「ねぇ、咲夜。もう一人の自分に会ってみたいとは思わない?」
お嬢様は、いつも突拍子も無い事を言う。
ある時は「月の影に入ってみたいと思わない?」と言って、八雲紫と組んで欠けていく月の中に入ろうとしていた。
またある時は、「時の流れを操れたら面白いと思わない?」と言って、私の能力でどうにかしようと考えていた。
そして今度は、「もう一人の自分」ときた。
「お嬢様。それは、『ドッペルゲンガー』の話でしょうか」
この方にお仕えして何年になるのか、考えるのは数千の夜を過ぎた頃に止めた。それでも、未だにわからない部分がある。
「違うわ。『パラレルワールド』の話よ」
カップを置いて、私の顔を見る。
紅茶を注ごうとしたが、それはお嬢様に止められた。
「一分一秒毎に無数の世界が生まれているのは分かる?」
「はい」
当然、理解はできる。
「私が今、咲夜の行動を止めた未来が、今ここにあるわ」
「はい」
「でも、私が止めずにいて、美味しい紅茶を飲んでいる未来も、とても近い位置にある」
お嬢様が、私の手を取る。
「咲夜の淹れた美味しい紅茶を飲んで、幸せな顔をしている自分。その表情は、決して自分では見れないのよ」
お嬢様が言いたい事も、理解できる。
「その表情を、見たいと……?」
「ええ」
やっぱり、この方は無茶だ。
「お嬢様。それは不可能だと思いますが」
「あら。咲夜ってば、面白い事を言うのね」
私の手を、両手で包む。
「『不可能』という言葉を使ってしまうと、本当に不可能になってしまのよ。でも、その頭に『今は』という言葉をつければ、いずれ可能になるのよ」
お嬢様は、自信に満ちた表情をしている。
「ねぇ、咲夜」
お嬢様の瞳が、真紅に染まる。
「無数に生まれた現在の中に、『平行世界に移動する事のできる程度の能力』を持った誰かが、存在するかも知れないじゃない」
「その誰かが来るのを待つのですか?」
楽しそうに、お嬢様は笑った。
「忘れた頃にでも、もう一人の私がここに来てくれて、私の笑顔を見てくれるなら、いつまでも待つわ」
私の手を放して、空になったカップを持ち上げる。
「だから私は、咲夜の淹れてくれる紅茶を飲むのよ」
そう言って、私を見て笑った。
私も、お嬢様を見て笑った。
***
「ふふ、いい笑顔をしているじゃない」
私は、もう一人の私を見ながら呟いた。
忘れるくらい前に咲夜に言った、無茶な話。
あの時、私は考えが足りなかったのね。
自分の笑顔を見るなら、別に平行世界の自分じゃなくてもいい。
過去に戻れば、済む話。
残念な事は一つだけ。
『時間を移動できる程度の能力』を持つ者は現れたけど、未だ『平行世界に移動できる程度の能力』の持ち主は現れない。
そして、それはきっと、どこかの平行世界にいるはず。
そう信じていれば、忘れた頃に現れてくれて、いい暇潰しになるかも知れない。
ひょっとしたら、もう現れているかも知れないけれど。
そう思いながら、私は元の時間に、ここから見た未来へと戻る事にした。
***
私の背後から、お嬢様が姿を消した。
きっと、元の時間に戻ったのだろう。
お嬢様は、無限に生まれる世界を一つ勘違いしている。
それは、『今を基点にして生まれる現在』もあるが、『生み出され、かつ、生み出していく現在』もあるということ。
そして、目の前にいる私が、『この世界の私』でない事にも、恐らく気付いていない。
私の能力が、『平行世界を移動できる程度の能力』だということにも、気付いていない。
お嬢様の笑顔が、私のいる世界のお嬢様には見せられないのは残念だけれど。
たまの気晴らしに、こういう事をやってもいいと思う。
「お嬢様。紅茶を淹れなおしてきます」
私は、お嬢様から一歩退いた。
お嬢様は、笑顔のままだ。
「わかったわ、咲夜」
「では」
回れ右をしたその時、背後にかけられた言葉で、私はお嬢様には敵わないと、改めて思い知らされた。
「そちらの世界の私によろしくね、咲夜」
最終更新:2008年10月08日 02:17