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   1

 転寝をしていた私が目覚めたのは、放課後の薔薇の館。まだ祐巳さんたちも来ていない。窓を開け放っていたので肌寒かった。
 私は軽く身体を伸ばして、立ち上がると、流しへ向かった。お湯を沸かして、お茶の用意をする。
 ちらり、と腕時計を見る。現在は午後の3時半。10分近く転寝をしていたことになる。昨夜は特に夜更かしはしていなかったのだが、自分でもわからない疲れが溜まっているのかもしれない。
 今夜は早く寝よう。そう考えたとき、階段がきしむ音が聞こえた。誰かが上がってきたようだ。
「ごきげんよう、志摩子さん」
 入ってきたのは由乃さんだった。私も挨拶を返して、電気ポッドのコンセントを外した。
「由乃さん、紅茶はいかが?」
「お願いしようかな」
 カップを二つ用意して、ティーバッグを探す。昨日あった銘柄とは違ったが、私はこちらの紅茶の方が好きだった。
 お湯を注いでテーブルに置く。「ありがとう」と由乃さんが言った。
 私も座って紅茶を味わっていると、由乃さんが話し掛けてきた。
「ねぇ志摩子さん」
「何かしら?」
「いつ乃梨子ちゃんを妹にするの?」
「乃梨子を、妹に?」
 由乃さんは私をからかっているのだろうか。
「何を言っているの? 乃梨子はとっくに……」
 チャリ、と音がした。腕時計とは反対の腕。かつてお姉さまから譲り受けたロザリオが巻いてあった腕だ。
「……志摩子さん?」
 由乃さんの不思議そうな声が聞こえたが、私はそれどころではなかった。
 乃梨子に渡したはずのロザリオが、手首にあった。
「そのロザリオがどうかしたの?」
「……い、いえ。その……このロザリオを渡していいものかどうか」
「あー。聖さまとの思い出が詰まっているからねぇ」
 数ヵ月前に私の手から離れたロザリオが、なぜここにあるのだろう。まだ私は転寝をしていて、夢を見ているのだろうか。
「あ、あの、由乃さん……。今は、いったい……」
 そのとき、扉が開いた。


   2

「あれ、由乃と志摩子だけかぁ」
 入ってきたのは令さまだった。由乃さんは立ち上がって令さまのカバンを受け取る。私も立ち上がって、紅茶を用意する。
 令さまは由乃さんの隣に座り、巾着袋からクッキーの入った袋を取り出した。
「昨日焼いたんだ。みんなで食べよう」
 私はお茶請けを入れるボウルをテーブルに置いた。中に入れられていくクッキーを眺めながら、私はロザリオのことを考えていた。
 そうこうしているうちに、祥子さまと祐巳さんが入ってきた。私以外のみんなに変わったところは見受けられない。
 乃梨子がいないままお茶会がはじまる。
 しばらくすると、再び耳を疑う発言が飛び込んできた。それは祥子さまのものだった。
「お姉さまがたの卒業も、もうすぐね」
 卒業……。お姉さまがたの卒業?
「そうだね。大学も受かったみたいだし……」
 ……話が見えない。私は2年生で、令さまたちは3年生。自分たちの卒業の話ならわかるが、お姉さまの……?
 ハッとして、私は自分の生徒手帳を見た。そこには確かに、1年生と記載されていた。
「志摩子……?」
 祥子さまの声は、さっきの由乃さんのそれと同じ感情が込められていた。


   3

 祐巳さんがトイレに立ち、それの入れ代わりに江利子さまや蓉子さま、そしてお姉さまが入ってきた。在学していた頃と変わらないお姿……。いや、今は在学しているのだから当たり前なのか。
「聞いたよ。なんかおもしろいことになっているじゃない」
 お姉さまがそう話しはじめた。
「ロサ・カニーナだっけ?」
「ええ。2年生の蟹名静さん」
「リリアンの歌姫ね」
 え? 今度は選挙の話? もう私は話についていけなくなってきた。
 夢なのかどうかすらわからなくなっている。私は混乱していた。
「あ、あの、私も……」
「うん。いってらっしゃい、志摩子」
 トイレにいくふりをして、私は薔薇の館を出ようとした。落ち着こう。外の空気を吸わなければ。


   4

 深呼吸をする。不可思議な世界。夢なのか現実なのかわからない世界。私はどこに迷い込んでしまったのだろうか。
 少し木の幹にもたれかかって気を静める。……そろそろ祐巳さんも戻っているだろうか、と思い、なにげなしに腕時計を見た。
「……!」
 時計の針が逆回転している。時間が遡っているということなのか。
 夢だ。夢に違いない。私はそう思いながら、薔薇の館に戻ることにした。
 すると、館の前に人がいた。ああ、あれはきっと、祥子さまに逢いにきたのだろう。
 私は気付かれないように、その場を離れた。たとえ未来が変わってしまうとしても、私にはあの祐巳さんと蔦子さんに話し掛ける勇気はなかった。
 きっと誰かが気付くか、あの扉ではなく入り口の扉で祥子さまと祐巳さまはぶつかるのだろう。あるいは蔦子さんが先導して、薔薇の館に入るかもしれない。遅かれ早かれ、祐巳さんは祥子さまの妹になるのだ。
 私は自分にそう言い聞かせながら、ふらふらと歩いていく。


   5

 無意識に向かっていた先はあの場所だった。私とお姉さまが出会い、私と乃梨子が出会ったあの場所に。
 半ば私は期待していたのかもしれない。そしてその期待は裏切られることはなかった。
 桜の下には、お姉さまがいた。髪型こそ私の記憶の中と変わらないが、まだ性格はきつかった、……聖さまが。
 見つからないようにその場を離れる。お姉さまと出会っても仕方がない。私は時間を逆行しているのだし……。どうせ、未来がどうなるかなんて、今の私には関係なかった。


   6

 ……私はずっとベンチに座っていた。家に帰るのも恐かった。きっと父も母も、私が言った「シスターになる」という言葉に驚いていることだろうから。
 しばらくすると、少し離れた場所で、子猫がカラスに襲われているのが見えた。あれはきっと、小さなころのゴロンタだろう。
 思わず私はベンチから立ち上がり、カラスを追いやっていた。ゴロンタは傷だらけで、このままでは死んでしまいそうだった。
 どうしたらいいだろう。私はうろたえていた。すると、背後から……。
「その猫、手当てをしなきゃ死んじゃうよ」
 ……お姉さまだった。
「……私、手当てできません……」
「じゃあ私に渡して。簡単な手当てなら、私が家に連れていってするから」
「は、はい……」
「野良かな。それとも名前はあるのかな」
「……ゴロンタです」
「ゴロンタ? そうか、おまえはゴロンタか」
 軟らかな笑顔を浮かべ、過去のお姉さまはゴロンタを優しく抱き抱えた。
「あの、私はこれで」
「ありがとう、この子を助けてくれて」
「えっ?」
「私も見つけたんだけど、私が飛び出す前に君がカラスを追い払ってくれたんだ」
「そ、そうですか……」
 また私は過去を変えてしまったらしい。ゴロンタはお姉さまより先に、この場に存在してはいけない私と出会ってしまった。
「よかったら、名前を教えてくれないかな」
 だから私は、少し意地悪をしてみた。
「藤堂志摩子です」
 かなり先に出会うであろう私へ。私はお姉さまを知らないけれど、お姉さまは私を知っているのよ。


   7

 あれがきっかけなのかわからないが、時計の針は右側へ回転をはじめた。
 さっき出会った令さまは、うわごとのように「由乃にロザリオを返された」と繰り返していた。
 祥子さまが赤いカードを隠しに向かう姿も目撃したし、マリアさまの前で瞳子ちゃんと乃梨子が会話していた。それに、可南子ちゃんがクラスのみんなと一緒に、リレーの練習をしていた。
 祐巳さんは瞳子ちゃんと並んで歩いていた。祥子さまが今度は少し急ぎ足で帰っていく。
 そして私は、薔薇の館に戻った。
 窓を開け、空気を入れ替える。ちらり、と腕時計を見る。現在は午後の3時15分。
 椅子に座った私に睡魔が襲い掛かる。およそ3年分の時間を往復した私は、ゆっくりと夢の世界に旅立っていく。
 次に目覚めたとき、由乃さんのためにお湯を沸かさなければ……。
 私は目を閉じた。