少年H

何でこンなッたん?
出会ッたのは去年の冬
毎日が楽しかッた。大好きやッた。
でも、春に別れ 関係も立ち切ッた。
あの子があンなんに なるとか考えても 思ッたリもせンかッた。
仲良L1ッて思ッとッたのに 結局はなんなン?!!
信じとッたのに。 やのに・・・・信じとッた。
関係なL1ッて。 ……最悪や。

9/2801:53
Hの元彼女のHP日記
被害生徒とはWデートをするなど面識があった
(TVインタビューに答える少年Hの母親)

中学時代

9月17日逮捕時の年齢は17歳(生年月日は1989年9月18日~1990年4月2日)。住所は西宮市であった。
中学は神戸市北区の市立広陵中学校であり、西宮市の総合選抜を避けた越境通学か中学卒業後に引越したものと見られる(越境通学の場合、中学時代の住所は西宮市山口地区と推測される)。週刊新潮記事によると、事件前には同じ西宮市甲子園近くの高級マンションへと引っ越したとされる。
中学時代を知る同級生からの証言によると、生徒会長をしていたこともあり、成績も良くクラスのムードメーカー的存在だったという。
一方、生徒会長だったときは、変わり者で特に親からの評判は良くなかったという。
また「何でもノリでいきているような奴」、「授業中は騒ぎ放題」、「いじめとまではいかないが嫌がらせ的なことをしていた」と評されており、中学時代から素行に問題があったと思われる。
「まさかあいつが」という感想もあるが、「加害者だと聞いてやっぱりかって思うような奴だった」、「アイツの性格じゃイジメに荷担したっていうのは納得出来る」と複数名からの指摘があった。
高校受験では、県立兵庫高校受験を断念して滝川高校に進学したとされる(通常、兵庫高校の併願はⅡ進のためHはⅡ進を落ちてⅠ進で入学したと思われる)。

高校入学からフットサルサークル結成

滝川高校へ入学後、1年次は6組で被害生徒や少年B、少年Yらと同クラスであった。被害生徒との接点ができたのは、5月の学園祭前であった。
新聞報道によると、学園祭のコンテストに出ようと少年Bとその友人だった被害生徒を誘ったことがはじまりであった。
1年次の終わりごろには、少年Y、少年Eも加わり一緒にフットサルサークルを結成するまでに親しくなっていた。
フットサルサークル「瀧川VECTORS」が本格的に動き出すのは、2年次に入ってからである。少年Hは2年次も同クラスであり、このころにはフットサル
サークル内で被害生徒ともっとも仲が良かったとされ、夏休みには毎日のように市総合運動公園でフットサルの練習をし、その合間に一緒に予備校の夏期講習に通った。
8月5日には、avexオーディション2006(兵庫地区)で被害生徒と参加し「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」を歌っている。
しかしこの時期からすでにいじめの兆候は見られていた。7月ごろには、当時の担任教師が「彼をいじめるな」と注意しているのを目撃されているという報道があり、また一学期末テストの成績が悪かったという理由で、被害生徒をソフトモヒカンにしている。

高2秋~冬、いじめ行為への転落

9月中旬には被害生徒ともに副会長として、生徒会選挙に立候補する。その際の演説会で少年Hは、上半身を脱いでマイクなしで「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」の選挙用替え歌を歌ったという。
この行為はかなり場を寒くさせたようで、当時の2ちゃんねるへの書き込みや他の生徒のHP日記にも記載されていた。
被害生徒への「いじり」が酷くなったのはこのころからと、複数の記事では報じられている。
Y、Eらとともに被害生徒のカバンの中や机の上に紙粘土を入れるなどの嫌がらせを行っている。
またこのころに作成されたと思われるフットサルサークルのHの紹介は、次のようにある。

〈副キャプテン. チキン. 最近パス出すようになった、いいわけの鬼"笑" 一応、○○○○(被害生徒の名前)調教係 〉

秋には、ばちこいたら一万円払うという約束を被害生徒がさせられるが、少年Hはこのときのことを逮捕前の作文で〈被害生徒の自慢話がうそだとばれ、
〈「次からパチこくたびに1万円ずつ払うから」と言った〉〈チームの一人が口も聞かなくなり、(自殺した生徒は)とてもつらそうだった〉と書いている。
この「約束」後、被害生徒のメールアドレスと「約束」は急速に仲間以外に広まったが、Hがどのような役割だったのかは不明である。
冬になると、グループの少年らとお好み焼き屋へのパシリとタカリ行為、ソフトモヒカン刈りにする、陰毛を剃り下半身を写真に撮りクラスメイトに見せるなどの行為を犯した。
Hの母親のインタビューによると、PK勝負をして負けた被害生徒に対し、「罰ゲーム」と称して下半身裸の写真を撮ったという。
12月27日には、被害生徒、Y、Eとともに女子高生とカラオケコンパをし、その縁で彼女ができた。被害生徒とともにWデータを繰り返すなど、友人関係
も一方では続いていた。
しかし4月3日に彼女の方から別れを告げられている。その日の元彼女のHP日記には

 「あL1つ……ダボやな 泣L1て、すっきリしな」

と綴られている。

高3、犯罪行為へ

すでに被害生徒の中傷サイトとなっていたフットサルサークルのHPが閉鎖されたという4月はじめ、フットサルサークルHPの変わりに被害生徒のHPを作ろうと提案したのは、少年Hである。
被害生徒自らが作ったように偽装され、そこには住所や実名、メールアドレスなどのほか、下半身写真や悪質ないじめ画像が掲載されていたとされる。
バチこくたびに一万円という約束も、被害生徒の言葉じりを捉え、急速に罰金が増え総額40万とも50万ともいう金額になった。
この罰金を払わせるために、このころから少年Hは、少年B、少年Yと相談して、頻繁に被害生徒の携帯に恐喝メールを送りつけるようになる。
恐喝メールの内容は、

「たまった金を払え」
「金はどうなった」
「五万円でいい。払わなければ何されるか分からへんで」
「自分には5万円でいい。ほかには3万円支払ってくれ。それが限界やろ」

などと書かれていた。

犯行内容

 恐喝未遂罪の証拠となったのは、6月25日に送ったメールである。報道機関により、違いがあるが以下のような内容であった。

「夏休みまでに払わんかい。ほかのメンバーには3万円ずつ払え。払わなかったら何をされるかわからんで」
「自分には五万円。ほか(の仲間二人)には三万円。夏休み明けまでに払わんと何されるか分からへんで」
「おれは5万くらいでええよ。夏休みまでに払わなければ倍の金額を2学期中に払わせるか、学校に発覚していない万引の事実を公表して退学にさせるか、クラスのメンバーを勢ぞろいさせてリンチをさせるかの選択になる」
「夏休み明けまでに金を払わなければ2倍の金額を払わせる。それが無理ならメンバーを勢ぞろいさせて登校拒否にさせる」

これらの恐喝メールは、被害生徒に送りつけた後、少年B、少年Yにも転送していた。
また自殺当日に、被害生徒と親しげに話しているのを複数の生徒が目撃しているとされる。

逮捕前までの行動と供述

自殺翌日の朝礼では、見ていて惨めになるくらい泣いていたという。
またH逮捕時の学校側の発表によると、少年Hは被害生徒の告別式で棺を少年Y、少年B、少年Kらとともに担ぎ、その翌日からの期末テストを休んでいたことが明らかになっている。
このころ学校が書かせた作文によると、

HPでの中傷について〈途中でおもしろくなって参加してしまった。今思えば非常に悔やまれる〉
〈自殺の兆候はたくさんあった〉とし、〈救えなかったことが悔しくてなりません〉とつづっていた。
〈成績が思うように上がらず、志望校合格は難しい〉と悩んでいたことを明かし、
〈今は彼を救えなかったことがくやまれてなりません。きっと唯一、私にしか話せないこともたくさんあったでしょう〉
〈もっともっと長生きさせてやれたと思うと本当に悔しいし、ただつらい〉

と締めくくっていた。
一方、警察からの事情聴取に対して、「遊びだった」「冗談だった」と話す一方で、聴取後には

「うそをつけばばれない。警察は怖くない」「警察の調べにうそをついてもばれない。なまっちょろいもんや」

などとメールを少年BやYに送っていたという。

逮捕後の供述と処遇内容

逮捕は9月17日。立件は恐喝未遂だった。逮捕時の供述は

「初めは冗談のつもりだったが、次第に遊ぶ金がほしくなって、本気で金を脅し取ろうと思った」
と犯行を認めていた。

さらに9月20日のNHKによると
「恐喝などしたくなかったが、財務大臣にしてやるから現金を集金しろと仲間に言われた」
とし、「金を脅し取ろうとした携帯電話のメールは仲間と相談して送った」 と少年B、少年Yからの命令→共謀と供述内容を変えている。

しかし10月2日の朝日新聞によると、
「全くの冗談で、お金を取る気持ちはなかった。恐喝したとか自殺の原因をつくったと言われるのは心外です」
と犯意を否認し、被害生徒への謝罪などもないと報じられた。
また同日弁護人が恐喝未遂罪は成立しないという上申書が提出された。
10月5日放送のMBSでは、Hの母親がインタビューに答え、5組生徒に「真相を知りたい」と作文を書かせたことを認めており、作文を読んだH保護者が否認に至る過程で影響を与えたものと推測される。

しかし同日に神戸地検は、少年院送致が相当とする異例の厳しい意見書をつけ、少年鑑別所へ収容された。
神戸家裁の審判は、観護措置の最長延期期間の1日前に当たる10月31日であった。
三宅知三郎裁判官は、試験観察とする中間処分を決定した。家裁調査官に少年の様子を観察させたうえで、改めて審判を開いて処分を決めるとされ、試験観察となった。
2008年2月27日に二回目の少年審判が開かれ、三宅知三郎裁判官は「少年なりに本件を振り返る努力を積み重ねてきた。要保護性は段階的に解消されつつある」と判断し、保護観察処分となった。

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最終更新:2009年05月09日 13:00
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