蘆田

は?
何で劇なの?



山田

「何で」という発想は危険な思想だ。
そこに理由を求めてはいけない。

理由や前提・背景、それらは回答への一つの道を示すが、
同時に他の可能性を否定する。

情報が出揃うことで、思考が進むのではない。
情報が出揃うことで、思考が狭められるのだ。
もっとも自由に思索できる条件は、情報がないことだ。
先入観念のないことだ。

あらゆる可能性が、そしてあらゆる希望が、そこに内在する。

「なぜ劇か?」という時点で思考が止まっている。
理由という入力を得ることで、「劇」に内在する希望が消えるのだ。

そこにはすでに自発的な判断はない。
理由という情報に基づいた壁によって、一つの道が見えるだけだ。
消去法の思考でしかない。
内向的な力でなく、外圧的な力での押し着せの思想が垣間見える。

そうなれば、個の性格が損なわれる。

それは、すでに解き放たれる思想ではなく、単なる選択でしかない。
プログラミング化されたアルゴリズムの結果でしかなくなる。

考えよ!
そして、個を取り戻すのだ!

無限の選択肢を怖れてはいけない。
答えがでないと思ってはいけない。
答えに理由など求めてはいけない。
感じたものが答えなのだ。
思索した結果が答えなのだ。

限定された条件による正解など必要無い。
自由な思索の際にでた、根拠すら危うい結論の中にこそ、答えがある。
そして、そこに可能性という希望が内在される。
個の性が七色の色彩を放つのだ。

さあ、飛び立とう。
レッテル・先入観念という鉄鎖を断ち切り、
荒れ狂う無限の可能性の潮流をほとばしらせるのだ。

ただ一つの真実は、己の心の中にある。

はっきりと分かっているのは、こんなことをこんな時間に書いている
オレが馬鹿だということだけだ。
もしかしたら、オレのおつむは相当まずいのではないかと感じる。
そんな春の日の出来事・・・

ちゅうか、御願いだから行こう。
ね、ね。
ぷりーじゅ。


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最終更新:2008年01月11日 14:13