──暑い。なんて暑いのだろうか。 細川可南子は、走っていた。 真夏の炎天下を、まるでマラソンランナーのように走っている。 バスケット部の練習ではない。自主的な運動でもない。可南子は、追われていた。 全身から流れる汗。荒い息。 既に両手は惰性で振るだけであり、足だっていつ止まるかわからない。 右目に、汗が入る。これで何度目だろう。 全てが、厭になっていた。 立ち止まれれば、どれだけ楽だろう。 これが夢であったら、どれだけ幸せだろう。 可南子は走る。振り返る事も出来ない。 後ろを見るのが怖い。自分に迫り来るそれを認識する事を拒否している。 給水所なんてない。 沿道にだって人はいない。 いや──この世界には可南子以外の人間がいないのかも知れない。 脳裏によぎるのは、様々な言葉。 「──別に、私には関係ありませんわ──」これは松平瞳子の声だ。 「──そういえば、来週だよね──」これは、島津由乃の声。 「──早く準備しなくちゃ、大変だよ?──」二条乃梨子の声である。 「──明日、楽しみだね──」福沢祐巳の声が、最後に響いた。 可南子は、バランスを崩した。 小さく悲鳴を上げて、熱された鉄板のようなアスファルトに、無様に転がる。 迫る。迫る、迫る、迫る! 可南子は見てしまった。 おびただしい数の数字。空を覆い尽くし、全てを飲み込み、過去にしていく。 叫び声を上げるより早く、可南子は時間に飲み込まれた。 ---- 「……か、可南子ちゃん?」 祐巳は、ひどく驚いた声を上げた。 目の前に現れた可南子は、派手に転んだのか、衣類がぼろぼろであった。 膝や腕は大きな擦り傷で出血しているし、顔面は汗と血と涙でぐちゃぐちゃである。 「……申し訳ありません、祐巳さま……。遅刻した上に、このような格好では、遊園地には、とても──」 言いかける可南子に差し出されたのは、ハンカチである。 「まず、顔を拭いて」 「──はい」 「歩ける? 歩けるなら、私の家においで。手当てしなくちゃ」 「……は、はい……」 「よし、可南子ちゃん、元気出して!」 「……はい!」 遊園地デートは中止。 その代わり、祐巳の部屋に行く事が出来た、可南子なのであった。