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NHK高校講座現代文私という自分 - (2013/11/28 (木) 08:18:58) のソース

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_genbun/archive/genbun_05_06.pdf

NHK高校講座現代文 私という自分 を聞いての個人的な感想。
原文はリンク先をご覧ください。
私は頭が悪いのでこの作品の作者の主張でよくわからない部分がありそれについて書いてみます。


*作品抜粋
世界は、 「自分」と「自分以外の他者」で成り立っている。
言い換えればそれは、いくら強烈で確実な 「自分」 を有していたところで、 それを認識してくれる「自分以外の他者」がいなければ世界は成立し得ない、といことでもある。 
たとえば「自分は強い」ということを自分の中でいくら信じていたところで、そういう「強い私」を認識してくれる
「自分以外の他者」がないけなれば「強い私」は架空のものになる。
「強い私」どこにもいなくなってしまうのだ。
もっと言えば「自分以外の他者」の存在を無視するとき、言葉あるいは感覚ですらその意味は無になる。
「あのリンゴは赤い」という事実をいくら認識していたとしても、その事実を伝達する対象となる他者がいなければ
赤いリンゴ自体がどこにも存在しないものになるのだ。
*終わり

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*疑問0
この部分作者の言ってることが私にはよくわからないのです。
作者流の世界では赤ちゃんと母親の愛情すら無意味になります。
赤ちゃんは理解できなくても母親の愛情や考えは赤ちゃんにとって意味がありますし、それほど極端な例でなくても人間関係の中で互いが違う考えで相手を認識していても良好な関係が存在するはずです。
同僚、友達、人間関係、どれも相手を違った形で認識していても良好な関係は存在するはずです、同じ認識で相互理解も素晴らしいですが行き過ぎると悪しき全体主義。
伝達しなくても態度で色々と伝わるとおもうのです。
仕事場では違う認識や考えや視点の人がいないと困ったり逆に同じでないと困ったりケースバイケースのはずです。
作者流の世界は一見もっともらしく聞こえて、ちと窮屈に思えません?




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*疑問1 
さらに私に何が理解できなかったかをあなたに理解してもらうためにたとえ話で書いてみます。

まずじゃんけん世界の住人グー チョキ パーを考えます。
グーとパーはパーはグーに勝ち、グーはチョキに勝つという共通認識、作者流にいえば世界を成立させたとします。
この時、パー最強、パーはチョキに勝てるとの勘違いをグーとパーが認識したとします。
作者流にいえば、この勘違いは真実で、チョキはパーに勝つは虚構となります。
さらにグーはパーに勝てないかもと心の中で思っててパーがそれに気づいてないとしても、パーの中ではパーはチョキに勝てる世界は成立しています。
このグーの疑念は共有されてないので作者流にいえば存在しないものですが、グーとパーの人間関係には影響を与えるでしょう。


これでよいのでしょうか?
日常の中でもパーはチョキに勝つ的勘違い世界が無数に成立していて、もしくは成立していると思い込んでいて、結構世の中回ってる気がするのです。
こういう世界を意味があるとか素晴らしいと言っていいのか?

私が何を言いたいかさらにたとえてみます。

石(成立したもしくは成立したと思い込んでる世界(グーの疑念に気付かない))の中にはダイヤモンド(相互理解にあたる)がある。
ダイヤモンドは価値が高い。
よって石はすべて価値が高い。

作者がいってることは私にはそういう意味だと感じられるのです。
私の感覚ではほとんどの世界は、石ころに分類される。

私はだから人間はよくないといいたいのではないのです。
むしろ逆です。
価値のない石ころだらけの世界(共通認識)のなかで生きていても、うまく回る社会や人間の知能の仕組みに感心するのです。
アフリカと南アメリカ大陸の国がごっちゃになっても生活するのに不便がないように、ほとんどの世界(共通に成り立った認識、もしくは共通に成り立ったと思い込んでいる認識)
は間違っていてもおかしく成立してもうまく生きていけることができる人間に感心するのです。

何かに思惟を向けたとき勘違いして生きているのに、それが問題になることはないよう、それが実生活で問題にならないよう人間はその勘違いを上手に避けたり糖衣したりして生きています。
世界について勘違いを含んでいても、人間はその勘違い認識に従い行動し、結構悪くない結果をだします。
作者流の世界が成立しようがしまいが結果という形が日々生まれ、人間はその結果と付き合うしかありません。

間違ってる世界認識でも、おかしな世界認識でも世の中は周ります。
共産主義と資本主義が双方の正当性を主張したように。
世界が成立しなくても、結果に影響する認識はすべて意味はあると私は考えるのです。
値の付かない石ころのような認識でも、片方の思い込みでも。
その石ころはその人が世界を認識し結果に影響を与えるとても大切なことに思えるのです。


人間は何かをするとき完全にルールを理解してなくても悪くない結果を出しますし修正できます。
そもそも社会には答えがなく万人が認めるルールなども成立するものはすくなく(法律や道路マナーなどは成立しますね)、皆認識が重なったり重ならなかったりして、共有できたときに喜びを感じるものです。
重ならない世界が成立しない部分は結果という形で何かに影響を与える以上無意味ではありません。

また分業などは相手の世界を理解してなくても、結果だけを共有することで効率が上がるものもあります。
相手の世界を理解していなくても十分結果という意味を取り出せるのならそれはそれで大事なことに思えるのです。


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*疑問2
ある取引世界で、商売人Aが船の材と思って木材を売り、大工Bがそれを建材と思って買う。
AとBの世界(船の材と建材)は共通しないのでどちらの認識も世界がなりたたず作者流にいえば無意味です。
しかし建築という結果に影響を与えます。
世界が成立しなくても合意が存在しなくても、結果に影響を与える認識はすべて大事だと思うのです。

これは何かというと普通の店のことです。
買うほうと売るほうが世界で互いを束縛したら資本主義もお店も成り立ちません。

世界が成立しないほうが効率が良いものもあるのです。
もちろん売るほうはマーケティングやらなんやらするでしょうが、買うほうが何に使うかの自由が束縛されてはたまりませんよね?


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*疑問3
ある人が
何かについて認識(A1、A2,A3,,,A∞)の部分集合で認識したとしましょう。
別の人が同じものについて(B1,B2,,B3,,,B∞)の部分集合で認識したとします。
二人が出会うことで二人の認識は変化し。
Aさんは(C1,C2,,,Cm)
Bさんは(D1,D2,,,Du)
という認識に変化したとします。
この場合AさんとBさんが同じ認識を共有しなくても、CiやDiといった新しい認識が創発されたことに価値があります。

またAさんとBさんが認識を共有できたとしたら、この時、私は確かに作者流の世界に価値を感じます。
CiとDiの認識の中で相互理解を達成する人間の能力には感心するものです、賛美したくなるものが存在します。

こういう意味では確かに私も作者の言う世界に共感はできるのです。


問題は私たち人間はたぶん機械ではないということです
機械的にCやDのリストになったりはしないような気もします。
相手を思いやる気持ちや共感、いろいろな感情を含んでいますし、情熱も持っています。
世界をよりよくしたり精神的に健康に過ごせるよういろいろな知恵が回りますし人間関係の苦労や楽しみの中で生きています。

こういった話は私には難しすぎる問題で、このことについて私は結論的なものが中々言えない自分に気づきます。
ただこういう問題について人間とはどんなものだろうと思惟をめぐらすのがせいぜいです。


私は頭が悪いので、普通のことを書くのにも難しそうな言い回しをしないとうまく語れません。
普通の人はそこに裂け目があることにすら気づかない。
一足で超えてしまうような小さな裂け目で頭を悩ませてるのだと思います。
こういう問題の答えは人間関係の中で、他人と共感を大切にしながら私なりの答えを見つけていくしか道はないのかもと感じたりします。


兵庫県加古川市加古川町南備後79-16
堀江 伸一