然の良港として知られた内池港と北野神社の門前町である内池と城下町を結ぶ路線として本線内池港(1960年廃止)~内池間で開業。
内池港駅は後に本港の新埠頭整備のため廃止されるが現在も内池本線の0キロポストの位置は変更されていないため0キロポストは海上にある。
インターアーバンの影響を受けてか内池川沿いを駆け抜ける線形を取る。電圧は直流750Vであった。
1905年7月10日 内池~内電城南(1969年廃止)間開業。
1906年10月1日 内電城南~井岡町(現城南井岡)間開業。
1912年6月17日 井岡町~内電高島間が開業。
1915年8月1日 佐井寺線(現三峠線)高森~佐井寺間開業。内池から佐井寺への参詣が大幅に楽になりこの年の佐井寺の参詣者数は前年の2倍以上だったという。
三峠線の起点が高森駅であるのはこれに由来する。当然ながら0キロポストも高森駅にある。
この頃国前共立銀行の経営不振から内電も経営難に陥る。この時に同じく宇久家が創立に関与した1910年創立の内池銀行から融資を受けることになり内銀系となる。
1919年10月1日 山下鉄道が堀岸まで延伸。堀岸で接続する形で本港~山下間がつながり山下から堀北電気軌道(山下湯谷鉄道の項で詳述)を介する形で堀北妙見への参詣も容易になる。
1933年9月1日 山下湯谷鉄道と直通運転開始。湯谷までつながり内池本線の原型が完成する。
1941年3月22日 横江鉄道が佐井寺まで延伸。同時に直通運転を開始し内池~柏木浜間がつながる。横江鉄道が1500Vであったこともあり昇圧が検討されたが堀岸で直通する山下湯谷鉄道の電圧が750Vであることや本土の戦争色が強まった為昇圧は延期となった。
1951年10月14日 本線北大島駅開業。
1959年2月1日 電圧1500Vに昇圧。

横江鉄道

横江鉄道は現在の三峠線佐井寺~西柏木間にあたる。
内池と並ぶ都市であった横江でも内電の開業に影響を受けて鉄道を求める声が強くなった。当初からメインバンクは横江銀行で横銀の多大な支援の下開通した。筆頭株主は一貫して横江銀行であった。
1908年3月20日 横江~明日香崎(1967年廃止)間が開通。内電の影響を受けてか当初より複線であった。ただし架線電圧は600V。
1910年6月25日 横江~国前瀬名間開通。
1920年11月1日 明日香崎~柏木(現西柏木)間開通。横江と柏木がつながる。当時は明日香崎以東は単線であった。
1922年2月10日 西柏木~柏木浜(1962年廃止)間開通。
1923年10月1日 国前瀬名~錬成館東(現錬成館口)間開通。同時に佐井寺~錬成館東間バス連絡開始。
1926年11月20日 電圧1500Vに昇圧。この時に複電圧対応車を導入していたことが後の内電直通時に役に立つことになる。
1934年3月1日 横江鉄道だけでなく横江や柏木の人々の悲願となっていた錬成館東~新湯笹野(現南久保)間が開通。佐井寺参宮鉄道とつながり内池への足掛かりとなった。
この日は新湯笹野駅で盛大な開通式が執り行われ沿線各所の観光名所は押すな押すなの大盛況であったと伝えられている。
1941年3月22日 かねてより要望の強かった内電との直通運転の為北久保駅が開設されここから佐井寺駅までの支線が開通する。これが現在の三峠線の原型である。
同時に直通運転が開始されて内池~柏木浜までが1本でつながる。
1952年3月31日 北久保~新湯笹野間営業運転終了。
1952年9月1日 横江大里駅が現在地に移設、西横江駅に改称。
1956年10月1日 横江鉄道唯一の併用軌道区間だった柏木町~柏木浜間が廃止。

山下湯谷鉄道

山下湯谷鉄道は1929年10月1日に山下鉄道と湯谷鉄道と堀北電気軌道が合併したものである。通称「山湯電車(さんとうでんしゃ)」
また現在の内池本線堀岸~湯谷間にあたる。
1907年5月16日 同じく山下湯谷鉄道の前身のひとつ湯谷温泉電軌湯谷~湯町~総湯前(1950年廃止)間が開業。
内池川の豊富な水量を使った水力発電の余力の電気を使ったもので湯谷水電(1930年内池電燈・内池川電気と合併)と温泉自治会の共同出資で建設された。
1912年6月1日 湯谷温泉電軌湯町(現湯谷湖温泉)~温電水尾(現国前水尾)間開通。
1913年4月1日 山下湯谷鉄道の前身のひとつ山下軌道山下~柴田町間開通。当時は柴田町内が併用軌道だった。
1914年5月20日 堀北妙見参詣の足として山下湯谷鉄道の前身のひとつ堀北電気軌道山下~堀北間開通。
1917年2月27日 湯谷温泉電軌温電水尾~国前松田間開通。翌月3月1日社名を湯谷鉄道に変更。温電水尾駅を国前水尾駅に改称。
1919年10月1日 山下軌道柴田町~山鉄城南(堀岸)間が開通。同時に社名を山下鉄道に改める。
路線の一部は内池城の外堀の一部を埋めた跡地に建設された。三田堀駅の駅名はこの時に埋め立てられた堀の名に由来する。
1920年3月1日 山下鉄道山下~山岸口(現国前西大寺)間が開通。山岸稲荷神社への参詣客を当て込んだものであるという。
1920年7月28日 山下鉄道山岸口~山岸鳥居前間開通。山岸鳥居前駅は山岸稲荷神社の目の前にあるため非常に利便性が向上した。
この頃山下鉄道は堀北電気軌道を傘下に収める。
1922年4月1日 山下鉄道が堀北電気軌道を吸収合併。同時に山下鉄道山岸鳥居前~甘南備間開通。
1926年7月24日 湯谷鉄道国前松田~甘南備間が内池川の渓谷沿いを縫うように走る難工事の末開通。同時に山下鉄道と湯谷鉄道が直通運転を開始。この日内池本線の原型が完成した。
1929年10月1日 山下鉄道と湯谷鉄道が合併して山下湯谷鉄道となる。
1933年9月1日 山下湯谷鉄道が山湯堀岸駅から堀岸駅に乗り入れを変更して内池電気鉄道と直通運転開始。
1950年9月30日 湯谷地区軌道線廃止。
1954年3月31日 堀北線全廃。同時に柴田町内の併用軌道部分も廃止される。
1959年10月1日 内電と合わせる形で架線電圧1500Vに昇圧。

湯笹野電鉄

湯笹野電鉄は現在の湯笹野線にあたる。
内池でも屈指の参詣客を誇る佐井寺と港町である加倉を鉄道で結ぶ計画は古くから存在したが1901年の宇久政重による鉄道奨励政策で一気に計画は進んだ。だが水運業者との調整が遅れた関係で開業は1906年となり政重はこれを見ることなく1905年に没した。
佐井寺参宮鉄道は奨励政策のもと国前共立銀行から支援は受けたが一貫して横江資本の横江銀行をメインバンクとした。これは横江銀行が加倉方面にも勢力圏を持っていた事が要因である。
1906年6月1日 湯笹野電鉄の前身佐井寺参宮鉄道加倉口(現北加倉)~湯笹野佐井間開通。比較的細かい開業区間の多い内池の鉄道にしては珍しく一気にほぼ全線が開通した。
1908年11月1日 加倉口~加倉(現加倉北口)間開通。同時に倉電と連絡し加倉港から佐井寺までが鉄路で結ばれる。
1915年3月17日 内電の佐井寺延伸に対抗して湯笹野佐井駅からより佐井寺に近い佐井寺前まで延伸。同時に湯笹野佐井駅は混乱防止の為新湯笹野駅に改称。
1946年3月20日 社名を湯笹野電鉄に改称。
1946年7月10日 加倉~加倉町間開通。倉電北加倉線を専用軌道に切り替えたものでこの区間は加倉電気軌道が第三種鉄道事業者となっていた。

折戸鉄道

折戸鉄道は現在の加石線にあたる。
折戸鉄道は内池電気鉄道と西内池鉄道の合弁で建設されたものである。
元々加石鉄道は自社での内池延伸を目指していたが免許の兼ね合いから1918年に新会社を設立することになった。これが西内池鉄道である。
しかし西内池鉄道と加石延伸を目指していた内池電気鉄道で向船~折戸間の免許が重複した。
折しも内電では佐井寺線建設などの影響で経営危機に陥っており新線どころではなかった。
その為内電と西内池鉄道の合弁で新会社を設立することになった。なお折鉄時代は路線名が強調されていなかったが路線名が加石線であるのはこの時の内電の加石延伸計画に由来しており内池急行となった現在も同じ路線名を継承している。
1920年3月1日 設立。この日は第一次内池条約の発効日でもある。
1922年10月10日 折鉄内池~折戸間が全通。同時に西内池鉄道と直通運転を開始。架線電圧600V。
この時西内池鉄道の内池への実質的な乗り入れを認める代わりに内池電気鉄道は折戸鉄道の筆頭株主となっている。
折鉄内池駅は高架駅であり同時に建設された折鉄内池ビルはモダンな近代建築であった。
1949年10月1日 西内池鉄道の電圧1500V昇圧に伴い合わせる形で架線電圧1500Vに昇圧。

平家原電気軌道

平家原電気軌道は現在の平家原線である。
1900年7月1日 平家原電気軌道の前身となる奈木軌道大野港~奈木間開通。直流750V。
1902年10月28日 奈木軌道は平家原電気軌道に社名を変更し同時に奈木~平家原間開通。当時三瀬橋付近は併用軌道であった。
1903年9月1日 大野港~大島町間開通。これは内電の開通を見越したもので現在の国前大島駅は平電や瀬川郡大島町の人々の用地提供による。
なお大野港~大島町間は大島町駅付近を除いて併用軌道だった。
1904年3月12日 大島町駅を国前大島駅に改称。内電と駅名を合わせる。
1909年7月7日 平電大池線大野神坂~大池間開通。現在の国前大野駅付近で路線は分岐していた。
1924年2月27日 大池線大池~平電瀬川間延伸。大池線は全線専用軌道でありインターアーバンの様相も見せていた。瀬川でも内電に連絡。
現在の瀬川駅の平家原線ホーム(5・6番乗り場)はこの時に建設されたものである。偶然にも三峠電軌の三峠~黒川間も同日の開業である。
1930年10月1日 谷口港線国前谷口~谷口港間開通。当時から丹野化学の貨物輸送がメインであった。
1933年6月12日 大野港駅付近線形変更により国前大野駅開業。同時に大野港駅が廃止。平電本線と大池線の分岐駅は大野神坂駅から国前大野駅に変更される。
1948年4月1日 平電大池線を平電本線に統合。同時に国前大野~大島町間を大島町線に改称。
1953年6月30日 貨物輸送終了。同時に谷口港線廃止。丹野化学専用線として線路はしばらく残る。
1954年4月1日 内池市市域拡大に伴い瀬川郡瀬川町・大島町・大池町・江里吉町・浦本村・大野郡大野町・西谷村・佐谷村が内池市に合併。同時に大島町線を内池市交通局に譲渡。大島町線は内池市電大島線となる(大島線は1974年廃止)

三峠電軌

三峠エリアで路面電車を運営していた。鉄道線が現在の三峠線内急金沢~三峠間にあたる。厳密には東区春日まで路線はあったが現在線切り替えで廃止されており三軌金沢駅以西は後の新線切り替えにより廃止されている。
1911年7月28日 三峠電気軌道として軌道1号線(黒川~灯台前)開通。電圧600V。
1914年10月1日 軌道2号線(春台~三峠本町)開通。
1924年2月27日 三峠~黒川間鉄道線開業。現在の三峠駅が三峠の町より西寄りにあるのは軌道線への配慮とされる。
1925年6月19日 黒川~三軌金沢間開通。同時に社名を三峠電軌に改める。
1930年4月28日 三軌金沢~春日(現在の春日駅と場所は異なる。現在の春日駅の開業日は内急としての開業日)間開業。
この時に建設されたのが初代三年山トンネル(全長3710m)である。当時は内池本線の坂田坂トンネルが開通しておらず内池最長のトンネルであった。
1932年7月1日 春日~大久田間開通。大久田駅の位置は現在より南東1kmの大久田の町の外れにあった。さらに併用軌道もあるなど高速路線としての役割は無く貨物メインの路線であった。
1949年9月1日 軌道3号線(黒川~金沢西口)間開通。金沢西口駅で鉄道線との直通運転を開始。
1958年1月19日 豪雪により春日~大久田間休止。同区間は1960年3月31日正式に廃止。
1960年3月31日 内池急行への譲渡による新線切替の前段階として春日駅を東方0.2kmの位置に移設。
1960年6月1日 鉄道線区間を内池急行に譲渡。これは鉄道線の横江鉄道との連絡を企図したものといわれている。
1961年4月1日 内池急行三峠線全通と三峠東線の直流1500Vへの昇圧に伴い軌道3号線~内急三峠線間の直通運転終了。
1962年2月1日 役割を終えたとして軌道3号線廃止。
1971年2月24日 71年豪雪発生。三峠電軌は本社唯一の車庫が雪害で倒壊し保有車両の7割を失うなど甚大な被害を受ける。
1971年3月2日 軌道1号線と軌道2号線を統合して春台~灯台前間運転再開。三軌の全車両がかき集められた。車両が足りず三峠本町~黒川間はバスと内急三峠線での代替輸送が行われた。
1971年3月19日 軌道1号線三峠本町~黒川間休止。
1971年5月2日 加倉電気軌道より昇圧により廃車予定だった100形4両の貸し出しを受ける。100形は1946年の倉電昇圧に対応する複電圧車であったこともあり電圧の問題は解決され倉電静市車庫で改造を受けた4両は加倉町駅から内急金沢駅まで回送された後陸送された。
1971年5月10日 軌道1号線運転再開。同時に軌道2号線の運転区間を三峠本町までに短縮。
しかし三軌の乗客は大きく減少しバス転換が検討される。その中で三軌電車に引導を渡したのは車庫の再建費用であった。
多額の車庫の再建費用を三軌が払うことは困難で用地の少なくて済むバスへの転換論が一気に高まった。
1972年10月28日 軌道線全廃。全線バス転換。社名を三軌バスに変更する。
その後三軌バスは加倉電気軌道の支援の下経営を再建し現在に至る。

加倉電気軌道

加倉電気軌道は系譜としては現在の加倉線にあたるが港南鉄道線を引き継いだ専用軌道区間の加倉町~新開橋間と倉電自身が建設した併用軌道主体の内池(倉電内池)~加倉町間は違う系譜を辿っている。
1902年3月19日 加倉埠頭~静市間開通。
1903年7月18日 静市~白布橋(後に白布住宅前に改称)間開通。白布橋から先は専用軌道となっていたが湯野寺丘陵を越えるトンネルを建設するのに時間がかかった。
1904年2月8日 白布橋~向船間開通。
1907年1月7日 北加倉線加倉町~北加倉間開通。後に加倉北口に乗り入れた佐井寺参宮鉄道と連絡する。
1908年9月1日 向船~倉電内池間開通。松ヶ崎町に倉電内池駅を開設し念願の内池乗り入れを果たす。
1914年8月25日 港南鉄道加倉東口(東加倉)~西笹江間開通。
1919年10月1日 港南鉄道西笹江~新開橋間開通。上浦、横江方面への延伸を目論むも上浦湾に阻まれる。
1921年6月18日 静市車庫開設。静市駅を静市車庫前駅に改称する。
倉電では路面電車であったことを生かして停留所名の改称や新設などは多かった。
1928年9月1日 港南鉄道高架で加倉町駅乗り入れ。
1929年5月20日 若本線上静市4丁目~若本岩谷間開通。内電と連絡する。
1936年4月1日 加倉電気軌道、経営難となった港南鉄道を買収。
1936年6月17日 平畑線東若本~平畑間開通。
1937年2月1日 平畑線平畑~南福島間開通。
1941年11月3日 加倉町車庫開設。
1946年7月1日 湯笹野電鉄加倉町乗り入れ準備の為架線電圧を600Vから750Vに昇圧。形式整理を行う。
1946年7月10日 湯笹野電鉄加倉町乗り入れに伴い北加倉線加倉北口~北加倉間廃止。北加倉線を湯笹野電鉄に譲渡し倉電は第三種鉄道事業者となる。同時に加倉町車庫を拡充し湯笹野電鉄との共同使用とする。
1951年6月30日 平畑線平畑~南福島間堤防工事の為休止。
1955年9月1日 若本線上静市4丁目~東若本間廃止。若本線東若本~若本岩谷間、平畑線東若本~平畑間を内池市交通局に譲渡。内池市電平畑線となり1973年まで存続。
1960年6月1日 港南線区間を内池急行に譲渡。内池急行創立時の経緯から倉電は内池急行の主要株主となる。
1971年4月15日 加倉車庫を共用する内急湯笹野線の昇圧に伴い路面電車としては初めて直流1500Vに昇圧。この時に再び形式整理を行う。
1974年7月1日 第三種鉄道事業者となっていた北加倉線(湯笹野線)が加倉北口~加倉町間地下化に伴い倉電としては廃止。
1976年3月1日 後に平家原線に転属する倉電760形営業運転開始。倉電のエースとして親しまれた。
1983年9月30日 倉電区間の新線となる加倉線開通準備工事に伴い白布住宅前~向船間休止。向船~倉電内池間廃止。
1983年10月13日 加倉線転用準備が完了し白布(白布住宅前駅から高架に移設改称)~向船間運転再開。
向船駅には仮連絡線が設けられ内急1200系を借り受けての運行となった。白布駅北方にも連絡線が設けられ倉電760形は平家原線全線昇圧で車両が必要となった内急に順次譲渡されることになった。
1984年3月9日 全線廃止。翌日には内急加倉線が開業し内池駅に乗り入れ。

加石鉄道

加石鉄道は現在の西内池鉄道由良線と西内池鉄道本線加石~犬迫町間の前身(国前長浜~有馬川間)となる路線を建設した会社である。
加石鉄道は由良鉄道という名前で創業した。良港である由良と当時西内池随一の発展を誇っていた加石を鉄路で結ぼうという考えは比較的早々と実現したのである。
さらに1912年には加石地区で路面電車を運営していた加石電気鉄道と連絡し7年後の1919年には加石電気鉄道を買収して加石鉄道に改称している。
さらに1915年には松岡線を開業させ内池延伸には1918年西内池鉄道を設立する形で川西町へ、4年後には折戸鉄道に乗り入れる形で内池乗り入れが実現する。
1909年7月10日 由良鉄道として由良(現国前由良)~加石南間開通。
1910年2月8日 加石南~加石間開通。
1912年6月19日 連絡線加石南~城北橋間開通。加石電気鉄道と連絡。
1915年10月20日 加石電気鉄道の北端であった長浜口から延伸する形で松岡線が長浜口~松岡間で開通。長浜口~国前長浜間は加石電気鉄道同様の併用軌道であった。
1918年1月1日 西内池鉄道設立。同時に加石~川西町間の免許を西内池鉄道に譲渡。
1919年4月1日 加石電気鉄道を買収し加石軌道線と改称。同日松岡線松岡~上岡口間開通。この区間を含む国前長浜~有馬川間は現在も西内池鉄道が開通当時の路盤を継承している。
1920年1月19日 西内池鉄道として加石~折戸間開通。加石駅の西電本線ホームと由良線ホームが離れており由良線ホームが1Fにあるのに対し西電本線ホームは道路を挟んだ向かいの2F部分にあるのは元々別会社であったことが影響している。
1920年7月25日 城北橋~加石(西電)間連絡線開通に伴い西電ホームに加石鉄道の車両が乗り入れ。車両規格の関係上西電の車両は加石軌道線に入線できなかったのと加石駅の位置が離れていたため事実上城北橋駅が由良・松岡方面への乗り換えターミナルとなった。
1922年5月8日 松岡線上岡口~犬迫町間開通。有馬川~犬迫町間は併用軌道。犬迫より北は人口も当時は少なかったこと、西内池鉄道設立などで無理をしたため延伸はとりあえず犬迫までとされた。
しかし松岡線沿線の住民からすると内池駅まで乗り換えは城北橋1回でいいとはいえ4社も跨るという結果となり運賃が高くなったため度々松岡線の西電移管を求める陳情が相次いだ。さらに犬迫より北で人口もそこそこ多かった平早郡平坂町、早坂町や江津郡江津町、中川郡中川町などからも延伸の要求が相次いでいた。また1930年に中川郡阿須名村・神崎町に神崎製鉄の製鉄所が建設されたことで鉄道を求める声はさらに高まったのである。
1933年3月には犬迫より北側は西内池鉄道が建設、運営する路線として犬迫町~平坂間が開通。
1933年3月1日 西内池鉄道の平坂延伸に先立つ形で国前長浜~加石間と有馬川~犬迫町間の西電の専用軌道が開通して西電と加石鉄道の路盤を分離。国前長浜~有馬川間は加石鉄道と西内池鉄道がそれぞれ線路を共有することになった。
1938年10月1日 加石鉄道の有馬川~犬迫町間廃止。同時に国前長浜~有馬川間の共有を解消して加石鉄道は同区間から撤退。
1953年6月30日 加石軌道線の路線整理に伴い国前長浜~城北橋~加石南間の本線と城北橋~加石坂本間の城北橋線を残して軌道線全廃。
1960年6月1日 内池急行への統合に伴い加石~国前由良間を西内池鉄道に譲渡。西電由良線となる。

内池急行成立

1960年代

内池急行の誕生には国前共立銀行と内池銀行の合併、そして内池電力が深く関係している。
1930年内池電燈、湯谷水電、内池川電気が合併して内池電力が成立。内池電力は内池電気鉄道と山下湯谷鉄道の筆頭株主であった。
一方国前共立銀行は宇久政重の鉄道奨励政策のもと各鉄道会社のメインバンクとなっていた。他に内池銀行には内池電気鉄道が、横江銀行には横江鉄道と湯笹野電鉄、湯笹野電鉄や横江鉄道と親しかった加倉電気軌道にも一定の影響力をもっていた。
そんな中国前共立銀行は資金調達が思わしくなく内池銀行がこれを機に国前共立銀行の買収を画策する。
その際内銀・国前共立銀行系の各鉄道会社が資本強化の為に統合することになった。
現在でいえば内池急行はホールディングスになるのであろうが当時は持株会社が容認されていなかったこともあり9社はそれぞれの経営安定化や新線建設、資本強化の為に新会社を設立してそこに合併することにしたのである。
まず内池電気鉄道と山下湯谷鉄道が新会社である内池新鉄道株式会社を1960年3月1日に設立し全株式を内池新鉄道株式会社に譲渡した。
続いて横江鉄道と三峠電気軌道、湯笹野電鉄、加倉電気軌道の横銀系4社も内池新鉄道の動きを察知し加倉電気軌道の完全子会社として内池横江鉄道株式会社を1960年3月10日に設立する。まず3社のグループに分けられた辺りにこの辺りに当時の内池銀行系列と横江銀行のライバル関係が見て取れる。鉄道系中心であったことから加倉電気軌道はこの大合併には少し距離を置き港南線区間の譲渡を決定する。
平家原電気軌道と折戸鉄道は4月1日に南内池鉄道を設立する。加石鉄道は他社と距離を置き鉄道線である由良線に関しては西内池鉄道との合併を選択する。
こうして内池の鉄道9社が3グループにまとまり内池新鉄道と南内池鉄道については合併が比較的早々と決まった。しかし新会社は内池新鉄道・南内池鉄道が合併してから内池横江鉄道を編入する扱いだったため新会社の主導権を握りたかった横江銀行系列の内池横江鉄道は合併に難色を示した。この時に3社の早期対等合併を考えていた加倉電気軌道の社長の提案で加倉電気軌道の専務と内池電気鉄道の専務の間に交渉がもたれ3社の対等合併が決定する。
こうして紆余曲折ありながらも1960年6月1日既存9社がそれぞれ3グループに合併しさらに同日中に内池新鉄道、内池横江鉄道、南内池鉄道が合併し内池急行が誕生する。
合併時の線名改称は次の通り。
1960年5月までの線名 1960年6月1日からの線名
(内池電気鉄道)本線 内池本線
(山下湯谷鉄道)山湯線 内池本線
(内池電気鉄道)佐井寺線 三峠西線
(横江鉄道)本線 三峠西線
(三峠電軌)鉄道線 三峠東線
湯笹野電鉄 湯笹野線
(平家原電気鉄道)本線 平家原線
(折戸鉄道)加石線 加石線
(加倉電気軌道)港南線 港南線
しかし課題も多かった。まず路線が内池本線・三峠西線・平家原線・加石線の内池本線・三峠西線グループと湯笹野線・港南線の湯笹野線グループ、そして三峠東線と加石軌道線に大きく分かれており三峠西線グループと湯笹野線グループは湯笹野公園~新湯笹野間の連絡線で結ばれていたものの三峠東線が離れ小島であった。さらに湯笹野公園~新湯笹野間の連絡線は内池側からだと湯笹野公園での方向転換の必要もあったため不便だった。さらに電圧も内池本線・三峠西線・加石線は1500V、平家原線と湯笹野線・港南線は750V、三峠東線は600Vで異なるなど問題は山積していた。加石軌道線については当初より離れ小島となることが前提であったため軌道事業部が加石に置かれた。
そのためまず三峠西線~三峠東線間の連絡と三峠西線~湯笹野線間の連絡、そして湯笹野線と平家原線の昇圧が目標とされた。
なお港南線については倉電時代から加倉町車庫を旧湯笹野電鉄と共同で使用していたため加倉町車庫に入線する形で湯笹野線との連絡は可能であった。これは加倉線開通の1984年までこの状態であった。しかしこれは湯笹野線の昇圧を妨げる一因でもあった。
1960年9月30日内池電気鉄道時代から準備工事がなされていた本港新埠頭整備工事に伴い内池本線上波止分岐~内池港駅廃止。この代替として建設中であった本港駅埠頭の優先使用権を取得。
1960年10月1日上波止分岐に本港駅仮駅開業。本開業は1963年。当時フェリーは上波止駅南端の岸壁に接岸しており本港駅の整備まではフェリーは引き続き上波止・早苗浦発着であった。
もっとも当時の本港仮駅も作業員や工場への通勤客が多く閑散とした状態ではなかった。
同日には湯笹野線新湯笹野~湯笹野間の新線が開通。新湯笹野駅は南久保駅に改称、川島駅は新線に移転し佐井寺前駅は三峠線の佐井寺駅に統合という形で廃止された。
三峠西線と東線の連絡については既に内池横江鉄道が西柏木~春日間の工事を開始しておりこれを内池急行が引き継ぐ形で工事は進められた。
そして柏木~大久田間が単線ながら1961年4月1日に西柏木~春日間が開通。同時に三峠西線と三峠東線が統合され三峠線となった。三峠東線は同時に1500Vに昇圧され三軌時代の車両が廃車された。
1963年には単線であった柏木~大久田間の複線化が進められた。この時点では長大トンネルの掘削が必要になる片浜~西柏木間と春日~三峠間の単線区間については残されることになった。
1963年6月15日本港新埠頭整備完了に伴い仮駅から南に300mの位置に本港駅が正式に開業。内急フェリーは上波止から本港に発着地を移転する。なお本港駅の0キロポスト位置は一貫して変更されていないため現在では本港駅埠頭第二岸壁前の海上になる。本港駅0キロポストの標識は本港駅改札横の第二岸壁前に移設されている。
1964年7月27日内池本線坂田坂トンネル(7203m)を含む甘南備~国前松田間の新線が開通。この時点では湯笹野トンネルを抜いて内池急行最長のトンネルであった。
1965年10月1日 三峠線市原台駅開設。
1967年3月18日 三峠線片浜~西柏木間現在線切替に伴い明日香崎駅廃止。明日香崎トンネル(6350m)供用開始。
1968年3月22日 平家原線瀬川~奈木間直流1500Vに昇圧。この日から平家原線の運転系統が一時的に分割され瀬川からの通し運用には当時最新鋭車両であった2700系などの複電圧対応車のみが使われた。
1968年9月30日 加石軌道線のうち城北橋線廃止。
1969年3月8日 内池本線高森~城南高校前間複々線化工事に伴い暫定的に複線のまま旧線から新線に切り替え。この時は現在の快速線が暫定的に本線として使用され旧線から移設された売布谷駅と複々線化で開設される新駅の新売布駅については仮設ホームが設けられた。
1970年2月7日 内池本線高森~城南高校前間複々線化工事完成。

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最終更新:2015年12月14日 22:33