東浜市内線(あがりはましないせん)は東浜市内を主に走行する荻沢電鉄の軌道路線である。


概要


東浜市内線は1925(昭和元)年に開業した、荻沢電鉄荻沢地区路線では最も歴史の長い路線である。
2009年、愛浜市内線が開業するまでは、長らくの間荻沢電鉄で唯一の軌道線であった(※1)。
沿線住民、鉄道ファンからは「ハマ線」「チン電(旧東浜市電の名残)」と呼ばれ、親しまれている。
利用者数は150万人/日と、やや低い水準で推移している。この理由として、西美並町線と競合していた、西東浜~東浜市駅間では足の遅い東浜支線よりも、速い西美並町線に乗ったほうが速く目的地に着くということがあったためであった。しかし、沿線住民は市街地から離れている西美並町線よりも市内にある東浜支線を利用することが多く、ラッシュ時の輸送人員だけを見ると東浜支線の方が多いという逆転現象も起こっていた。このことからも分かるように、乗客の半数近くは定期券などによる定期客が多い。また、併用軌道上を20m級車両が行きかう姿は国内でも珍しく、鉄道ファンも多く訪れる路線である。しかし、この線形がラッシュ時には仇となり、乗客が途中駅から乗車できない現象が起こっていた。そのため、ラッシュ時に限り、牽引車兼予備車である900番台車(本来は事業用ではあるが、旅客登録のため旅客運用可能)を運用し、本数を稼いでいる。
最近は東風ヶ丘高速鉄道下沢線延伸により、混雑率は低下。しかし、途中から乗車できない現象は続いている。しかし、2010年11月の西美並町線一部廃止に伴い、混雑率がさらに増加するものと見られており、荻鉄電車では早期改善を図るために当線専用の新型18m級車両の開発を進めている。

なお2013年に東浜市近代化遺産に認定されたことから、さらに乗客数が増加するとみられている。

路線データ



鉄道路線データ
路線名 東浜市内線
よみ あがりはましないせん
ラインカラー オレンジ
運営事業者名 荻沢電鉄
免許区分 軌道特許
区間 本台-若川間ほか
路線距離 36.5km
駅数 29
複線区間 全線
電化区間 全線
電気方式 直流1500V
閉塞方式 自動閉塞(専用軌道区間)
保安装置 ATS-P(専用軌道区間、東浜市-若川間)
運転指令所 沿線主要駅からの指令
最高速度 60km/h
開通年月日 1925年3月15日
備考

運行形態


本台駅を起点としており、以下の系統に区分される。

系統番号 運転区間 運行間隔
1 本台~東浜市~浜崎戸川 15分間隔
2 本台~東浜市~夕陽台 15分間隔

車両



  • 荻沢電鉄所有車両
    • 220系

    • 過去の車両
      • 100系
      • 200系
      • 220系

  • 東浜市交通局時代
    • 60形
    • 70形

歴史


荻沢電鉄最古の路線であり、また愛浜県下最古の鉄道路線でもあるため、多くの歴史とともに歩んできた路線ともいえる。

1925(昭和元)年7月22日、旧浜崎県初の鉄道として、東浜市交通局によって敷設された路線が嚆矢となる。当時東浜市では市街地の拡大に伴って馬車に代わる新たな交通手段が望まれていた。そこで当時の商工会員らが海外視察を行ったが、その際にサンフランシスコにて乗車した路面電車が目に留まり、早速米国から技術を導入し路線を敷設することとなる。敷設を目的として幾つかの会社が設立され、特に商工会長であった戸羽邦夫の設立した浜崎軌道が内務省から特許を得て敷設直前までこぎつけた。しかし鉄道(軌道)開通によって職を失うこととなる商工会青年部長の鎌井良一郎が運営する東浜馬車商会と真っ向から対立、泥沼の形相を見せることとなる。そこで市が介入し戸羽の会社ごと免許を市に移管、鎌井の会社へ補償することでようやく事態を鎮静化させた。この特許を使い、市は交通局を設立、東浜~西東浜(現在の東浜市~本台)間の軌道線を開通させた。開通当初、物珍しさも手伝って多くの乗客が押し寄せ、15分足らずの区間に乗るために1時間近くも並んで待ったほどであった(東浜市交通名鑑)と言われている。
開通当初米国から技術導入を行ったためインターアーバンの影響も大きく受けており、市は近郊都市を繋ぐ基幹路線として拡張するという野心を持っていたようである。現に当時の市議会録によれば、当時営業運行を行っていた東島都電(→現在廃止)と連結する計画や、現在の若川本線となる部分、また、荻沢まで延伸する計画(東荻線)もなされていたようである。
1935(昭和10)年に入ると、市は市内交通の一環として位置付けるべく、路線の拡張計画を画策し着工、当時の市内中心部の4割をカバーできるように路線を拡充した。この拡充により、涙川から分岐していた藤間(ふじま)線(涙川~藤見~間町、6.1km)、山西線(藤見~県庁前~山西、4.1km)の二路線(双方現在廃止)を加え、また初の国産車を導入した。また、サービス向上のために女性車掌を登用、《市電お嬢》として親しまれることとなる。こうして、3路線12.1km体制となったが、直後に太平洋戦争が開戦、本線も戦時中の混乱に巻き込まれていくこととなる。戦火が激しくなるにつれ、徴兵された男性乗務員に代わり女性乗務員の登用が進められ、1943(昭和18)年、初の女性運転士が任命されるとともに一部区間の単線化も進められ、山西線の末端部分である県庁前~山西間が単線化された。しかし単線化はこの一例のみであった。軍需工場を沿線に抱えていた本線、陸軍東浜基地のあった藤間線は本数を増やしたほどであった。また、戦前に計画されていた東荻線が着工寸前までこぎつけたものの、終戦と共に計画は破棄、日の目を見ることなく軌道特許は放置されることとなる。後に東荻線は荻鉄の篠山線として高規格化されて日の目を見ることになるが、この当時は復興が優先されたことでこの路線は長らく未成線として放置されることとなってしまったのだった。
1945(昭和20)年、第二次大戦が終結し、軍需工場や陸軍基地を抱えていたにも関わらず奇跡的に空襲を免れた東浜は、荻沢や大具知からの人口流入により、爆発的に人口が増加する。これにより、市電に乗客が集中したことから、まずは単線化された区間を再複線化、また車両を増やしたものの、変電所容量の問題や戦後の混乱期による電源の不安定さから、市は代行として、1929(昭和4)年に営業を開始、戦時中は休止状態であった市営バス路線を拡充し対応することとした。これにより、現在の形に近い東浜市内線と市営バスとの補完関係が成立することとなる。
1950(昭和25)年12月14日、大火が対岸の東島を襲う。これにより、東島は壊滅的な被害を被った。しかし、幸運がまたしても東浜、そして東浜市電に味方する。風向きと、運河が存在したことで延焼を免れ、東浜市電は永らえる。対照的に、東島都電は再建時に撤去され、地下鉄へと代替されることとなった。
しかしこの幸運も尽きてしまったのか、市電も時代の流れには逆らえず急速に進行したモータリゼーションによって市電は厄介者として扱われ始める。そしてついに1964(昭和39)年、赤字に転落してしまう。市はこのままでは共倒れになってしまうと公社化を決断、翌1965(昭和40)年4月、東浜交通公社として市電を分離し別会計とした。しかしこれもまた累積していく赤字の解消には結びつかなかった。路線も本線を除き廃止となり、その本線さえも、風前の灯同然であった。そこで、1961年に市と県、民間との合弁により設立した荻沢電気鉄道に経営譲渡を行うべく水面下で交渉を開始したものの、当の荻鉄はもちろん、当時5割の株式を保有していた県が難色を示し、譲渡交渉は進まなかった。しかしここでまた追い風がまたしても東浜市電に吹く。浜崎初の空港として東浜空港が建設されると決定すると、東浜市電を空港アクセス路線として生まれ変われさせるべきだという認識を、市はもちろん県や荻鉄は持ち、譲渡交渉がとんとん拍子に進んでいった。そして1970(昭和45)年、東浜市電は譲渡とともに荻沢まで延伸、荻鉄の東浜線としてその一員に加わることとなった。延伸により、市の野望であった市電インターアーバン化は、思わぬ形で実現することとなったのであった。もちろん、市は残すという決断をしたことから、浜崎県警と協力し軌道内への自動車進入禁止を徹底させた。これにより、都市間交通機関、空港アクセス鉄道という新たな使命を受けた東浜線は、それまでの赤字が嘘のように乗客数を伸ばしていった。四年後の1974(昭和49)年、東浜空港が開港するとさらに乗客数が増加、荻鉄は輸送力強化に迫られる。路面電車の連接車を導入するということも検討にあったらしく、大具知電軌(現:大具知自動車)や雨花市電(廃止)の廃車となる連接車を導入するということも報じられていた。現に、一部車両が廃線後入線しており、台車交換が実施されていた車両もあった。しかし、荻鉄としては車種の統一ということが念頭にあったのか、連接車の導入ではなく、本線(現:東風ヶ丘本線)で使用されている鉄道線車両を直通させるということで運輸省に特認を取り、1975(昭和50)年の高床ホーム竣工とともに、併用軌道区間へも鉄道線車両が直通するという現在の形が成立することとなった。これにより、入線していた旧大具知電軌や旧雨花市電の車両たちは、一部車両が解体の憂き目に遭っているが、解体を免れた車両群は荻沢検車区の試験車両や展示車両として保管され、同様に荻鉄の路線となった愛浜市電、愛浜市内線が開通した後は愛浜に活躍の地を移し、現役へ復帰している。
それから年月は流れ1990(平成2)年、東浜市駅に東浜鉄道が接続、直通を開始することとなった。また2008(平成20)年には同じく東浜市駅に東浜高速鉄道が接続、他社によるものではあるものの路線の再拡充が行われることになった。後に双方とも荻鉄の路線となり、本路線へ編入されて運行が続けられている。

このように、紆余曲折と妙な幸運に支えられたこの路線は、荻鉄の、東浜市の交通史とともに歩んできた路線であるとも言えるものである。

年表

年月日 出来事
1925(昭和元)年 東浜市交通局により、東浜(現・東浜市)~東浜西(現・本台)間が開業する。当時は完全な路面電車として誕生した。
1964(昭和39)年 モータリゼーションの波に押されるように赤字転落。
1965(昭和40)年 公社化され、所有者が東浜交通公社となる。ただし長くは続かず、赤字が市の運営を圧迫。
1970(昭和45)年 市の要請により、宮路島航路と共に荻沢電鉄に買収され、荻沢電鉄の東浜線となる。同時に荻沢まで延伸される。
1974(昭和49)年 東浜空港が開港。それに伴い東浜西駅を東浜空港駅と改名。
1975(昭和50)年 路面電車タイプの車両の運行が終了し、ホームの嵩上げが行われる。経営が黒字に。
1988(昭和63)年 200系が投入され設備が近代化される。
1990(平成2)年 東浜鉄道との相互乗り入れ開始。
2008(平成20)年 路線の大改革により支線に格下げ。東浜空港-荻沢間が夕日台環状線の路線となる。東浜駅を東浜市、東浜空港を荻鉄東浜空港とそれぞれ改名。東浜高速鉄道(後に買収し若川鉄道として子会社化)により東浜市~若川間が延伸開業。
2009(平成21)年 空港の閉鎖により、荻鉄東浜空港駅を西東浜駅と改称。12月、旧東浜鉄道を編入する。
2010(平成22)年 西美並町線残置区間を編入、大沢支線となる。
2011(平成23)年 大沢支線を分割する。

駅一覧


東浜市内本線(あがりはましないほんせん)・戸川支線(とがわしせん)
駅名 駅名読み 起点からの距離 有人・無人の区別 駅ナンバー 備考
本台 もとだい 0.0km 有人駅 AC01 東浜市内本線起点
自衛隊前 じえいたいまえ 0.8km 無人駅 AC02 併用軌道区間
涙川 なだがわ 1.6km 無人駅 AC03
東浜市 あがりはまし 2.4km 有人駅 AC04 若川本線と相互乗り入れ
駒栗高原 こまぐりこうげん 3.4km 有人駅 ac06 東浜鉄道継承区間・戸川支線
小俣 こまた 5.0km 有人駅 ac07
東新井 ひがしあらい 7.1km 有人駅 ac08
浜崎戸川 はまざきとがわ 8.0km 有人駅 ac09

若川本線(わかがわほんせん)
駅名 駅名読み 起点からの距離 有人・無人の区別 駅ナンバー 備考
東浜市 あがりはまし 0.0km 有人駅 AC04 東浜市内本線と相互乗り入れ
南東浜 みなみあがりはま 0.8km 無人駅 AC05
栗川 あわがわ 2.0km 無人駅 AC06
鶴岡 つるおか 2.8km 有人駅 AC07 この駅で折り返す列車あり
鶴岡街道 つるおかかいどう 4.2km 無人駅 AC08
高羽 たかばね 4.7km 無人駅 AC09
苅田 かんだ 6.2km 無人駅 AC11
苅田二丁目 かんだにちょうめ 6.7km 無人駅 AC12
横田川 よこたがわ 7.5km 無人駅 AC13
横田 よこた 8.8km 無人駅 AC14
仲川 なかがわ 9.2km 無人駅 AC15
仲城 なかぎ 9.8km 無人駅 AC16
磯城 いそぎ 10.5km 無人駅 AC17
東磯城 ひがしいそぎ 10.85km 無人駅 AC18
若川西 わかがわにし 11.2km 無人駅 AC19
若川 わかがわ 12.0km 有人駅 AC20/TW21 田原本線直通
夕陽台 ゆうひだい 12.8km 有人駅 AC21/TW22
駅名 駅名読み 起点からの距離 有人・無人の区別 駅ナンバー 備考

直通計画


現在、荻沢市が計画している『荻沢LRT構想』線との直通計画があるが、着工に至っていない上に計画そのものが破綻しかけているため、難しいとみられている。

関連項目




更新ノート

  • 愛浜市内線の開業を反映し、「唯一の軌道線である」を「長らくの間、唯一の軌道線であった」と修正。 -- とりのすけ (2009-03-27 12:18:45)
  • 東浜鉄道線継承による路線延伸。 -- 亀山茂則 (2009-12-30 12:12:51)
  • LRT化計画掲載。 -- 亀山茂則 (2010-11-21 13:26:15)
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最終更新:2015年07月04日 21:57