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復活」(2008/04/02 (水) 01:58:45) の最新版変更点

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「やぁ、よく来たね。遠かったろう? さぁさ、上がって」  私の尊敬する博士は、笑顔でそう言ってくれた。  数年ですっかり腰も曲がったらしく、背中を丸めて歩いている。眼鏡も洒落たフレームから、鼈甲縁のものに変わっていた。多分でなくても老眼だろう。 「うちには客間なんてないもんだから、すまないがここでいいかね」  通された部屋は居間であった。3月とはいえまだ寒く、こたつが部屋の中心に陣取っている。 「今、お茶を持ってくるからね」 「お構いなく、博士」  私が言うと、博士はにっこりと笑って応えた。 「自分の子供のように可愛がった弟子が訪ねて来てくれたんだ、お茶くらい出させておくれ」  コートを脱いで、こたつに入る。  天板の上に置かれたかごの中に蜜柑が入っていて、そう言えば博士は果物が好きだったことを思い出した。同時に、手土産を何も買ってきていないことを後悔した。 「待たせたね」  少しして、博士はお盆に湯呑と急須、それにお茶の葉が入った缶と牛乳パックを載せて戻ってきた。 「妻が先立ってから何年も経つというのに、家事がまったくできないから困るよ」  博士の奥様が亡くなったのは6年前。その時私はアメリカの研究所に赴任したばかりで、電話でお悔やみの言葉を博士に言ったことを覚えていた。  博士は電気ポットから急須へお湯を注ぎ、お茶を淹れる。 「茶菓子はないが、蜜柑はある」 「私、何も持ってこないですみませんでした」 「いやいや、気にすることはない。来てくれただけで嬉しいんだ」  博士は笑いながら、私の向かい側に座った。座椅子があるので、そこが定位置なのだろう。 「いただきます」  私はお茶を飲んだ。思えば、博士が私にお茶を淹れたことはこれが初めてである。普段は私がお茶なりコーヒーなりを用意していたが、それも遠い過去に思えた。 「突然お電話して申し訳ありませんでした」  一瞬の沈黙のあと、私は頭を下げた。 「謝ることはないよ、初芝くん。さっきも言ったろう? わしは、来てくれただけで嬉しいんだ。電話があった時だって、嬉しくて思わず妻に報告までしたくらいだ」  博士は美味しそうにお茶を飲んだ。 「それにしても、何年ぶりかな」 「6年、7年でしょうか」 「もうそんなに経つか。そう言えば、妻が亡くなったのもその頃だった。電話を貰ったね」 「ええ」  それきり博士は黙ってしまった。今度は長い沈黙だった。  何を話したものか、と考えていると、視界の隅に何かピンク色のものが入った。それはペット用の水入れだった。 「博士、ペットを飼っているんですか?」  博士は顔を上げて、私と同じ場所を見た。 「ああ、猫をね。もう4年になるかな。最初は寂しさを紛らわせようとしていたんだが、飼い出したら、あれがなかなか愛着が湧く」 「猫……」  私は、博士の家に到着してから、一度でも猫を見ただろうか? いや、見ていない。外を勝手気ままに散歩していたか、屋根で昼寝でもしていたか。  そんなことを考えていると、博士は不意に私を呼んだ。 「初芝くん」 「は、はい」 「きみは、わしが最後に何の研究をしていたか知っているかね」  先ほどまでとは違い、博士は「博士」の顔をしていた。私は無意識に身体を強張らせた。 「細胞の活性化と、復元ですか」 「それはきみがアメリカに行く前までの研究だ。妻を亡くしたあとに、わしは別の研究を始めたんだよ」 「それは」  博士は微笑んで応えた。 「復活だ。復活だよ、初芝くん」 「復活……ですか」 「ああ。細胞の活性化は出来た。ある程度までなら自己再生だってした。ならば、一度死んだ細胞は、復活しうるのか」 「まさか、それは、奥様のことがあったからですか」  博士が一瞬ニヤリと笑った……気がした。 「それもあったが、死者の復活というのは元々興味があったテーマだ。若い頃はそういった本もよく読んでいてね、小さい時なんか、フランケンシュタイン博士に憧れていたほどだ」 「それで、その研究はどうなったのですか」  聞くまでもない。死者が復活できるのであれば、死んだ細胞が再び活動するのであれば、少なからずとも私の耳に届くはずだ。  しかし、博士は応えた。 「成功したよ」 「なんですって」  私の声は震えていただろう。 「ただし、ある程度の大きさの生き物までだ。それに……やはり、人間は神にはなれないようだ」  博士はゆっくりと立ち上がって、先ほど持ってきた牛乳パックを手にすると、ピンク色の水入れに近づいた。 「4年前、庭先で死んでいたんだよ。まだ子猫だったというのに」  水入れに牛乳を注ぐ。 「おいで、スズ。ミルクの時間だよ」  博士は奥に向かって声をかけた。すると、廊下を走る音がして、猫が私の前に姿を見せた。  私は目一杯叫び、こたつから這い出た。 「スズ、ミルクだよ」  可愛らしい子猫の顔をしたその生き物は、下半身が異形と化していた。神になれないとは、そういうことなのか。完全な状態では復活できなかったというのか。  博士は微笑んでいる。微笑んで、私の足元にいる異形の生き物を見つめている。  子猫は──スズは私の顔を見て、にゃあ、と一声鳴いた。
「やぁ、よく来たね。遠かったろう? さぁさ、上がって」  私の尊敬する博士は、笑顔でそう言ってくれた。  数年ですっかり腰も曲がったらしく、背中を丸めて歩いている。眼鏡も洒落たフレームから、鼈甲縁のものに変わっていた。多分でなくても老眼だろう。 「うちには客間なんてないもんだから、すまないがここでいいかね」  通された部屋は居間であった。3月とはいえまだ寒く、こたつが部屋の中心に陣取っている。 「今、お茶を持ってくるからね」 「お構いなく、博士」  私が言うと、博士はにっこりと笑って応えた。 「自分の子供のように可愛がった弟子が訪ねて来てくれたんだ、お茶くらい出させておくれ」  コートを脱いで、こたつに入る。  天板の上に置かれたかごの中に蜜柑が入っていて、そう言えば博士は果物が好きだったことを思い出した。同時に、手土産を何も買ってきていないことを後悔した。 「待たせたね」  少しして、博士はお盆に湯呑と急須、それにお茶の葉が入った缶と牛乳パックを載せて戻ってきた。 「妻が先立ってから何年も経つというのに、家事がまったくできないから困るよ」  博士の奥様が亡くなったのは6年前。その時私はアメリカの研究所に赴任したばかりで、電話でお悔やみの言葉を博士に言ったことを覚えていた。  博士は電気ポットから急須へお湯を注ぎ、お茶を淹れる。 「茶菓子はないが、蜜柑はある」 「私、何も持ってこないですみませんでした」 「いやいや、気にすることはない。来てくれただけで嬉しいんだ」  博士は笑いながら、私の向かい側に座った。座椅子があるので、そこが定位置なのだろう。 「いただきます」  私はお茶を飲んだ。思えば、博士が私にお茶を淹れたことはこれが初めてである。普段は私がお茶なりコーヒーなりを用意していたが、それも遠い過去に思えた。 「突然お電話して申し訳ありませんでした」  一瞬の沈黙のあと、私は頭を下げた。 「謝ることはないよ、初芝くん。さっきも言ったろう? わしは、来てくれただけで嬉しいんだ。電話があった時だって、嬉しくて思わず妻に報告までしたくらいだ」  博士は美味しそうにお茶を飲んだ。 「それにしても、何年ぶりかな」 「6年、7年でしょうか」 「もうそんなに経つか。そう言えば、妻が亡くなったのもその頃だった。電話を貰ったね」 「ええ」  それきり博士は黙ってしまった。今度は長い沈黙だった。  何を話したものか、と考えていると、視界の隅に何かピンク色のものが入った。それはペット用の水入れだった。 「博士、ペットを飼っているんですか?」  博士は顔を上げて、私と同じ場所を見た。 「ああ、猫をね。もう4年になるかな。最初は寂しさを紛らわせようとしていたんだが、飼い出したら、あれがなかなか愛着が湧く」 「猫……」  私は、博士の家に到着してから、一度でも猫を見ただろうか? いや、見ていない。外を勝手気ままに散歩していたか、屋根で昼寝でもしていたか。  そんなことを考えていると、博士は不意に私を呼んだ。 「初芝くん」 「は、はい」 「きみは、わしが最後に何の研究をしていたか知っているかね」  先ほどまでとは違い、博士は「博士」の顔をしていた。私は無意識に身体を強張らせた。 「細胞の活性化と、復元ですか」 「それはきみがアメリカに行く前までの研究だ。妻を亡くしたあとに、わしは別の研究を始めたんだよ」 「それは」  博士は微笑んで応えた。 「復活だ。復活だよ、初芝くん」 「復活……ですか」 「ああ。細胞の活性化は出来た。ある程度までなら自己再生だってした。ならば、一度死んだ細胞は、復活しうるのか」 「まさか、それは、奥様のことがあったからですか」  博士が一瞬ニヤリと笑った……気がした。 「それもあったが、死者の復活というのは元々興味があったテーマだ。若い頃はそういった本もよく読んでいてね、小さい時なんか、フランケンシュタイン博士に憧れていたほどだ」 「それで、その研究はどうなったのですか」  聞くまでもない。死者が復活できるのであれば、死んだ細胞が再び活動するのであれば、少なからずとも私の耳に届くはずだ。  しかし、博士は応えた。 「成功したよ」 「なんですって」  私の声は震えていただろう。 「ただし、ある程度の大きさの生き物までだ。それに……やはり、人間は神にはなれないようだ」  博士はゆっくりと立ち上がって、先ほど持ってきた牛乳パックを手にすると、ピンク色の水入れに近づいた。 「4年前、庭先で死んでいたんだよ。まだ子猫だったというのに」  水入れに牛乳を注ぐ。 「おいで、スズ。ミルクの時間だよ」  博士は奥に向かって声をかけた。すると、廊下を走る音がして、猫が私の前に姿を見せた。  私は目一杯叫び、こたつから這い出た。 「スズ、ミルクだよ」  可愛らしい子猫の顔をしたその生き物は、下半身が異形と化していた。神になれないとは、そういうことなのか。完全な状態では復活できなかったというのか。  博士は微笑んでいる。微笑んで、私の足元にいる異形の生き物を見つめている。  子猫は──スズは私の顔を見て、にゃあ、と一声鳴いた。

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