泣ける話
http://w.atwiki.jp/flavor/
泣ける話
ja
2006-07-13T19:29:29+09:00
1152786569
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パパからのメール
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/24.html
姉と妹は母と、私は父と、それぞれ仲がいい。
去年の秋、父が亡くなった。
父の携帯は解約したけど、家で話す相手のいない私は父のメアドにメールを送った。
「パパに会いたい」「パパ助けて」「もう死にたい」…
宛先不明で返って来るのに、バカみたいに泣いて何通も送っていた。
受験前、母からメールが入った。
タイトルは「パパより」
もう正直、最初は「はぁあぁっ?」って感じで本文を読む気にもなれなくて放っておいた。
でも、なんか、試験の前日になってメールを開いたら
「パパはいつでも君を見ています。
パパは今も君の傍にいます。
君はパパの宝物、
いつまでもいつまでも愛しています。」
「なんだよ、パパのフリしてんじゃねーよ、バーカ」って言いながら、涙が止まらなかった。
家に話す相手がいないのは、私が話しかけなかったから。
話しかけられても、私が無視していたから。
本当はみんなわかってたけど、自分からは何も変えられなかった。
このメールはそんな私を心配して、パパがママの心を通じて送ってくれたメールなんだ。
母のアドレスの父に、私は返信した。
「パパ、私は大丈夫だよ。大好きな家族がいるからね」
2006-07-13T19:29:29+09:00
1152786569
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ただいま
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/23.html
今から10年程前ちょっとした言葉の食い違いから両親と4年間連絡を絶っていた時期があった。
その当時は、あんな親なんかいなくても自分ひとりで生きていくつもりでいた。
しかし、自分も年齢を重ね社会にでていろいろなことを学ぶうちに、いつまでこんなことを続けるのか?という気持ちが生まれ始めてきた。
しかし、親に大見栄を切った手前、自分から連絡することが出来ずにいた。
そんなある日、父から手紙が届いた。
「もう充分だろう。一度帰って来い」と…。
父は、私の居場所を知っていたのだ。
知っているのに知らないふりをして見守っていてくれたのだ。
そんなことも知らずに、一人いきがっていた私。
なんて子供だったのだろう。
家の中では気の強い母の尻に敷かれていた父。
しかし、私と母がどんなに衝突しても私の味方についてくれた。
そのとき、今までのことを素直に謝れる気がした。実家に帰る決心がついた。
懐かしい玄関の前に立ち、チャイムを鳴らすとあの頃よりもちょっと老け込んだ母と、大きくなった弟が、あの頃のように出迎えてくれた。
四年前の空気が変わらずそこにはあった。
そして、何気なく玄関を見渡し、私は動けなくなってしまった。
そこに飾ってあったのは、私が高校生のときに授業で作った七宝焼きの皿だった。
上を見上げると、私の作った壁掛け時計もある。
…四年前と変わらずに。
母は、こんな私の作ったものを変わらずに飾っていてくれたのか。
それを見て何を思っていたのか。
私はといえば、実家に関するものはすべてしまい込み、それについて考えないように、いや、あえて嫌いになろうとし続けてきた。
私は何をしていたのか…。
涙をこらえて、こう言うのが精一杯だった。
「ただいま…」
涙で曇って顔は見えなかったが、お帰りと明るく言う母の声は何も変わるところはなかった。
2006-07-13T19:03:30+09:00
1152785010
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罪
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/22.html
私の母は未婚の母です。父は本妻さんと、私の腹違いの兄姉夫婦と暮らしてます。
二人はもうそういう関係ではありません。
が、私がたまに郷に帰ると、電話が来ます。
「酒のもう」と。で、指定された店に行きます。
と、席に付いた途端、酒から刺身から寿司、テンプラと、ものすごい量の料理がテーブルに並びます。
父が予約で、料理を一から注文しておくのです。
父はもうとうに還暦を過ぎて、身体の調子も良くないというので、料理にほとんど手を付けず、私の方に押しやります。
「食え、食え、もっと食え」とエンドレスに言います。
父は、自分の酒は必ず手酌で、私にばかりお酌します。
私の酒杯は常に満タンです。
食べきれない・飲みきれないでふうふう言って、店を出る頃、父は
「何か困ってることはないか」と言います。
旦那の仕事は上手くいってるか、暴力なんて受けていないか、体は大丈夫か、お金に困ってないか、と続きます。
「なにもかも大丈夫」と答えます。
最後に父は、目をそらして
「お前には何もしてやれないで、申し訳ない」
と必ず言います。
「世の中には償えないことがある。」
と言うのが父の口癖です。
父は、私の祖父の前で、
「誰に何を言われても別に何も構わないが、娘は俺に文句のひとつも言わない。それが俺のした事の罪だ」
と言って、泣いたそうです。
2006-07-13T18:41:42+09:00
1152783702
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病気の彼女を見舞う彼
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/21.html
まだ1年ほど前の事なのですが・・・。
彼女がこの世を去りました。病死です。
その彼女と出会ったのは7年程前でした。
相手はその頃大学1年生でした。
持病があり、あと5年生きられるかどうか?と寂しく笑っていました。
それを承知で私たちはつきあい始めました。
つきあい始めたのは良いのですが、私の仕事の関係で遠距離(関西-東
北)になってしまいました。それでも、彼女は笑いながら逢えるついで
に旅行も出来ると言い、月に1度のペースで会いに来てくれました。
相手は実家に住んでいて、私は貧乏サラリーマン。それを察して、相手
が私の所に会いに来てくれていたのです。
最初の3年は、その様な感じで普段は寂しいながらも、お互い幸せに
過ごすことが出来ました。
そして相手は卒業。しかしこの就職難の折り、東北から関西に就職す
るのは無理でした。そこで彼女は地元で就職し、お金を貯めて関西に来
ると言いました。私も彼女を迎えるため、必死で貯金を始めました。
相手が就職して1年が過ぎたころ、相手の遊びに来る頻度が、それま
で毎月だったのが、だんだん2ヶ月3ヶ月と間延びし始めました。
毎晩電話で話をしていましたが、丁度1年半ごろ前から、たまに彼女
が電話に出ないことがありました。そのころから、ふと私に嫌な予感が
わき起こっていました。
私は両親がいません。物心ついた時には、父親は蒸発。そして私が高
校の時に母親が病死しました。そのため、彼女の両親には嫌われていま
した。彼女はそれなりに良いところのお嬢様だったので、どこの馬の骨
とも分からない私は、最初から相手にされていませんでした。
ある日、そんな彼女の父親から私の元に電話がありました。
彼女の持病が重くなり、来週から入院することになる。だからもう電
話はかけてくるな、もうほっておいてくれとだけ言われ、一方的に電話
を切られました。
私は来るべき時が来たと思い、しばらく悩みましたが、思い切って上
司に掛け合ってみました。東北に転勤させてくれと。答えはNOでした。
しばらく会社と話し合いをしましたが、結局私は会社を退職し、故郷に
戻りました。荷物も売れる物は売り、出来る限り身軽にして彼女が入院
した病院の近くに、小さな部屋を借りました。離職票が出る前に契約し
たので、なんとか部屋を借りることが出来ました。
そして、彼女に会いに行きました。
彼女はかなり驚いていました。そしてひたすら「ごめんなさい」と謝っ
ていました。私は会社をリストラされたから故郷に戻ってきたと言い、
新しい勤め先も近くだから、仕事が終わったら会いに来るよ、とだけ伝
えました。
昼間は彼女の母親が居るので、私は病室に入れてもらえませんでした。
そして週末には父親も面会に来るので、もちろん病室に近寄ることも許
してもらえませんでした。ですので昼間や週末はコンビニでバイトして、
平日の夕方彼女の母親や父親が帰った後、残された僅かな面会時間に会
いに行くという日々を送っていました。
そうする間にも、彼女は目に見えて衰弱して行きました。
柔らかかった手は骨が浮き出て、頬はこけ、足はすっかり衰えてしま
い、ベッドから起きあがるのも難しいくらいでした。
彼女は私が会いに行くとよく泣いていました。元気じゃなくてごめん
なさい。ちゃんと両親に認めてもらえなくて、ごめんなさいと。私は、
そんな事気にしたことはありませんでした。ほとんど食欲がなく、もっ
ぱら点滴と、管で栄養をとる彼女でしたが、時々大好物のリンゴを持っ
て行き、すり下ろして絞って作ったリンゴジュースをなめさせたりしま
した。そのときに見せる笑顔で私は十分幸せでした。
私に出来ることは、そうやって彼女を元気づけることだけでした。
短い面会時間だったので、あまり話も出来ず、ただ彼女の手を握り、
帰り際にキスするくらいしか出来ませんでしたが、私は十分幸せでした。
去年の3月の末くらいだったと思いますが、いつもの様に彼女に会い
に行きましたが、彼女は眠っていました。病室に響く規則正しい電子音
に私も睡魔を感じ、つい1時間程眠り込んでしまいました。目が覚める
ととっくに面会時間は過ぎており、あわてて病室を後にしました。
すると、エレベータの前のベンチに誰かが座っていました。別に気に
せずエレベータのボタンを押そうとした私に、その人が話しかけてきま
した。
「話がある。」
その人は彼女の父親でした。
「何でしょうか?」
「君はどうしてここにいる?」
「あの娘のお見舞いに来ているのです。」
「そんな事を聞いているのではない。」
「と言いますと?」
「会社を辞めて、フリーターになってまで、どうして帰ってきたんだ?」
「ご存じでしたか。」
「どうしてそこまで出来るんだ?」
「どうして?好きな相手の側にいるのに、何か理由が必要ですか?」
「・・・・。」
「私の事を認めてくれとは言いません。ですから、せめてご迷惑をおかけしない様にと・・・。」
「分かった。今度からは私たちに気兼ねすることなく、あの子に顔を見せてやってくれ。」
「え?」
「それではこれで失礼する。」
たしかこんな会話だったと思います。
それからは毎日彼女に会えるようになりました。彼女の母親も面会時
間の終わる1時間前に病院を出て、私が彼女と会える時間には席をはず
してくれるようになりました。
彼女の話によると、父親が母親にそうするように言ったそうです。そ
して、私とのことは彼女の好きにするようにとも言ったそうです。
でも、それから1週間ほどのことでした。
夜自分の部屋で寝ていると、彼女の父親から電話がかかってきました。
低く落ち着いた声で、今から会いに来てやってくれ、そのかわり覚悟
して来てくれと、彼女の父親ははっきりとした口調でそう言いました。
私は、大急ぎで彼女の病室に行きました。
看護婦や医師に囲まれたベッドの中で、うつろな目をした彼女が居ま
した。薬の影響ですっかり髪の毛は抜け落ち、頬はこけ、青白い手を医
師が掴み、脈を取っている様子でした。
夕方彼女と会った時、確かに衰弱は進んでいましたが、それでも話が
できる程度の元気があったはずでした。その変わり果てた彼女の様子に、
私は身動きも出来ませんでした。
一歩下がった所で、目を真っ赤に腫らして立っている彼女の両親が居
ました。私を見た彼女の父親は、黙って母親を促しました。彼女の母親
は私の手を取ると、この子の手を握ってあげて、と言いながら、彼女の
やせ細った手を取り私に握らせました。
そのとき、うつろだった彼女の目に一瞬光が見えた気がしました。
そして、彼女はゆっくり口を動かしました。ほんの僅かでしたが、はっ
きり動かしていました。私は急いで彼女の口元に耳をあてがいました。
微かでしたが、彼女は、ごめんなさい、と繰り返して言っていました。
私は涙が止まらず、そして何もいえず、ただその子の手を握り返し、
その子の言葉を聞き逃すまいと必死で彼女の口に耳を当てていました。
とにかく、頭が真っ白で、どうして良いのか分からず、ただ手を握り
返す事しかできませんでした。
突然私は肩をたたかれ、我に返りました。振り向くと彼女の父親が私
の肩を掴んでいました。そして彼女を真っ赤に腫れた目で見つめていま
した。私はその手を取り、彼女の手を握らせようとしましたが、彼女の
父親は首を横に振り、君が握ってやってくれ、私はここで良い、と言い
ました。
それからどれくらいの時間がたったのか、私には分かりません。しか
し、それまで僅かにごめんなさいとつぶやき続けていた彼女が、一言、
別の言葉をつぶやきました。
「○○ちゃん(私の名前)ありがとね。すごくしあわせだったよ。」
確かにそう私には聞こえました。
それが彼女の最後の言葉でした。
私はあわてて彼女の両親の手を取り、彼女の手を握らせました。気丈
だったご両親でしたが、彼女の手を握った途端、涙を流しました。
それからどのくらいの時間がたったのか分かりませんでしたが、突然
それまで不規則に響いていた電子音が、連続音に変わりました。
医師が彼女の目に懐中電灯を当て、ゆっくり、ご臨終です、と言いま
した。その言葉を聞いて、彼女の母親が声を上げて泣き始めました。気
がつくと私も、そして彼女の父親も声を上げて泣いていました。握りし
めていた彼女の手が、ゆっくり確実に冷たくなっていくのを感じました。
次の日、彼女の父親から喪服を渡されました。そして、二通の手紙を
手渡され、今夜は君もあの子のそばにいてやってくれと言われました。
私はひとまず部屋に戻りました。部屋に入った私はしばらく力無く部
屋に座り込んでいました。ふと手に握らされた手紙を思い出し、二通の
手紙を見ました。一通は彼女の父親からでした。中を見ると一枚の便せ
んにしっかりとした字で、すまなかった、そしてありがとう、その二言
が書いてありました。もう一通は彼女の字で、私に当てた手紙でした。
中には、私と出会った頃から彼女が入院するまでの事が、びっしり書き
込まれていました。そしてその内容一つ一つに、自分がどれだけ幸せだっ
たか、どれだけ救われたかが書かれていました。その手紙を読みながら、
私はまた声を上げて泣きました。その手紙の最後には、こう書かれてい
ました。
私が居なくなっても、○○ちゃんは元気でいてね。私のすごくすごく
大切な人だから、沢山幸せになってね。新しい彼女見つけなきゃだめだ
よ。私のこと好きなら、○○ちゃん、絶対に幸せになってね。約束。
私はシャワーを浴びながら、声を上げて泣きました。いつまでもシャ
ワーを浴びながら泣き続けていました。
シャワーを出た私は、彼女の父親から受け取った喪服を着ました。
なぜか私にぴったりのサイズでした。
まだ涙は乾いていませんでしたが、喪服に着替えた私は、彼女の家に
行きました。彼女の家には少しずつ親類や知り合いの方々が集まって来
ている様でした。私は彼女の両親に連れられ、彼女の安置されている部
屋に通され、彼女のすぐ側に席をあてがっていただけました。
彼女の両親は、親類縁者の方々に私を彼女と付き合っていた青年だと
紹介されました。
通夜と葬式にも出席させてもらえました。そして常に私があてがって
もらえた席は、彼女に一番近い席でした。彼女の両親よりも近い席でし
た。私はその席を辞退しようとしましたが、彼女の父親に諫められまし
た。君がその席に座らなくてどうする。私たちに気遣うならその席に座っ
てくれと。
今は彼女の父親に紹介された会社で働いています。いったんは断りま
したが、彼女の父親と直接関係のある会社ではない事、そして仕事が気
に入らなければ自由に辞めて良いと説得され、その好意を受けることに
しました。
彼女の思い出はまだ鮮明に心に残っています。
2006-07-01T19:51:51+09:00
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母の最後の味
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私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、私達の世話は一切しませんでした。そこで、私達はいつも近所に住む
Aさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て嬉しくなった私は、その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを擦りつけて家に帰りました。
家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。
しばらくすると、着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…
2006-07-01T19:42:13+09:00
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8時だよ全員集合
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/19.html
土曜の夜に逝ってしまいました
長さんありがとう。本当にありがとう。
俺の子供時代は長さんのおかげでたくさん楽しみました。
ドリフターズの全盛期、昭和40年代のあの頃、 俺はまだ中学に入ったばかりだった。
もう世の中が大分豊かになってきた頃だったが、我が家はまだ貧しくて、六畳二間の長屋に一家5人で暮らしていた。
友達が家に遊びに来た時に白黒テレビを見られるのが たまらなくいやで、カラーテレビを見たい、買いたいという一心から、俺は新聞配達をはじめた。
新聞配達は今にして思ってもきつい仕事で、朝4時から7時まで毎日休まず働くのは想像以上に大変だった。
俺が新聞配達をはじめて3ヶ月たった頃だった。
我が家に突然、カラーテレビが届いたのだった。
俺が新聞配達まではじめたのを見かねた親父が、ローンを組んでまで買ってきてくれたのだった。
弟たちもは大喜びだったが、親父に経済的負担をかけたという思いがあって、俺は素直に喜べずにいた。
茶の間にいるのがなんだか気まずい感じだった。親父も何故か妙に無口だった。
はじめてのカラーテレビで見た最初の番組は忘れもしない「8時だよ!全員集合」だった。
家族みんなで笑い楽しんだ。ドリフのおかげで気まずい雰囲気もとれて、幸せな気持ちで床についた。
翌朝4時に目を覚ますと何故か親父が起きていた。
「俺は学がないから苦労してきた。今日から俺が新聞を配るから、お前はその分頑張って勉強しろ」
その後、俺は大学を卒業し、あの頃の親父と同じ歳になった。親父が亡くなってから、もう7年が経つ。
親父は何の趣味も持たず、働きずくめの人生だった。
だけど、一番大事なことを教わった、教えてくれた。
だけど、親父や長さんの存在感はとても真似できやしない。
俺は今、何の不自由もない生活をしているが、親父や長さんみたいに一番大事なことを子供達に教えているのだろうか?と思えてならない。
偉大だった故人のご冥福を謹んでお祈りします。
ババン バ バンバンバン
ババン バ バンバンバン
おい、どうした?悪ガキ共、
人間なんてのはいつかは死ぬもんだ、悲しい事など何も無い。
まあ、俺はちょっと予定より早かったけどな
今、天国で久しぶりに注のバカヤロウと酒飲んでんだ。
じゃあ、最後にアレいっとくか?
オイッス~~!!!!
どうした?声が小さい!!!
もいっちょオイッス~~~!!!!!
今までありがとうよ・・・・
さよならするのは辛いけど
時間だよ
仕方がない
次の回まで
ごきげんよう
今までありがとうよ・・・・
2006-07-01T19:00:16+09:00
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ハム太郎
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/18.html
娘が6歳で死んだ。
ある日突然、風呂に入れている最中意識を失った。
直接の死因は心臓発作なのだが、持病のない子だったので
病院も不審に思ったらしく、俺は警察の事情聴取まで受けた。
別れた女房が「彼氏」同伴でやって来たが、
もはや俺にはその無神経に腹を立てる気力もなく
機械的に葬式をすませた。
初七日も済んで、俺は独りで映画を観にいき、娘が観たがっていた
ゴジラととっとこハム太郎の二本立てを観ることにした。
とっとこぉはしるよハム太郎♪の歌を聴いた瞬間、やっぱり俺は泣いた。
6歳にもなって活舌の悪い娘が、この歌を一生懸命覚えて、
とっとこぉ、はしゆよ、はむたよお♪と歌っていたっけ。
ハム太郎の紙コロジーだってクリスマスに買ってやるつもりだった。
女親のいない家庭だったが、少しでも女の子らしくと、
服を買うときだって、面倒がらずに吟味を重ねた。
学校だって、行きたいところに行かせてやるつもりだったし
成人式には、ちゃんと着物を着せてやるつもりだった。
女房と離婚してから俺は100%子供のために生きることにして、
必死にやってきたのに、この世に神様なんて絶対いないんだと知った。
一人になった俺は、今でもハム太郎を欠かさず観ている。
30半ばの男が、ビール飲みながらアニメを観てる光景は異様とは思うが、
なんとなく習慣で、金曜の6時半は必ずTVをつけてハム太郎にしている。
もちろん毎週泣いたりはしていない。
今朝、仕事に行くとき車の中でラジオをつけると、子供電話相談室をやっていた。
ゲストはハム太郎とたいしょうくんの声優が来ていた。
「どうしてハム太郎は、何かするとき(たーっ!)って言うんですか?」
「どうしてたいしょうくんのおへそはバッテンなんですか?」
二人の声優は「○○くん!あのね・・・」と一人一人の名前に語りかけ、
きちんとそのキャラクターを演じて答えた。
俺はまた泣いてしまった。一人でTVを習慣で観ていても平気だったのに。
聞いてくれ、ハム太郎、そしてたいしょうくん。
俺にも娘がいたんだ、男としての自分を捨てて父親としてのみ
生きる決心をさせるにふさわしい最愛の娘だった。
何枚もハム太郎の絵を描いた。何度も懸賞に応募した。
ぬいぐるみショーは地方都市優先だったから東京にはなかなか来なかった。
ハムちゃんずは、全国の子供達のスターだからそれはしょうがない。
だけど、うちの娘もずっと疑問に思っていたことがあったんだ。
それは「どうしてまいどくんはいつも目をつぶっているのか?」という疑問だ。
どうかどうか、俺の娘の名前も呼んで語りかけて答えて欲しい。
そんなバカで無茶なことを考え、嗚咽しながら俺は車を運転した。
ダメだ、ずっと冷静に暮らしているのに、ときおりこんな些細なことで
突然こんな風になってしまう。
2006-07-01T18:49:17+09:00
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苺のショートケーキ
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/17.html
俺には歳が六つ離れた妹がいた。
俺は小学校の頃からずっと体育5とかで元気だけが取り柄みたいな子供だったんだが、妹はちょっと体が弱くて少し体調を崩すと何日も熱で寝込んじゃうくらいだった。
そんな事もあってかお互いケンカもほとんどなく本当に仲良く楽しく暮らしていた。
結構妹に甘くて、いつも何か頼み事されたら断り切れないでそれを聞いてしまう。
例えば、苺のショートケーキがおやつに出たら、出た瞬間にはもう妹が顔で合図してくる。
俺も馴れたものでそれだけで「はいはい・・・・・・」って感じで聞いてしまう。
そしたら妹は、たった一つの苺で大はしゃぎする。あれを見たら苺の一つや二つなんかまじで安いもんだって思った。
本当にそんな何でもない日々を過ごしていた。
でもさ、現実なんて本当にもろいもんだった・・・・・・。
俺が高校2年生の時だった。
その日の朝もいつもと変わらない朝のはずだった。
いつもの目覚ましで起きて、いつもの制服に着替えて、いつもの道を通って学校に行く。
そんな何でもない日だったはずなのに、朝起きたら両親がやたらと騒いでいた。
朝からうるせぇなぁとか思いながら両親が騒いでる居間に行くとそこで顔面蒼白の妹が横になって呻いていた。
今までの熱とは明らかに違うような感じで、もう誰が見てもわかるくらいに
「苦しい・・・・・・辛い・・・・・・」って顔だった。
さすがに俺もびびって、すぐ妹に話しかけた。
そしたら、本当は苦しいはずなのに「いつもの熱だから大丈夫だよ。」って笑って言った。
そんなわけ絶対になかったのに・・・・・・。
親父が救急車を呼んですぐ病院に直行、すぐ集中治療室に運ばれた。
ドラマとかであるだろ?集中治療室の前で待ってる場面とか。
俺もよく見たけどあの時は本当に気が狂いそうになった。
次から次へと嫌なことばかり考えてしまう。本当に生き地獄だった。
その日の手術は無事終わったが話によるとこれからもあと何回か手術を受けなければいけないらしい。
もちろん妹はそのまま入院。
退院の日にちを教えて貰うなんて甘い状況ではなかった。
次の手術の心配をしなければいけない状況だった。
妹はいつも「自分の熱のせいでいつもみんなに迷惑かけてるからあたしは悪い子だね」って言ってた。
今思えば、どんなに苦しくてもいつも笑いながら「大丈夫だよ。」って言ってたのか。
そんなことにすら気がつかなかったのに俺は「心配するな、誰もそんな風に思ってないよ」って言ってた。
妹はずっと笑っていた。恥ずかしい話だよ、本当に。
俺は、何で小学生の子供がこんな我慢しなきゃいけないんだって本当に何度も思った。
年甲斐もなく「神様、助けてください」とかもやった。
無駄かもしれないってわかってたけど本当に藁にもすがる思いだった。
お見舞いには毎日行ってたんだが妹は全身チューブ姿。俺は初めてその姿を見たとき、本当に怖かった。
このまま、もうだめなんじゃないかって・・・・・・。
でも、あいつの顔をみたらそんなバカな考えが一瞬で吹きとんじまった。
その時、俺もしっかりしなきゃだめだって改めて思った。
学校の部活も休部にさせて貰って友達の誘いも全部断ってずっと学校から病院に直行。
初めは恥ずかしいのか知らないけど「毎日来なくていいよ。」って言われたりした。
でも、病院なんてやっぱりつまらない場所だからすぐに「早く来てよ!」って言うようになった。
大抵は母さんがそばについていたんだがどうしても居ない日とかできたりしたから
そんな日はこっそり学校休んでずっとついててやってた。
俺あんまりしゃべるのうまくないんだけど、一生懸命話すと妹も笑って聞いてくれた。正直、何度も同じ話をしたと思う。
でもさ、ずっと笑いながら聞いててくれたんだ。
一度、「おまえはよ、俺には勿体ないぐらい良い妹だな。」って言った時、とびっきりの笑顔で答えを返してくれた。
あの時は本当にうれしかった。
これ書いてる今でも鮮明に覚えているぐらいだからな。
それから二ヶ月ぐらいたった頃だった・・・・・・。
久しぶりに家族そろって病院に行った。
入院した頃に比べたら妹は本当に痩せてて触ったら折れてしまうんじゃないかってぐらい細い腕になっていた。
それはそうだ、ずっとベットの上で大して動けずにずっと、食べやすいようにされたどろどろの病院食と点滴だけだ。
一度、お見舞いの時に苺のショートケーキを買って持っていったんだが、その時は食べることをゆるされなかった。
目の前にあるのに食べられないっていう辛い思いをさせてしまったから、その日以来、食べ物は持っていかないようにしてた。
でも、その日は違った。
親父がいきなり「何か食べたいものはあるか?」って言った。
俺は不思議に思っていたんだが、妹はそんな俺にはお構いなしで大喜びだった。
案の定、苺のショートケーキが食べたいって言った。
親父は奮発して高いのを買ってやるって言ってた。
その日は本当に久しぶりにみんなが大笑いできた日だった。
病院の帰り、車の中で俺はさっき思っていたことを親父に聞いた。
「もう、普通の食事をしてもいいのか?ってことはよくなってるんだよな!?」って嬉しくて大声で言った。
そしたら、親父は黙り込んだ。どういう訳か母さんも俯いてた。
さすがに俺も薄々感づいてた。
親父は言った。
「先生(医師)の話では、もう長くはないそうだ。」
そんな、本当にそんな素っ気ない言葉で俺は頭の中が真っ白になっていた。
妹の体は衰弱しきっていたらしい。
何のための苦しい手術だったんだ。
何のための長い入院生活だったんだ。
まだ何か言ってたけどあんまり覚えてない。母さんは横で泣いてた。
その時俺はどうして良いかわからなかった。
次のお見舞いの日に、いつも食べていたようなスーパーで買う苺ショートケーキとは違って専門店の高い苺ショートケーキを買っていった。
苺も本当に大きくて甘そうだった。それをみて妹は大はしゃぎ。
苺のショートケーキを渡したら、本当に久しぶりに顔で合図をしてきたんだ。
そのことが本当は嬉しかったけどいつものように「はいはい・・・・・・」って感じで苺を渡そうとした。
でも、それを妹が遮った。
「今日は兄ちゃんが私の苺も食べて」って・・・・・・。
俺は一瞬呆気にとられていた。だって久しぶりのショートケーキでしかも高い奴なのに。
なんでそんな事するんだって聞いた。理由を聞いても「いいじゃん。」ってくびを振るだけ。
俺も初めはしぶっていたんだがどうしてもって言うから素直に貰うことにした。
その様子を見て妹は本当に嬉しそうな顔をした。
で、一緒に食べた。苺のショートケーキ。
それで妹が聞いてきた。
「苺、おいしかった?」って。
俺はうなずいた。本当においしかった。
あの時改めて思ったのが「食べ物は一緒に食べる人によって味がかわるもんだな」って。
どういうわけか、同じ苺なのに妹の方が甘く感じるんだ。気持ち一つでここまで変わるんだなって正直びっくりした。
その後もいつものように何気ない話をして笑った。
その中で、やっぱり親父が妹に言うんだよ。
「元気になって退院したら何処か行きたいところはあるかい?」って。
俺は、遊園地かそこらだろうかって考えてた。
妹はちょっと考えてから
「家に帰りたい。」「家のテーブルでみんなと一緒にお母さんのごはんが食べたい。」って・・・・・・。
俺、自分の考えの浅はかさに怒りを覚えたよ・・・・・・。
今の妹にはそんな当たり前のことですら願いごとに値するほどなのに。
病室にいられなくなってトイレに行って泣いた。もう、わけがわからなくなって。
親父と母さんはさすが大人だと思った。
家に帰るまではずっと笑顔のままだったんだから。
ついにその日がきた。あのときも朝だった。
今度は目覚ましでなんて起きない、親父の怒声でおきた。容態が急変したらしい。
着替える暇もなくパジャマのまま車にのって病院にいった。
妹は呼吸を荒げていた。遠くからでもわかりそうなぐらいに荒かった。
病院に行ったあの日よりも辛そうな顔にいっぱい汗をかいてた。
母さんが妹の手を握ってた。母さんの手は真っ白になってた。
それぐらい力が入ってたんだと思う。
妹は俺たちが来たことに気付いたらしく妹が本当に小さな声でいったんだ。
苺、おいしかった?って。
それは前に何度も言った言葉だった。
荒げる呼吸の中なのに何故かはっきりと聞こえた。俺はうなずくことしかできなかった。
「次は俺のをあげるからまた一緒に食べような。」って言ったら「今度、食べるときも、あたしのを、あげるよ。」って途切れ途切れに返してきた・・・・・・。
もう、我慢出来なくなってた。
俺はボロ泣きだった。
苺なんていらないからこれからも一緒に話しをしてくれよ。
これからも一緒に笑ってくれよ。
前みたいに一緒に遊びに行ってくれよ。
楽しい場所、いっぱい知ってるんだよ・・・・・・。
1人じゃつまんねぇよ・・・・・・。
俺は本当に・・・・・・本当にそう思っていた。
でも、そんなこと絶対に言えなかった。辛いのは妹だったんだから。
「そんなこと言ってると、これからもずっとお前の苺を食っちまうからな。」
笑いながらそんな冗談を飛ばした。俺は泣いてたのに。
たぶん、変な顔になってたんだろう。
妹は笑っていた。俺は泣いてるのに笑って、お前は苦しいのに笑って。
本当に変な兄妹だったな、俺たち。
あんなに苦しんでいたのに逝く時は本当にあっさりだった。
治ってしまったのかと思えるほど朗らかな顔。ただ眠っているだけにしか見えない顔。
なのに、なんでその顔に白い布をかけるんだよ。
俺たちの顔を見れなくなるじゃないか・・・・・・。
俺たちともう話せなくなるじゃないか・・・・・・。
もう泣くことしかできなかった。
あんなに泣いていたのにまだ涙は枯れなかった。
俺はダメな兄ちゃんだった。
ただ会いに行って話をするだけで。
俺はお前からたくさんの大切な物をもらったのに、俺はお前に何か伝えてやれたんだろうか?
俺の気持ち、伝わってたか?
こんな俺たちの日々を誰かに伝えたくて、今こうして文字にしている。
あれから二年、俺は勉強したかいもあり無事大学にも合格し、一段落ついた。
二年たった今でもはっきりと覚えているお前の笑顔。
遅くなっちまったけどあの時言えなかったあの言葉を言わせてくれ。
苺、おいしかったよ。
ありがとう。
2006-07-01T18:28:55+09:00
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兄貴
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/16.html
中学の入学式が終わっ2日後、突然母親が蒸発したんだ。
理由は分からない。女手1つで俺と兄貴を育ててたから生活は楽ではなかったんだ
それは分かるが、それでも俺は楽しかったし、母も兄貴も楽しくやってると思ってた
でも本当に突然、母がいなくなった
最初は2、3日帰ってこないだけだど思ってた。兄貴が何も言わずに普通にしていたから・
1週間2週間たっても母は帰ってこなかった。その間俺の食事や家のことは、
当たり前のように兄貴がやっていた。
何もいわないで、ずっと以前からそれが日常だったみたいに。
当時高2だった兄貴には付き合い始めたばっかりの彼女がいたはずだった。
放課後一緒にいたかったはずなのに、スグに学校からかえってきて、
家の事をして俺の食事を作ってくれて、俺の弁当も毎日作ってくれてたっけ・・・
それから県内1の進学校に通っていたから、夜遅くまで勉強もしていたみたいだった。
そんな兄貴の苦労も知らずにいたおれは今までどーリ学校にいって、
放課後は好きなバスケに打ち込んで、本当に今までどーリだった。母親がいない寂しさを感じないくらいに
兄貴が俺にかまってくれたりしていた。
それでもある日俺は言ってしまった
「母さんどこ行ったの?もう帰ってこない?そんなんいやだ・・なんで帰ってこんの?」
一度泣き言言い出すともう止まらなかった。自分でも気づかなかったけどやっぱり
無理してたんだと思う。兄貴は俺が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。
その後、母親が蒸発したこと・理由は分からないこと・1度だけ母から電話があったこと
を教えてくれた。もう帰ってこないことも教えてくれた。おれは又泣いた。
すると兄貴はこういった
「寂しい思いはさせない。兄ちゃんがいるから大丈夫だ。御飯だっておいしいのを作ってやるさ」
本とはもっと違う言葉だったかもしれないけど興奮していた俺はよく覚えてない。
もちろんガキだったおれはその言葉で泣き止むことはなく、ずっと泣いていた。泣きつかれて眠るまで兄貴はずっと
そばにいた。
それからの俺は荒れた。
別にタバコとか警察沙汰とかはなかったが学校で教師ともめたり同級生と喧嘩になって相手に怪我させたりもした
そんな時いつも兄貴が学校にきて謝っていた。同級生の親に謝りに行った事もあった
本当に迷惑かけたとおもう
そんな感じで1年が過ぎた。
当然の疑問だけど生活費はどうしているんだろうと思っていた。
聞いて見ると前からもらっていた生活保護金とバイト代を使っているって答えが返ってきた。
俺に内緒でバイトをしていたらしい。
どうも母が蒸発した翌月から始めていたらしい。
何のバイトなのかはどうしても教えてくれなかった。
でも生活保護金とバイト代だけで生活を支えてたんだから
ホントに大変だったと思う。
おれは高校に進学した。兄貴が勉強教えてくれたから特待生で入学して
費用は一切かからなかった。
兄貴は進学せずに就職して生活を支えてくれていた
俺はバイトして少しでも兄貴を助けたいと思った。
でも兄貴がそんな時間があるならバスケと勉強してろって言ってくれた。
俺はそれに甘えた。今思い返してみれば俺はどれだけ駄目な弟だったんだって思う・・・
そんな俺たちの生活を見かねた親戚が離婚していた親父を連れてきた。
今からでも一緒に暮らそう。そういった親父に兄貴はこういった。
俺たちを1度捨てた人間には頼らない。でも弟には苦労をさせたくない。
弟だけでよいから一緒に暮らしてやってくれ。
兄貴は泣いていた。後で聞いた話だが自分ひとりで俺の面倒や大学進学費用を支えられないのが
悔しくてたまらなかったらしい。そんな兄貴の気持ちが嬉しかった
でもこれ以上兄貴に迷惑をかけたくなかったおれは、親父と一緒に暮らし始めた。
それでも兄貴とは手紙で連絡をとってた。1月に2、3通ぐらいきてたっけ
次第に兄貴からの手紙が少なくなり、最後には来なくなった。
最近昇進して忙しいって手紙に書いてあったのと
大学受験2ヶ月まえだったことからそんなに気に止めてなかった
晴れて大学に合格して兄貴に報告の手紙を出したら、3週間後知らない女の人がたずねて来た
兄の恋人だったと言った。その人はこういった。
「あきおさんね、もう君には会えないんだ。あえないだけじゃなくて、手紙もかけない
ううん、君だけじゃなくて私ももう会えないんだ」
そういって3つの封筒をだした。1つは兄貴の遺書だった。
兄貴から手紙が来なくなったのは、兄貴が入院したからだった。
入院なんてかくとお前心配するから、大学受験控えてるから
昇進して忙しいってウソついた。ごめんな。
医者が言うにはもう助からない見込みが高いって。
お前の卒業式とか入学式とか見に行けないかな。ごめんな
そういえばお前の引退試合も仕事で見に行けなったな。ごめんな
お前さびしがりやだから俺がいなくなって大丈夫かな?
でももうずっと俺がそばにいなくても大丈夫だったから大丈夫か?
何か文章おかしいな。いざこんな事書こうとしたら中々かけないもんだね。
もっといっぱい書きたいことがあるはずなのにな。なんでかな、言葉が出てこないよ。
いまさらだけどこの手紙をお前が見てるときは、俺はもういないんだよな。
お前の成長をまだまだ見たいし、お前が本気でほれる女の子も見てみたい。
なんて自分の子供に言う言葉みたいだな。
それなんだ。お前に言いたいのは。
母さんがいなくなってから俺がお前の親父代わりで母親代わりだったつもりだ。
それでもやっぱり寂しい思いをさせたよな?
最初の頃は料理も下手くそだったよな?
全然駄目な兄貴でごめんな
頼りになんない親父だったな、ごめんな
お前の悩みひとつ聞いてやれない母親だった。ごめんな
身内自慢になっちゃうけど、こんな俺の弟なのにお前は最高にいい男だよ
お前の兄貴だったこと、親父だったこと、母親だったこと
全部がおれの自慢だよ。これから先もっといい男になって、立派な父親になってくれ
あ~何書いてんだろう俺、馬鹿みたいだな
これ以上書くと情けないこと書いちゃいそうだから
そろそろ終わりにするよ
じゃあ元気でな。
いつもの手紙とちがって、子供が書いた手紙みたいな
兄貴の遺書がとても暖かった。残り2つの封筒は兄貴の日記と、
兄貴が恋人に宛てた手紙だった。
手紙を読んで分かったんだけどこの女の人は兄貴が高2の時から付き合ってる人だった。
その日記や手紙には俺のことがたくさん書いてあった。
俺のことで悩んでる兄貴がそこにいた
俺のことをとても考えてくれてる兄貴がいた
俺の前では決して見せなかった弱い兄貴がいた
兄貴の苦労が始めて分かった
兄貴が抱えていたつらさが初めて分かった
もう兄貴に会えないと思った
悲しくてたまらなかった。
いままで長々書いてきたけど結局おれは兄貴にありがとうが言いたい
6年間で兄貴にありがとうなんて言った覚えがないんだ。恥ずかしい話だけど
ほんとだめだな俺。
なあ兄貴
こんな俺が自慢の弟だなんて言ってくれてありがとう
俺を6年間守ってくれてありがとう
それから兄貴を6年間支えてくれたナナさん
どれだけ感謝してもたりないけど本当にありがとう
2006-06-26T21:10:27+09:00
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最後のSEX
https://w.atwiki.jp/flavor/pages/15.html
今から8年前あの当時、僕が20歳、彼女が19歳の時でした。
付き合って一年ぐらい経過していました。SEXは共に経験がなく
彼女の意向で結婚するまではしたくないとの事で、私は我慢するしか
なかったのです。
そして、初めて迎えるクリスマス、彼女からのプレゼントは
横浜の夜景が見えるホテルの部屋をとってくれてました.
そんなお金よくあったなーと、思いつつウキウキ気分で
クリスマスイブを迎え、お互い初めてながらもなんとか
SEXすることができ、痛かったのか彼女は涙をながしていました。
でも、それが最初で最後のSEXになるとは、しかも彼女の涙の
意味もその時は知る由もなかったのです。
新年を迎え1月4日にまだ一度も合ったことのない彼女の
両親に病院に呼び出されました。妊娠でもしちゃたのかなーなんて
思いながらビクビクしながら病院に行ったのを覚えてます。
お父さんから「キミが○○君か、キミには悪いことしたなー」
僕「いったいなんのことですか?」父「娘はもって3ヶ月の命だとのこと
病名は急逝白血病だ・・・」沈黙が流れ、ただ涙がこぼれるだけでした。
病室に行くとそこには無菌室のビニールシートで覆われた彼女がいました。
普通の人と変わらない健康そうな彼女が、ただ一枚のビニールで隔てられ
触れることも出来ず、ビニール越しに手のぬくもりを感じるだけでした。
病気を治す唯一治療法として骨髄の移植しかありませんでした。
結果として両親、妹も骨髄が一致せず、あとは骨髄バンクのドナー待ちと
なりました。
1月後半ともなると、徐々に体も衰弱していき、悪いことに
肺炎を併発してしまいました。僕も出来るだけ病院に行き、出来るだけ
一緒にいようと思い彼女を励ましました。しかし励ましてもどうにもならない
ことは知っていました。
肺炎を伴いながらも2月を迎へ、そして運命の時は突然やってきました.
夜9時ぐらいにお父さんから電話があり、僕は病院へ急ぎました。
病室に入るとすでに、両親と妹、そして主治医と看護婦数名がいて
なにが起こってるとすぐ察しがつきました。
彼女は小さな声で僕を呼んでいて、何かを言っており、主治医が
彼女を覆っているビニールを捲り上げました。
僕はさらに近寄り、彼女の口元に耳を近ずけました。
息を吐いたような声で「今まで・あ・り・が・と・・・」
そこで、彼女の意識は無くなり、20分ぐらいして息を引きとりました。
なぜか、涙も出ることがなくただ、漠然と彼女との思い出を
振りかえる自分がそこにはいました。
くしくも、その日は2月14日のバレンタインデーで、
彼女がお母さんに預けていた手紙とチョコをいただきました。
その手紙の内容は詳しくは書きませんが、一部としてすでにイブの日に
病気にかかっていた事、女になりたかったとの事が書かれていました。
今思えば、ウキウキ気分でホテルに行った自分がはずかしい・・・
あれから4年後僕は結婚しました。妻にはすべてを話し一緒に
涙を流してくれました。女の子も生まれ、なんと妻の提案で
彼女の名前を付けてくれました。感謝しているよ。
毎年2月14日には家族3人でお墓参りしています
2006-06-26T21:01:41+09:00
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