歴史を知る
古伊万里は「江戸時代に焼かれた伊万里焼き」を指しますが、もっと狭く「初期伊万里の後、寛永あたりから上手物(じょうてもの)の輸出が盛んだった享保まで」という意見もあります。しかし、明治初期の印判手でも古伊万里と呼んでいる場合もあるようです(1)。
ある日を境にぱったりと伊万里全体の焼き方が変わるはずがないので、当然何かしらの事件が起こったところからところまで、となるはずです。
その事件を順を追って勉強しましょう。
有田焼の誕生
時は安土桃山時代、豊臣秀吉による文禄・慶長の役、いわゆる朝鮮出兵の際、多くの藩が朝鮮から陶工を日本へと連れ帰りました。
こうして連れてこられた中の一人、鍋島藩の李参平(りさんぺい、イ・サムピョン)が元和2年(1616年)有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き日本初の白磁を焼いた、とされています。彼が一応の祖とされていますが、実際は1610年ごろにすでにあったという調査結果もあるようです(2)。
寛永14年(1637年)に鍋島藩は伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し現在の皿山の形となりました。理由は、余りに急速に成長した窯焼達が燃料にするため、無茶苦茶に山野の木を伐り取ったためと、産業が佐賀藩の財政の支えになると考えたからです(3)。
1628年(寛永5年)、鍋島藩お抱えの窯を作り、藩主の所用品や将軍家・諸大名への贈答品などの高級品を焼かせました。これを鍋島焼と呼び、伊万里焼と区別されています。しかし、鍋島様式と有田焼きの一様式とする場合もあります。
ここまでを初期伊万里と呼んで区別するからには、次の時代への何か事件があったはずです。何があったんでしょうか。
17世紀後半の出来事
この頃にいろんな事件が起こります。
まず1640年代に中国人によって上絵付けを行なう色絵磁器が作られるようになりました。上絵付けとは一度焼いた磁器に色づけし、再度焼く手法です。これが日本にもすぐに伝わりました。
17世紀後半には、初代酒井田柿右衛門により乳白色の生地に上品な赤を主調とした焼き物が焼かれるようになります。これは「赤絵付けの柿右衛門」と呼ばれます。1646年(正保三年)に藩主に賞せられたとあります(3)。技術はどんどんと進歩し、17世紀後半には、純白に近い生地に余白を生かした柿右衛門様式の磁器は輸出用の最高級品として製造されました。
はじめは赤一色だった上絵付けも17世紀末頃には、金彩をまじえた豪華絢爛な「金襴手(きんらんで)」も製造されるようになりました。
また同じころ、コストを安く上げるため厚手の素地に簡略化された同じ紋様を描き込んだ波佐見焼が現れます。こちらは大衆向けの焼き物として進化していきます。
1659年(万治2年)より東インド会社を通じて大量に中東やヨーロッパへ輸出されるようになりました。理由は中国で明から清へ変わる内乱で景徳鎮の出荷ができなくなったためです。
伊万里全盛へ
日本で磁器が焼き始められ、いろいろな技法が取り入れられ、さらに改良を行い、いわゆる「伊万里」という形に成長するのに90年。長いような、意外に短いような。
そんな伊万里も18世紀初等には国内流通、輸出とも軌道に乗っていきます。
輸出向けは欧州の嗜好に合わせたデザインが取り入られていきます。
国内向けも鍋島に代表される超高級品から、波佐見焼に代表される一般庶民向けのまで数多くが作られることになります。
そんな中でも、1672年(寛文12年)から1763年(宝暦13年)までの間、有田皿山では品質低下を防ぐため窯焼の数は180人と限定されていたそうです。大切な産業ですから品質の維持にも注意していたんですね(3)。
江戸文化も確立し始め、伊万里はまさに絶頂を迎えます。
ところが、中国の景徳鎮の輸出が再開されます。これにより、価格競争にさらされ、伊万里は破れてしまいます。ついには1757年(宝暦7年)、東インド会社との取引も終了。大切な貿易先をなくしたわけですから、それは困ったことでしょう。
その分を国内でまかなわなければなりません。欧州向けの高級品から大名だけでなく武家なども相手にした商売が必要になったのではないでしょうか。そのためには大量生産によるコストダウンが必要になるはずです。先の窯焼の人数制限が1763年に増やされているのもなんとなく想像ができます。
大量生産を行うと品質が下がる、というのはいつの世も同じ。こうして超高級品から一般大衆の焼き物へ遂げていく前夜がこの中期伊万里と呼ばれる時代です。
宝永~天明まで(1700~1780頃)の約80年となります。
宝永~天明まで(1700~1780頃)の約80年となります。
全盛後の古伊万里
先のように18世紀になると、国内で広く伊万里は使われるようになります。それによって、かつては大名などの特別だった焼き物が庶民階級まで普及していきます。当然、質より量を求められることになります。
大量生産となると、やはり雑な製品も多くなってきました。コストダウン、スピードアップのため文様などは時代を追うにつれ簡略化されていくことになります。
ところが、江戸時代の庶民文化を盛り上げる一面もあったようです。特に文化、文政(1800~1830年頃)に波佐見の窯で焼かれはじめた「くらわんか」です。これは、大阪で栄えた町人文化に溶け込んで広く伊万里が使われるようになったわけです。
18世紀から19世紀にかけてもやはり時代を変えてしまうような大きな事件が起こります。
一つは享保、天保の二回の大飢饉です。特に1732年の享保の飢饉では上手物が大打撃を受けてしまいます。高級品ほど利益率はいいのは多分今と同じ。これを機に上手物が衰退していってしまいます。古伊万里を「初期伊万里の後、寛永あたりから上手物の輸出が盛んだった享保まで」とするのもこのあたりが要因のようにも思われます。1757年(宝暦7年)の東インド会社との取引終了も大きな要因でしょう。
でも、これは上手物のお話し。逆に、庶民向けの焼き物はここから花開いていきます。
もう一件の大事件は1828年(文政11年)に起きた文政の大火です。この大火で有田の登窯はほとんどが焼けてしまいました。これにより陶工達が有田から流出することになります。多くは波佐見、三河内に移り、先のくらわんかと結びついていくわけです。
幕末を迎える前にまたもや危機がやってきます。それまで藩をあげて守っていた磁器の技術が1806年に瀬戸の陶工加藤民吉が持ち出すことに成功します。これにより今まで伊万里独占だった磁器の生産が全国に広がります。結果、伊万里はどんどんと競争力を失っていくことになります。
幕末の伊万里
1853年年黒船が来航して幕末へと向かっていきます。
先の大火による人材流出、技術漏洩による競争力の低下で伊万里はどんどんと競争力を失っていきます。
さらに、幕末頃から印判が普及していきます。もう職人の手書き文様の絵付けがなくなっていってしまいます。従って、江戸時代といっても幕末の伊万里は古伊万里から外されることもあります。
まとめ
初期伊万里・・・日本初の磁器。特別階級の焼き物。
前期伊万里・・・色絵磁器の登場。急速な技術向上。
中期伊万里・・・技術の成熟。庶民にも手の届く磁器の登場。
後期伊万里・・・江戸文化の発展と大量生産。
幕末伊万里・・・競争力の低下。質の低下。衰退。
前期伊万里・・・色絵磁器の登場。急速な技術向上。
中期伊万里・・・技術の成熟。庶民にも手の届く磁器の登場。
後期伊万里・・・江戸文化の発展と大量生産。
幕末伊万里・・・競争力の低下。質の低下。衰退。
といったところでしょうか。歴史を簡単にではありますがまとめてみると、私が考える古伊万里は印判が普及するまでの後期古伊万里までと考えます。
参考文献
(1)「江戸の染め付け・古伊万里」入門サイト
(2)Wikipedia有田焼
(3)炎の里有田の歴史物語
(4)http://www.tenpyodo.com/imari_syoki.html
(1)「江戸の染め付け・古伊万里」入門サイト
(2)Wikipedia有田焼
(3)炎の里有田の歴史物語
(4)http://www.tenpyodo.com/imari_syoki.html